日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2022年2月20日 白石教会礼拝

説教題 「栄光に輝くキリスト」
聖書箇所 マタイの福音書17章1節~13節
 
 

 「イエスとは誰か」と言うテーマで、これまでの16章がありました。そして、その答えはペテロが答えた「あなたは生ける神の御子キリストです」ということでした。しかし、イエス様がその真のキリストとして、このあと殺されることを聞き、ペテロが「そんなことが起こるはずがない」と否定し、イエス様に「さがれサタン」と叱られる場面を前回、一緒に見てきました。それは信仰告白をたとえ正しく言えたとしても、まだキリストというお方をよく知らなかったペテロの姿でした。
 
 キリスト、メシアという言葉は何となく知っていても、そのお方が本当はどういうお方なのか。そこを知らないと、主の弟子とは言えない。そのキリストである主イエスが来られた目的も、きちんと知らなければ弟子とは言えない。そこまで、このマタイの16章は教えています。私たちも、正しい信仰告白を整えて、それを持つことができて良かったと思います。しかし、今一度、その告白の中心であるイエス様とはどなたなのか。この方が目指している救いとは何かを知らなければ、ただのお題目になってしまいます。
 
 それで、まことのいのちが与えられるという救いの大切さ、キリストは単に地上の王国の確立のために来られたのではない。まず私たちの罪の贖いとなって死ぬこと。そして、よみがえって再び来られて、そこに神の国が建てられることを目的としている。そのことをこれまで16章の中から受け取ることができたと思います。
 
 イエス様が与える救いと言うのは、この地上における政治的、社会的な制度が充実して平等で平和な世界になるというものではなくて、たとえそれを得たとしても、まことのいのちがなければ空しいのだ。だから、そのまことのいのちを得させるためにわたしイエスが来たのだ。そして、新しい御国と一緒に来るのだということを、16章26節以降で言われていました。だから、その御国の一部分を見せてあげよう。それが、今日の17章におけるお山での出来事です。
 
 それはここで弟子たちに、ゴールである天の御国を少し見せてくださっていると言うことです。デパートの食品売り場の試食と同じように、その素晴しさを少し味わうことで、より御国の救いを告げ知らせる者として励まされ、勇気づけられるからです。私たちも、今朝、聖書を通して、御霊に導かれながら、ここで弟子たちが体で味わった主からのメッセージを体験させていただきましょう。
 
 
1.天の御国に触れる
 前回の「さがれサタン」の出来事から6日たって、イエス様は十二使徒全員のうち3人だけ連れて山に登りました。
 もし、ここを見てイエス様の弟子の扱いは平等ではないと言ったら、こう返されるでしょう。「それならば、あなたにもパウロと同じ道を歩んでもらいましょう」と。そうなると、石打の刑に遭ったり、偽兄弟の難、39の鞭打ちなど、最期には殉教の死を遂げる。  …やはり神様の扱い方に口を挟むべきではありません。これは主の配慮なのだと受け止めるべきです。
 さて、このときの弟子たちは、前回のことから日にちがたっていませんから、「さがれサタン」と言われたペテロがしょんぼりしていたかも知れません。またイエス様が殺されるとはどういうことか、またイエス様がもう一度来られるとはどういう意味なのか、チンプンカンプンでいたと思います。
 
 そういう中で、選ばれたペテロ、ヤコブヨハネの三人の弟子たちが見たものとは何でしょうか。それは、今まで普通の人として見ていたイエス様の様子が見る見るうちに変わって来たことです。2節
「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」
 並行記事があるマルコの福音書によると、この衣の白さは、プロのクリーニング屋さんでもできないほどの白さだと言われています。それは眩しく、目がくらむほどの輝きでした。ルカの福音書では、彼らは眠くなったそうなので、それは気を失う寸前であったということかも知れません。いずれにしても、弟子たちはここで、神であるイエス様の姿を見たということでしょう。16章27節、28節で言っていた「父の栄光帯びた姿」、「御国とともに来られた姿」をここで垣間見たのです。このとき、この現場にいたペテロは第二の手紙の中で証言しています。Ⅱペテロ1:16
「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」とこのときのことを証ししています。
 
 しかもモーセとエリヤが現れてイエス様と話し合っているというのです。何を話し合っていたのかは、マタイは記していませんが、ルカはその内容を記しています。それは、イエス様がこのあとにエルサレムへ行って、どんな最期を遂げるかということを話し合っていたというのです。だから、この山に登ったもう一つの理由がわかります。それは、イエス様ご自身が目指している救いの御業について、旧約聖書に登場する人たちと会議するためであったということです。
 
 しかし、マタイはそこまではあえて記さずに、この驚くべき出来事に招かれた弟子たちとイエス様との様子と終末に焦点を合わせているのです。輝く栄光の主イエスを目撃し、モーセとエリヤにも出会い、これが天国だとわかるように、イエス様は、ご自分の神としての姿を示してくださったのです。これが、本来の「わたし」(主イエス)の姿であるのだ、というふうにです。しかも、ここにはモーセとエリヤがいたとありますが、彼らの様子も輝いていたとは記録されていませんから、人間は人間のまま、しかしイエス様は神のお姿で、ぎりぎり弟子たちが滅びないくらいの神様のきよい輝きで。それでも、この世の洗濯屋さんではできないほどの真っ白な輝きのお姿で。
 
 私たちも御国に凱旋したら、この光景を見るということです。どうして、ペテロがイエス様以外の二人をモーセとエリヤだとわかったのかという疑問があるかも知れません。名札をつけているわけでもないのに。これは、天国と言うのは、そういうところなのではないかと言われています。お互いに相手が誰かわかる新しい世界。初対面でもわかるとうのです。そうかも知れません。
 私と妻の子どもたちは、全員が元気に生まれていれば4人兄弟でした。でも長男と次男の間の子が流産してしまいました。だから、その顔は見たことがありません。でも、このペテロたちが見たように、相手がだれだかわかるのであれば、ぜひ天国に行って、その子に会いたいです。きっと向こうからお父さんと声をかけてくれるかも知れません。それは楽しみです。
 
 このように天の御国とは私たちが想像する以上に素晴らしいところであり、そのところへ向かうことこそ、私たちの人生の目的です。だから、イエス様は、その祝福にすべての人が与れるように、このあとエルサレムへ向かい、そこで贖いの死と復活の道を通られるのです。
 
 
2.神の栄光に触れる大切さ
 さて弟子たちはこれを目撃してどうだったでしょうか。ペテロは、ここで口出ししたと言われています。もう、その光景にある嬉しさと恐ろしさが混ざって、頓珍漢なことを口走っています。それは幕屋つまりテントを3人分張って休んでもらい、この素晴らしい状態がいつまでも続くことを願ったのでしょう。でもここでもペテロはやはり口出ししたと言われているとおり、余計なことを言ってしまったようです。それは、真の神でありメシアであるイエス様と、旧約聖書における重要人物であるモーセ、エリヤを同列に置いていると言うことです。またもやつい口がすべってしまったペテロ。
 
 でもそこで、「彼がまだ話している間に」、そこに割って入って来られたのは天のお父様です。そして、こう言われました。5節。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」
 
 ペテロがまだ話している間にという、この状況が面白いですね。もうそれ以上、おかしなことを言わせないで、天のお父様が言いたいこと。それは、
「このイエスこそ、わたしの愛するかけがえのない息子。わたしは父として彼のことを本当に愛し喜んでいる。その子をあなたのために遣わしたのだから、弟子として彼を言うことを聞きなさい」
ということです。
 
 確かに、特にユダヤ人にとっては、モーセは特別な人です。預言者エリヤもそうです。しかし、彼らも人間であり、神の前には罪人です。そこで神様はイエスは神の子なのだと、ペテロの発言に割って入って、大切なことを語られたのです。だからこそ、このわたしの大切な一人息子イエスの言うことを聞かなければならない。それがあなたがた弟子の使命。神の子どもとされた者の生き方ですよ、とです。
 
 するとどうなったか。舞い上がっていたペテロはじめ弟子たちは、ひれ伏し、非常な恐れを抱いたのです。実は、イエス様はこのことを彼らに経験させたかったのではないでしょうか。それは、これまで、いくら口で「あなたは生ける神の御子キリスト」ですと正しい告白をしても、そのキリストがどのようなお方なのかを正しく知らなければ、本当の意味で信じて告白しているとはならないからです。簡単にサタンの手下になってしまうからです。ましてや、キリストの弟子として、主の救いを宣べ伝えていく者であるならば、なおさら、まず神ご自身であるイエス様の前にひれ伏す者でなければならないということです。
 
 そこで初めて弟子の道が始まるからです。それは既にイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受ける場面でもそうです。その時も天が開けて、天から聖霊が下り、天のお父様から、今日のこのおことばと全く同じことが語られました。その声を聞いたバプテスマのヨハネの様子までは聖書に書いてありませんが、想像はできます。それは、きよい神である御子イエス様の前に、「益々私にはその靴の紐をほどく価値がない」と、へりくだらされたと思うのです。
 
 そのように、今日の箇所でも、イエス様はご自分の神としての栄光を弟子たちに見せて、神の前における弟子たち自身の現実に向き合わせたのです。私たちも、そもそも神である主イエスのきよさにまず触れていくことが大切です。そこが疎かだと、自分の罪の悲惨が見えてきません。下手するとイエス様の上に自分を置いて、罪深い自分自身の理解の中でのイエス・キリスト像を作り上げて、自分流のキリスト教をつくってしまいます。そうではなく、この弟子たちのように、神である主を恐れてひれ伏す。そこに弟子以上に礼拝者としての一歩が始まるのです。
 
 
3.真のキリストを知り続ける主の弟子
 しかし、このあと、ひれ伏して恐れている弟子たちに主はどうされたか。ここに、私たちがキリストの弟子、しもべとして生かされる秘訣が描かれています。7節、8節。
「すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、『起きなさい。こわがることはない』と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」
 
 イエス様の神としての栄光を見て、また天のお父様のみことばを聴いて、彼らはひれ伏すしかありませんでした。しかし、その姿こそ主の弟子にふさわしい姿でした。神の前にひれ伏すしかできない者。本来ならば滅ぼされてもおかしくない自分であるのに、そのきよいお方が、ご自分から来てくださってとある。ここに、主が彼らを弟子として立たせる三つのステップがあります。
 
 一つ目が、「イエスが来られて」です。いつも、初めに来てくださるのはイエス様です。取税人ザアカイに対しても「人の子は失われた人を捜して救うためにきました」と言われました。さきほど紹介したバプテスマのヨハネに対しても、「イエスガリラヤからヨハネのところに来られた」と書いてありました。ヨハネはイエス様のことは初めから最高の尊敬をもって崇めていました。自分は奴隷以下であると。しかし、そういう者のところに主は来てくださる。神を恐れ、自分の罪の悲惨さに気付かされひれ伏す人こそ幸いだからです。
 
 二つ目は、「彼らに手を触れ」です。イエス様はスキンシップを大事にするお方です。これは、もうここには単に師匠と弟子以上の、親子とか兄弟のように、親しい関係があります。それは私たちの側からではなく、イエス様の方から与えられる恵みです。先ほどまで、ピカ―っと神の栄光で光り輝いていたお方が、今、すっと寄り添い、自分の傍に来てくださって、温かい御手をもって触れてくださるのです。その懐に引き寄せてくださるのです。
 
 そして、三つ目はそのような交わりの中で御言葉を語ってくださるのです。「起きなさい。怖がることはない。」
 バプテスマのヨハネに対しても主イエスは「すべての正しいことを実行するのはわたしたちにふさわしい」と、ご自身の救いの業に参与するようにみことばをもって招かれました。
 
 それで、ここからが大切です。7節で「それで、彼らが目を上げて」とあります。弟子たちは、もう2~3年いっしょに過ごしている中で、実はイエス様のことをよく知らなかった。でも、今日、イエス様の方から、特別な体験を通してご自身を示してくださった。このように、あらためて目を上げて、イエス・キリストというお方に出会い、そのきよさ、神の栄光、そして、憐み、招き、みことば。その交わりに触れていく中で、またあらためて主の弟子として整えられるのです。
 
 彼らが目を上げて見ると、そこにはイエス様しかいなかった。もうモーセもエリヤもいない。それは、彼らに代表される旧約聖書が、目の前におられるイエス・キリストによって成就したことを示しているのでしょう。今日の交読で「律法と預言者」とありましたが、これはすなわち旧約聖書のことです。つまりモーセとエリヤが現れたのは、律法の代表としてのモーセであり、預言者の代表としてのエリヤだったわけです。
 
 そして、イエスだけが残った。このイエスこそ、旧約聖書が指し示していた真のメシア、キリストである。そして、もう一つ、イエス様の弟子代表、使徒代表として選ばれた彼ら(ペテロ、ヤコブヨハネ)も、実はとても大切な意味があって、ここに招かれたと言えるのではいでしょうか。それは、今度はこの使徒たちによって、イエスの福音が受け継がれ、聖霊によって神のことばが与えられて聖書が完成させられるということです。
 実はこの山の上の出来事というのは、とてつもなく大きな業のためであったのではないかと私は感じています。イエス様を中心に律法と預言者、そして使徒という構成は、こののちに聖書の完成まで繋がっているのかも知れないと思うと、神様がこのようにして神のことばとして残そうとされた聖書のみことばに益々触れ、主の御心を求めていきたいと思わされます。
 
 
結び
 10節以降、エリヤが来るという預言のことを弟子たちはイエス様に質問します。それは、今朝、招きの詞にあったように、聖書で預言されていたことでした。しかし、あらためて、そのエリヤとはバプテスマのヨハネであると示して、その世の終わり、終末がもう始まっていることを示唆しています。
 
 そうです。主の日は差し迫っているということです。エリヤが来てメシアが来られる。そのエリヤはバプテスマのヨハネであり、すでに殺された。そして、目の前にいるイエスこそ、そのエリヤの後に来ると言われていたメシアである。このことが2000年前に既に言われていたということは、今2022年は、いつ世の終わりが来てもおかしくないということです。
 
 その世の終わりというのは、大きく二種類あります。一つは、本当にイエス様ご自身が来られて、この世が終わること。もう一つは私たち自身のこの世でのいのちが終わることです。そのいずれにしても、時は近づいているということです。
 
 だからこそ、主イエス様は、天国の様子を垣間見せてくださって、その恵みに与れるように備えなさいと招いているのです。ですから今日も、この礼拝を通してあらためて、神であるイエス様にお会いし、その栄光を、みことばを通して私たちも垣間見ました。ぜひ私たちの罪を負って、十字架にいのちを捨ててくださった恵みを感謝して受け入れましょう。そのことを信じる者は必ず天の御国に入ることができます。そして、この地上にあるときも、今日の弟子たちのように、いつも栄光に輝くキリストが来てくださり、触れてくださり、みことばをくださって励まし、生かしてくださる恵みの人生にあずかるのです。