のりさん牧師のブログ

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説教題 「からし種ほどの信仰があれば」 聖書箇所 マタイの福音書17章14節~21節


 
 

 連日の大雪で、札幌市内はパニック状態です。住宅街の道路も今年は圧雪でかなり高くなっていて、牧師館の車庫から車を出すときは、傾斜がきついので、昨年与えられた自動車が4輪駆動で良かったと感謝しています。
 その圧雪も1月に降ったあの湿った雪でできたものです。これから、雪解けになると、さらに住宅街の道路ではまってしまう車も増えるでしょう。このように、今年の雪は量的にも質的にも、これまでにない雪の量、雪質であると言えます。
 
 今日の聖書箇所では、「からし種ほどの信仰」という言葉が出てきます。イエス様が言われたことばです。からし種というのは、ものすごく小さいものの譬えとして言われているのですが、それは信仰が大きい小さいという物差しで測った表現です。しかも、それは信仰とは量的に言うと小さいことは問題ではないということです。
 
 また、イエス様は「薄い信仰」とも言っておられます。それは、弟子たちの信仰のこととして篤い薄いという物差しで測った表現です。しかし、その薄い信仰とは、イエス様から批難される信仰という意味で使われています。信仰とは小さくても良いが薄いのは問題である。言い方を変えると、信仰とは量が問題ではなくて、質が問題であると言うことでしょう。そこが間違ってしまうと、あのイエス様が「いつまであなたがたといっしょにいなければならないのか」と仰るほど嫌悪される。
 
 それでは信仰の量とは何なのか、また信仰の質とはどういうことをいうのか。今日の場面は、前回、上った高い山から下山したときのことが伝えられています。今日のお話の中心は、その弟子たちの信仰に見る、真の信仰者とは何か。真の信仰とはどういう信仰なのか。その信仰の量と質とは何なのか。そこから私たちの信仰のあり方について一緒に聴いていきたいと思います。
 
 
1.信仰者の挫折
前回、高い山の上でイエス様が真っ白に輝き、御伴に選ばれた3人の弟子たちがその目撃者となりました。そこで、神様としてのイエス様のお姿を見、神様の声を聞いた余韻のまま、彼らは山を下りて来ることになりました。すると、山の麓には、留守番していた他の弟子たちと群衆がいたのです。その中で、てんかんで苦しんでいる息子を持つお父さんが、イエス様に訴える。それが14節~16節です。
 
「彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。『主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりします。そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。』」
 
 この人が父親だと言うことは、並行記事のあるマルコの福音書9章にきちんと書かれています。また、このときの様子が詳しく書かれています。また、その父親の信仰の様子も記録されています。しかし、今日、取り上げるこのマタイの福音書では、そこは割とあっさりと書き、問題のある弟子たちの信仰に焦点をしぼっているのがわかります。
 
 それでも、このお父さんの信仰と弟子たちの信仰の違いについて、わかる言葉が一言ですが、きちんと記録されています。それが、「主よ。私の息子をあわれんでください」ということばです。この「あわれんでください」という言葉は、とても大切な意味を持っています。
それは、癒してほしいとか、悪霊を追い出してほしいという言葉にはない、イエス様の前における自分がどんな存在かという告白になっているということです。
 
 それは、ただ事件を解決してほしい。事態を変えてくれさえすれば楽になれるというような、ご利益信仰ではありません。ただ憐みをかけてほしいという、へりくだった言い方。砕かれたことばであるということです。つまり、私は無力です。これまで手を尽しては来ましたが、息子は良くなりません。もうお手上げですという、自分を低い所に置いた態度が、この言葉に表れているのです。
 
 その上で、状況を説明しました。息子が火や水の中に何度も落ちたり、飛び込んだりする。その大変な中に息子は苦しんでいる。そして、自分も父親として、もうどうして良いのかわからない。だから、弟子たちのところに連れて来た。でも、お弟子達では直すのはできなかった。
 
 それは、恐らくイエス様本人でなくても、お弟子たちでも直してもらえるという前情報があったからでしょう。事実、イエス様の12人の弟子たちは、以前にイエス様から悪霊を追い出す権威を与えられており、実際に2人ずつ遣わされて、それが町々でできていました。マタイの福音書10章には12使徒が選ばれた場面が記録されていますが、その1節にこう書いてあります。
「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」
 
 ですから、弟子たちは悪霊の追い出しや病気の癒しがもともと出来ていたわけです。しかし、なぜか、この時はできなくなっていたということです。どうして、今までできていたのに、今はできないのか。
 
 弟子たちにしてみれば、エネルギー切れなのか。ガソリン切れのように、その力は補給しなければ消費してしまうものなのでしょうか。
 
 結局、イエス様ご自身が、悪霊を追い出して、その子は直ったのです。しかし、このイエス様の嘆きのお言葉が心に残ります。「さがれサタン」と同じくらいの重さを持っているほどの、愛のお方イエス様なのに、このような強いことを言われるのかと。17節。
「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」
 愛は全てを耐え忍ぶことであると、パウロが言うように、愛はすべてをがまんする。その我慢しているという事実をイエス様の口から聞かなければならないほどの、イエス様の嘆きようは、やはり、ここも特別な意味があると言って良いでしょう。
 それは、信仰によって義とされる私たちキリスト者の信仰そのもの。救いの根幹である信仰とは何かが揺るがされてしまう、とても大切な事件だったからです。
 
 私たちの信仰の歩みでも、口では信仰が大切、信じることが大事だと言っても、それがいったい何なのか見失ってしまい、挫折を経験することがあります。救われたばかりのうちは、お祈りも聞かれることが多く、祈りを通して、神様から信仰のレッスンを受けることが多くあります。信じて祈ったら、きちんと聞かれるよと教えられることが、今よりも多かった。でも、今はあまり祈りが聞かれていないかもと思うことがあります。
 
 その理由の一つは、やはり信仰歴が長くなってくるにしたがって、神様からの信仰のレッスンの仕方が変わって来るということがあるでしょう。パウロも年数を経るごとに、彼の使徒としての歩みは過酷になっていきました。それは、彼が呪われているからではなく、神様から使徒パウロへの聖化のレッスンの段階によるものでしょう。
 
 私たちもそうです。信仰をもって年数が経って来ると、救われて直ぐの時とは、全く異なる試練が訪れることが多くなります。そのとき、理由の一つとして、私たちをイエス・キリストに似る者とするために、神様がその試練を通してきよめているのです。
 
 ただし、もう一つの理由があります。それは、私たちの信仰が変化してしまっているときです。どのように変化するのか。それが、19節以降からわかってきます。
 
 
2.信仰者に起こりやすい挫折とは
 19節。
「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。『なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。』」
 なぜ自分たちに悪霊を追い出せなかったのかという疑問、質問は当然の問いでしょう。しかし、やはり、彼らのこの言動に、彼らが最初の頃から、あのマタイ10章の初々しい頃からすっかり変わってしまった者になったことが、この言葉の中から伺うことができます。それは、どんなところでわかるでしょうか。
 
 それは「そっと」というところです。他の翻訳では「ひそかに」となっています。つまり、周囲の人たちには内緒で、ということです。それは何を意味しているでしょうか。それは自分にできなかった理由を他の人に知られては恥ずかしい。プライドが傷つくということではないでしょうか。それは、つまり、悪霊を追い出す業が、イエス様の権威、イエス様の栄光ではなく、自分の業、自分の栄光、自分の誇りになっていたということでしょう。だから、このあと続きの18章では「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」と天国のことを質問するのに誰が偉いのかという、自分たちの地位について心配しているからです。
 
 実際、マルコの福音書の方では、このあと道々、彼らがイエス様に内緒で話し合っていたことが「この中で誰が一番偉いか」でした。
 
 おそらく、彼らも最初のうちは、イエス様からの権威が与えられて悪霊を追い出せるようになり、驚きつつも感謝して、それを行っていたでしょう。しかし、このような奇蹟の業も毎日できるようになり、当たり前になってくると、そこに感謝が失われ、実際に癒したり、直したりしているのが、自分の力でやっているかのような錯覚に陥ります。そうなると、必然的に病気の癒しも悪霊の追い出しもできなくなる。それは当たり前です。
 
 それまで、神様に差し出していた手を引っ込めて、自分の力でやろうとするからです。そこにはもはやイエス様の権威はありません。自分の権威です。自分の権威って何でしょう。それは、これまで長く自分がやってきたという、自分の経験に立つプライドという権威でしょう。
 
 弟子たちは、最初のうちは素直に信じて、恵みを恵みとして受け取ったまま伝えていたでしょう。しかし、先生と呼ばれ、主の業を行っていくうちに、高慢になり、私の業となっていった。それに気づかずに、表面的にはイエスの弟子としているが、事実は自分の業を見てほしい。こんなにすごいことができるのだと、主の栄光を盗むのです。
 
 このことは、特に牧師は要注意です。勘違いしやすく、キリスト教会のしもべにすぎないのに、自分が偉い先生になっていき、説教もその他の奉仕も自分の栄光としてしまう誘惑に日々あっていると言っても良いでしょう。だから牧師の中には、牧師の師を「仕える」方の「仕」とする方もいます。でも、どんな風に呼ばれようと、どんな肩書があったとしても、へりくだるかどうかは、その人にかかっています。
 
 ○○兄と呼ばれる牧会者でも、教会でのその立場が教祖のようになっている場合もあれば、○○先生と呼ばれる牧会者でも、教会の誰よりも低く仕えておられる方も実際にはおりますので、大事なことは、呼び方、呼ばれ方以上に、薄い信仰ではなく、からし種ほどの信仰であるように意識し、いつも心砕かれて、低くされていくことです。これは牧師に限らず、全てのクリスチャンに言えることでもあります。
 
 実は、そのへりくだった姿。小さく、小さくされる歩みこそ、からし種ほどの信仰なのです。そして、薄い信仰とは、神様への感謝が薄れ、神様の栄光を自分のものとして盗む生き方のことです。それはもはや信仰とは呼べません。信仰とは、あるかないかだからです。小さくても、主への揺るがない信頼があるのであれば、それは、その人から出てくるのはその人自身の自我に満たされた思いではなく、主の御霊です。だから、御霊の業として、すべての行いにも主の栄光が現わされるのです。
 しかし、私たちは、そのような感謝なスタートを切って信仰生活が始まっても、信仰の量的に経験値、信仰歴が増えて来るほど、その量に依存して、主に謙遜に従うよりも、その経験が勝ってしまって、自分のプライドに生きてしまう弱さがあるのです。12弟子ですらたった2~3年の間でそのような思いに至ってしまった。尚更、どんなキリスト者であったとしても、それは起こるのだと覚えておく必要があると思います。
 
 プライドに立った信仰生活は空しいです。人へのアドバイスもみことばよりも自分の経験値が尺度となって、相手を打ちのめすことがあります。聖書のみことばよりも、自分のこれまでやってきたこと、相手に自分の経験を押し付けることもあります。経験がすべて悪いわけではありません。しかし、みことばよりも、人間の意見、経験に軸足を置いてはならないということです。あくまで軸足はみことばに置くべきです。
 
 
結び
 では、どのようにしたら、そのような量的な信仰、経験や自分の能力に頼る誘惑から守られるのでしょうか。それが最後の21節です。
「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」
 ここでイエス様は、弟子たちに悪霊の追い出し方のレクチャーをしているのではありません。方法論を教授しているのではないのです。祈りと断食というのは、厳しい修行を積むという話でもありません。ここで大切なことは、祈り断食するように、いつも主の前に出ることであり、断食が表わす罪の悔い改めと、食を絶つほどに、主との交わりの時を大切にするということです。
 
 いつも主と交わり、祈りとみことばの時間を大切にするならば、その大切にしている時間にいつもいっしょにいるイエス様に似てきます。朱に交われば赤くなると言われるように、主イエスと交われば、主の血潮によって赤くされ、罪のさばきは過ぎ越され、まさにイエス様の御人格に近い者へと造り変えられるのです。
 
しかし、主と交わることをしないでクリスチャンぽく生きようとするならば、それは苦しいです。一番苦しいのは、自分の経験というプライドだけで生きることになるということです。そうなれば、人からの言動で揺れ動かされ、また傷つき、落ち込むでしょう。それは、今日の箇所で、悪霊に憑かれた息子を癒せず、そっとイエス様のところに来て、プライドが傷つかないようにした、この弟子たちと同じです。それはあなたがたの信仰が薄いからだと、イエス様からお叱りを受けるでしょう。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのかとイエス様はお嘆きになるでしょう。
 
 しかし、からし種ほどの小さな、小さな信仰。低く、低く、いつも主の前に出て、そのきよさに触れて、自分が何者かを知らされていくならば、同時に、そのような私を愛してくださって、神の子どもとしてくださったことが、どれほど恵みか、どれほど素晴らしいことか、どれほど嬉しい人生に入れられているか、その恵みの喜びが湧いてくるのです。今日の箇所の父親のように、「主よ。憐れんでください」と御前にひれ伏す姿こそ主の弟子の姿だからです。実は今日登場している人たちのうち、主の弟子にふさわしい信仰とは、主の弟子たちのうちにはなく、一見わき役に見える、この父親こそ主の喜ばれる信仰であったということです。
 
 それこそがからし種のような信仰です。その大きさは小さくても、からし種が大きな樹木へと成長するように、その信仰も祝福され、爆発的に益々喜びに満たされた歩みへと成長するのです。それが、やがて主イエスが再臨されたときに、完成された神の国へと繋がっていくのです。
 
 私たちもイエス様の弟子、クリスチャン、キリスト教会という看板ではなく、その信仰が問われています。信仰がなければ主に喜ばれることはありません。主を信頼し、主を愛する信仰こそが主の弟子である証しです。その信仰とは自分の力ではなく「主よ。あわれんでください」という無力な自分を認めるだけです。格好つけず。プライドを捨てて、ただ主の前にひれ伏し、祈り、罪を悔い改め、その主との交わりにいつも身を置くことを第一にする生き方です。その祈りと断食とは礼拝とも言うことができます。最善を尽して礼拝をささげるところに、確かな信仰が芽生え、成長する。
 
教会としてもそうです。みことばに聴き、礼拝する教会もからし種のように、初めの存在は小さくても必ず豊かに成長し、天の御国を建て上げていくほどに用いられる教会となるのです。
 
そのためにも大切なことは、一人ひとりが主イエスに対する信仰を点検することです。知らないうちに、自分の頑張りで信仰生活をしていないか。自分の経験のみで奉仕をしていないか。また祈りと断食が示すディボーション、礼拝生活を喜んでささげているか。それを押し出す喜びも、主との交わりから生まれるものです。主によって愛され赦されているという感謝。それが喜びを生み出します。今週の水曜日から受難節が始まります。
 
ぜひ信仰をもって、十字架に向かわれた主に思いを重ねてこのときを過ごしましょう。22節、23節