のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

受難節 第14日 木曜日

ヤコブの手紙 1章12~15節

"試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。


だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。


人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。


そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。"

《メッセージ》

新約聖書で「誘惑」と「試練」は、原語では同じ単語が使われています。主イエスが、荒野で悪魔の誘惑に合いましたが、それは悪魔の試練とも訳せるのです。

 

ですから、誘惑にあうときは信仰を試される時でもあるということです。ですから、誘惑とは悪魔の私たちに対する攻撃でありつつ、そこでもし私たちが主に信頼して、その攻撃に立ち向かうならば、そのことを通して私たちは研鑽されるのです。

 

ですから、このヤコブの手紙を書いた記者である主の兄弟ヤコブは、どのような試練に対しても、信仰をもって耐え抜くように勧めるのです。

 

ところが、誘惑が試練であり、試練が誘惑であるなら、どちらも神からのものだと思い違いをするようになってはなりません。それは、どういうことでしょうか。

 

それは、誘惑にあったときに、それも神が許しているのだから、その誘惑に甘んじて受けていったとしても、それは良いのではないかということです。誘惑も神様が許しているから、私はその流れに身を任せようと、さも神が悪に招いているのだと曲解して、罪を犯させようとする悪魔の誘惑と戦わないで、その欲の赴くままにするのです。

 

しかしヤコブは、はっきりと言います。神が私たちを誘惑することはありえないと。誘惑されて罪を犯すのは、あくまで私たちの責任であり、私たちの中にある罪が不信仰に陥らせると。

 

だから、益々悪魔は、罪の誘惑と戦わないで、楽な方に傾き、堕落への道は突き進むように誘惑してくるのです。そして、信仰の歩みから脱落させ、終末の時、神のさばきにあい地獄へ落とされる道連れにしようとしているのです。

 

受難節で主イエスの苦しみの道を味わうのは、そのような誘惑の中で耐え抜く苦難を覚えることも大切でしょう。なぜなら、主イエスご自身が、私たちが経験するようなこの世での誘惑を全て通られたからです。

 

だから、私たちが受ける様々な試練も誘惑も主イエスが既に通ってくださり、その苦しみがどれほどのものであるかを知っておられる憐れみ深い主がおられるのですから、今日も、これからも誘惑や試練を恐れることなく、また諦めることもなく、大胆に恵みの御座に近づいてまいりましょう。

 

"私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"
ヘブル人への手紙 4章15~16節

 

《祈り》

主よ

私を憐れみ、

罪の誘惑からお守りください。

悪魔の囁きから救い出してください。

そのような誘惑に打ち勝つ力を授けてください。

何よりも、主よ。

あなたが私たちが通るべき試練を経験され、私たちが出会うべき誘惑にも出会われ、その苦しみを知っておられることを感謝します。

どうか、その私たちの大祭司の受けてくださった苦しみのゆえに、私たちの歩みをも支え導いてください。

主イエスの御名によって祈ります。

アーメン。