のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

受難節 第23日 月曜日

●マタイの福音書18章1節~5節
"そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
エスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。"
 

《メッセージ》


 今日の箇所には「誰が一番偉いか」という質問がありました。聖書で使われる、この偉い人の「偉い」(メガス)には、もちろん偉大であるという意味があります。また、「大切な」とか、「有力な」とか、「大きい」という意味があります。メガトン級のメガのことです。だから、イエス様の弟子たちは、誰がメガなのかという質問をしているのです。しかも天の御国で一番のメガは誰か。この質問を言い換えると、教会で誰が一番偉いですか。教会でのメガは誰ですかということにもなります。
 今の日本ハムファイターズの監督は新庄監督ですが、彼はビッグボスと言われています。では、神の国のボス。教会におけるボスはだれでしょうか。白石教会のボスは誰でしょうか。皆さんのボスは誰でしょうか。今日は、「天の御国で一番偉い人」についてみことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.自惚れている者は入れない
 今日は先に答えを言っておきます。天の御国で一番偉いお方、教会のボス、メガはイエス様です。今日、賛美したように「主イェスこそ我が望み、わが憧れ、我が歌、わが光、わが力、わが剣、我が喜び、わが盾、わが神、わが宝、わがすべて」です。もう、これが答えです。
 
 ところが、そんな主の教会なのに、違うボスが現れる。他の偉い人が現れる。それも弟子の中から。だから、今日のみことばが、聖書として残されているのです。特に教会の中で指導的な立場の人たち、牧師、長老、執事たちは要注意です。まさに、今日のお話の問題は、イエス様の弟子の中の弟子である12使徒たちの中で実際にあったことだからです。1節を読みましょう。
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。』」
 
 「そのとき」というのは、先週のところから繋がっているということです。前回の神殿税(宮の納入金)をイエス様が納めるのかどうか。そして、その弟子であるペテロもそれを納めるべきなのか。そんなことがテーマにありました。その答えは、神ご自身であるイエス様もイエス様に従う弟子たちも、本来、その義務はない。しかし、つまずきを与えないために納めるということでした。そうすることで、人々はつまずかないばかりか、かえって神様を信じ、賛美するようになるということを学びました。
 
 そして、そのようなことに使う知恵も賜物など必要は丁度良く、主が与えてくださるとお話しました。それはペテロが釣った魚の口には、ペテロの分も丁度良い額のお金が用意されていたからです。そこに私達にも丁度良い神様からの助けがあると学びました。だから、「そのとき」とは、このときなのです。それを他の弟子たちが、近くで見ていて言ったことば。それが18章1節。
 だから、これまでのところで、ペテロ以外の弟子たちの心には、きっと優遇されているように映るペテロへの嫉妬があったのかも知れません。
 
 でも、このような感情は、ここで始まったことではなく、すでにカペナウムに来る途中から弟子たちの中で蠢いている問題だったのです。このマタイの福音書にはありませんが、並行箇所のあるマルコの福音書を見ると、この家に入ってから、イエス様がこう質問しておられたことがわかります。マルコ9章33節、34節
「カペナウムに着いた。イエスは、家に入った後、弟子たちに質問をされた。『道で何を論じ合っていたのですか。』彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」
 
 カペナウムに来る途中の道で、誰が偉いのかを議論していたとありますから、この議論の中にペテロもいたわけです。つまり、イエス様以外の弟子たちみんなで、この中で誰が偉いのかを議論し合っていた。でもイエス様はそのことをご存知の上で、家に着いてから弟子たちにちょっと聞いてみた。ところが、また叱られると思ったのか、だれも本当のことが言えなかった。そのような空気の中で、彼らの中から出た質問が、マタイ18章1節のこの質問だったということです。
 
 この質問には、「弟子の中で」という言葉はありません。そのかわり「天の御国では」と言い換えています。これは、叱られないように、言葉を変えたのかも知れません。天の御国と言えば、とりあえず大枠においては、弟子である自分たちも含んでいると当然のように思っていたからです。
 
 
2.それではそもそも天の御国に入れない
しかし、この弟子たちの質問と態度にイエス様は、面白いかたちでお答えになります。2節、3節。
「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。』」
 
 イエス様は、まず子どもを一人呼び寄せて、弟子たちの真ん中に立たせました。これはペテロの子でしょうか。近所の子どもでしょうか。いずれにしても、ここであえて「小さい子ども」を呼び寄せたところがイエス様の皮肉が入っています。彼らの言った「天の御国でだれが一番偉いのか」という質問の答えとして、イエス様は、その家の中で誰よりも小さな子どもをわざわざ呼び寄せる。ここがイエス様のお答えのし方です。彼らの「誰が偉い(大きい)か」という質問に、小さな子どもを立たせる。
 
 しかも、イエス様のお言葉は、「誰が一番偉いのか」という質問に対する答えというよりも、そもそも、そんなことを考えている時点であなたがたは誰も天の御国には入れないとはっきりお語りになっているということです。
 
 弟子たちの質問は、誰が一番偉いかです。その理由として、きっと自分たちの良い所をほめてくれることを期待していたのでしょう。ペテロ、あなたは誰よりも積極的なのであなたが一番だと言ってほしかったでしょう。その他の弟子たちも、そのような自分への評価が伴う自分の地位を保障するイエス様からの確かなことばがほしかったはずです。
 川﨑くん、あなたは忠実に牧師をしているから、君は偉いよ。よく頑張っているとほめてもらいたい。「だって、こんなこともあんなことも、ほかの人よりも頑張っているんだから。」もし私が、牧師としての働きをそんなふうに考えているとしたら、私はこのときの弟子たちと同じです。地獄へ行った方がよいでしょう。そんな弟子たちに、イエス様はストレートに、そんな人は天の御国に入れません。無理ですと言うのです。
 
 3節のことばが非常に重要です。この新改訳第3版では「悔い改めて」と訳していますが、ここは新しい新改訳2017のように、「向きを変えて」の方がふさわしいと思います。「悔い改める」と訳せる、もとの言葉は新約聖書で2種類あって、ここの場合は罪の赦しのための心の方向転換というよりも、行動を伴って方向を変えるという動作の意味で用いられる言葉が使われています。「右の頬を打たれたら左も向けなさい」の「向けなさい」と同じ言葉です。ですから、罪を悔い改めるよりも、体の動作として「向きを変える」の方が良いでしょう。しかも、ここは受動態です。つまり向きを変えさせられた子どもように救いは救われるのであって、自分の力でもぎ取るものではありません。もし、私たちが自分の功績によって救われていると思っているならば、それは天国には程遠いということです。
 
 この小さい子を弟子たちの真ん中に呼んだのは誰だったでしょうか。この小さい子どもを弟子たちの真ん中に立たせたのはだれだったでしょうか。それは、イエス様です。この小さい子は、イエス様に呼ばれるままに、立たされるままに、あくまで受け身でイエス様によってここに置かれた。ただそれだけです。この子には、自分の力で、自分の意思でここに来て立っているなんて、思い上がりはありません。この子どもはきっと、ここに立たされるまでそばで遊んでいたのでしょう。しかし、イエス様に呼ばれ、立たされ、向きを変えられたのです。
 
 しかし弟子たちの質問には、自惚れがありました。「天の御国では、誰が一番か」という問いには、自分達が既に天の御国に入れる前提で語っていました。自分は当然、天の御国に入れる資格があるという傲慢さがありました。それは、言い換えると、受け身ではなく、自分の力でこの真ん中に立っているということです。この真ん中という言葉は、原語ではマタイの福音書では二回しか使われておらず、一つは今日のところです。あと一回はこのあとの18章20節です。
 
 それは、二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいると言われた、その中とは、その弟子たちの真ん中と言うことです。それはイエス様が立つべき場所です。もっと言えば、「真ん中」ということばは、全福音書ではマルコの並行箇所にも一か所ありますが、あとは何とルカの福音書に一か所あるだけです。その箇所と言うのも、死んでよみがえられたイエス様が恐れて部屋に隠れていた弟子たちの真ん中に立たれたときに使われているのです。
 
 つまり、イエス様が小さい子どもを立たせた「彼らの真ん中」という場所は、これはイエス様のポジションだったのです。その場所に、イエス様が呼び寄せて、イエス様が立たせてくださる。それこそ、天の御国に入る者の恵みの場所なのです。この子にとっては、一方的な主イエス様からの選びであり、恵み以外の何ものでもありません。ですから、この子のように、イエス様によって呼ばれ立たされることこそ、主の弟子としての大きな恵み。天の御国なのです。天の御国における偉い、メガとは、私たちのことではなく、イエス様からの一方的な恵みがどれほど偉大か、どれほど大きな、メガ級の恵みかを知ることなのです。
 
 私たちの頂いている救いとは、そのようなものです。すべて受け身、全部主からいただいたものです。私たちの力で、能力で手に入れたものは一つもありません。弟子たちもそうであるはずなのに、弟子たちはすっかり思い上がって、自分達はこれからエルサレムへ行って、イエス様が治める新しい神の国の大臣になって、他の人を支配しようと目論んでいた。それはつまり、勝手にイエス様の場所に立っているのと同じなのです。
 私たちは自分で生きているのではない。主によって生かされているのです。私たちは自分で自分を救ったのではありません。イエス様によって救われているだけです。そのことを恵みと言います。
 
 だからイエス様は、「あなたがたはわたしによって弟子とされているだけなのに、『自分が、自分が』と、自分で弟子たちの真ん中、つまり主の位置に勝手に立って、自分の力で天の御国にすでに入っているような勘違いをしている者は、天の御国に入れません」と厳しく警告を与えているのです。そのような者は、天の御国に入れないので、当然、伝道者として主の働きをすることはできません。
 
 私は、初めて伝道者になるように献身のみことばが与えられたのは26歳のときでした。でも、そのときすぐに神学校に入って訓練を受けることに導かれなかったのはなぜでしょうか。それは、私もこのときの弟子たちのように、自分で真ん中に立とうとしていたからです。その時の私は若くて、教会からも期待されていると思い上がっていました。当時、青年会の世話人をして、教会の執事もして、信徒説教者としても牧師から訓練を受けていて、自分は伝道者としてふさわしいと傲慢になっていました。今、思うと自信に満ち溢れていたのです。でも、そういう人は神の国に相応しくないのです。アブラハムも、モーセもギデオンも、ダビデもエレミヤも、本人たちにとって偉い時、つまり自分を大きくしているメガな時ではなく、もっとも弱くなっているとき、最も小さいときに神様から声がかかるのです。
 
 私もそうでした。自惚れているときは伝道者への道が閉ざされ、色々な支払いが滞って、マンションを売らなければならないそのとき、家族がバラバラになっているその渦中で、主は私の伝道者としての道をお開きになったのです。もうそこには無力な自分がいるだけで、自分の若さという武器も、記憶力が良いという武器も、経済力も、今まで自分が当然に思っていたあらゆる武器を失っていました。つまり、若い時の私は主に従うと言いながら、そのような大きな自信に満ち溢れていた自分と言う神に仕えていただけだったのです。そのことをわからせるために、主は23年かけて私を砕かれたのです。そして、神学校でもさらに砕かれ、今、この白石教会の牧会の現場でもなお砕かれ続けています。狭い門から入るには、大きな石は砕かれなければならないのです。皆さんはいかがでしょうか。
 
 立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさいとパウロが言いましたが、自分で立っていると思っているならば、必ず倒されます。それは、主によって立たされていることに気付いていないからです。主の栄光を自分のものにしてしまっているからです。
 
 
3.この子どものように
「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」これが結論です。4節と5節。
 
 ここには、二つの大切な動詞が使われています。一つは「この子どものように、自分を低くする」ということです。もう一つは、「このような子どものひとりを、わたしのゆえに受け入れる」ということです。この二つの行動こそが、偉い人。つまり偉大な人。大きな人。メガな人です。
 
 ここでも偉いという言葉と対比するように「低くする」という言葉が使われています。それは、この子どものように、自分を小さく小さくしている人こそ、一番偉い人、偉大な天国の人だということです。
 
だから、白石教会で一番偉い人は「祈湖ちゃん」です。祈湖ちゃんが先生です。祈湖ちゃんは、お父さんとお母さんに連れて来られたまま、置かれたまま、そのされているまま受け入れています。そのように、へりくだって、主に与えられたままに受け入れて主の御前を歩む者はおのずと、同じように子どものような小さい存在を受け入れるようになります。もう、ここでは受け身ではありません。能動態で語られています。恵みを知った人は、能動的に、自分を低くすること。能動的に小さい者たちを受け入れる。困っている人たちに寄り添う。悲しんでいる者達を慰めるのです。
 それは、主によって呼び寄せられ、主によって、今、ここに私はおかれているという恵みがわかり、感謝と賛美が生まれている人は、積極的にイエス様のように生きるものとされるからです。
 
しかも、この小さい子が立たされた弟子たちの真ん中という場所はイエス様の場所です。そこは天の御国という神の御座でもあり、同時に苦しみの場所でもあるのです。イエス様こそ、誰よりも低くなられ、十字架の死に迄も従われて、あのゴルゴタの丘の上で磔にされました。それは、私たちの罪を贖い、そのことを信じる私たちをも、天国で一番偉い人になるように招くためです。
 
 私たちも、イエス様が呼び寄せ立たせた、この子どものように、その恵みを体全部で受け入れているときこそ自由になります。それは、イエス様と一つになるからです。そこに自分を低くして一つになろうと決断することは、私たちの責任です。すでにイエス様によって呼び寄せられ、イエス様によって立たされていることを受け入れ、感謝していくときに、もっともっと、イエス様が通られた道に歩みたくなります。その道は外から見れば決して偉い人には見えないでしょう。愚かに見えるかも知れません。でも、主は、どんどん低くされる道こそ、ご自分の歩む場所、十字架の道であり、弟子である私たちが歩むべき道であると今日、示してくださいました。
 
 今、多くの子どもたちが親に虐待されて殺されるという事件が明るみにされています。また、ウクライナへのロシアの軍事侵攻で、多くの子どもたちが殺されています。このような、子どもたちをイエス様は、私たちの真ん中に置かれて、このようになりなさいと言われているのです。また、その子たちをイエス様のゆえに受け入れなさい。その子たちに寄り添いなさいと命じられています。そうしなければ、イエス様を信じていることにならない。このような子どものひとりを、主のお名前のゆえに受け入れることはイエス様ご自身を受け入れることだと、イエス様はそのような小さい子どもとご自分は一つだと言われるのです。だから白石教会としても祈りつつ、今回のウクライナ支援も、ウクライナの子どもたちに届く支援をしていきたいと願っています。それはイエス様に献身することと一つです。
 
 
結び
 今日、私たちは、天の御国に入ることを許されている者として、この小さな子どもがイエス様の場所に立たされたように、私たちも立たされています。ぜひ、その恵みの大きさに気付かされて、ますます低く低くなることを選びとってまいりましょう。ペテロは、このときのことを思い出して、晩年こう言っています。
「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、丁度良いときに、あなたがたを高くしてくださるためです。」Ⅰペテロ5:6
 
 今日、受難節第4主日を迎えました。主の苦しみの道は、私たちがどんどん低くされる道です。この主の苦しみを我が道とし、今週も、敬愛する兄弟姉妹とともに、キリストの道を歩ませていただきましょう。そこにこそ、天の御国に続く栄光の小道があるからです。

 

《祈り》

1,幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
2,幸いなことよ主が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。
3,私が黙っていたとき私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。
4,昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ
5,私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ
6,それゆえ敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かってあなたがおられるうちに。大水は濁流となっても彼のところに届きません。
7,あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り救いの歓声で私を囲んでくださいます。セラ
8,私はあなたが行く道であなたを教えあなたを諭そう。あなたに目を留め助言を与えよう。
9,あなたがたは分別のない馬やらばのようであってはならない。くつわや手綱そうした馬具で強いるのでなければそれらはあなたの近くには来ない。
10,悪しき者は心の痛みが多い。しかし主に信頼する者は恵みがその人を囲んでいる。
11,正しい者たち主を喜び楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ喜びの声をあげよ。

(詩篇 32篇より)