●詩篇 116篇1~4節
"私は主を愛している。主は私の声私の願いを聞いてくださる。
主が私に耳を傾けてくださるので私は生きているかぎり主を呼び求める。
死の綱が私を取り巻きよみの恐怖が私を襲い私は苦しみと悲しみの中にあった。
そのとき私は主の御名を呼び求めた。「主よどうか私のいのちを助け出してください。」"
《メッセージ》
この詩篇は預言者ヨナの大魚の腹の中における祈りかと思うような内容になっています。
ただし、ヨナは主の御顔を避けて、逃げたために経験した死のよみでした。
私たちの試練には、自ら招いた罪によるものと、あくまで主の深い御心の内で行われるものがあります。どちらにおいても、死を覚悟するような出来事に遭遇し、このように祈ることになるのではないでしょうか。
ヨブが経験した試練は、まさに後者でしょう。では、私はどうかというと、究極的には、私自身の罪深さによる、主からの警告やさばきによるものかと思うほど、ヨブとは比較にならないほど、私は罪深い。
だから、死を覚悟するような出来事に遭遇したときは、自分の至らなさを嘆くのだろうと思います。
しかし、主イエスが通られた十字架の苦しみは、罪人の代わりに苦しむ刑罰代理の意味と、義人でありながら苦しみを経験し、最後まで、その苦しみの中にあっても神を愛し通した信仰者の模範としての意味があるでしょう。
父なる神は主イエスの祈りを聞かれませんでした。あのゲツセマネでの祈り、そして、十字架の上における「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」。
そうだとしても、イエスは「私は主を愛している。主は私の声私の願いを聞いてくださる」と、信仰は消えず、ご自身の霊を父の御手に委ねられたのでした。
この主イエスの苦しみの意味を今朝、あらためて覚えましょう。義人でありながら苦しまなければならない理不尽さ。
しかし、その苦しみこそ、私たち罪人の罪を贖うための救いのわざであった。私たちの贖いのためのきよき子羊として屠られなければならなかった、身代わりの生贄としての苦しみ。
また神の子なのに、三位一体である父から、聖霊から切り離されてよみにまで下る苦しみの極み。
どの苦しみもすべて聖書にある通りであり、それぞれに意味があり、私たちが同時に受けるべき救い主が遭遇した苦しみなのです。
《祈り》
主よ
ありがとうございます。
穢れなき神の子羊として、
罪なき信仰者として、
神の御子として、
あなたは苦しまれ死んでよみにまで下ってくださった。
あなたのその苦しみのゆえに、私たちは完全に赦され、また、私たちがこの地上で経験する様々な苦しみすら、主がご存知であり、主ご自身もその苦しみを通られたので、私たちは慰めを受けます。
どうか、今日もその主の苦しみの僅かでも覚えて、主の十字架の道に心を合わせていけるように導いてください。
主イエスの御名により祈ります。
アーメン。