のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年4月24日 礼拝説教

説教題 「聖書は権威ある神のことば」
聖書箇所 ヨハネ福音書5章39節~40節
 
 

 春になると山菜取りに行く人が増えます。私も結婚したばかりの頃は、仕事の合間によく山に入って、ウドやタケノコを取りました。そのタケノコ採りが、実は大変危険です。どうしてかというと、タケノコ採りは、笹やぶの中を匍匐前進するように、身を低くして、笹の堅い茎をよけながら進んで行くので、迷いやすいのです。いっぱい取ったと思って立ち上がってみると、ここはどこかということが何度もありました。そのように、山菜採りは、迷うことがあるので要注意です。
 毎年、何人もの方々が、山菜採りで迷子になりニュースになっています。今、ちょうど山菜取りの季節になって来ましたので、皆さんもご注意ください。このように、山歩きも、注意しないと迷子になり、時には崖から滑り落ちて大怪我をすることになることもあります。そうならないためには、何が必要かと言いますと、まず事前に、入る山の特徴、安全な散策するためのガイドなどの情報と地図があると、より良い山歩きができます。
 
 同じ様に、聖書という山も、無計画に、手当たり次第に読まずに、地図をもって読むことが大切です。その地図が、教理です。教理というのは、まさに私たちが信仰告白で告白しているように、聖書が言っている大事な教えを手身近に言い表す、信仰の内容のことです。
「あなたは何を信じていますか」と質問されて、端的に答えられる、その教えです。白石教会では、その告白を14の項目に分けてまとめました。それは、それを手掛かりに聖書を読むと、迷わずに、間違わずに読み進めますということでもあるのです。
 私がこれまで毎週の礼拝で続けているのは聖書を順番に読み、解き明かす、講解説教ですが、そのためにも、私は、前提とする聖書の教理から外れないように行っています。まさに、それは、地図を用いて山を安全に歩くのと同じなのです。
 
 そういうことで、これから月一回は、教理説教をしたいと考えています。講解説教が毎日の食事であるならば、教理説教はサプリメントと言えるかも知れません。美味しく食事を味わうというよりも、主食は何かとか、デザートは何かとか、その食卓を構成する品目や素材、栄養素に注目して栄養を補うということに似ています。ですから、教理説教では、なかなか、聖書のストーリーや登場人物の息遣いは伝わりませんが、森を歩く時の安全確保と交通整理ができるのです。
それで、今朝はその一番目。「聖書」についてみことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.神の霊感によって
 まず白石教会の信仰告白の第1項目目を読みましょう。
「【聖書】聖書は、すべて神の霊感によるもので、神の救いの計画を啓示する権威ある神のことばであり、信仰と生活の誤りなき規範です。」
今回の教理説教は、白石教会の信仰告白に基づく説教なので、この告白の意味するところを中心に味わいたいと思います。それで、最初に確認したいのが、なぜ一番目に聖書なのかということです。北米のメノナイトの信仰告白では、4番目に「聖書」があるのに、どうして白石教会の信仰告白では最初なのか。
 
 その理由は簡単です。それは、聖書が神様のことばであって、神様が私達に知らせようとするすべてのことが、この聖書によって明らかにされるからです。神もイエス・キリスト聖霊も、この聖書によって、その意味を具体的に知ることができるからです。そのためには、聖書が私たちにとって何なのか、その価値について確認することが大事です。それは、その前提が誤っていると、そのあとのすべての教えが誤るからです。
 
 だからイエス様は、今日、お読みしたヨハネ福音書の中で、「その聖書が、わたしについて証言しているのです」とお語りになり、聖書の証言の確かさを明らかにしています。なぜならば、36節にあるように「わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます」と、天のお父様の証言があることを語り、それが聖書によって証言されていると、言われているからです。そのように、神様はご自身の御心、ご意志を聖書によってお示しになったのです。
 
 その聖書は、旧約聖書新約聖書に分けられますが、紀元前1300年頃から紀元100年くらいまで、約1500年の間に40名以上の人間によって書かれました。今は1冊の本ですが、66の本に分けられます。また書かれた時代もまちまちで、その書いた人の職業も社会的地位も様々です。羊飼いもいれば、王様もいます。祭司や預言者、漁師もいます。しかし、その内容においては、イエス様ご自身がここで証言しているように、「わたし(イエス・キリスト)についてあかししている」のです。
 
 つまり、創世記から黙示録まで、イエス・キリストをあかししている。それが聖書です。では、どうして時代も書いた人の仕事も、社会的な地位も違うのに、相談もしていないにも関わらず、一致したテーマで書くことができるのか。それは、私たちが告白しているように、「すべて神の霊感によるもの」だからです。神による霊感とは、ロボットのように操られて書く御筆書きとは違って、書いた人物の特徴を生かしながら、その経験や癖を用いながら、神様が特別に守り導かれて、その人々によって書かせたということです。だから、同じ福音書でも、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネで、その内容も文体も個性がありながら、それぞれの角度から、正しくイエス様を伝えています。
 
 でも、人間が書いた以上、間違っているところもあるのではないかというふうに言われる方がおられるかも知れません。また神様がなぜ聖書の原本を残さなかったのか、なぜ写本からの翻訳で良しとされたのか。わからないことはあります。しかし、それは私たちが至らない者であるから、わからないし、自分の罪人の基準で測るから聖書の方が間違っていると受けとるのであって、聖書そのものが間違っているのではないのです。詩篇の詩人はこう言っています。詩篇92:5、6
「主よ あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御思いはあまりにも深いのです。無思慮な者は知らず、愚か者にはこれが分かりません。」
 
 私たちが無思慮な者であるにも関わらず、高い所から聖書をこき下ろしてはなりません。主の前に愚かな者であるのに、聖書が神の霊感によって書かれたと、聖書が証言していることから逸れて、聖書を低く評価してしまうことはあってはなりません。そうなった時点で、そこに読む価値も聞く価値も、信仰告白の一番目に置く価値もなくなります。
しかし父なる神様が証言し、聖書が証言しているとイエス様ご自身が言われているのです。このイエス様のお言葉は間違いでしょうか。むしろ、この主の聖書理解を私たちの理解としていくことが、主の弟子としての常識ではないでしょうか。聖書が神の霊感によって書かれているならば、私たちも神様の霊感によって、つまり聖霊の助けによって、そのように信じていくのです。


2.神の啓示
 聖書66巻が、イエス様について証言していることが神の霊感によることを確認しましたが、次に考えたいのは、聖書が「神の救いの計画を啓示している」ということです。ここにある「神の救いの計画」は39節の「わたし(イエス様)について」と同義語であると言っても良いでしょう。神の救いとは、まさにその名の通りイエス(主は救い)様です。ですから、聖書が書かれた目的とは、一言でいうならば、人間の救いのためです。そして、そのことを私たちに明らかにして示すことを「啓示」と言います。つまり、聖書とは神様の御心が啓示されている書物だということです。
 
 では、聖書以外で神様がご自分のことを啓示しているものはないのでしょうか。あります。それは神様が造ってくださった、被造物です。パウロはそのことについてこう言っています。ローマ1:20
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
 神様が天地万物、造られたものによってご自身を現わされていることを「一般啓示」と言います。でも、その一般啓示だけで、神様のことでわかることは限られています。つまり、「救いの計画」がわからないし、どうして私たちに救いが必要なのかもわかりません。
 
 それで、神様は、一般啓示だけでなく「特別な啓示」を与えておられるのです。それが聖書です。ただし、初めから聖書があったわけではありませんでした。神様は、ご自分の御心を示すために、まずアブラハムを選び、その子孫たちによって救いの計画を示そうとされます。その中にモーセイスラエル預言者たちがいました。そして、その預言者たちを通して、ご自分のみことばを告げました。そして、それだけでなく、それらの人たちに働いて文書によって残すことをされます。それが旧約聖書です。
 
 その旧約聖書の成就として来られたのがイエス様です。だから、イエス様ご自身が究極の特別啓示です。それまで預言者たちが指し示していたお方。それがイエス様だったからです。でも旧約聖書には「イエス」としてイエス様は登場しません。あくまで、その働きについて、その救いの使命について、イエス様ご自身についての影として示されていました。イザヤ書53章の苦難のしもべの預言はその分かりやすい例として挙げることができるでしょう。
 
 でも、イエス様も十字架と復活という救いの業を完了したあとは、天に帰られたので、そのあとは、弟子たちが聖霊を受けて、聖霊によって、イエス様の救いの業と、その教えを宣べ伝えます。そして、そこにも神様は働いてくださって、書いたものを残すように導かれたのです。それが新約聖書となって、今も直接的にイエス様のことを証言しています。
 
 では、どうして、神様は聖書という方法によって啓示することを、よしとされているのでしょうか。どうして、預言者ではだめなのでしょうか。また、どうして、また12使徒のような、またパウロのような使徒を残さないで、聖書を完成させたのでしょうか。それも、答えは簡単です。それは、異端など新しい教えを勝手に語って神様の御心を曲げる人が大勢現れるからです。もし、私が預言者のように、神様に示されたからと言って語ったとしたら、それが本当に神様の御心であると、皆さんはどのように判断したら良いのでしょう。
 
 私がこの講壇で語るメッセージがいつも私の見た夢からであったら、それが、本当に神様が言われているとどのようにわかるのでしょうか。それをどのように吟味したら良いのでしょう。
 
 実は、初代教会時代、まだ新約聖書が完成していないときに、既に多くの異端が生まれました。キリスト教会が始まって間もなく、異端は生まれるのです。そのとき、当時の教会は何によって、それが異端であると見分けたでしょう。それは、今、私たちが聖書として読んでいる、パウロの手紙であったり、使徒たちの教えだったのです。それが、保存され書き写されて、異端防止、偽預言者防止に役立ちました。
 
 そして、現代でも、聖書が完成しても異端はなくなりません。それでも、その人が異端的な人か、その教会が異端なのかは、また異端とまでは言わなくても、正しい信仰かどうかは、やはり聖書によって明らかにされます。つまり、キリスト教会は、聖書を信仰と生活の誤りなき規範として、大切にしてきました。だから、同じ新約時代の私たちも、説教者の思い付きのメッセージではなく、必ず聖書を語ります。聖書そのものを伝えられるように努力します。だから、聖書の講解説教は大事なのです。それは聖書そのもの、つまり神のことばなるイエス・キリストを語ることが、この新約時代の教会の使命だからです。
 
 だから、今日のような主題を決めて語る説教は修養会とか学びにおいては良いですが、これが日常的だと危険だと私は思います。それは、主題を決めてから聖書のみことばを選ぶと言うふうに、自分の言いたいことに聖書のことばを合わせて語るからです。それは前提である私の言いたいことが間違っているのに、聖書を利用して正当化することにもなる可能性もあるからです。もし私がロシアの軍事侵攻を支持していたら、それを聖書のことばを使って正当化できるのです。そうであってはいけません。神様のみことばが先にあって、そこに御心を探り求めながら、神様が語られている御心を聞き取ること。それこそが、私たち、神様に造られた者の恵みの受け方です。
 
 
3.誤りなき・全領域の規範・権威・神のことば
 白石教会の信仰告白の一番目「聖書」。この主題は神様の御心だと確信して、私は今日も講壇に立っています。それは、聖書が神のことばであるということは聖書が言っている真理だからです。それで、今日の説教題も「聖書は権威ある神のことば」であると、信仰告白の最も大切な部分を切り取って説教題にしました。
 
 私たちの信仰告白はすべて、関連聖句があることを裏のページに示してあります。それは、その信仰告白が、すべて聖書に基づいて言っていることだということです。それで、今日のテーマである「聖書」についても、4か所の聖書箇所が掲載されています。これは、「聖書」について4か所しか書いていないということではなく、聖書全体から言えるけれども、書ききれないので、4か所に絞って載せているに過ぎないと言うことです。ですから、聖書全体から、聖書とは「すべて神の霊感によるもので…云々…」と、この告白文が生まれたのです。そして、この告白文を更に短く、端的に言うとしたらどのように言うか。それが今日の説教題です。しかし、もっと短く言うならば、それは「聖書は神のことば」で本来は充分だと思います。
 
 どうして、そう言えるか。それは、「神のことば=権威ある=信仰と生活の規範=誤りなき」と言う風に、神のことばには三重の意味が既に込められているということです。「神のことば」だから、本来は権威あると言わなくても、すでに「権威」は含まれます。また、「神のことば」だから、本来は私たちの全領域においての「規範」になり得るのです。聖書は、私たちの人生すべてにおいて欠かせないのです。また、「神のことば」だから「誤りがない」のです。それが、神のことばが持つ大切な三重の意味です。
 
 
結び
 しかし、どうして、私たちの信仰告白では「神のことば」と言っているのに、「権威ある」とか、「信仰と生活の規範」とか、「誤りなき」と、わざわざ付け加えたように告白するのでしょうか。それは、聖書のことを神のことばであると言いながら、その権威を貶めたり、生活や仕事やこの世の常識とは合わないと分けて、信仰においてのみの規範としか認めないとか、初めの方で言いましたが、自分の物差しで勝手に聖書は間違いだらけだと蔑むことが、私たちキリスト教会の中でも起こっているからです。また、神のことばですらないと言うくらいにまで、軽く見られるようになってきているからです。
 
 しかし、ここに関しては、いくら多様性を認め、愛し合うキリスト教会であったとしても、この聖書を何と定義し、何と告白するのかは、大変重要な問題です。それは、この聖書に神のことばとしての価値を認めないということは、神様が人間に与えてくださっている神様からの啓示を自分の物差しで測るということになるからです。それは、神、イエス・キリスト聖霊など大切なテーマを、聖書ではなく、人間の考えで定義することになるからです。それは赤信号でも自分は渡りたいから進むのだと言っているのと同じです。そのような利己的な態度を通そうとするならば、必ず交通事故になります。
 
 同じように、この聖書に関する規準が違うと、平和、自由、愛、平等など、様々な大切なテーマにおける理解や解釈が変わって来るでしょう。それが、神、罪、救い、永遠のいのちなど教理における違いにまで発展するならば、キリスト教会と名乗っていてもいのちのない、単に平和を唱える政治団体と何ら変わらない集団になってしまいます。霊的な交通事故になるのです。
 
 しかし、今日、主イエス様ご自身が、「聖書が、わたしについて証言している」と語っておられるのです。そのイエス様が、聖書を神の言葉として認めているのです。そして、その神のことばには、当然神様の権威があり、私たちのすべての領域における規範であり、誤りがないのです。だからこそ、私たちに永遠のいのちをもたらす神の啓示なのです。
 
 今朝、あらためて、もう皆さんにとっては当たり前の事かも知れませんが、聖書についてともに考えました。どうか、このこれからも神の霊感によって書かれた聖書のことばによって養われ、強められ、この大切な真理を、これからも確信をもって告白できるよう、益々、聖書に聴いてまいりましょう。