日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2022年5月1日 礼拝

説教題 「ふたりでも三人でも主の名において」
聖書箇所 マタイの福音書18章15節~20節
 
 

 誰が一番偉いのか。これがイエス様の弟子たちの間における関心事でした。しかし、イエス様は子どものようにならなければ、天の御国には入れない。それは地獄行きだとまで、厳しいお言葉をお語りになりました。それは同時に、子どものような弱い存在、小さな存在を今、受け入れているか。誰かに対して、自分を偉い立場においていないか。そのことも問うています。
 
 それは親子の関係、夫婦の関係、職場や学校での関係、教会における関係にも及びます。組織の秩序は大切ですが、立場の弱い人を低く見たり、軽く扱うことへの注意でもありました。その言葉、態度で相手を躓かせてしまう。また誘惑に負けて自分をも神様から引き離してしまうとき、その躓かせている目、手足を切り捨てなさい。その方が全身揃って地獄に行くよりましだと、イエス様は言われました。
 
 そのくらい、神様は一人でも多くの人。全ての人が救われることを望んでいるということです。14節のみことばは、その天の父なる神様の御心をイエス様が示したものです。
 
 今日の箇所は、その続きになります。この連続性を忘れてはなりません。今日の15節以降は、前段にあるように、一人の魂の救いを望まれる神様の御心として、罪を犯してしまった兄弟にどのように関るのかが示されています。それは、罪を犯した人をさばくのではなく、15節にあるように「得る」ことが目的です。兄弟を得るために、イエス様はここで三段階に分けて、丁寧に配慮するように命じられているのです。特に、ここでは「兄弟」とイエス様はおっしゃっていて、クリスチャン、教会員のことを言っています。それは、17節で「教会」という言葉を使っていて、単に当時のユダヤ社会だけのことではないという事が明らかだからです。
 
 
1.兄弟が罪を犯したら
 15節を読みます。
「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」
 教会には教会戒規というのがあって、罪を犯した教会員に対してどのように扱うのか、そのルールに則って行われます。その主旨は、このイエス様の教えに由来しています。その目的は、断罪して罰を与えることではなく、むしろ取り戻すために行うことが前提です。この目的を見誤ってはなりません。
 
 というのも、そもそも私たちは毎日罪を犯して生きていると思います。そうではないという方もおられるかも知れませんが、私は毎日罪を犯しています。だから、その都度、イエス様の十字架の贖いのゆえに、悔い改めの祈りをして、その罪の赦しを得て一日が終わります。その連続です。ですから基本的に、全てのクリスチャンが赦された罪人に過ぎないのです。
 ここで言う罪とは、この聖書では訳出されていませんが、ここに「あなたに対して」と入っている方が一般的だと思います。つまり、漠然と「罪」を犯した兄弟というよりも、「あなたに対して罪を犯したならば」ということです。それが嘘をつかれたとか、騙されたとか、秘密をばらされたとか、色々な事件が、クリスチャン同士でも起こって来る。そのときに、その問題に「あなたは」どのように向かうのか。そのことをイエス様は教えてくださっています。
 
 そこで大事なことが、まず「兄弟を得る」ことが目的になっているかです。多くの場合、トラブルが起こると苦々しい思いに支配され、相手のことが憎たらしくなります。そして、相手がダメージ受ける言葉をぶつけてしまうものです。ここで言っている「責めなさい」とは、別な訳では「忠告しなさい」とか「とがめなさい」とか、新改訳2017版では「指摘しなさい」となっています。だから責めるではなく、罪を指摘し、罪として認識してもらうことであって、感情をぶつけて、火に油を注ぐようなことではありません。この箇所で「責めなさい」と書かれているからと言って、強い言葉で脅すことや、皮肉を言ってはなりません。
 
 ここでイエス様は、そんなことをするように教えているのではなく、その人を得るために、獲得するためにおっしゃっているのです。だから、初めから教会のみんなの前で大げさにして血祭りにあげるようなことをせずに、二人だけのところで、その罪を指摘するのです。もし、そこで、その人が聞き言れたら、そこで一件落着です。
 
 しかし、それでも聞き入れなかったら、それは16節にあるように、「ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい」とあります。それは、その当事者同士では解決できないからです。次の段階として、複数の第3者に入ってもらうということです。こうすることで、状況を第3者の視点で客観的に見てもらえます。もしかしたら、罪を犯されたと思っている人の方にある罪や欠点も教えられるでしょう。その上で、相手の人が犯した罪も、自分だけではなく、第3者の目から見ても罪であると認められた場合は、そのふたりか三人の中で、話し合い、事実を確認するのです。
 
 しかし、17節にあるように「ふたりか三人の証人たち」の言う事も聞き入れないならば、教会全体の中で、教会として、その罪を指摘するのです。それでも聞き入れないならば、どうするでしょうか。それは17節後半にあるように「異邦人か取税人のように扱いなさい」とあります。それは、個人とか一部の人たちの判断ではなく、教会の問題として扱い、教会の決定として、その人のことを教会から放出するということです。「異邦人か取税人のように」という表現が重いですが、これは、あくまで、その人が罪を認めず悔い改めない場合です。つまり、本人が教会の一員として、クリスチャンとして生きることを希望していないならば、もうそれ以上、教会として束縛することはできません。これは罰則ではありません。
 
 アダムとエバは罪を犯したときに、「園を歩き回られる」神様から隠れ、その後、エデンの園を出ることになりました。聖書はその様子を「主の御顔を避けて」と言っています。預言者ヨナは神様からニネベへの宣教を命じられましたが、その命令に従うことから逃げて、別方向であるタルシシュ行きの船に乗り込んで海に投げ出されます。そのことを聖書は「主の御顔を避けて」と言っています。
 
 罪とは主の御顔を避けることです。それは、自分で滅びの道を選んでいることであり、その責任は祝福を手放す私たち一人ひとりにあります。ここは、神様と教会の姿勢は一致していなければなりません。
 神様は、私たちの自由意志を尊重しておられます。だから教会も、出て行く人に対して、その自由意志を侵してはならないのです。だから、教会の決定で、その人の自由に任せたので、それ以降は、だれも勝手に関ってはなりません。善意と思って関わることは、その出て行く人を得ることに繋がらないからです。
教会の決定は、この18節でイエス様が言われているように、イエス様が教会に与えている権威です。一見、冷たく見えますが、教会の判断を疎かにしてはいけないのです。それは、あくまで、15節の「兄弟を得る」ことが目的だからです。
 
 では、私たちは、罪を犯し、その罪を認めようとしないまま教会から出て行く人を、異邦人や取税人のようにして、それで良いのでしょうか。そうではありません。私たち「教会」には主の権威が与えられているからこそ、続けるべきことがあります。
 
 
2.教会の祈りの大切さ
 19節、20節を読みましょう。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
 
 ここでイエス様は、「まことに、あなたがたにもう一度、告げます」と二度目の「まことに」を語られました。一度目は18節でした。「まことに」とは原語では「アーメン」です。イエス様は、大切なことをお語りになるときに、このように「まことに」と言われます。つまり、「アーメン」(本当に)という意味です。
 18節では教会にイエス様が与えている権威について、「アーメン」とお語りになりました。それは、神様が大切にされているひとりの魂を扱う厳かな決定を行わなければならないからです。それは、戒規の執行だけでなく、教会に加えられることの決定もしかりです。
 
 この度、大久保順子姉が教会員会の承認を経て、今日、転入会しました。蘇聖為兄も佳菜子姉もイースターに転入会式がありました。その承認、決定は一見人間である私たちが行いましたが、それはイエス様の権威において行っていることなのです。だからこそ、その前に何度も学びをし、運営委員会での信仰試問会など、様々な手続きを通って来たのです。それくらい、私たち教会に委ねられている責任は重いのです。ですから、今日、行われた転入会式も、そのイエス様の権威において行われました。
 
 イエス様は、そのように、このところでの二回目の「アーメン」の中で、教会の祈りの大切さを告げられているのです。もちろん、一人でも祈りは祈りです。でも、それでは「教会の祈り」ではありません。「あなたがたのうちふたりが」とあるように、二人以上いれば、教会の祈り会は成立する。そして、イエス様は、「どんな事でも」と、教会で祈る祈りが、「どんな事でも」天のお父様に届いて、かなえられると約束しておられます。
 
 これは、本当に大切な約束であり、教会の祝福の原点です。使徒の働きを見ると、ペテロがユダヤ人たちから迫害を受け、国主ヘロデによって逮捕されたことがありました。そのとき教会はそのペテロのために「熱心に祈り続けていた」とあります。それ以来、キリスト教会では礼拝以外でも、平日に集まって祈ることを続けてきました。白石教会でも、コロナ前までは、ずっと続けていましたが、コロナが流行してから、この2年間休止しています。もちろん礼拝だけでも続けられることは感謝なことですが、教会が祈祷会を長く休むことは、教会としてかなり不健康になると私は思います。
 
 それで、今年、コロナ3年目ですが、感染対策しながら、水曜の祈祷会を再開しようとしています。これは、教会にとって、大きな喜びです。やはり、顔と顔を合わせて、対面で集まり、祈ることは、教会の交わりの前提です。それぞれの家で、時間を合わせて祈ることももちろん最善を尽くして教会の祈りをささげる意味としては良いことです。
 
 しかし、コロナへの対応が徐々に社会的にも変わって来ている中で、対面で行う祈り会を始めるのは今かなと思います。コロナなどの疫病だけでなく、ロシアのウクライナ侵攻、その背後にあるアメリカ、中国、EU各国の思惑。事態は複雑に動いている中で、この時代に置かれているキリスト教会として、きちんと集まって祈りたいと思います。まずは、始めてまいります。
 

 また、教会にしばらく来ていない方々のことを覚えます。様々な事情もあり、教会に来ることができない方々のことも、ともに心を合わせて祈りたいと思います。
 イエス様が「あなたがたふたりが」と言われていることは励まされます。二人いれば教会の祈りになるのです。でもイエス様は、さらに20節で「ふたりでも三人でも」とより多くの人が集まって祈ることの幸いを示しておられます。しかも、その中にイエス様ご自身がいるというのです。
 
 そう、教会の真ん中、私たち主の弟子たちの真ん中にイエス様がいてくださるのです。これは、早く始めなければなりません。イエス様が真中に立っていてくださるところに、真の神の国があります。まさに、キリスト教会は天の御国のプロトタイプであり、この教会を通して、私たちは生ける主を証ししているのです。
 
 だから、この教会で一致して祈るときに、教会から離れて行った兄弟たちを得ることに繋がります。それは、ふたりでも三人でも主の名において祈る所に、主ご自身がおられて、その御声をもって、この教会を導いてくださるからです。それがキリスト教会の姿です。教会の主はイエス様です。教会の真の羊飼いはイエス様です。イエス様が真ん中におられる教会からは、真の羊飼いである主のみことばが正しく語られ、その主の御声を聞いて、主の羊たちが教会に集う様になります。イエス様は言われました。
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」ヨハネ10:27
 
 その中には、初めて教会に来る人もいるでしょう。また、かつて教会から離れていたあの兄弟姉妹、あのとき出て行った人たちも、もし主の羊であれば、主の御声を聞いて、戻って来るでしょう。もし罪を犯していたならば悔い改めて帰って来るでしょう。それだけではありません。既に教会に集っている私たちも、主の名において集まり祈りをささげるとき、私たちの内にも、あらためて罪が示され、主の前に悔い改めさせられます。なぜならば、主イエス様に、私たちの中心に立っていただくときに、あのトマスのように、ほふられた子羊としてのイエス様のお姿を、霊の目で見ることになるからです。
 
 それが、主が私たちの中にいるということです。教会のリバイバルは高慢な中からは生まれません。一人ひとりが主にお会いし、罪が示され、へりくだって悔い改めるときに、その心の貧しき者に聖霊が満たされて、教会として新しくされていくのです。聖化の歩みは、私たち個々においても起こりますが、教会としても起こります。まさに、それが大事です。キリスト教会がキリスト教会として、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられる。そこに神の国が建てられるのです。
 
 
結び
 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」と言われた主イエス
 今朝も私たちは、イエスの御名において、ここに集まり礼拝をささげています。イエスの名において、祈り、賛美し、みことばを聴いています。ここに、多くの兄弟姉妹が帰って来ることを祈ってまいりましょう。それが、私たち教会の務めです。大事なのは祈りです。その祈りを通して、主ご自身が愛する方々に関わっていてくださいます。
 私たちは主の名において祈る。二人でも三人でも集まって祈る。それによって兄弟を得るのです。神様は罪を犯して御顔を避け、エデンの園から出て行くアダムとエバを追い出して捨て去ったのではなく、動物を殺して、その皮で丈夫な衣をつくって着せてくださいました。預言者ヨナが御顔を避けて逃げて海に投げ出されたとき、神様は彼を見捨てたのではなく、大きな魚を与えて、それに呑み込ませました。預言者ヨナは、その魚の腹の中で、神様と出会い、悔い改めて、再び主の預言者として立たされていきました。
 
 なぜですか。どうして神様は、罪を犯したものを捨て切らないのですか。それは、その神の憐みに気づいて、自分から、自分の意思で神に立ち返ることを待っているからです。神様が私のために、動物を犠牲にして服をつくって着せてくださった、その愛にきがついて、自分から立ち返ることを待っておられたのです。神様が、私のために大きな魚を用意してくださり、そこで神様と一対一になれるように導いて待っておられたのです。
 
 私たちも、その神のように待つのです。しかし、ただ待つだけではありません。主の名によって集まって祈って待つのです。それは、そのあとの導きを主にお任せするということです。何もしないのではない。むしろ祈って、主に任せる。それが失われた人々を獲得する、最も積極的な愛の手段だからです。