日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2022年5月29日 白石教会礼拝説教     

説教題 「礼拝される唯一の方」
聖書箇所 コリント人への手紙8章6節
 
 

 今朝お読みした聖書のみことばは、神様がどのようなお方か言い表すために参考にした聖句の中の一つです。
 
 先月から月一回の割合で、教理を学ぶ説教を心掛けています。それは白石教会の信仰告白が2020年に与えられましたが、その信仰告白は私たち個々においても本当に信仰の告白になっているか。それが、これからの課題であるからです。信仰と言うのは、教理問答を暗記して言うことに意味があるのではなく、自分の信じていることを口でこうだと言えること、そして、そのように生きることが大切です。誰かに質問された時に、信じていることを説明できるか。
 
 それで前回は白石教会の信仰告白の順に従って「聖書」を取り上げました。そして、聖書は何かという、その告白をだんだん短くしていくとどうなるか。それが、前回の教理説教の説教題でした。それは「聖書は権威ある神のことば」。神のことばだから権威があり、誤りがなく、信仰だけでなく、すべての領域における規範である。だから、誰かから「聖書って何ですか」と質問されたら、信仰告白の文言全部を覚えていなくても、大切な一部分だけでもわかっていたら答えられるということです。
 
 同じ様に、今日、注目する「神」についても、誰かから聞かれたときに、自分ならどう答えるか。それを白石教会の信仰告白を上手に使ったらどのように答えられるか考えたいのです。「えっ?神様の事を一言で言えるのか」そう思う方もおられると思います。もちろん、神様のことを、神様に造られた私たちが一言で言いきれるとは思いません。しかし、その偉大な神様についても、このことは譲れない。このことはキリスト者として外せない。そのことを押さえて告白する。伝える。そこが大切です。ですから、今朝のメッセージも、白石教会の信仰告白を手掛かりに、自分はどのように人に伝えられるか。そんなことを思いながら、みことばに聴いていきたいと思います。
 
 
1.唯一の神
 まず、白石教会の信仰告白を一緒に読みましょう。
【神】「神は、永遠に父・子・聖霊の三位一体であり、義と愛と聖なる方、礼拝される唯一の方です。神は、天と地のすべてのものを創造し、イエス・キリストによって人に救いと永遠のいのちを与え、世の終わりまで教会と万物を支えられます。」
 
 私たちが信じている神がどのようなお方か、その特徴として、ここに最初に挙げられているのが、「神は、永遠に三位一体で」あるということです。
三位一体とは一体どんなことでしょう。この言葉は2世紀後半のアンティオキア教会のテオフィロスという教父です。でも、神様に対するこの三位一体という捉え方そのものの記録は、聖書以外にも、1世紀のローマのクレメンスの書簡から既にありました。その文書にはこう書いてあります。
「私たちにはひとりの神、ひとりのキリスト、私たちに恵みを注がれたひとりの御霊がおられるではありませんか。キリストにあって召しは一つではありませんか。」
 その他にも当時の多くの教父たち、特に教理を守るために尽力した護教教父たちによって、三位一体という教理は支持され、守られてきました。なぜならば、そこには、三位一体を否定する異端が存在していたからです。
 
 だから、現代でも、三位一体の教理を否定することは異端と見なされます。エホバの証人モルモン教などは、聖書を用いてはいるものの、神は父なる神だけで、イエス・キリストは被造物の一つのような扱いです。それも独自の聖書解釈があって、そのように捉えているので、やはり聖書をどのように見て、どのように解釈するかがとても大切であることがわかります。
 
 この三位一体は、正確に完璧に語れる人はいません。それくらい、この被造世界にいる私たちが簡単に説明できることではありません。それだけに、この冒頭にある「永遠に」という言葉がその神秘性を説明しています。
 
 永遠というのは、時間をも造られ、時間の制約を受けないお方であるという意味です。
 神は、人に永遠への思いを与えられたと伝道者の書は言っていますが、その永遠こそ神の領域であり、それは天の御国という世界における時間を超越した時間。私たち3次元の者にはまだ理解しきれない、私たち人間の憧れのときであり次元です。ですから、その永遠という概念はまさに、三位一体と合わせて、完全には説明できないけれども、聖書において神様が啓示してくださった、神様ご自身のお姿であることをしっかりと受け取っていきたいと思います。
 
 ここでは先人たちが言い表した三位一体についての信仰問答をご紹介し、私たちもそのように答えるものでありたいと思うのです。
16世紀につくられた「ハイデルベルグ信仰問答」
問25「神は、ただひとりであるのに、何故、父・子・聖霊、と三というのですか。」
答え「それは、神が、みことばにおいて、この三つの異なった人格が、唯一の、真の、永遠の神であることを、あらわされたからであります。」
 
 私たちが神様のことをこの信仰告白で「三位一体」であると告白していることは、特別、メノナイト派だからとか、プロテスタントだからではなく、キリスト教会の歴史からも正当な信仰の教理であるからです。キリスト教会が2000年間守り続けて来た教えを私たちも、キリストが再臨されるときまで、これからも告白し続けるのです。
 
 
2.義と愛と聖なる方
 次に神様が「義と愛と聖なる方」であることについて考えてみましょう。
義、愛、聖とは何でしょう。それは神様のご性質のことです。よく、私たち人間の間でも、「あの人は愛の人だ」とか、「あの人は正しい人(義人)だ」と使うように、その人の性格、性質を表わすものです。ですから、その人の言動によって、その性質を知ることができます。ただし神様においては、神様こそ義そのものであり、愛そのものであり、聖そのものという意味での、そのご性質ですので、人間の性格や性質を述べることと同列には置けません。
 
 白石教会の信仰告白においては、この【神】の項目の、後半部分が神様の業が示されていて、その業を通して、神様が義であり、愛であり、聖であることが明らかにされます。その神の業も、本来ならば書き切れないところですが、信仰告白はあえて、短く言います。
「神は、天と地のすべてのものを創造し、イエス・キリストによって人に救いと永遠のいのちを与え、世の終わりまで教会と万物を支えられます。」
 
 この後半部分からは、神様の数えきれない業から大きく四つに分けることができます。一つは、「天と地のすべてのものを創造」された「創造主」。つまりクリエイターだということです。「初めに神が天と地を創造された」とみことばにあるとおりです。そのことは神様が造られた被造物によっても証しされています。
 
 先々週、息子が暮らす音威子府へ行って、その周辺の山、北大の研究林などを散策しました。札幌よりも北にありますので、遅い春があちこちにあって、桜だけでなくウドなどの山菜、高山植物なども、見事に咲きまくり、生えまくり、神様の創造の御業を賛美せずにはいられませんでした。花が終わってそこに実ができるためには、昆虫や鳥などの協力が必要です。それらの動物たちだって、その植物がなければならないのです。自然が本当に調和して、上手に循環している。その不思議な秩序が宇宙まで広がっている。その宇宙の仕組みも、逆に物質の分子レベルまで貫いて、私たちのこの世界を維持しているのです。秩序正しく、物事が正しく回るように造られている。そこにも神の義と、それらの生き物たちを育む神の愛を感じます。
 
 また神は、二つ目の業として「救い主」であることがわかります。そのような自然の中だけでなく、御子「イエス・キリストによって」とあるように、イエス様によってご自身を現わしました。イエス様は言われました。「わたしを見た人は父を見たのです。」(ヨハネ14:9)
 これは12使徒のひとりであるピリポに対して言われた言葉ですが、ここにイエス様の御子としての役割も見ることができます。それは、目に見えない父なる神を見えるように現れてくださったお方だという事です。だから、「神様を見たら信じる」という人には、イエス・キリストを紹介するのが適切です。イエス・キリストについては、次回の教理説教のテーマですので、ここでは深くは学びませんが、父なる神のご性質は御子イエス様のご性質であり、聖霊なる神のご性質だと言うことは覚えてまいりたいです。特に、神が、このイエス・キリストをこの地上に送ってくださった中心的な理由に注目する必要があります。
 
 それは「救いと永遠のいのち」が、このイエス・キリストを通してはっきりと私たちに表されたからです。なぜ、キリストが来られたのか。それは罪人を赦し救うためです。つまり永遠のいのちを与えるためです。その神様の御心は、「御子を与えるほど、世を愛された」からです。それが十字架刑において神の愛が完全に示されました。「神は愛です」とヨハネが言った通りです。
 
 しかし、何故、そもそもそうしなければならなかったのかというと、神様が義であり、罪とは相いれない聖なるお方だからです。神様がそもそも正しいお方であり、きよいお方だから、人間の罪を見過ごさなかったのです。神様が真にまったくきよいお方だから、罪を犯したアダムとエバエデンの園から追い出して分離しなければならなかったのです。聖なるという言葉には、きれいであるという意味だけでなく、分けるとか切り離すという意味があります。それは、罪とは分離された、悪とは一緒になれないご性質であるということ。そして、義であるというご性質は、罪を正しくさばくお方であることも表します。
 だから、私たち人間の代わりに罪の罰を受けるべき身代わりを必要としたのです。イエス様が身代わりになったのは、神の完全な愛を示すことでもあり、同時に神様が罪を罪として必ずさばく、完璧なさばき主、審判者あることの証明でもあるのです。告白文に「世の終わりまで」とあるのは、まさに最後の審判があることを物語っています。つまり、神は「審判者」(さばき主)であるということです。そのことについては、信仰告白の14番目「神の統治」で学びたいと思います。
 
 神が義でなく聖なる方でもなく、罪をさばかない単に愛のお方だけであるならば、どうなるでしょう。おそらく創世記3章以降の聖書の記述は大きく変わるでしょう。もし愛だけのお方であるならば、ノアの洪水も箱舟もなく旧約時代の動物の犠牲も不要となるでしょう。ソドムとゴモラは滅ぼされなかったでしょう。歯止めなく悪ははびこり、神は礼拝されず…かえって人間と神様が交わることは不可能になるでしょう。しかし、神はご自分の義のゆえに、聖であるゆえに、罪を犯した人間とは断絶せざる得を得なかった。
 
 だから父なる神は確かに、十字架上のキリストが言われた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(どうして私をお見捨てになったのですか)という祈りをも無視して、御子に手を下された。それは、罪への怒りを、その刑罰を、御子に置かれたからです。それは、御子を私たちの代わりとして、イエス様の事を心から憎んでそうなさったのではありません。なぜなら、父なる神は、私たち以上に御子を愛していたからです。しかし、完璧な聖なるお方は、完璧な義によるさばき主として罪は罪として許さず、そのかけがえのない御子を差し出し、そこに罪のさばきを下したのです。
その天の父のお気持ちを考えると、震えます。しかし、同時に、その完全なご愛によって、罪人をも救おうとされるのです。そこに父なる神のご自分を犠牲にした愛があります。子どもを失うことは自分が死ぬことよりも辛いことです。子どもが目の前でいじめられ、殺されることは、自分がされるよりも耐え難いことです。
 
 
結び
 このような神が他にあるでしょうか。神様のそのご性質があって、その御業があって、今、私たちはここに立たされています。それは、このような素晴らしいお方を知れば知るほど、礼拝せずにはいられないからです。そのような神のご支配こそ、ここに実現してほしい。
このような戦争が起こって人々が殺される世界、銃が乱射されて子どもたちが殺される社会、人が人を愛せず、信頼できず、待ちきれず、平和が失われていく世界。教会の中にもそのようなことが起こってくる。だから、主イエスは、こう祈りなさいと言われました。
 
「天にいます私たちの父よ…御国が来ますように。御心が天で行われているように、地でも行われますように」と。
 
神様の完全なご支配にこそ真の平和があることを求め、願うのです。それは、天の御国で起こっている完璧な世界をこの地上においても神様は与えてくださることを信じるからです。今日の信仰告白の最後の部分は、そのことを告白しています。
「神は、世の終わりまで教会と万物を支えられます」
それは信じる者を、必ず神は、その御手をもって支えていてくださるお方だからです。だから、毎日、主をほめたたえ、毎週、教会という神のこどもたちの集会で、愛する皆さんと一緒に神の栄光をほめたたえるのです。
 
 神。このお方を一言で誰かに伝えるとき、どのように言うか。私は白石教会の信仰告白を用いて「礼拝される唯一の方」と言いたいと思います。どうして、この方だけを礼拝するのか。そのことを自分に問うてみるとき、その答えが自然に湧いてこないでしょうか。
 今日も、この大いなるお方を思って、天の父を崇めて、その足台のもとにひれ伏すのです。
「われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。」
 
 礼拝される唯一のお方。私たちの神、栄光の主を、礼拝し続ける一週間とさせていただきましょう。