のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年6月12日 礼拝説教

説教題 「永遠のいのちを得るためには」
聖書箇所 マタイの福音書19章13節~22節
 
 

 大昔から人間は「不老不死」を求めて、様々な研究を進めて来ました。古代中国の秦の始皇帝は、実際に不老不死の薬を追い求めたそうです。しかし、それがかえって死期を早めたと言われています。
 
 しかし、近代になって、医療技術、科学の進歩によって、人間の寿命は随分長くなってきました。そこに戦争も減り、今は100歳社会となっています。人生50年と言っていた戦国時代から見れば、奇蹟的な寿命に延びています。秦の始皇帝からすると不老不死に近い状況かも知れません。私が子どもの頃から見ても、現代の高齢者と言われる方は、見た目も、かなり若いです。これからも、このように人間の寿命は延びていくのでしょうか。いつか永遠まで死なない時代が来るのでしょうか。
 
 聖書でも「永遠のいのち」という言葉がよく出てきます。それは、今述べたような、いつまでも死なないことなのでしょうか。いいえ。そうではありません。聖書はこう言っています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」また「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る」とあり、必ず死ぬと言われています。つまり、必ず一度死ぬことは避けられない。しかし、そのあとに神のもとに帰り、さばきを受けるときが来る。そのときに、無罪か有罪か問われる。そこで無罪となった人が天の御国に入れられ、神と共に住む、新しい国で生かされる。それが永遠のいのちなのです。
 
 神が永遠の世界におられるお方なので、そのお方と同じ次元、同じ永遠という空間にいるためには永遠のいのちが必要なのです。では、どうしたら、その永遠のいのちを得ることができるのか。それが、秦の始皇帝だけでなく、私たち全ての人間のテーマです。だから、今日の聖書箇所で、「ひとりの人」がイエス様に尋ねるわけです。
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
 これが本日の説教題にもなっている言葉です。永遠のいのちを得るためには、どうしたら良いのか。どんな良いことをしたらよいのか。この問こそ、全人類の問いだからです。
  
 多くの宗教の中心テーマはここです。永遠のいのち、言い換えると天国に入るためにはどうしたら良いのか。地獄に行かないようになるにはどうしたら良いのか。仏教でいわれているエンマ大王という存在も、あとからつくられたキャラクターです。それは、そのような地獄には行きたくないので、良い人になりましょうということです。では、良い人とは何でしょう。どういうことが良いことなのでしょう。どのくらい良いことをすれば永遠のいのちを持てるのでしょう。その問いに聖書は答えます。
 
 それで今朝は、聖書が言う「永遠のいのち」を得ることについて、みことばに聴いていきたいと思います。そして、私たちがいただいている救いがどれほど嬉しいことか、どれほどの恵みなのかを味わってまいりましょう。
 
1. 天の御国はこのような者たちのもの
 今日、招きの詞にも「永遠のいのち」という言葉がありました。それは、御子イエス様を信じたら永遠のいのちを持つことができるという、今日の説教の結論になっています。しかも、このみことばで伝えている一番大事なことは、神様が私たちのことをどれだけ愛しているかということです。だから、神様が一番愛している御子イエスを与えてくださったという救いの理由なのです。
 
 つまり永遠のいのちを持つということは、救われるということです。この救いが聖書では色々な言い方をされていて、「永遠のいのちを持つ」ことはその一つです。他にどんな言い方がされているでしょうか。それは、「義とされる。つまり義人になる」ということであったり、「天の御国に入る」という言い方もされていたりします。また「神の子どもにされる」とも言われます。
 
 今日の箇所は、大きく二つのお話がありますが、まさに、その最初の方のお話の14節にある「天の御国はこのような者たちの国なのです」とは、天国にふさわしい人のことをイエス様が教えてくださっていると言うことです。それが後半の「ひとりの人」の「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのか」という問いの答えになっているということです。
 
 この天の御国と永遠のいのちを「救い」という言葉で統一するならば、このように言い換えることができます。救われるためには、どうすべきか。それは子どものようになることだと。
 このように、今朝取り上げた箇所は、別々の話に見えて、実は繋がっています。後半16節に出て来る「ひとりの人」の問いは、その前の段階でイエス様が答えていたことだったのです。その連続性があって、このマタイの福音書記者であるマタイは、きちんと記録しているのです。ここで13節を読みましょう。
「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。」
 
 イエス様がおられるところに、子どもたちが連れて来られたとあります。しかも、イエス様に祈ってもらうためです。でも、弟子たちがそれをしかった。そこには、イエス様の教えを聞くには子どもでは無理だと決めつけていたのかも知れません。または、イエス様がお疲れなので、子どもたちが来ると騒がしくなると思って気を使ったのかもしれません。いずれにしても、当時、子どもは取るに足らない存在として、非常に低く見られていましたので、追い払おうとしたのでしょう。
 
 しかしイエス様は、そういう弟子たちにはっきりとおっしゃいます。14節
「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」
 邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのですと、これまでも18章で教えられていたことを思い出させるように語られていたと思います。そして、子たちの上に手を置いて、そこを去って、次の現場へと向かわれたのでした。
 
 ここでは、やはり子どもに見る、天の御国のふさわしさを学びたいと思います。18章では、子どもたちが低い存在であるということから、天の御国にはそういう人がふさわしいと言っていますが、今日のところでは、どうでしょう。全く同じでしょうか。実は、この箇所はルカの福音書にも記されていて、ルカの方にはこう書いてあります。
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
 
 そこには「子どものように神の国を受け入れる者」とあります。子どもは素直に神の国を受け入れるから、天の御国にふさわしい。永遠のいのちにふさわしいということです。では、本当に子どもは大人と違って神の国を受け入れるのか。答えはイエスです。
 
 それは、教会に来る子どもたちを見るとよく分かります。私は、教会に来る子どもたちの様子を、なるべく月報の牧師室からに書くようにしています。それは、コロナ禍にあっても、また教会学校などを正式にやっていなくても、白石教会の宣教活動を続けていることを知っていただくためです。平日に教会に来る子たちは、私が呼び込みをして連れてきているのではありません。チラシを配って宣伝したから来ているのでもありません。何もしていないのに、来てくれるのです。
 
 大人はチラシを配布してもほぼ来ないのに、子どもたちは何もしなくても来てくれる。これが、子どもたちが「神の国を受け入れる者」であるという証拠です。彼らは素直に神の国を受け入れている。その素直さがとても大事なのです。イエス様は子どもに限定して、子どもだけが天の御国に入れると言っているのではなく、あくまで「このような者たちの国」と、私たちも、このようになることで御国に招かれているということです。
 
 だから、子どもから学ぶべきです。救われるに必要なことは何か。素直に教会に集まること、礼拝することを単純に喜んでいるか。もしそうであるならば、この子たちのように、イエス様の御手が私たちの上に置かれます。みんさんはいかがでしょうか。イエス様の手が置かれていますか。それとも、何かが邪魔していませんか。また、私たち自身が、誰かが主の下で喜ぼうとしていることを邪魔していないでしょうか。そのような問いをもって、16節以降の「ひとりの人」22節では「青年」とある、この出来事について見てまいりましょう。
 
 
2. どんな良いことをしたら
 もう一度、彼の質問を聞きましょう。16節
「すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。『先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。』」 
 永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたら良いか。彼が誰なのかは分かりませんが、他の福音書では役人とも言われています。他の訳では議員だとも言われています。恐らくユダヤ人で地位の高い金持ちの青年であったのでしょう。地位も名誉も若さも兼ね備えており、しかも、彼の話を聞いていると、律法もきちんと守っていたという、だれから見ても、どう見ても彼は天の御国に入れる人。永遠のいのちは間違いなく持っていると思われていたでしょう。
 
 当時のユダヤ人たちの常識では、金持ちは神様から祝福されている証しであるので、間違いなく神の国に入れると思われていました。そこに行いも立派で、若くして役人と言う地位も得ていた人です。だから、16節で彼がした質問の意味が見えてきます。それは、イエス様から「そう、あなたこそ永遠のいのちを得るにふさわしい人です」と言ってもらえるものと期待して、そのように尋ねていたということです。
 
 でも、イエス様のお答えは、実に冷ややかです。まず、17節で、この金持ちの青年の言葉尻を捕えて、「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです」と言っておられます。ルカの福音書を見ると、この青年はイエス様のことを「尊い先生」と呼びかけていることがわかります。確かにイエス様は尊い先生ですが、この青年が使っている「尊い先生」=「良い先生」という呼びかけは、彼自身が本当にイエス様のことを尊敬して言っている告白ではなく、イエス様をよいしょして、持ち上げて、自分への評価を上げてもらいたいというおべっかだったのです。
 
 それを御存じのイエス様は、そう呼ばれることを辞退して、その言葉は天のお父様だけに使いなさいと厳しく言われます。しかも「永遠のいのちを得るために、どんな良いことをしたら良いか」などと、自分の力で救いを得ようとしている態度に、さらに厳しくお命じになっています。
 
 それは、自分で良い行いを積むことで救いを手に入れるという想い上がりに気づかせるために、「戒めを守りなさい」と律法を正しく守るように命じます。しかもモーセ十戒の後半部分、人間に対する戒めのところを示します。
「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。父と母を敬え。」そして律法の中心的なテーマである「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と、彼に尋ねます。しかし、この青年は自分には落ち度がないという想いで、ここに来ていますから、「そのようなことはみな守っています」と言い、更にこう言い放っています。
「何がまだ欠けているのでしょうか」
 
 律法を全部守っているという自信満々でそう答える青年。しかし、イエス様は彼の基準に従って、まだやり残していた良いことを教えてあげました。21節。
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に 宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 これが決定打となって、金持ちの青年は悲しんで去って行きました。その悲しみの理由として、多くの財産を持っていたからだと聖書は告げています(22節)。しかし、もし彼がここで財産を貧しい人たちに与えたとしたら、彼は永遠のいのちを得ることができたでしょうか。それはできないでしょう。なぜなら、救いとは人間がした良いことによって与えられるものではないからです。もし彼が財産を分け与えられたとしても、根本の「どんな良いことをしたら」永遠のいのちを得られるのかという、彼の常識が変わらなければ、天の御国は決して近づいてこないのです。
 
 ここが、今日のポイントです。それは、再び子どものようになることに戻りますが、天の御国は、子どものように素直に、そして、何も持っていないそのままで、神様に100%依存しますという信仰が必要だからです。赤ちゃんを見てください。お母さんやお父さんがいないと絶対に死にます。生きていけません。そこに置いたままにするならば、簡単に死んでしまいます。そのくらい親に依存して生きています。その赤ちゃんに学びなさいとイエス様は言っているのです。
 
 私自身の力では良い人になれません。私自身は神様の前に無力です。どうか、お救いくださいと、心を貧しくしてこい願う者となるのです。
 この悲しんで去って行った彼は、このあとどうなったのかは、聖書は何も語りません。でも悲しんで良かったと思います。「自分で、自分で」という人には、このようにできない自分に向き合って、悲しむべきです。それは悲しむ者は幸いであると言われた主ご自身が、必ず慰めてくださるからです。それは、自分の足りなさに気づかされた人は、その足りていない空しさの穴を神によって埋めていただけるからです。
 
 
結び
 今日、あらためて救いが自分の力や、良い行いの積み重ねで得られないことを覚えたいと思います。かつて子どもだった時のように、神の前に立つだけです。
しかし、大人になって来ると、子どもの頃の幸いを一つずつ失っていきます。もちろん、様々な経験や教養を身に着けることや、社会的な地位を得ることも、そのこと自体は人間として成長するためには必要な要素でしょう。しかし、それが自分をよく見せる、また強く見せる鎧やアクセサリーのようになって自分を覆うならば、それは逆に神の恵みを見えなくさせてしまいます。
 
アダムとエバも、罪を犯して自分自身でイチジクの葉でからだを覆って自分自身の醜さを隠しました。その性質を私たちも受け継いでいます。自分の力で、自分の価値観で、罪人の自分をよく見せようとするのです。しかし、罪人のからだは神様にはお見通しです。私たちが自分の知恵でいくら立派な鎧を着ていると思っていても、神様には葉っぱにしか見えません。人はうわべを見るが主は心をご覧になるお方だからです。だから人間的な価値観で自分をよく見せよ言うと装っても、空しいです。それは結局、この金持ちの青年のように、主のもとから去ってしまうことになるでしょう。
 
しかし、神のもとから立ち去らないで、神の前に、子どものように無力で裸で立つならば、神様から祝福を得ます。風呂から上がったばかりの子どものように、恥ずかしがることなく、天のお父様の眼差しの中で、全身全霊をもって甘えることです。裸です。何ももっていません。無力です。だから、神様、あなたを信頼します。そこにイエス・キリストというバスタオルで覆っていただくのです。からだについている高慢、思い上がり、様々な罪という水滴をイエス・キリストというバスタオルで拭いていただいて、神の子どもとして生きるのです。
 
 神様はアダムとエバには、イチジクの葉の腰の覆いの代わりに、皮の衣が与えられました。それは聖書を見る限り、世界で最初に動物が人間のために殺されたということです。同じように、神の御子イエス・キリストが唯一、全人類の救いのために殺されました。それは、そのキリストという義の衣を私たちに着せてくださるためです。
それが天の御国に入ること、永遠のいのちを得ること。神の子どもとされるということです。