日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2022年6月19日 白石教会礼拝

説教題 「だれが救われるのか」
聖書箇所 マタイの福音書19章23節~30節
 
 

 前回のお話を少し振り返ります。前回は、永遠のいのちを得るために、どんな良いことをしたらよいかと言う質問がありました。そのことを主イエスに質問した青年は、自分の力で永遠のいのちを手に入れることができると思っていました。良い行いをした人に対する報酬として神様が永遠のいのちをくださる。そういうふうに金持ちの青年は考えていたのです。
主イエスは、彼のその誤った常識に乗ってあげて、このように言われます。
その常識で永遠のいのちを得るというのであれば、あなたにはまだ足りないことがある。それは、あなたの財産を貧しい人たちに与えなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。「その上でわたしについて来なさい」とです。
 
 その上でついて来なさいというのは、その財産を貧しい人たちに施しても、まだ足りない。「そこでようやくわたしに付いて来ることができるのだ。それをあなたはできますか。できないでしょう。人が自分の力で永遠のいのちは得られるものではない。」
そのことを主イエスは、教えてくださったのですね。この青年は悲しんで去って行きました。その理由が、「この人は多くの財産を持っていたからである」とある通りです。
 
 それで金持ちの青年は、悲しみつつ去って行った。でも、その悲しむことが、彼に見る救いへの希望でした。自分には欠けた所がないと思っている人は、やはり聖なる神との出会いを通して、自分の至らなさ、罪の悲惨を知らなければならないのです。
 そこであらためて主イエスは、この青年が金持ちであったことを用いて、救いについて大切なことをお語りになります。それは、この「金持ちが救われることが難しい」という問題は、私たち主の弟子の問題でもあるからです。
 
 今日のお話は、お金持ちの人に語られているのではなく、主の弟子たちに対してです。それは、主の弟子たちが陥りやすいことだからです。でも、聖書を見ても、主の弟子たちは決して裕福とは言えない。しかも、みんな当時のイスラエルの中でも蔑まれていたガリラヤ地方の出身者ばかりです。そういう彼らと、金持ちの話題はどのように関係しているのでしょうか。そして、現代に置かれている私たちもクリスチャンとして、この「金持ちが救われることが難しい」という話は、どのように繋がっているのでしょうか。
 
 
1.神にはどんなこともできる
 23節「それから、イエスは弟子たちに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。』」
 主イエスは、金持ちが天の御国に入るのがむずかしいと言われる。これを聞いた弟子たちは、たった今、悲しんで去って行ったあの金持ちの青年のことを言っていると思ったでしょうね。さらにイエス様は、この金持ちが救われる難しさをわかりやすくするために、譬えを用いてお語りになります。
 
24節「まことに、あなたがたにもう一度告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 らくだが針の穴を通る方が簡単だなんて、イエス様はユーモアたっぷりです。ここは笑って良い場面です。時々、イエス様は大げさな譬えを用いて、私たちの頑なな心を柔らかくしてくださいます。それは、「まことに」と、とても大切なことをお語りになるとき、みことばの種が弟子たちの心の畑によく植わわるために、面白いことを言って、アイスブレイクなさるのです。
 しかし、これを聞いた弟子たちは笑うどころか、「たいへん驚いた」とあります。そしてイエス様に言います。
「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
 
 先週も言いましたが、当時、金持ちは神様から祝福されている証しだとされていて、お金持ちであれば天国に入れると誰もが思っていた常識でした。これまでイエス様について来ていた弟子でも、そう思っていたくらい、彼らの常識になっていました。
 
 そこで、この言葉を語った弟子たち。この彼らの言葉は非常に絶望に満ちていることがわかるでしょうか。金持ちが救われないのなら、私たちは尚更無理だという意味です。それは、イエス様について従って来ていることに、実はその救いの確信がないという表明でもあります。
でも、この弟子たちの驚きの言葉。このショックはとても大切なことではないでしょうか。それは、悲しんで去って行った金持ちの青年に自分を重ねていくことになるからです。誰もが、神様の意図から外れて、自分の方法で神に近づけると考えていた。良い行い。お金持ち。そして、そこから適用するならば、自分をよく見せようとする肩書、学歴、資格、地位など、それがすなわち「お金持ち」と同じく、天の御国には相容れないものであり、むしろ遠ざけてしまうものなのだ。自分を膨らませているもの、それを握りしめている限り、救いは難しい。しかし、主イエスは、このように言われます。
 
26節「イエスは彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。』」
ここで、弟子たちを「じっと見て」とあります。そのくらい、神に救われるということがどういうことか、弟子であるあなたたちにはわかってほしい。そういう強い思いをもって、じっと見つめるイエス様の姿はご自分の弟子に向けられる特別なお姿です。
 
そして、実は、お金持ちのことも、天の御国に入れないとは一言も言っていません。「むずかしい」と言っておられるだけです。つまり、人間にはむずかしいことだけれども、神ならば救うことがおできになる。そのことをイエス様は言われているのです。
 
ですから私たちも、まず、救いが私たち人間にではなく、本当に神様が出発点であって、私たちには何の功績もないことを覚えたいと思います。神様がどんなことでもできるというのは、ご自身の完全なきよさにおいて、そして、ご自身の完全な愛において、全能であるということです。そのどんなことでもお出来になる、その原動力は、神様ご自身のその聖なるご性質にかかっている。だから、救いに関しては、ご自身の完璧な与える愛において、このような罪人の私をも、皆さんをも救うことがおできになるということです。
 
エス様はそのように、救いとは神がなさる、神でなければできないことなのだから、お金持ちに代表される、自分を誇らせ、大きく見せようとする一切の持ち物を捨てて、イエス様に従う。ここに、救いのための大切な一歩がある。そのことに弟子たち、私たちが気付くように導いておられるのです。
 
 
2.主のために捨てる
 そのことに弟子の一人ペテロが気付いたようです。27節。
「そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。『ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。』」
 
 ここでペテロが気付いたのは、お金持ちのように、自分のためにたくさんのものを身につけるのではなく、むしろ捨てていくことが大切だということです。ペテロは、きっと、自分がイエス様に召された時のことを思い出していたでしょう。マタイの福音書4章18節~22節を読みます。
「イエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。 漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧に なり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」
 
 弟子たちがイエス様に呼ばれ、召されていくときの様子が描かれています。ここで、ペテロとアンデレは「網を捨てて従った」とあります。それは自分たちの生活を支えていたはずの、その網を「捨てた」のです。そして、ヤコブヨハネも、これまで自分を育ててくれた父親と、漁師にとって命である舟も、そこに残してイエス様に従って来たのでした。
 
 またマタイもそうです。彼も収税所に座って仕事をしていたとき、イエス様に声をかけられて、彼はどうしたか。こう書いています。
「すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」マタイ9:9
 おや、マタイだけが立ち上がっただけで何も捨ててないように見えますがそうではありません。ルカの福音書を見ると、このように書かれています。
ルカ5:27「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」
 マタイはもともとレビという名であったと言われていますが、ルカの福音書では、マタイは何を捨てたでしょう。それは「何もかも捨てて」従ったとあります。
 
 もうこれだけ見れば十分でしょう。イエス様について来た弟子たちみんなが自分の大切なものを捨てて、イエス様に従って来たのです。そのことを、ペテロはきっと思い出して、イエス様を信じていくということは、握りしめていたものを手放していく旅であるという答えにたどり着いたのではないでしょうか。
 
 救いを得るというときも、更に献身者として召されるときも、同じような状況に出くわします。イエス様を信じて歩むとは、これまでの生活が一変することになっていきます。それは、これまで持っていなかった永遠のいのちという神のいのちを持って、この地上を生きることになるからです。そうなると、この世の価値観や常識とは違った視点が与えられ、自分がこれまでいかに罪の中にいたかが見えてきます。そうすると、家の中でクリスチャンになるときに、家族から反対されたり、友達付き合いが変わって来て、友達から疎まれるようなことに出くわすかも知れません。また、そういう心配が襲ってくるかも知れません。
 
 そういう時に、その心配や恐れに負けて教会に行くのをやめたり、洗礼を受けることをやめるという状況になるかも知れません。しかし、一見、その困難と思える中にあっても、神の国とその義を第一にしていくときに、まさに、すべてのものが永遠のいのちとともに添えて与えられるのです。一歩、神の御心に近づくなら、家族の中で争いを生んでしまうと恐れていた、そのことすら神様が用いてくださって、その反対していた家族をも救われるようになるのです。
 
 または職場においても、クリスチャンになったら会社の中で浮いてしまうのではないかと思っていたら、予想を超えて、上司の信頼を益々得て、職場での働き方が変わっていくと言うこともあるでしょう。今、お話したことは、私自身が経験してきたことなので、確信をもっていう事ができます。
 
 そうです。主を信じていくときに、握りしめていたものを捨て、心配事を手放していくときに、失っていくどころか、手放したものが、もっと豊かにされて戻ってくるようになるのです。主を信じて救われるとは、いっとき、神様からのチャレンジがあります。神様から「本当にわたしに従って来るかと」言う、神様からのチャレンジがあります。でも、それを恐れずに、一歩踏み出したときに、必ず、そこに祝福があるのです。それが、主の弟子になる者がこの世にあっても経験させられる、祝福の道です。本当の豊かさとは、主イエス・キリストと繋がるときに、与えられるものなのです。
 
 ただしペテロはこのとき、その豊かさをまだ経験していませんでした。それで、「何かいただけるでしょうか」と、従って来たことへのご褒美を要求しています。しかし、イエス様はそういうペテロを叱ることもなく、自分を捨てて従って来る弟子たちには、このあと神の国における、その地位を約束されています。28,29節
 
しかし、最後には、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」と言われて、釘を刺しています。それは、せっかく捨てて従って来たのに、知らないうちに高慢という金塊、プライドという宝石を蓄えてしまう弱さが私たちにあるからです。彼らが、そのことを本当の意味で経験するのは、これから十字架に向かう歩みにおいてです。
 
 
結び
 最後に、億万長者で有名なマイクロソフト社のビル・ゲイツが言っていた「ビル・ゲイツよりもリッチな男」という話をしたいと思います。知っている方もおられると思います。
 
ビル・ゲイツにある人が質問しました。「あなたよりリッチな人はいますか?」
ビル・ゲイツは答えました。「います。私よりリッチな人はいます」と。そして、こんな体験談をしてくれたそうです。
それは、まだ私がリッチでも有名でもない頃のこと。ニューヨークの空港に着いた時の話です。新聞の売店があったので、新聞を買おうとして財布を見たところ、小銭がありませんでした。それで、新聞を元に戻し、「小銭がないので買うのをあきらめます」と言ったところ、その新聞屋さんは、「じゃあ、これタダで差し上げますよ。」と言ってくれました。新聞屋さんがあまりに勧めるので、私は新聞をただで受け取りました。
2、3カ月後、私は同じ空港に降り立ち、また新聞を買う小銭がありませんでした。
ところが、またしても新聞屋さんはタダで新聞をくれると言うのです。私は「小銭がないからと言って、それは受け取れない。」と断りました。彼は言いました。
「受け取ってください。私は自分の売り上げから あなたにシェアするだけですから、損はしません。」
それで、私はまた新聞をただで受け取ったのです。あれから19年が経ち、私は有名になり、リッチになりました。
ある日、突然、私はあの時の新聞屋さんを思い出したのです。それで私は1ヶ月半かけて彼を探しまわり、ついに見つけました。そして新聞屋さんに「あなたは私を知ってますか?」と聞いたところ、「はい。知ってます。ビル・ゲイツさんです」と彼は言いました。
私は彼にもう一度 尋ねました。
「あなたは私に、1度 タダで新聞をくれたことを覚えてますか?」新聞屋さんは言いました。「はい、覚えてます。私はあなたに2度あげました。」
それで私は言いました。「あの時、あなたが私にしてくれた親切に ぜひお返しがしたい。何でも欲しいものがあれば言ってください。私がそれを満たしてあげます。」
新聞屋さんは言いました。
ゲイツさん、あなたがそうすることは、私があなたに行った親切に釣り合いません。」
私は、「なぜ?」と尋ねました。 すると彼は答えました。
「私は貧しい時にあなたを助けました。でも、あなたは ”今“ 、私を助けたいと言う。
 世界一の金持ちになったあなたが、一体どうやって私があなたにしたのと同じ親切が出来ると言うのですか?」
 
この日、私は、この新聞屋が私よりリッチだと知った。なぜなら、彼は金持ちになることを待たずして人を助けたからです。本当に豊かな人間というのは、豊かな心に満たされた人であり、多くの金を持っている人ではない。
 
 まさにキリストを信じ、永遠のいのちを持ち、神の子どもとされた私たちは、貧しさの中に真の豊かさを兼ね備えている者なのです。それは、ほかならぬ御子イエス・キリストのいのちという代価が支払われるほどに、価値ある者として、今、神の前に立たされ、この世に置かれているからです。
 
 金持ちが天の御国に入るのはむずかしい。実は、私たち全ての人が、そのような者であったのです。しかし、その難しいところから、神様はどんなことでもできる全能の愛によって、愛する御子を送ってまでして、私たちを救ってくださったのです。だからこそ、今、私たちは握りしめている全てのものを、手放し、捨て去り、神に委ね、お任せしていくのです。そこに何かいただけるでしょうかという、下心を持つ必要ありません。
 
 それは、このときの弟子たちにはまだ与えられていなかったものが、今の私たちには与えられているからです。それが、十字架で死なれ、三日目によみがえられたキリストご自身です。だから、このあと何がもらえますかなんて質問は出て来ないのです。既に、キリストご自身をいただいているからです。この方にあって、私たちはキリストの貧しさを受け、同時にキリストにあって最も富む者とされたからです。「だれが救われるのか」それがこのような者だということです。
 
 終わりに、そのような私たちクリスチャンのことを見事に言い表している使徒パウロを通して語られたみことばを読んで説教を終わります。
「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」Ⅱコリント6:8~10