のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年7月3日 白石教会礼拝

説教題 「ヤコブ、いよいよ故郷へ」
聖書箇所 創世記31章1節~16節
 
 

 40歳でハランに来たヤコブは、もう60歳になっていました。しかし、このハランでヤコブが経験したことは、決して意味のないことではなく、ヤコブにとって必要な年月であったことがわかります。兄を欺いて逃げて来たヤコブは、自分が兄を欺いたように、逆に伯父ラバンによって欺かれ、欺かれた者の立場に置かれた。そのことを味わう20年であったのです。ヤコブとしては、まさか、逃げて来た先で、このようなことを経験するとは思っていなかったでしょう。
 
 しかし、神は生きておられる。神様は、兄を騙してまでして祝福を得たいと望むヤコブを放っては置かれません。むしろ、神を信じる者としてふさわしく歩めるように造り変えてくださるのです。そして、これから神によって造り変えられた者として、あらためて故郷に帰り、新たな歩みが始まるのです。
 
 今日は、そのところにスポットが当てられます。私たちも、主を信じて歩んでいます。そして、20年とは言わず、それぞれに主を信じて歩まれた年数があるでしょう。そして、さらにこれからの一歩があります。新しく踏み出す一歩。新しい暮らし、新しい環境、新しい奉仕、新しい一週間。その次への一歩を、主を信じて踏み出すために、あらためて今日のみことばに聴いていきたいと思います。
 
 
1.みことばを丁寧に伝えるヤコブ
 それでは、まず前段までに具体的にどんなことがあったのか、そのことをヤコブ自身が彼の妻たちに説明していますので、そこを読んでみましょう。
「あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。彼が、『ぶち毛のものはあなたの報酬になる。』と言えば、すべての群れがぶち毛のものを産んだ。また、『しま毛のものはあなたの報酬になる。』と言えば、 すべての群れが、しま毛のものを産んだ。こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。」
 
 ここでヤコブは、妻たちの父ラバンに誠実に尽くして来たのに欺かれてきたこと事実を伝えます。9節ところが「神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ」。その証拠として、ヤコブが不利になるようなことも、神様は結果的にヤコブが有利になるように導いてくださったということです。ぶち毛やしま毛の模様の羊は生まれにくいのに、何と生まれて来る羊はぶち毛だったり、しま毛だったり、ヤコブの取り分がどんどん増やされていった。それが30章43節までの簡単な出来事です。それで、ラバンの思惑通りにはいかず、かえってヤコブの羊が多くなることで、ヤコブは裕福にされていったのです。
 
 そういうことが、これまでのところであって今日の31章1節、2節があります。
「さてヤコブはラバンの息子たちが、『ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ』と言っているのを聞いた。ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようでないのに気付いた。」
 
 ラバンにとっては、ヤコブが裕福になっていくことは想定外なことでした。ここでヤコブに対して不信感やねたみを持つようになったようです。その嫌な空気にヤコブは気が付きました。それで、このままではいけない。このように、ヤコブを取り巻く状況が益々、ヤコブの気持ちを故郷に帰る方向に向けさせていったということです。
 しかし、ヤコブが故郷へ帰るという決断は、そのような状況だけによるものではありませんでした。それが、3節の主のみことばです。
「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」
 
 このみことばを聴いて、ここでヤコブはどうするか。それは、「そこで」妻たちのところに使いをやって、妻たちを呼んで、妻たちと話し合う場を設けたのです。そして、5節から13節までのことを告げました。そして、その妻たちへの話の中で、まず、自分の状況を伝えます。それが、先ほど読んだ6節9節のことです。しかし、ヤコブは、それだけではなく、神様からのみことばを妻たちに示し、故郷へ帰る決断がヤコブ自身の勝手な思いとか、状況だけとかではなく、神様からのみことばによることをきちんと説明したのです。
 
 この頃は聖書がない時代ですから、神様は直接的に夢に現れてみことばをくださいました。ここで神の使いがヤコブに呼びかけます。「ヤコブよ」と。ヤコブは「はい」と答えたと、そこまで具体的に話しているのを見ると、私はヤコブと言う人を尊敬します。それは、プロセスを丁寧に語っているからです。
 
 よく男性は「結果」や「結論」を大切にして、女性は「過程」つまりプロセスを大切にすると言われていますが、ヤコブはプロセスを大切に語っています。彼の特徴なのか。兄エサウは野の人と呼ばれていましたが、ヤコブは家で料理をしているような人でしたが、そんな性質の違いの現れでしょうか。それとも、聴く相手の気持ちを汲んで、妻たちが理解しやすいように、きちんとプロセスを伝えて、いっしょに神様の御心に立っていけるように配慮したのでしょうか。私は後者のヤコブであったと理解しています。
 
 聖書がない時代にあって、神様からのみことばを、確かな神のことばとして伝えるためには、やはり、このように丁寧に伝えることが大切ではないでしょうか。なぜならば、神様のみことばに聴いていくことが、何よりの基準であるからです。その判断の基準が曇らないで、明確にわかることはとても大切なことです。そして、それを人に伝えることも、さらに重要なことです。
 
 私が神様からいただいたみことばを皆さんに正しくお伝えすることがどれほど大切か、今日の箇所から教えられます。ヤコブのように相手の立場に立って、相手の理解しやすいように尽くす。そのことがどれほど大事か。大変難しいことではありますが、心掛けていきたいと思います。皆さんはいかがでしょうか。相手の立場に立って話す。その内容、話し方、使うことばなど、色々と配慮することの大切さを教えられます。
ヤコブは6節でラバンに「力を尽くして仕えた」と言っていますが、大切なことを伝える相手である妻たちにも尽くしているのではないでしょうか。

 


2.みことばを判断基準とするヤコブと妻たち
 そのようにヤコブは夢の続きを、そのプロセスを語ります。12節、
「すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにして きたことはみな、わたしが見た。』」
 
 ここで更に御使いがヤコブに話していますが、途中から「わたしはベテルの神」と、実は神様ご自身が語っておられるのがわかります。その神様が、「ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た」と言ってくださっています。そして、20年前に石を枕にして寝ていたときに、そこで神様と出会いみことばをいただいた。そこでその枕にしていた石を立てて礼拝をささげた、その神様が、あらためてヤコブに語り掛けてくださった。
 
13節「わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。」
 
 神様は、ヤコブが20年前に神様に対して誓った誓いを覚えていてくださって、今ついに「さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい」と故郷へ帰るように、みことばによって示されたのでした。
 
 では、そのように語ったヤコブの話を聞いた妻たちはどうだったでしょうか。
14節、15節「ラケルとレアは答えて言った。『私たちの父の家に、相続財産で私たちの受けるべき分がまだあるのでしょうか。私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶしたのですから。』」
 
 妻であるラケルとレアはヤコブが語ったことに対して積極的な応答をしました。彼女たちは、もはや相続財産は残っていない。また父ラバンとの関係も冷えたものとなっていて、父たちは自分たちを利用したに過ぎないのだから、もうこの家に未練がないと言います。
 
 そして、最後に大切なことをヤコブに伝えます。16節
「また神が私たちの父から取り上げた富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのものですから。さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」
 ヤコブが言う様に、与えられた富も子どもも神様がくださったものだから、それらを持って行くことは何らやましいことではないと、神様に栄光をお帰ししています。そして「さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください」と神のみことばに従う道を選んでいるヤコブに同意したのです。
 
 ここから物事の判断基準も、状況だけによる判断だけでなく、きちんと神様のことばによって行動することも、非常に大切であることがわかります。ヤコブはラバンたちから漂って来た悪い空気、状況ではなく、みことばに聴いて判断することを選びました。そして、そのことを妻たちに共有したときに、妻たちも主のみことばに聴いていくことに同意してくれたのです。ヤコブはとても嬉しかったでしょう。神に従うことが自分だけのことで終わらずに、夫婦で、家族で共有できる幸せを、ヤコブはきっと味わったことでしょう。


 私たちも、色々な判断基準がありますが、やはり、このときのヤコブのように、主のみことばを正しく受け取り、正しく伝え、主のみことばに従って自分の進むべき道を選び取っていくことが大切です。ヤコブの場合も確かに、ラバンのところにこのままいるべき雰囲気ではありませんでした。だから、それだけでも、そこから出て行くことは判断できるかも知れません。しかし、ヤコブの判断基準はその状況ではなく、主のみことばであったことは、これから、このヤコブから起こるイスラエル民族にとっても、模範となるべき素晴らしい信仰者のあり様です。
 
 その姿は、更にこのヤコブの時代から約2000年後に来られたイエス・キリストによって救われた私たちにも受け継がれるべき姿勢です。それは、天地創造からのテーマであるからです。神のみことばに従うか、それとも自分の考えやまわりの状況で判断するか。この選択がその後の人生を大きく変えるほどの意味をもっているからです。
 
 
結び
 私は今日の箇所で、教えられたことが二つあります。一つは、相手に合わせて丁寧にみことばを伝えるということです。翻って、どのような話も、相手にとって聞きやすい、受け入れやすい話し方や、伝え方、声、ことばに気をつけたいということです。
 
 そして、もう一つ学んだことは、やはり、物事の判断基準はみことばであるということです。私達の回りにはいつも色々なことが起こり、どっちに行っていいのかわからないことが多々あります。そういう時に、状況だけでなく、きちんとみことばに聴くことが大切だと、あらためて教えられました。
 
 ヤコブは、20年前のベテルでの礼拝におけるみことばと、今日の出来事で与えられたみことばが繋がって、故郷に帰り、そこでイスラエル民族の祖先となっていきます。このあともヤコブの歩みは決して平たんではありません。しかし、神のみことばによって立たされるときに、どんなに老いても、どんなにからだが弱っても、「私の父の神は私とともにおられるのだ」と4節で言ったように、神のみことばによって心は内に燃やされるのです。
 
 私もそうでありたいと祈っています。みなさんはいかがでしょうか。これから踏み出すその一歩は、どのような一歩でしょうか。もちろん、状況も大切です。身のまわりで起こる出来事も、神の支配があり摂理されていると信じます。しかし、それだけでなく、神のことばに聴いて踏み出す一歩でありたいと思います。そのみことばが、直接今の状況と関わりないように思えても、その日与えられたみことばとして握っているときに、必ず神様からの祝福があります。
 
 そのみことばが、遭遇する出来事に直接答えることももちろんあるし、間接的に関係していることもあるし、そのみことばが私たち自身の心を暖めて、普段であれば乗り越えられない高い壁のような問題すら乗り越える力になるのです。そのようなみことばに生かされる歩みの中で、まさに、人生の分かれ道においても、神様の御心を知るようになります。ヤコブは20年かけて新たな旅立ちが始まります。私たちはどうでしょうか。
 
 今週も主のみことばに励まされ、示されて歩んでまいりましょう。