日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

江賀寅三と辺泥五郎

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アイヌ装束の江賀寅三

 

 

江賀 寅三(1894年12月5日~1968年6月28日)はアイヌ出身の聖公会牧師、後に日本ホーリネス教会の牧師。晩年は超教派の伝道師になり静内に教会を建設する。
 
1894年北海道山越郡長万部村(現・長万部町)字紋別アイヌ、吉良寅八の三男として生まれた。アイヌ名はシアンレㇰ(sian-rek=本当の・叫び)。母は、寅三が3歳のときに死去した。1902年から長万部小学校で和人と共に混合教育を受けた。1903年に親戚の江賀渋次郎の戸籍上の養子となったが、吉良家に住んでいた。
 
1910年虻田実業補習学校(虻田学園)で学んだ。虻田実業補習学校は、小谷部全一郎アイヌ民族扶育救護を目的として設立した実学的学校である。ところが、7月21日、有珠山の大噴火が起こり、1911年に廃校となった。閉校後、虻田学園の実務的責任者であった吉田巌によって1912年に札幌の視学のもとで、小学校教員としての必須科目を履修することができた。1913年に寅三は、新平賀小学校(旧土人学校)の代用教員として採用された。
 
1913年に寅三は結婚式を挙げた。1914年の飢餓では入植した日本人以上にアイヌの飢餓は深刻だった。1914年9月、寅三は日高教育会主催の浦河準教員養成所に6ヶ月間の入所が許された。1916年、寅三は平取小学校(旧土人学校)に勤務したが、この頃から泥酔する状態が続いた。泥酔して立ち寄ったところにいた鵡川チン教会の牧師辺泥五郎から一喝され目が覚めた。1917年、妻にキリストの十字架の能力で断酒する決意を述べた。
 
その後、辺泥の師であり、当時日高を巡回していた「アイヌの父」ジョン・バチェラーから、2月11日、妻とともに受洗した。往復で24kmある鵡川チン教会に日曜ごと欠かさず出席した。平取尋常小学校に旧土人学校が合併する際に「アイヌは和人の教師としてふさわしくない」という理由から平取を去るように学務委員から指示される。その寅三を河西支庁に転任させるよう運動したのは、当時、井目戸(いもっぺ)尋常小学校に勤務していた武隈徳三郎だった。
 
1918年、静内遠仏小学校(旧土人学校)の校長として勤務するが、1921年遠仏小学校を廃校させて退職し、牧師になることを志す。札幌のバチェラー宅にて『アイヌ語辞典』編纂を手伝う。バチェラーによって献身に導かれ、1922年聖公会平取教会の副牧師となる。
 
1924年6月に東北、北海道伝道に出た中田重治は、旭川、十勝、釧路、美幌、そして網走から札幌へ回り、聖書大会で武本喜代蔵や平出慶一とともに講演を済ませ、インマヌエル村(現・今金町)に出向いて青年4名に受洗したとき、江賀寅三に会った。江賀寅三は、伝道者になりたい希望を中田に訴えた。中田の知遇を得て、1924年に柏木聖書学院に入学して学ぶ。寅三は、聖書学院で1年間学んだ後で、日高のアイヌ部落でエスコタン(耶蘇の村)を設けて、禁酒村計画を立てる。
 
1925年ジョン・バチェラーから受洗した聖公会を脱会した。この年の5月2日、東京聖書学院の中田重治が九州と中国・朝鮮旅行に出かけた時には、江賀は岡山まで同行した。約1ヵ月後に中田重治が北海道に伝道のために立ち寄った時、江賀は日高で中田に再会した。本格的にエスコタン運動を始める。
 
1928年ホーリネス福音使として旭川に駐在する。1929年またホーリネスの海外宣教のために樺太に派遣されて宣教する。後に再度、樺太に宣教。同年4月日本ホーリネス教会より、バプテスマおよび聖餐の諸式執行の許可を受け、ホーリネス教会に正式に加入する。1930年には樺太アイヌに国籍獲得のため運動をする。1932年に樺太より北海道に戻り、日高姉茶に駐在する。
 
1934年日本学術振興会より謝状を受ける。1936年「旧土人学校」全面廃止運動をする。また、日中戦争以降の戦時下の社会情勢悪化に伴い、ホーリネス教会からも支援が打ち切られ1938年教会を解散する。このとき妻と死別。
牧師をやめて、1940年長万部町役場に勤務、1946年に北海道アイヌ協会理事に就任。1947年に司法書士の免許を取得して、静内で開業し、中山ハツエと再婚した。更に1951年には行政書士の免許を取得するなど生計を立てるために法曹界の資格を取得する。
 

 

 


再び伝道への思いが燃やされて1962年超教派独立伝道者として再献身する。1964年NHK「或る人生」にて全国放映される。1968年静内に「新生教会」を設立して献堂式を行う。静内町の有志からの寄付もあり、江賀寅三の交友関係の広さと信頼関係の深さを知らされる。その直後、6月28日死去する。
 
しかし彼が開拓した「静内新生教会」は、近隣諸教会の協力を得て維持され、1969年4月に後任の菊地三郎牧師を迎えることができた。そして1970年10月に同地域でもともと協力関係にあった国際福音宣教会が開拓した「静内キリスト教会」と合同し、1975年9月には菊地三郎牧師の後任として佐藤信彦牧師が就任し、1996年1月には教会名を「静内新生キリスト教会」と改め、今日に至っている。

 

 


江賀寅三から始まった静内における宣教において、自治体、地域の教会への信頼は厚く、ある時には、町から児童教育協力の要請があり、一時は町内で5つの教会学校を行い、クリスマスには100名ほどの来会があったという。2006年3月「新ひだか町」と地域の呼び名や行政区は変わり、町の様子も徐々に変わりつつあるが、江賀寅三を通して神が始められた福音宣教は今もなお、キリストの弟子たちによって受け継がれている。
 
 

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バチェラーと辺泥五郎

 


辺泥 五郎 1878年釧路の春採コタン生まれ。5歳の時、アイヌ民族27戸と共に30キロ離れたセツリ(雪裡)川の上流(現阿寒郡鶴居村)に強制移住させられる中に入っている。移住は、アイヌ民族の貧困を救済するべく農耕で自活させるという名目であったが、実情は、釧路は鳥取士族らの移民の増加でようやく市街地設置が整い始めた中で、中心地である米町、南大通、幣舞町からアイヌを追い払うのが目的であった。

 与えられた土地も、当時与えられるべき半分の1町歩しか認められず、さらに現地ではそれのまた半分、すなわち4分の1しか与えられなかったようである。窮地に陥ったアイヌは春採や他の漁場に出稼ぎにでるなどして、1998年には14戸だけになったとのこと。
 
以上のように食料給与も認められなかったが、当初は鮭漁は可能であった。ところが和人漁師が沖取りまたは河口での漁獲により、鮭の遡上を阻止したため、鮭は急減した。さらに1893年和人のみの釧路漁業組合の出願により、雪裡川は天然孵化場に設定され、5月から11月までの漁獲を禁じたので、鮭の漁獲は困難となった。またこれまで無税であった薪木へも課税されるようになり、一部は餓死し、出稼ぎや再移住するものがつづいた。漁業権や税法など近代法の整備が、少数民族の生活を根こそぎ奪った事例である。

 このような強制移住はいたるところで行なわれていたということであるが、そのような非常に苦労した中で辺泥五郎は幼少期を過し、その後、英国聖公会宣教師J・バチェラーから影響を受けて1897年に受洗。当時、札幌に住んでいたバチェラーの元で学んでいた時に、アメリカ・セントルイス万博行きの話があり、自ら志願して渡米する。

 その時のエピソードがある。セントルイスアイヌ民族を連れてくるよう頼まれたフレデリック・スターは最初に札幌のバチェラーのところに赴く。そこで会った辺泥は、何度も渡米を希望するのだが、スターは七三分けした「西洋かぶれ」の彼(辺泥)には目もくれなかったという。しかし、ローマ字を学び英語も出来たので通訳として許可が出たということである。帰国後、函館の神学校にて学び、伝道師として1906年胆振支庁鵡川村のチンコタン(汐見2区)に創設された日本聖公会鵡川講義所(のちに鵡川聖公会)に着任。1940年にいったん辞任し、特志伝道師として働く。

 辺泥は、セントルイス訪問時の万博参加のつながりで、1913年の大凶作時をはじめ、たびたび米国から食料救済の援助を受けて人々を助けたり、託児所を始めるなどの地域への奉仕を行なって朝日新聞から賞を得たことがある。アイヌ民族の間ではアイヌ青年団を作り、雑誌「ウタリ乃光リ」を発行(~15号で廃刊)するなど、尽力した。

 

 【参考文献】
梅木孝昭編『アイヌ伝道者の生涯』北海道出版企画センター、1986年
森山諭『戦うコタンの勇者 アイヌ教育家・牧師 江賀寅三伝』日本イエス・キリスト教団東京教会出版部、1964年
「江賀寅三」Wikipedia
静内新生キリスト教会創立50周年記念誌『光の実』2018年
「静内新生キリスト教佐藤信彦牧師への取材」(2022.8.4)。
 日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌。https://blog.goo.ne.jp/ororon63

 

(文責:川﨑憲久)