のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

いのちも捨てます

"ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」"

ヨハネ福音書 13章37~38節

 

ペテロは主イエスに、「いのちも捨てます」と言いました。

「いのちも」と言うことは、これまでいのち以外のものを主イエスのために捨てて来たと言う自覚があると言うことでしょう。

 

確かにペテロは兄弟アンデレと網を打っているときに、網を捨てて従いました。それは家計にとってなくてはならない、糧を得るためには欠かせないはずの家業でした。

 

まさに主が荒野において悪魔に言われたみことばを思い出します。

 

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつのことばによって生きる」(マタイ4:4)

 

 恐らくペテロのこれまでの3年あまりの年月は、魚を獲る漁師ではなく、人間をとる漁師としてつくり変えられる学びと訓練の大切な期間でした。いのちのパンである主のことばを聞いて生きることを味わう旅です。

 

彼に子どもがいたのかどうかはわかりませんが、妻がいたこと、姑がいたことはわかります。その家族を置いて家を出ることは、まさにいのち以外のものを主イエスのために捨てて来たと言っても、言い過ぎではないでしょう。

 

だから、この場面でペテロが言ったこのことばには、決して大袈裟な、言い過ぎな意味よりも、心から主イエスのためならば「いのちも捨てます」と言ったのでしょう。

 

しかし、皮肉なことに、このあとの場面では、一応、剣を抜いて戦おうとするのですが、主に止められて戦意を失い、主をそこに置いて自分は逃げてしまいます。

 

そして、主イエスご自身は捕らえられ、鞭打たれ、十字架刑に処されるのです。

 

その間、ペテロは遠巻きに主イエスを追いかけ、群衆の一人のように焚き火にあたりつつ、様子を伺っていましたが、主イエスが言われたように、鶏が鳴く前に三度、主イエスを否定しました。

 

そして、その時、鶏の鳴き声を聴きます。そのペテロを見つめる主イエス

 

ペテロは外に出て激しく泣くしかなかったのです。彼に出来ることは主イエスのためにいのちを捨てることではなく、ペテロのためにいのちを捨てる主の前で、自分の情けなさに、ただ泣くことでした。

 

いのちを捨てたのは主イエスの方でした。

 

その後、ペテロは使徒たちのリーダーとして、教会の指導者として、クオヴァディス伝説によれば、逆さまに十字架にかけられて殉教したとか。確かに最期はキリストのためにいのちを捨てました。

 

しかし、それはやはり、主イエスが先ず彼のためにいのちを捨てて下さったからこそであって、素のペテロの中から出てきたものではなかったのです。

 

しかし、そこを通ることが大切でした。誰も自分の力で主のためにいのちを捨てることはできません。でも、主イエスが私のために、そして、あなたのためにいのちを捨ててくださったことを受け入れ、その愛を受けていくならば、私たちもまた、その主のために、そして、隣人のためにいのちを捨てることができる者とされるのです。

 

主イエスは言われました。

 

"自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。"
マタイの福音書 10章38~39節


 

そのためには、まず主イエスご自身が、ご自分のいのちを捨てる必要もありました。

"わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。"
ヨハネ福音書 10章17節


それは、主イエスは私たち主の弟子のことを友と呼んでくださり、友として死ぬことでした。

 

主イエスのこのような友のためにいのちを捨てることが、信じる私たちに真のいのちをもたらし、そのいのちを受けて、私たちもまた主イエスのように、友となられた主イエスのため、また主イエスが招かれている隣人として与えてくださった友のためにいのちを捨てることができるのです。

 

それは機械的にそうなるというのではありません。それはまさしく、そのように私たちを揺り動かす力が湧いてくるからできるのです。その力とはなんでしょう?

 

それは愛です。

"人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。"ヨハネ福音書 15章13節

 

その愛を主がまずご自分で私たちのためにいのちを捨てることによって、明らかにしてくださいました。それによって、私たちに主の愛がわかったのです。

 

だから、ペテロといつも一緒に、主イエスから訓練された弟子の一人であるヨハネはその手紙の中でこのように告白しています。

 

"キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。"
ヨハネの手紙 第一 3章16節


 

キリストの愛がわかった人は、その兄弟のためにいのちを捨てるべきだと言っています。それは、私のため、あなたのためにいのちを捨てるほどに愛してくださった主に愛されていることを知ることの価値と、そこに生きる価値がわかったということです。

 

今、私たちには、このキリストの愛が既に示されています。あなたは、その愛を受けています。ぜひ、手を伸ばして、その愛を受け取ってください。それが信仰です。そこから、始まります。神を愛し隣人を愛する歩みが。

 

あなたの上に、あなたのためにいのちを捨てられた主の愛が豊かに注がれています。その愛をどうかそのまま受け取って、今日生きる、そして、これからの人生のための生きる力になさってください。

 

"人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。"
エペソ人への手紙 3章19節