のりさん牧師のブログ

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2022年9月11日 白石教会礼拝説教

説教題 「神と格闘する」
聖書箇所 創世記32章22節~32節
 説教者 川﨑 憲久 牧師
 
序論
 子どもの頃、よく親戚の叔父たちとプロレスごっこをしました。当時5~6歳の私にとって、既に青年である叔父たちは大人ですから、その大人相手に普通は勝てません。でも、叔父たちは、よく手加減して負けてくれたことを思い出します。
 
 今日の聖書箇所は、神と格闘するヤコブの姿が描かれています。その格闘は、何か面白い状況です。最終的に勝ったのは誰だったでしょうか。それはヤコブです。そのために「イスラエル」という新しい名前をいただきました。でも、本当にそうでしょうか。本当に、この格闘はヤコブが勝ったのでしょうか。いったい、この神様との格闘はどういうことなのでしょうか。
 
 前回まで、自分の故郷にいよいよ帰るというときに、ヤコブには解決しておかなければならない課題がありました。それは、兄エサウとの和解でした。でも、ヤコブとしては、できれば避けて通り過ぎていきたい問題です。しかし、神様が、天使たちを遣わして神の陣営を見せてくださって、そういうヤコブを励まします。それで、ヤコブも背中を押されて兄エサウとの和解に臨むという場面でした。
 
 前回のメッセージでは、ヤコブのその向き合い方、その方法はまず横に置いて、彼の問題に向き合う姿勢そのものを評価して、私の白石教会へ仕えていくみことばとして、証しさせていただきました。ですから、ヤコブの信仰者として最善を尽くしたようで、実は欠けだらけのやり方。色々とまだまだ問題ありきの彼には、あまり注目していませんでした。しかし、やはり、神を信じて生きようとする者に対して、神様は、造り変えるためにとことん付き合ってくださる方です。
 
 その信仰が成長して、その内面だけでなく、行動においても神の民としてふさわしく整うためです。これから、約束の土地、憧れの故郷に帰るにあたって、やはり、その故郷にふさわしい者として完成に向かって造り変えられることが大切なことだからです。ヤコブが神を信じる契約の民として、益々きよめられていくのです。そこで、神様とのレスリングがある。この出来事のユニークさは、聖書を見渡しても、ここだけです。
 
 普通であれば神と戦ったら負けます。なぜなら相手は神なのですから。しかし、ヤコブは勝ったと言われています。これは、どういうことでしょうか。私たちの信仰の歩みにおいても、私たちは勝利を得ているでしょうか。それとも、敗北しているでしょうか。
 
 
1.ヤコブの葛藤
 前回、使者をエサウのもとに遣わして、その結果、エサウがわざわざ家来を400人連れて迎えに来るということになりました。そこでヤコブは、神様から、神の陣営を見せられたのですから、そこで大船に乗ったつもりで、行けばよいのに、エサウを恐れ、自分なりの方策を立てます。それは、自分の群れを二つに分けて、もしエサウがやって来て攻撃して来ても、もう一つの群れが守られ、全滅しないようにするためです。前回の7節では「ヤコブは非常に恐れ、心配した」とあります。
 
 かつて兄エサウを侮り、長子の権利を奪い、父イサクからの祝福も奪って逃げて、何の謝罪もなく生き延びていたヤコブ。彼にとってエサウは自分のことを許さずに今もなお復讐しようと待ち構えている敵としか捉えられていないということです。ヤコブは神様に祈りつつも、やはり、昔からの姑息な手段でその場を乗り切るという性質は変わっていなかったようです。彼はエサウへの贈り物を三段階に分けて、エサウの怒りをなだめる作戦を遂行します。それで贈り物を先に送って、自分と家族はヤボク川の北側で宿営しました。
 
 ところが、なかなか寝付けなかったのか、ヤコブは夜のうちに起きて、家族を起こして、先に川を渡らせることにします。ここは、なぜこうしたのか、これまで色々な説があります。たとえば、日中帯は暑いので、涼しい夜に移動させたという気候的な理由。または、たとえエサウが襲撃してくるとしても、夜は安全だろうというふうにも読み取ることができます。でも、これまでのヤコブの様子を見ていると、そのような思いがあったかも知れませんが、彼は、迷っているとか、混乱しているのは確かです。
 
 神の守りがあることを伝えられていながら、彼の古い性質が邪魔をして、せっかく神様だけに信頼したいのに、古い自分が邪魔をして、なかなか気持ちよく前に進めないのです。すぐに姑息な手段が浮かんでしまい、そう動いてしまう自分とは、いったいなんだろうと、自己嫌悪に陥っていたとしても不思議ではありません。
 
 そして、もう一つは、これまであのラバンにも現れてくださって、ここまで神様の恵みなしには生きて来られなかったはずなのに、今、目の前に迫ってくるエサウを恐れている情けない自分がいるということです。
 
 ここにヤコブの葛藤があります。神様に信頼を置きたいのに、全然できない自分。そして、エサウの顔色ばかり気にして、まったく神の陣営が身近に感じられないこの不安。そのもどかしい自分の気持ちの置きどころのなさに、きっとヤコブは眠れなかったのだろうと思います。そして、先に家族を渡して、自分だけがまずここに残ったのは、そのような混沌とした自分の気持ちを神様の前に祈ろうと思ったからではないでしょうか。
 
 ヤコブは、決して自分が行おこなった、「群れを二つに分ける」とか、「贈り物を三段階に分ける」その手段に満足していません。むしろ空しさを覚えているのです。姑息なやり方でその場をやり過ごすという、同じことを何十年も繰り返してしまっている自分に嫌気がさすような、残念な気持ち。
 
 私もそうです。いつも同じようなことで失敗し、がっかりすることの多い者です。全く変わらない、変えられていないように見える自分。そして、みことばが与えられているにも関わらず、なおも不安があり、主ではなく、他のことを恐れている自分がいる。正しい在り方はわかっているのに、神様がずっと遠くに感じて、祈りが空気に向かって話しているような虚しさすら覚える。
 
 ヤコブも、このとき先に家族を渡らせて、自分だけがここに残って、神様をもっと身近に感じたい、神様と顔と顔を合わせるようにして、神様との対話を求めたのではないでしょうか。どうか、あなたが本当にともにおられることを私にわからせてくださいと。
 
 
2.神が始められた格闘
 それが24節です。
ヤコブはひとりだけ、あと残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」
 ここで「ある人」が突然登場します。やはり、「ある人」または25節では「その人」とあるように、人の姿で現れた御使い、または神ご自身が、60歳のヤコブと格闘した。でも、このときのヤコブにはこれが誰なのかが分かりません。エサウかも知れないと思ったかも知れません。一人でポツンと佇むヤコブに、突然、誰かが組み合って来るという、びっくりする展開です。ヤコブは心臓が飛び出そうになったでしょう。家族を先に向こう岸に送って、自分一人かと思いきや、突然人が現れて、自分に掴みかかって来るなんて、咄嗟に自己防衛本能が働くような場面です。
 
 もっと、前置きがあって、「ヤコブさん、相撲を取りましょう」と言って「はっけよーいのこった」と言ってくれたら良かったのに、不意打ちを食らうような格闘でした。しかしレスリングが始まって、すぐに「その人」はヤコブに「勝てない」と判断したと書いてあります。そして、ヤコブのもものつがい、すなわち関節を外したとあります。それで、どっちが勝ったのかと言うと、この話の流れでは、ヤコブが勝ったことになったようです。26節~28節
 
「するとその人は言った。『わたしを去らせよ。夜が明けるから。』しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』その人は言った。『あなたの名は何というのか。』彼は答えた。『ヤコブです。』その人は言った。『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。』」
 
 それは、この人がヤコブに新しくつけた名前が「イスラエル」で、その理由が「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」とある通りです。でも、私がここを初めて読んだ時、勝てないのを見て、この人はヤコブの足の関節をはずしたということは、この人の方が勝ったのではないかと思いました。しかし、この人はヤコブが勝ったと言うのです。これはどういうことなのでしょうか。
 
 この人は、やはり、このあとヤコブが「私は神を見た」言って、その場所をペヌエルと名づけたように、神ご自身であったと言って良いでしょう。ヤハウェなる神が人の姿で現れてヤコブレスリングをしてくださって、「ヤコブよ、お前の勝利だ」と言ってくださる光景、これは、やはり神様の親心ではないでしょうか。これは、まさに私が子どもの時に、親戚の叔父さんが手加減して負けてくれたように、親心として、ヤコブを励まし、神を信じる神の民として立たせたのではないでしょうか。
 
 ここでヤコブが経験したことは、ヤコブにとって何なのでしょうか。それは、一人きりになって、1相変わらず姑息な自分、2神様が一緒にいてくださっているというのに、不安が消えずエサウを恐れている不信仰な自分に向き合い、そして、もっと神の陣営を、実感をもって知りたい。安心したい。神と顔と顔を合わせるように話がしたい。そのときに、神様が、いきなり組み付いてきて、レスリングを始め、もものつがいを打たれ、「ヤコブよ、おまえの勝利だ」と言われる。
 
 そのときヤコブが得たものは何か。それは、これをいただかなければ「私はあなたを去らせません」と言って与えられた、神からの祝福でした。この祝福を願って、ヤコブはもものつがいをはずされても、この神の人を離しませんでした。それは、この人が神であり、格闘の中で組み合い、その懐の中で得た安堵感、格闘しながら伝わってくる平安をヤコブは得て、この人が神であると気付いたからではないでしょうか。もう少しで夜が明けるくらい長時間にわたって、ヤコブはももの関節が外されて痛いにも関わらず、今、組み合っている、この人、つまり神から伝わってくる安堵感。そこに直接、祝福を得たいと願い続けたヤコブ。結果、その祝福を神は、ご自分を負けたことにして、与えたのです。
 
 しかし、ヤコブ自身は、この格闘において勝ったという風にはとらえておらず、そこにこの神との格闘の価値があるのではなく、「私は神と顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」ところにヤコブの信仰の戦いにおける価値が示されています。それは、本来、人は罪人であり神と顔と顔を合わせることは不可能だからです。ヤコブ自身も、自分が、神様からの恵みとまことを受ける価のない者だと言っていました。
  
 しかし、神はそのような者に近づいてくださって、組み合うほどに、抱きしめるように近くにおられることをわざわざ教えてくださるお方。そして、この状況は、ヤコブに神ご自身が、ヤコブが滅びないように現れるための最善の方法だったのでしょう。名を教えないとか、夜が明ける前に去るというのは、それが神ご自身の顕現と大きく関わっていたからでしょう。この旧約時代、このヤコブの時代に神がご自身を現わせるぎりぎりの方法で、神ご自身が負けたことにして、ヤコブに「勝利=祝福」を与えたのです。
 
 
結び
 神様は、このヤコブの時代から約2,000年後に、私たちが肉眼ではっきり見ても滅びないように人間の姿で来てくださいました。そのお方はインマヌエルと呼ばれるお方。神が共におられるという意味です。そのお方は十字架にかけられて殺されました。その十字架刑を敗北のしるしではないかと揶揄されることがあります。ユダヤ人もギリシャ人も「死刑になった男がなぜ救い主なのか」、「十字架が救いだ」なんて愚かだと蔑んでいると使徒パウロが言っています。
しかし、そこに神の知恵があるのです。確かに主は負けた者のように鞭打たれ、釘付けになって十字架にかかられたのは、そのお方を信じる全てのものに神の子どもとされる祝福をお与えになるためでした。つまり、神は十字架に磔にされた男イエスを信じる者を勝利者としてくださるためだったのです。ヨハネは言いました。
 
「世に勝つ者とは誰でしょう。それはイエスを神の御子と信じる者ではありませんか」(Ⅰヨハネ5:5)
 今、私たちは、このヤコブと神の格闘で、神が敗北したことを受けて、ヤコブ勝利者とされているように、キリストの十字架を受けて勝利者とされたのです。ヤコブは神と格闘し、勝利を得た者として新たに旅立ちます。このあと残されるのは、神によって外された腿の関節の痛み、そして足を引きずらなければならない不自由さと言うしるしです。ヤコブは、そのしるしを通して、神と組み合ったときの神の汗や匂いを、その体温を思い起こし、その神が常にともにおられて、自分のいのちの救い主であることを感謝する者とされたのです。
 
 私たちにもしるしがあります。それは、今度は神ご自身がその身に受けてくださった痛みです。私たちの主イエスは十字架の上で死にましたが、三日目によみがえられました。しかし、その復活されたからだには、十字架刑で受けた傷が生々しく残っていました。イエス様は、その傷を弟子たちに示されました。すると、弟子たちはどうしたでしょうか。こう書いてあります。
「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:20)
 
 その主の傷跡によって、弟子たちは十字架にかかられたが今もなお生きておられる主であることがわかって喜んだ。愛する主がよみがえられて、今もともにおられることを喜んだのです。その主イエスは、今もなお、天の父なる神の右に、その傷をもって立っておられます。そして、私たちが、死んで天に召されて主と顔と顔を合わせて相まみえるとき、私たちも喜ぶのです。その傷跡を見て。しかし、そのときを待たずとも、このように、礼拝の中でみことばと聖餐を通して、その主のしるしをこの地上にいるうちから見る者とされています。
 
 この主が今もインマヌエルの主として、このときのヤコブに対するのと同じようにあなたとも、ともにいてくださるのです。そして、ときには、このような神との格闘も与えてくださいます。今日のヤコブの神との格闘は、神様から始めたことがわかります。神様は今も、信じる私たちとともにいて、レスリングしようと、深く、強く、親しく関わってくださろうと、実は抱きしめようと自ら近づいてくださる優しいお方です。この主は、あなたが遠く離れているように思っていても、いつも近くにいて励ましておられるお方です。いつも、必要な力を与えようと待っておられるお方です。
 
 今日の31節は、「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上った…」
とあり、主がともにある信仰者の歩みにある希望の道を美しく表しています。
 
 私たちの今週の歩みも、主の御顔が太陽のように輝いて、その道を照らすでしょう。その主が遠く、高く、離れておられるお方ではなくて、今は、イエスを通して与えられている聖霊によって、あなたの中から、日々語っておられます。いつも親しく顔と顔を合わせて語り合おう、交わろうと待っておられる主に心を開いて、今日から始まる新しい一週間も、安心してまいりましょう。