のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年10月23日 白石教会礼拝

説教題 「途中下車の結果」
聖書箇所 創世記34章1節~17節
 
 
序論
 先週、3日間の特別公開講座が北海道聖書学院で行われました。テーマは「遣わされた地に立つ教会論」と言って、教会の会計とか宗教法人、牧師の待遇などの実務的なことを教会的視点から考えるという講座でした。私はまさに、お金の計算とか事務的な分野が苦手なので、とても良い学びになりました。法人格と社会保険などは教会としてどのように取り組むのか、そのことも学ぶことができました。
 
 皆さんにも学んで来たことを共有したいと思いますが、今日のところは、教会の実務における中心的な心構えだけを、まずお伝えしたいと思います。それは、教会のすべての業に共通することではありますが、教会の諸問題に対して福音の光を当てて、解決、回復の道筋を立てるということです。特に、教会の戦いとは、教会外にあるこの世との戦い以上に、教会の中から出て来る、この世的な基準、常識、振る舞いとのせめぎ合いであるということです。
 
 このことには、大変教えられました。私たちはこの世に置かれたクリスチャンです。それは、この世。つまり神を認めない、罪で歪んだ世界において、世の光、地の塩としての使命があるということですが、教会の内部から、この世的な常識がまかり通っていたり、きれいごとだけではこの世は渡れないなどという、神のきよさから程遠い考えが出て来ることがあるからです。私たちは、教会に居る時間よりも、外の社会にいる時間の方が長く、聖書の言葉に触れる時間よりも、この世の情報に弄ばれる時間の方が長いので、知らないうちに、この世の物言いになったり、この世の価値観を優先させてしまったりするものです。
 
 気をつけていても、知らないうちに、教会の中にこの世の価値観、やり方を持ち込んでしまう。そのことに注意しなければならない。そのことを、今回の講座で学びました。宗教法人という制度は良いかも知れません。しかし、だからと言って、会社法人に簡単に置き換えて考えてはいけない側面があるという事です。教会が雇用者で牧師が労働者という置き換えはNG。牧師の就業規則の是非など、ついこの世の基準と置き換えてしまうところに、今回の講座でメスが入れられたということです。今回の講師が牧師などの教職ではなく、信徒であり、一教会の役員という立場の方でした。だから牧師ならば言いづらいことを、率直に述べておられたと思います。
 
 このように、私たちも、いつも自分の思考回路、または言葉にして出すときに、この世の価値観ややり方で考えていないか吟味が必要だなと思わされました。ことば遣い一つから、そのことを考えていく。その意識付けの大切さと、いつも祈りとみことばを優先する生き方に、そのことが培われることも学びました。実は、このことと、今日から学ぶ創世記34章の出来事はよく似ています。
 
 神と格闘し、神様への信仰が深められ、主の前にも人の前にもへりくだる人とされたヤコブ。そして、苦手意識を持っていたエサウとの和解ができ、事は一件落着という場面ですが、今日、読んだところを皆さんはどのように判断するでしょうか。
 せっかくエサウと仲直りして、ホッとしていたら、大変な事件に発展していくヤコブ一家。いったいヤコブ一家に何があったのか。ヤコブ自身が何をしたのか。彼にどんな理由があって、今日の事件になったのか、そのことを見ていきたいと思います。
 
 
1.ヤコブ一家を襲う不幸
 今日は、34章1節から読みましたが、このストーリーは33章17節以降から繋がっています。今日の説教題が「途中下車の結果」としているのは、ヤコブのこの足取り、行動はこれで良かったのですか、という問いがここにあるからです。つまり、神様から「あなたの生まれた国に帰りなさい」というみことばをいただいていながら、そんな場所の土地まで買って、定住して良いのかということです。
 
 なぜヤコブは、生まれ故郷へ急がずに、こんなところで足踏みしてしまったのか。しかも休憩というレベルではなく、土地を購入したってことは、これから先へ進むにしても、それが足かせになるというリスクを伴います。このヤコブの姿がかつての私と重なります。つまり、緊張感が続いたあとの、ホッとしたときに、それまでの献身的な思いや、神様への信仰は失っていないと思われる中で、どんどん不幸なことが起こるという部分で、です。どうして、こんなことになるのか。これは、単なる偶然の連続なのか。それとも、神様からの罰なのか、警告なのか、教育なのか、一体何なのか。
 
 私が26歳のときに、献身のみことばが与えられて、その時の私は益々、住む家は賃貸に限ると思っていました。やはり持ち家では、この世では旅人であり寄留者であるという生き方は難しくなると思っていたからです。しかし、教会の執事としても、信徒説教者としても充実した教会生活が与えられたり、札幌での暮らしも慣れてきて、子どもたちも成長し、仕事の上でも多くの仕事を任されるようになって収入が増えていったときに、つまり安定した生活を感じていたとき、マンションを買っても大丈夫ではないかと考えるようになり、結局、マンションを買うことに決めました。
 
 私は、そのあたりから実際に伝道者としての訓練を受けるために神学校に入るのではなく、信徒として教会を支えていく意味での召しかも知れないなどとも思い、自分の目指すべきものがぶれていきました。その背景には、滝川から札幌へ移って来た緊張感、新しい仕事環境が変わったという緊張感、教会を転入会することの緊張感があってからの、というプロセスがありました。まさにエサウとの再会という緊張を通ったあとのヤコブのようです。
 
そこから数年たって、生活が軌道に乗り出して、ホッとしていた時期でした。そういう時に、収入が増えて、休みも週休二日制となって、段々と信仰よりも、この世の基準の安定が私の平安の中心になっていきました。仕事が丁度よくあって、休みもそこそこあって、家族と外食も出来て、幸せだという、その幸せ感を支えるものが、神様からの恵みであるという価値観から、自分が頑張って家族を養っているのだという思い上がりがあったのだと思います。そして、いつしかお金がこのくらいあれば大丈夫だという、この世的な思考になっていたと思います。
 
 ですから、家を買うことが悪いのではなく、そこに至る判断基準はどうだったのかが問われるということです。つまり、私がマンション購入を決めた基準には、お金があれば大丈夫という、まったくこの世の価値観があり、さもそのマンションをささげて伝道の場にするという名目を掲げつつも、やはりその判断にはこの世的な価値観という混ぜ物がありますから、それは神様の前にはきよくありません。
そういうところに信仰の破れ口があり、その信仰のほころびから、崩れるように、様々な出来事が襲って来るのです。
 
 
2.さらに泥沼へ~救いはどこへ
 ヤコブもそうでした。ヤコブには、一人の娘がいました。ディナという、ヤコブの二人の妻のうちのレアとの間に生まれた愛娘です。ディナはこれまでのハランからの長い逃亡の旅があって、ここで久しぶりに落ち着いていられたようです。そこで自分と同じような世代の地元の娘たちと友達になろうと散歩に出かけます。ある意味、無防備であり、柵から外に出た子羊です。すると、そこに、ヤコブが土地を購入した相手側の人間であるシェケムが、まさに狼が子羊を襲うように、乱暴し、ディナを辱めてしまったのでした。
 
ところが、このシェケムは自分が犯した罪を償うのではなく、自分が襲った相手であるディナのことを好きになり、愛するようになったとあります。それで、自分の父親に相談して、ディナを嫁にもらいたいと願うのです。ここを見ると、このシェケムの人たちの何か常識が歪んでいることに気づかされます。暴力で女性を辱めておいて、そのあと礼儀正しく親を通じて結婚を申し出て来るという、不思議な非常識な文化を感じます。
 
もし、当時のこの地域の女性に対する扱い方として、このような結婚方法が当たり前のことであったとしても、聖書はそうは言っていません。7節を読みます。
ヤコブの息子たちが、野から帰って来て、これを聞いた。人々は心を痛め、ひどく怒った。シェケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルの中で恥ずべきことを行ったからである。このようなことは許せないことである。」
 
 この創世記の記者自身が「このようなことは許せないことである」と、神のことばとして、神様の常識をはっきりと書き残しています。これはあってはならない、酷い出来事であって、これを当時の常識として認めて良いものではないのです。ディナ本人もヤコブの家族全員が心を痛め、怒ったのです。この蛮行を見過ごしてはならないと。
 
 そこで、ヤコブの息子たち、つまりディナの兄弟たちの矛先は妹を辱めたシェケムとその一族全員に向けられます。ヤコブの息子たちは、どうしても結婚させてほしいと願うシェケムとその父親ハモルに対して、割礼を受ければ、結婚させてやっても良いと言います。それは割礼を受けるということは、このヤコブ一族、つまりアブラハムの契約の民として扱われることになるからです。しかし、それは表向きの理由であり、その本心は、ディナを辱めたシェケムと一族もろとも皆殺しにするという企みがあったのです。
 
 ここに、被害を受けた側にとって非常に大きな試練があります。それは、暴力で辱められたのだから、暴力をもってその責任をとってもらうという刑罰による解決と、暴力は良くないから、お金を払ってもらって、賠償金で良いことにするという穏健策。特に、この時代、きちんとした行政や司法警察機関がないときに、誰がこれをさばくのか。そしてディナの受けた傷を癒すことができるのか。結婚させればそれで良いのか。彼らの罪を放置して良いのか、という悩みが生まれます。
 
 これはロシアのウクライナ侵攻においても同じテーマがあります。毎日、目の前でロシアによってミサイルやドローンが落とされて命を失っている人がいる。国家が国家に対して行っているので、ロシアの蛮行を止める法的機関はありません。では、このまま見過ごしていて良いのか。そのことについては、この次の説教の中で触れたいと思いますが、今日のところでは、どうしてこのような悲しい出来事に繋がっていったのか。この出来事はエスカレートしていき、今度はシェケムとその一族の皆殺し事件にまで発展します。この彼らの怒り、そして聖書記者が語る「許せないことである」という言葉は、ヤコブ一家にとって大きな試練となった。その原因が、やはりヤコブの途中下車に問題がある。そのことを、今日の箇所から知ることができるのです。
 
 
3.祝福は神のみことばを第一にすること
 私は、みことばを伝える伝道者として召されていながら、この世の価値観を優先させ、そのあと、どんどん奈落の底に落とされるように、ローンが払えない、税金も納められない、どん底を経験します。私は、今日のヤコブのお話から、やはりヤコブがみことばを後回しにするのではなく、先ず主の言われたとおりに、「生まれた国に帰る」ことを第一にしていたら、ディナはこのようなことにならなかったと考えられます。
 
 そして、このあとの悲惨なことも起きなかったでしょう。ここに、この出来事が聖書の言葉として残されている意味があります。主の救いに預かった者は、主のみことばに忠実に従うことが最も大切だということをヤコブの出来を通して教えているのです。聖書は徹底しています。聖書は、神様のみことばを軽んじることについて、大変厳しく警告しています。だから、みことばを取り次ぐ者の責任はかなり重いです。
 
 モーセはたった一回、岩を打っただけで約束の地へ入ることが許されませんでした。それは、指導者がみことばを軽んじるところから、この世の基準が群れに入り込む破れ口となるからです。だから、現代の教会の中で牧師の責任は重大です。新約聖書にこのようなみことばがあります。
「私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」ヤコブ3:1
 
 ヤコブは、真の神である主を証しするイスラエル民族の祖先として、主のみことばに忠実である使命がありました。それだけに、この出来事は重いです。ヤコブはきっと、エサウとのことでホッとして、神様のみことばを後回しにすることを、そうとは思わないで、この場所にとどまったと思われます。ここに至るまで、祭壇を築いたとはありますが、神様に具体的に祈って途中下車したとは書いていません。彼はみことばでなく、自分の判断でこのくらいなら良いだろうと、この場所を買ってとどまったのでしょう。しかし、アブラハムの神、イサクの神は、今ヤコブの神として、そのヤコブを契約の民の祖先としてきよめます。
 
 私たちも、教会にこの世の基準、この世の考え方、やり方を無意識のうちに持って来るので注意が必要です。聖書に書いていないことだから、この世のやり方でやる。よくある判断です。でも、本当にそうでしょうか。それは、神様の言葉には限界があると言っているに等しいことです。聖書は信仰のことだけで、一般社会のことは一般社会のルールでやりましょう。本当にそれで良いのでしょうか。
 
 いつも聖書に聴き、聖書の言葉に触れるとは、この世のあらゆることを考えるときに、聖書的視点を与えて、どんなことも教会的に行動する生き方を生み出します。例えば車の運転の仕方そのものは文言としては聖書には書いていません。でも、聖書をいつも読み、神さまとの交わりを持っている人は、どのような運転が神を愛し、人を愛するのか、その目的に則った神のしもべとしての判断と行動を与えます。
 
 
結び
 教会の活動の中心は何でしょうか。それは礼拝です。それは、この礼拝式の時間だけのことを言っているのではありません。この礼拝式の延長上に礼拝という生き方があるのです。ヤコブは確かに要所要所に祭壇を築き礼拝しました。でも大事なのは、その祭壇を築いたという礼拝が、そのあとの生き方になっているかどうかです。私たちも日曜日ごとに礼拝式において礼拝しています。しかし、後奏が終わったら、そこで礼拝が終わりではありません。厳密に言えば、報告・歓迎の時も礼拝式の一部です。やれやれという時間ではありません。
 
 ヨーロッパのある教会に行くと、報告の時間は後奏の前に置かれていて、後奏が流れている間に、それぞれが家に帰って行くそうです。それは、ここから遣わされるという信仰がそこにあるからです。一週間の信仰の歩みがこの礼拝式から始まったということです。最近、前奏、後奏の曲名を週報に載せているのは、その曲にその意味のみことばが流れていることを、私たちが知るためです。ですから、今朝であれば、この礼拝式の恵みを携えつつ「神の国と神の義」を第一にして生きようというメッセージがあるのです。そのことも考えて、奏楽者の兄弟姉妹は祈り備えています。それは曲を通して説教しているのと同じだからです。ただの伴奏ではありません。すべて礼拝はみことばなのです。だから、そこまで受け取って、ぜひこの礼拝から遣わされたいと思うのです。
 
つまり、私たちの歩み、すべてにおいて神への礼拝、感謝、献身であること。それが福音に生きることであり、その生き方でキリストを証しする伝道です。だから、教会の活動一つ一つにおいても、礼拝は続いています。総会も教会員会も礼拝です。言い換えると礼拝で語られた御言葉の恵みへの応答です。
 
 今回の公開講座でも言われていましたが、教会の会議の持ち方、あり方、言葉遣い、態度、すべてにおいて、それは主への礼拝かどうかが問われるということです。そう考えるならば、そのどこにこの世の価値観が入る隙間があるでしょう。私たちが神様の御顔を仰ぎ、賛美し、みことばに生きようとする、そのどこにこの世の常識が挟まってくるでしょう。確かに罪は戸口で待ち伏せしているしたたかなものです。しかし、一人ひとりが主のみことばを預かっている者として、礼拝に生きるならば、まず教会が変えられます。礼拝式以外の活動も変えられます。
 
 そして、私たちが遣わされる、家庭、職場、学校、町内、その置かれたところでの社会が変えられます。あなたが遣わされる、その場所が天の御国と繋がるのです。それは、神に感謝して生きるあなたからキリストの香りがあふれ出るからです。そこに神の国が建てられるのです。だから、この世の価値観や常識ではなく、主からいただいたみことばで満たされ、破れ口に神の国が、神の支配があるようにお祈りしたいと思います。
 
祈り 「天にまします。我らの父よ。御名を崇めさせたまえ。御国を来らせたまえ」