日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2022年11月6日 白石教会礼拝

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https://youtu.be/LSUVr7aJNzU                 

説教題 「正義はどちらに」
聖書箇所 創世記34章18節~31節
 
 
序論
 ロシアのウクライナ軍事侵攻、北朝鮮のミサイル発射。現在、日本だけでなく世界中を脅かすようなことが毎日続いています。ニュースを観て、プーチン金正恩は何て悪い奴なのかと思ってしまいます。それは、私の正義感でそう思うわけです。しかし、プーチン金正恩にしてみると、それぞれにも「自分の正義」に基づく理由があるのです。
 
 プーチンにとっては、ベルリンの壁が壊され、東西冷戦が終結し、これまでソ連として、その傘下にあった東ヨーロッパの国々がどんどんNATOEUに加盟したり、友好国になっていくことが、とても怖いことです。だから、ある意味、最後の砦のようなウクライナが西側につくことは、意地でも阻止したい。そのようにロシアという国を守ることこそ大統領である自分の仕事として、そういう正義もあるのです。
 
 金正恩も、最近アメリカと韓国、また日本も含めて行っている合同軍事演習によって威嚇されたという理由で、それならばこちらも黙ってはいないということを、国内外に示す意味でミサイルを発射します。それもまた北朝鮮の指導者である金正恩の正義かも知れません。
 
 今日の説教題は「正義はどちらに」としました。それは、ロシアとウクライナ、また西側諸国、日本、北朝鮮のうち、どの正義が真実なのか、という意味ではありません。それらのことは、今、目の前にある出来事の一つに過ぎません。というのも、私達の人生、私たちのまわりでは、ニュースにならなくても、いつも、多くの正義というものによって、物事が図られ、選ばれ、決められていく出来事に溢れているからです。
 
 その中で、やはり正義とは何かを、いつも問われながら生きていると言えるのではないでしょうか。特に、プーチン金正恩を悪く思うときに、そこに私という正義があって、そう思っているわけですが、その正義は、私の中のどのような基準によってそう思っているのか、やはり吟味する必要があると思うのです。皆さんはいかがでしょうか。皆さんの正義感、その価値基準は本当に正しいと言えるでしょうか。その根拠を何に置いて、そう言えるでしょうか。
 
 多くの人間は、やはり自分という物差しがあって、その基準で物事を測っているのではないでしょうか。先週の説教は「罪」についてお話しましたが、私たちは、アダムとエバの堕落の影響を受けて、もともと神様のかたちに造られた、非常に良いものであったのに、今はダメージを受けていると言いました。事故を起こしたまま辛うじて走っている自動車のように、です。だから、私たちのうちに造られていた「正義」も歪んでおり、そのダメージによって、他の人との関係にも大きな影響を及ぼすのです。
 
 今日、お読みした聖書箇所は先々週からの続きとなります。神様から「生まれ故郷に帰りなさい」とみことばが与えられて、いよいよ目前というときに、ヤコブカナン人の土地を購入して、そこに滞在することにしました。そこに大変つらい事件が襲います。
 
 それは、愛娘ディナが、シェケムという男に強姦されるというおぞましい出来事でした。そのシェケムという男は、ヤコブが買った土地の地主の家の息子でした。しかしヤコブは娘が大変な目に合わされていながら抗議することもなく、事がわかっているのに黙っていました。そこに、今度は、ディナを辱めたシェケム本人と父親がディナを嫁にしたいとやって来ます。あとは、ヤコブがどうしたのかは書かれておらず、今日、お読みした最後に一言出て来るだけです。
 
 結果的に、ヤコブの息子たちが、シェケムをはじめ、その父親ハモルなどそこに住む男性をすべて殺したのです。今朝は、このシェケム親子、ヤコブの息子たち、そしてヤコブという三者の正義を観ながら、私たちの正義を考えていきたいと思います。
 
 
1.シェケムとハモルの正義
 まず、シェケムとハモルの正義について見たいと思います。今日の箇所では、このシェケムという人物が、敬われていたことがわかります。そう。彼は、この町の中で良い人だと思われていたのです。彼が呼びかけると、ヤコブの息子たちに言われた割礼を受けるように、というお願いも皆が言う事を聞くほどです。19節
「この若者は、ためらわずにこのことを実行した。彼はヤコブの娘を愛しており、また父の家のだれよりも彼は敬われていたからである。」
 
 なるほど、彼は礼儀正しい人物。だから、ディナと結婚するために父親に相談してから、父親を伴ってヤコブに会いに来ています。つまり、最大限の礼儀を尽くすという正義によって、ディナと結婚するために努力しているのです。だから、言われた通りに、シェケム自身も父親も割礼を受けて、傷が痛んでいたわけです。そこをヤコブの息子たちに襲われ殺されてしまう。
 
 このように、今、私は、シェケムの正義をアピールするために、彼の良いところだけを言いましたが、やはり、彼の正義の欠点に触れずにここを過ぎることはできません。それは、そんなに尊敬されるくらいの人で、礼儀正しく、礼を尽くそうとするような人なのに、どうして、一人で散歩しているディナに乱暴したのか。ここに、彼の、そして、彼の父親ハモルも含めて、その言動に違和感を覚えます。前回のときも言いましたが、彼らの常識、正義が歪んでいるようです。
 
 本来ならば、乱暴せずに、先に父親に相談し、ヤコブに会いに来て、結婚の約束を果たすべきでした。しかし、そういう価値観は彼らには無いので、ヤコブに会いに来ても、謝罪のことば一つなく、ただ結婚させてほしいというお願いだけです。ここに、彼らの結婚、女性、性に対する歪みを観ます。乱暴してから「愛しています」と言われても、ディナの心の傷は治らないでしょう。このカナン人たちについては、このときから約800年後に、彼らを聖絶せよ(滅ぼし尽くしなさい)という命令が神様から出されることになります。それは、子どもを犠牲にするモレク信仰や、神殿娼婦や神殿男娼のような、乱れた性を煽るような不道徳で暴力的な宗教文化が根付いていたからでした。
 
つまり、このときの歪みがその後もエスカレートして、そのような不道徳なことを公然と行うようになったのかも知れません。いずれにしても、シェケムのディナを愛し、心から嫁にしたいという気持ちと、その誠意は分かりますが、彼のその正義には、自分が犯した罪に気が付いていない。聖書がはっきり言っている7節の「このようなことは許せないことである」とする神の前に、その罪が置き去りにされている誤りがあるのです。
 
 
2.息子たちの正義
 次にヤコブの息子たちの正義について見ます。彼らは父親ヤコブの旅に伴って来ましたが、ディナと同じように、この町にとどまって、どのように暮らすのか、思い巡らしていたでしょう。その矢先に、自分たちの姉妹であるディナがシェケムによって辱められた。しかも、父親であるヤコブは何にも動いてくれない。怒ってくれない。抗議してくれない。もし、ヤコブがこの一族の長として、シェケム親子にきちんと抗議していたら、皆殺しは避けられたかも知れません。しかし、30節までヤコブのセリフはありません。
 
 ディナの兄弟たち、特に母親を同じくするシメオンとレビが中心となって、シェケムの罪に対して怒り、自分たちで刑罰を与えようとするのです。それは、だれも、彼らをさばくものがなく、取り締まるルールも常識もないからです。
 
 この状況は、現在のロシアによるウクライナ軍事侵攻にも通ずる課題だと思います。他の国を武力によって威嚇、武力行使を慎まなければならないという国際的な常識はあります。国連憲章で、それははっきりと謳っています。しかしロシアはウクライナに武力で威嚇し、現に武力によって軍事侵攻を行って、目の前でウクライナの人たちが殺されていることを私たちは毎日ニュースを通して目の当たりにしている訳です。それは、自分たちの前で傷つけられ傷んでいるディナを観る、この兄たちのようです。
 
 戦争の場合はまだ続いているので、早く止めないと、どんどん人が殺されていくのです。そして、他の国を犯していることは明白なのに、だれもその罪に対して手が出せないというもどかしさを覚えます。ロシア人が一人でウクライナにやって来て暴れればすぐにウクライナの警察で対処できます。そして、ウクライナの裁判でさばくことができます。しかし、何千人も何万人の軍隊で来られたら警察では歯が立ちませんから、当然、軍隊が出て来て阻止します。そのところを西側諸国が応援して物資や武器を送り、ロシアの軍事侵攻が広がらないようにしているのです。
 
 しかし、ここでウクライナのゼレンスキー大統領が理性を失い、怒りに任せて、ロシアとの国境を越えて攻撃、またロシア国内に進軍すると、ことは大きくなっていきます。それはロシアにとっては侵略されたことになりますから、ロシアの正義が更に動き出すことになるからです。
 
 ヤコブの息子たちも、彼らのもともとの正義感は正しかったでしょう。7節では「心を痛め、ひどく怒った」とあります。無垢な妹が乱暴されたという思い、家族ならば誰もが抱く思いでしょう。しかし、この怒りがもともとあった正義感を歪めていきます。新約聖書にこのような言葉があります。
「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです」ヤコブ1:19,20
 ここにヤコブの息子たちの正義にある弱さに気づかされます。正しいことのために怒るという感情自体は罪ではありませんが、怒りっぽいことや怒り続けることについては警告されています。
 
 ヤコブの息子たちは、この怒りを抑え切れず、怒りに任せてシェケムを殺し、その父親も殺し、その町の男子すべてを殺したのです。もしかりに死刑にすべき罪であったとしても死ぬのはシェケムだけで良かったはずです。しかし、従順に割礼を受けてくれた無関係な男性全員を皆殺しにするというやりすぎ、しかも、略奪までしています。これは、ガソリンに火がついたように、その勢いは本来関係のないものまで命を奪い、また新たな問題が起こって行くのです。これがヤコブの息子たちの正義でした。
 
 
3.ヤコブの正義
 最後にヤコブの正義はどうでしょうか。彼は、徹底して平和主義でした。娘が乱暴されても、怒ることをせず、相手の男も、親も受け入れています。そして、ずっと黙って余計なことを言っていません。無抵抗です。もし、息子たちがヤコブの姿勢を真似ていたら、おそらくこのような皆殺し事件にはならなかったでしょう。
 
 では、彼の無抵抗な平和主義が一番正しい正義なのでしょうか。血が一滴も流されずに済むのですから、ヤコブの正義がこの中で最も優れている正義なのでしょうか。そうではないでしょう。やっと開いたヤコブの言葉をご覧ください。
30節「それでヤコブはシメオンとレビに言った。『あなたがたは、困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。』」
 
 このことばからヤコブの平和主義という正義の弱さを観ることができます。彼は息子たちがしたことで「私を憎まれ者にしてしまった」と言っています。それは、カナン人たちとの争いを避けるあまり、自分の家族が被害に遭っても目をつぶり、言いなりになろうとしていたということです。それは、このカナン人たちの歪んだ常識、価値観の影響を受けていくことを許容しているということでもあります。つまり神の民としてのきよさを軽く見ているということです。それは単にこの世とうまくやっていくことを大事にしたということです。
 
 平和なこと、血が流されないことは大事です。しかし、だからといって、この世と調子を合わせるような生き方をしてはいけません。そもそもヤコブの居場所はここではありません。もっと先に進むべきでした。
 
 以上のように三者の正義をざっと見てきました。どれを見ても完璧な正義はありません。そして、このような歪んだ正義すべて私も持っています。皆さんはいかがでしょうか。シェケムのように、まわりの人から良い人だと思われているかも知れません。しかし、他方で酷い罪人ではないか。私は罪人ですと公に言えても、個別の罪を赤裸々に人の前で言えるでしょうか。私は言えません。またヤコブの息子たちのように、動機は正しい怒りであっても、相手を赦せず、顔を見るのも嫌になるくらい呪ってしまうこともあります。また、ヤコブのように、この世でうまくやっていきたいので、聖書の常識よりもこの世の風潮や常識の方に聖書の解釈を変更して合わせるような誘惑にも会います。
 
 皆さんはいかがでしょうか。皆さんの正義感は正しいでしょうか。その怒りはどこに向かっているでしょうか。あなたの物差しはメートル法でしょうか、尺貫法でしょうか。1mと1尺では長さが違うように、一人ひとり、その基準は歪み、ずれているのです。では、ヤコブはどうすべきだったのでしょうか。ヤコブの息子たちもどうするべきだったのでしょうか。その答えが、今週のみことばにあります。その答えとはイエス・キリストです。
 
 
結び
 今日の箇所で、人間の唱える正義には限界があるということが見えてきます。しかも、「怒りは神の義を実現しない」とみことばにあったように、決して良いものを生み出しません。そう思う時に、私の中からは、いくらほじくり返しても、神様の義、真の正義は出て来ないのです。
 
 だから、罪のないお方であるイエス様が、「私たちの利己的な正義という罪」を負い、十字架の道を歩み死なれたのです。それは、十字架の死によって真の正義を指し示すためでした。罪を犯したことがないイエス様が反抗せずに、ローマ帝国ユダヤ人たちのそれぞれの歪んだ正義によってさばかれるままにされた。それは、それをご覧になっておられる真の裁判官である父なる神に、彼らの裁判、そして十字架刑という判決が正しかったのかをお任せになったということです。
 
 つまり、今日の場面でどうすることが最も大切なのかを身をもって体現してくださったのです。これはヤコブの平和主義とは違います。イエス様は人々に寄り添うお方ですが、この世と調子を合わせるお方ではありませんでした。パリサイ人などの聖書のプロのような人々とは特に、その間違いをはっきり示し、断罪しました。だから嫌われ、妬まれて十字架に追いやられたのです。もし、単なる無抵抗主義者であるならば、律法学者たちの教えにも反論しないで、うまくやっていく方法をとったことでしょう。しかし、主イエス様は神のみことばが曲げて語られることには真っ向から抵抗したのです。それは、神のことばが曲げられることに関しては寄り添うことができないからです。これが神の義、キリストの正義です。
 
 だから、このように、神の義として来られた主イエス・キリストを私たちが信じることによって、私たちの歪んだ正義が修復されていくのです。私たちは生まれながらにして罪を持っているので、そのままの正義感では人も自分も傷つけます。しかし、真の義である主イエス・キリストを受け入れるならば、そのキリストの義をいただいて、全てのことを正しくさばかれる神様に委ねていけるように造り変えられるのです。
 
 そういう人が一人二人と増え広がっていくならば、戦争は終わります。ミサイルはいりません。皆さんはいかがでしょうか。あなたの正義は正しいですか。その基準は何ですか。そのためにも、神様が与えてくださった義なる主イエス様を信じて、このお方の義を求めてまいりましょう。今朝は、幸いにして、礼拝式の中で聖餐があります。イエス様を信じて洗礼を受けている方は、どこの教会員であってもぜひ受けてください。それは、イエス様ご自身が命じられたことであり、イエス様ご自身を覚えるために、絶対に必要なことだからです。そうすることで、私たちの歪んだ心、愛、意志、感情、人格、正義すべてにおいて神のかたちが回復するからです。