のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年11月13日 白石教会礼拝

説教題 「ともにいてくださる全能の神」
聖書箇所 創世記35章1節~15節
 
 
序論
 クリスチャンの歩みは「聖化」の歩みと言われます。「わたし(神)が聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(Ⅰペテロ1:16)と御言葉にあるように、私たちはイエス・キリストを信じてから「聖い者」へと変えられていく生き方が始まりました。聖くされる歩みということは、私たちが元々きよくないものであるということを同時に言っています。だから、そこから徐々に、日々新たにされていくのです。しかし、その聖くされていく過程には、多くの痛みを経験することもあります。
 
 ヤコブは、信仰の父アブラハムの孫として、真の神様を信じる者となり、その歩みを続けていく中で、やはり、多くの痛みを経験してきました。痛みを経験するとは、そのくらい、彼自身がきよくなかったということが言えます。兄エサウとの争いも、ハランにおけるラバンとの出来事からも、そこで多くの苦しみを味わったのは、そもそもヤコブ自身の罪深さがそこにあったからです。人を欺くような彼の気質、人を陥れて得しようとする罪の性質は、多くの苦しみを通して、少しずつ変えられてきました。
 
 そして、ハランから生まれ故郷に帰るように神様からみことばが与えられて、戻るその渦中でも、やはり苦しみを通ることになった。それは、これまでのお話の中で、みことばを軽んじて、途中の町で油を売ってしまった。ちょっと立ち寄っただけだったのか。それにしては、土地を購入までして居座っていた行動には、疑問がある。そんな折、娘のディナが乱暴される事件が起こり、そこから、ディナの兄たちによる復讐劇で、ヤコブは窮地に立たされます。それが、ヤコブにとって、きよめられるための苦しみとなった。
 
 ちょっと途中の町に寄っただけなのに神様は厳しすぎる。そう思われる方もいるかも知れません。でも、これは神様からの罰でそうなっているのではなく、ヤコブの罪深さが、その苦しみを生んでいるのです。むしろ、神様がともにいてくださっているからこそ、ヤコブの罪による失敗や苦しみが、彼自身の信仰の訓練として用いられたということです。
 
 これが私たちの歩みでもあります。全能の神様がともにおられるので、私たちはこの闇の世界を、この罪の世を歩んでいけるのです。そして、その中でその闇に誘われて失敗も経験することもある。しかし、神を信じて生きているならば、その失敗が残念なことだけで終らない、むしろ私たちがきよくされていくために、その労苦が用いられるのです。まだまだ、私たちにも罪の性質が残っています。それが削られ、きよめられて、神の子どもとして完成に近づくためです。
 
 今日の説教題は「ともにいてくださる全能の神」です。それは3節のヤコブのことばと、11節の神様からのことばを合わせたものです。今日、これが、今週の私たちのことばとなるよう、ともに今日のみことばに聞いてまいりましょう。
 
 
1.みことばを聴く恵み
 シェケムという町で、シェケムという男とその父親ハモルと出会い、結果的に散々な目にあってしまったヤコブ。しかし、それは神の道を歩むヤコブとしては、やはりヤコブ自身の罪が浮き彫りにされたようなものでした。娘が被害に遭ったことだけでも重い出来事なのに、その相手一家、その町の男性を皆殺しにした息子たち。ヤコブの家庭の中が大嵐の状態になってしまいました。そこに、何と神様が現れて下さってみことばをくださいました。
 
1節を読みます。
「神はヤコブに仰せられた。『立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。』」
 
 神様は、すっかり旅の目的を忘れ、自分の罪にも気づかずに疲労困憊しているヤコブに語られた。そのみことばは何か。それは、ヤコブの旅の目的をあらためて明らかにするということでした。そもそも、この旅を始めたのは、神様から「あなたの生まれ故郷に帰りなさい」というみことばが与えられたからでした。でも、そこから横道に逸れてしまっていたヤコブに神様は、横道にそれていたこと、みことばを軽んじていたことを断罪することなく、以前よりも明確に旅の目的を示されたのでした。
 
 ここに、自分の罪ゆえに苦しみを深めてしまった者に対する神様の優しさを見ます。それは、神様から離れた人間の根本的な問題である、神様のみことばよりも自分の考えを優先してしまう罪の性質を負っているヤコブに対する憐みだと思います。あえて、強いことばでさばかず、行き先であるベテルを示した上で、そこで祭壇を築きなさいと言われるだけです。
 
 しかし、この神様のみことばから、ヤコブ自身ははっきりと示されました。何を示されたのでしょうか。それは、自分自身の罪、そして、自分の家族の罪でしょう。2節と3節を見ると、ベテルに行こうと言っていますが、その前に「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい」と言っています。33章20節でも祭壇を築いて礼拝をしたはずなのに、そのときは捨てずに持っていたのに、今日の場面では、本来、捨てるべき物があったことがわかります。つまり、これまでの信仰生活、礼拝生活においても、ヤコブ一家は、実はかつてハランにいたときのハランの宗教を引きずってここまで来ていたのです。
 
 やはり、そこにヤコブ自身も実は分かっていたことであったのに、これまでは黙っていたという、ヤコブ自身の罪があったということではないでしょうか。隠れた罪が明らかにされる。これは、まさに聖化の歩みにおいて大切なプロセスです。
 
 私たちも、同じようなことを経験します。これまで培ってきたこの世のルールに基づく生き方や常識が暴かれるのです。交通事故などで保険を使う時に、保険屋さんは保険の査定が有利になるように、多少の嘘でも乗り切るようにアドバイスしてくれるときがあります。そういうときに、その通りにするのか、嘘ではなく真実によって事故処理するのか問われます。
 
 もし、そういう場面で嘘をつく方を選んだら、その時はうまくいったように思えても、あとで必ず嘘をついた事実が自分を苦しめ、思わぬときにバレることになります。やはり、神様を信じている者は正直に生きるように、経験する出来事を通して造り変えられて行くのです。ヤコブも家族たちも、神様からのみことばを聴いて、ここでようやく持っていた偶像を捨てました。
 
 するとどうでしょう。追って来ると思っていたシェケムの人びととヤコブたちの間に神様が立ってくださって、ヤコブたちは守られたのでした。5節にはこう書いています。
「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」
 
 みことばを聴いて罪を悔い改め、神に従おうとする者を神様は特別に守ってくださいます。ここが、神を信じてきよくされつつ歩む私たちの特権です。ご自分の子どもとした者たちを神様は親として特別に守ってくださるのです。私たちも、いつもみことばを聴いて、素直に悔い改めて立ち返る者でありたいです。特に、1節の「立ってベテルに上り」とある「立って」という言葉は、方向を変えるという意味での「立ちなさい」という命令形の言葉です。それは「悔い改めなさい」という意味でもあるのです。
 
 私たちはいつも罪を犯して生きています。だから、悔い改める必要がない人はいません。いつもへりくだって罪を認め、しかし、優しくみことばを与えて罪に気付かせてくださる神様に立ち返りたいです。
 
 
2.礼拝の中で神と出会い憐みを受ける
 6節。「ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来た。」
 
このようにヤコブ一家は、神様の導きの中、ようやくベテルに来ることができました。そして、神様のみことばに従って、そこに祭壇を築きました。そこは、20年前、エサウから逃げていたときに、初めて神様がヤコブに現れてくださった場所、礼拝をささげた場所でした。そして、このときのヤコブは、これまでのヤコブとは違います。罪を悔い改めて、家族が持っていた偶像を捨て、新たに信仰者としての歩みが始まるのです。あらためてその場所をエル・ベテルと名づけ、一族を伴って、イスラエルとして礼拝する民としての歩みです。
 
 ここで唐突にリベカの乳母デボラが死んで葬られたことが書かれていますが、いつから、ヤコブと一緒にいたのかは不明ですが、ヤコブに従いともに旅をしていた一人が、このベテルに来たときに、亡くなったという事実でしょう。しかし、その死は、単に悲しい死ではなく、目的地ベテルに到着して死んだという、イスラエルの民に数えられる死ではないでしょうか。それは、ヤコブという人について来たことによる祝福ではないでしょうか。まさに、異邦人でありながら、イエス様を信じ従うことで神の子どもとされている私たちの救いのモデルのような出来事です。
 
 私たちもイエス様を信じ従って、天の故郷を憧れつつ旅をしている者たちです。そして、やがて死を迎える時が来ます。しかし、その場所はベテル。つまり、神の家、それは天の御国です。そのことをここから覚えることができます。
 
 そこに、その礼拝の中で神様のみことばが語られます。それは、みことばを聴いて、自分の罪に向き合い、隠れていた罪を捨て、偶像を捨て、悔い改めて、真実な信仰をもって礼拝をささげているヤコブに対する恵みのみことばです。9節~12節を読みます。
「こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現われ、彼を祝福された。神は彼に仰せられた。『あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。』それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。『わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。』」
 
 ここで神様はあらためて、ヤコブの名前をイスラエルという新しい名で呼ぶように命じられ、彼はここから神の民イスラエル民族の祖先として立たされました。1節で神様が言われた「立ってベテルに上りなさい」という言葉の通り、彼は立って、みことばに従って、ここに立っています。ここからイスラエルとして立つのです。そして、11節、12節にあるように、このヤコブから生まれ出る子孫から一つの国民、諸国の民の集いが出るという約束。さらに王たちが出るという約束を聞きます。
 
 この約束は、事実、このあと約1000年後にイスラエル王国として成立し、ソロモンの時代には諸国の王たちもやってくるほどの繁栄ぶりを見せる王国として成就します。しかし、ヤコブ、つまりイスラエルには、そこまで見通すことはできません。ただ、神ご自身が自分のような愚かな者を愛してくださり、ここまでともにおられた恵みに感謝して、彼は柱を立てます。14節、15節。
ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ。ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけた。」
 
 聖書はくどいほど、この場所をベテルと名づけたことを強調します。それは、その名の通り、神の家が始まるからです。神の家とは何でしょう。それは、神の民としてのイスラエルのことであり、真の神を礼拝する集会、集まり、群れ、そして教会を指し示すことばです。その祝福が、このヤコブによる礼拝から広がって行く。その恵みをヤコブが先取りして、この礼拝において味わったのです。
 
 
結び
 今日の説教題は、3節のヤコブのことばと、11節の神様のことばを合わせてつくりましたが、ここに私たちが受け継いでいく祝福の連鎖があります。それは、今日のヤコブの姿とそのことばに、私たちの信仰もそのまま重なるものだからです。
 1節の神様からのみことばの前に、ヤコブは労苦を通してきよめてくださる神様を知ったのです。3節の彼の言葉は、彼の神に対する信仰告白になっています。神というお方は、「私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた」お方であるという告白です。
 
 そのことを思うことは、これまでの自分自身の歩いて来た道を振り返ることであり、その醜い姿に向き合うということでした。しかし、自分の罪ゆえに苦難が襲ってきても、「神様、あなたは私に答えてくださった。そして、寄り道してしまったときも、苦しい道を選んでしまったときも、神様、あなたはともにいてくださった。」
それこそが、どれほどの恵みか。全能の神様がともにおられる人生がどれほど価値ある歩みか。そのことを感謝して、彼は祭壇を築こうと言っていたのです。
 
 それに対して、神様は何と答えたのか。それが11節。
「わたしは全能の神である。」(エルシャダイ)です。これはかつて99歳になったアブラハムにも語られた神様の存在を表わす神様のお名前です。それは、非常に親しい関係であることを、神様の方から歩み寄ってくださって、示されたということです。
 この全能の神は、私たちの神でもあるのです。罪深いヤコブに語り、罪を気づかせ、悔い改めに導き、さらに親しく臨んでくださる主。13節にはこう書いてあります。
「神は彼に語られたその所で、彼を離れて上られた。」
 
 神様が上られたとは、それまでずっとヤコブのところまで降りて来てくださっていたということです。それは、愛する娘ディナが乱暴され辛かったときも、息子たちが騙して、シェケム親子とその町の男たちを皆殺しにして、お先真っ暗になったときも、主はヤコブとともにいて、その傷みを、その労苦をともに負い、ともに歩いてくださっていたのです。これが、私たちが信じ、愛し、従っている神様です。
 
 この地上にあって、基本的に私たちは辛い道を通ります。この地はアダムのゆえに呪われてしまったからです。そこに合わせて、自分の罪ゆえに苦難を経験することもあります。「それならば信じても良いことがない」という人がいるかも知れません。いいえ。そうではないのです。そのように、たとえ苦しいところを通っていても、今、辛いことの真ただ中にあったとしても、全能の神である主があなたの神であるならば、その不幸に見える出来事も、私たちをきよめるための訓練として用いられるからです。
 
 その訓練は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、全能の神様の完全な愛が、主の十字架の贖いを通して私たちの心に注がれているからです。それによって、日々、神様の子どもとして、聖なる者へと造り変えられるからです。この全能の神は、今週もあなたとともにおられます。私たちも、ぜひ全能の神様の前に、全ての罪を投げ捨てて、神を礼拝する家族として、この礼拝、ベテル(神の家=教会)からリセットされてまいりましょう。