のりさん牧師のブログ

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2022年11月20日 白石教会礼拝

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説教題 「イサクの歴史の終わり」
聖書箇所 創世記35章16節~29節
 
 
序論
 今日でイサクの歴史が終わります。どういう意味でしょうか。それは、創世記は「○○の歴史」で区切られている本ですから、これまで読んで来た箇所が「イサクの歴史」であったということです。それは25章19節から35章29節までが「イサクの歴史」だったのです。
 
 だから、ここで「イサクの歴史」が終わるので、次回36章は「エサウの歴史」とあり、37章からは「ヤコブの歴史」として区切られているのです。それを数えると、創世記は10個の歴史に分けられていることがわかります。ただし、そのお話の分量はまちまちです。次回の「エサウの歴史」とこれまでの「イサクの歴史」を比較しても、その書いてある文章の内容や量には大きな開きがあることがわかります。
 
 創世記では、この「○○の歴史」の中で、どの歴史が一番長いでしょうか。それは、37章から始まる「ヤコブの歴史」が一番長いです。2位は「テラの歴史」です。すると、何か共通する特徴に気が付かないでしょうか。この創世記における「○○の歴史」の特徴に気づかないでしょうか。それは、「○○の歴史」の内容が、その名前の人のことではなく、ほとんど、その息子のことが書かれているということです。「テラの歴史」がどうして2位なのか。それは、そのほとんどがテラの息子である信仰の父アブラハムについて書かれているからです。これは「テラの歴史」からそのような特徴が見えてきます。それ以外は「ノアの歴史」を除いては、だいたい系図そのもので終っています。
 
 だから、今日で終わる「イサクの歴史」も、これまでのお話の内容は、その半分以上は、息子であるヤコブについてでした。また一番長い「ヤコブの歴史」も、そのお話の中心は誰でしょうか。それはヤコブの息子のヨセフです。面白いですね。聖書のこだわりというか、特徴、ユニークさが伝わってきます。英語で歴史のことをヒストリー
history)というのは、それは“His story”のこと。つまり「神のストーリー」だからと、よく言われます。
 
 私たちの歴史、それは同時に神の歴史なのだ。そういう視点で見るときに、ヤコブの歴史かと思っていたら実はイサクの歴史だったという、聖書のユニークさとの共通の意味が見えてきます。それで今日は、その聖書が語る歴史を意識しながら、イサクの歴史の終わりに語られている神のことばに聴いていきたいと思います。
 
 
1.まず二つの出来事
 今日の箇所は、前回までと大きく違うことは、短いエピソードが2つと、ヤコブの息子たちの名簿、そしてイサクの死が、まとめて語られているということです。その一つひとつを深く詳しく考察するならば、もっとヤコブの信仰とそのあり方を知ることができると思います。しかし、聖書は、イサクの歴史をここで終えるために、少し駆け足になっていることが伝わってきます。
ラケルの死とベニヤミン誕生
16節をご覧ください。
「彼がベテルを旅立って、エフラテまで行くにはまだかなりの道のりがあるとき、ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ。」
 
ヤコブたちは、ベテルからエフラテつまりベツレヘムへ向かっていたようです。来週からアドヴェントですが、今日出て来るエフラテ、つまりベツレヘムは、まだダビデの町になる前ではありますが、ベツレヘムに向かうということと、そして、途中でラケルが産気づくというところを見ると、ヨセフとマリアのクリスマスの場面を想起させます。
 
 でも、ラケルはエフラテに着く前に死んでしまいます。泊めてくれる宿屋がなかったからでしょうか。彼らはもともと遊牧民で、しかも専属の助産婦がいたくらいですから、普通の出産であれば問題なくできたはずです。しかし、ラケルは出産によって死ぬという、とても残念なことになってしまいました。「ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ」とあります。つまり難産でした。助産婦が「今度も男のお子さんです」(17節)と励ましましたが、その甲斐なく、命を落としたのです。その断末魔で彼女が叫んだのが、その子の名でした。「ベン・オニ」それは「私の苦しみの子」。しかしヤコブは、その「私の苦しみの子」という言葉を聞いて、似た発音の別な意味の名前にすぐに置き換えます。ベニヤミンと。それは「右手の子」という意味でした。
 
 ラケルはエフラテに着く前に、途中で亡くなったので、そこに葬られました。ヤコブは最愛の妻を失いました。とても悲しかったでしょう。しかし、この出来事も、苦難が祝福になっていくとことに繋がっていることがわかります。
確かにラケルの死は辛い。しかも、もともと不妊の女性であったラケルがようやく二人目を身ごもり産むことができる。それも男の子。そこに名前がベン・オニからヤコブによってベニヤミンへと切り替えられた。「苦しみ君」からヤコブによって「右手君」となった。右というのは、聖書では神の力を表わす方向です。
 
 この命がけの出産が、神様の歴史という視点で見るならば、その悲しみの中にも祝福が見えてきます。それは、この出産によってイスラエル12部族に向かう準備となったからです。一見、不幸と見える出来事の中にも、確かに神が働かれているならば、悲しみの涙も喜びの涙へと変えられていくのです。また、このベニヤミンの子孫からイスラエル王国初代王であるサウルが立ち、また新約時代になって、主イエス使徒となったパウロも、このベニヤミンの子孫です。
 
②ルベンの罪と神の摂理
次のエピソードもまた、がっかりさせられる出来事です。なんで、ここでこんなことになるのか。非常に残念な気持ちにさせられる箇所ですね。21節、22節を読みます。
イスラエルは旅を続け、ミグダル・エデルのかなたに天幕を張った。イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た。イスラエルはこのことを聞いた。」
 
 ルベンはヤコブの長男です。本来ならば、ヤコブの後を継いでいく立場です。しかし、この姦淫によって、ルベンはヤコブからの相続権を失うことになります。まだ先のお話ですが、エジプトにおいてヤコブが死ぬときに、このルベンに対して、「わが長子」と認めつつも、家長として認められていないことが告げられます。その理由としてヤコブはこう言っています。
「もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。――彼は私の寝床に上った―ー」創世記49:4
 
 では誰がヤコブの後を継ぐのか。23節以降の記事は、ヤコブの息子たちの名簿です。この名簿は、37章以降の「ヤコブの歴史」に欠かせない登場人物の再確認と紹介のようになっています。この名簿を見るならば、長男ルベンがダメならば次男シメオン、三男レビもいます。でも、彼らは既に大きな罪を犯しています。シェケムの人たちを皆殺しにしました。だから、ヤコブの息子、長男、次男、三男までもが相続から外れているのです。この詳しい内容は創世記49章をご覧ください。
 
 では、誰がヤコブの後を継いでいくのでしょうか。それは4男のユダとなります。細かいことはここでは省きますが、このユダこそ、ダビデ王、そして約束の救い主であるイエス・キリストの祖先です。そのように、人間の視点だけでは、非常に残念な出来事の連続ですが、神の歴史という視点で見る時に、長男ルベンの醜態によるヤコブの悲しみは、それだけでは終わらず、そのようなことさえも、全人類の救いのために用いられるのです。そのことを神の摂理と言います。
 
 
2.そしてイサクの死
 そのように、ベテルを出て約束の地である故郷の地を確認するように歩いて来たヤコブですが、約20年ぶりに父イサクと再会します。すごろくでゴールに着いた気分です。実に長い20年でした。しかし、聖書は父との劇的な再会をかなりあっさりと記しています。エサウとの再会の場面は感動的でしたが、このように書いているだけです。27節
ヤコブはキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいた父イサクのところに行った。そこはアブラハムとイサクが一時、滞在した所である。」
 
 ここで会ってどうしたのか。何も触れられていません。ここで聖書は、すぐにイサクが死んだことを伝えて、駆け足でイサクの歴史として終わらせようとする空気が伝わってきます。28節と29節も読んでみましょう。
「イサクの一生は180年であった。イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。」
 
 ここを何も気にせず読むと、ヤコブが父イサクに会い、イサクも久しぶりに息子に会ってから安心し、間もなく死んだように受け取ってしまいますが、そうではありません。というのも、これまでの聖書の記事にあるイサクやヤコブの年齢や、その場所で過ごした年数などを計算すると、27節にあるように、ヤコブとイサクが再会できたとき、イサクは157歳です。だから、27節の再会と28節のイサクの死の間には、実は20年以上の年月が隠れているのです。
 
 ですから、創世記の記者は、やはりここでイサクの歴史を終わらせたかった。このあとのヤコブの歴史で、またイサクが出て来ないように、ここでお話としては終わらせる。そんな意図が見えます。実はイサクが180歳で死んだというのは、ヤコブの息子ヨセフが30歳でエジプトの総理大臣になった頃ということになります。だから、ヤコブとの再会を果たしたイサクは、ここから、なおも生き続けて、ヤコブたちが飢饉でエジプトに行く頃に死んだと言えます。
 そう考えると、本日、最後のみことばは、年老いたエサウヤコブ兄弟が、そのときまで争わず、平和を保っていたことがわかります。そのようにして、イサクの歴史としてのお話が終わります。
 
 
結び
 どうして、これが「イサクの歴史」なのか。ほぼヤコブのお話でした。しかし、最初に申し上げたように、創世記の歴史のカウント方法は、テラの歴史以後は、その息子の歩みも父親の歴史とする法則のようなものがあるからです。このことを、私たちと神様との関係で考えていくときに、私の歴史は、神様の歴史でもあると言えます。まさにヒストリーです。つまり、神様の大きな歴史の中に私という歴史があって、そこに起きる良いことも悪いことも、神様はよくご存じで、いつもご自身のこととしてご覧になっている、関心をもって見ておられるということです。
 
 では、神様はただ黙って見ておられるだけなのか。私たちのこの世界。この死の陰の地といわれるこの世で苦しむ私たちを見ているだけなのか。そうではありません。このあと、ヤコブの歴史で創世記が終わりますが、聖書すべてを見通していくときに、マラキ書に至るまで、そこに描かれているのは、イスラエル民族の罪の歴史であり、それは私たちすべての人間の罪の歴史であることがわかります。しかし、それで終わりません。マタイの福音書の冒頭に何て書いてありますか。それはイエス・キリスト系図。つまりイエス・キリストの歴史という意味です。
 
 それはどういう意味でしょうか。それは、神様がただ見ておられるお方ではなく、あなたを、そして私たちをその罪に呪われた世界から救い出すために、神ご自身である御子が来てくださって、イエス・キリストの歴史を初めてくださったということです。もうイサクの歴史でもなくヤコブの歴史でもなく、また私たちの歴史でもありません。このお方を受け入れた者が、この神の御子の祝福の歴史に繋ぎ直されるということです。
  
これまで、どんな悲惨な歩みをしていたとしても、どんな不幸な人生、残念な過去を持っていたとしても、今日、悔い改めて、このキリストを信じるならば、このキリストのいのちに与り、御国に続く栄光の人生へと移されるのです。自分が王という歴史が、キリストが王という歴史に代わる。神様に心が満たされて、不満ではなく感謝が、呪う言葉ではなくその口に賛美が生まれる歴史へと変えられます。
 
 あなたの歴史はどうでしょうか。イエス・キリストの歴史に切り替わっているでしょうか。「イサクは息絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。」
 イサクも色々あった人生でしたが、彼の歴史を神様が摂理されて、私たちを救うイエス・キリストの歴史へと招いています。そして私たちの歴史も同じです。イエス・キリストを信じるならば、私たちの歴史も、人々を救いに招くヒストリーに変えられるのです。


 今日、まだキリストを信じていない方がいましたら、どうか信じてキリストの祝福の歴史に繋がってください。既に信じているならば、いただいている栄光の歴史に感謝し、その恵みを益々語っていく者とされてまいりましょう。