のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2023年1月29日 白石教会礼拝説教(教理説教)

説教題 「キリストのからだに建て上げられる主の教会」
聖書箇所 使徒の働き2章40章47節
 
 
序 
●白石キリスト教信仰告白【教会】
「教会は、イエス・キリストを信じる信仰を通して、神が与えてくださる救いを
受け入れた者の集まりであり、聖霊によって確立され、維持される新しい共同体です。
 教会は、礼拝、奉仕、証し、互いの愛といたわりにおいて、キリストのからだに建てられます。」
白石教会の信仰告白に基づく教理説教は今日で8回目になります。この説教は、私たちが告白している、その信仰告白が単に暗記すべきものではなく、「このように信じています」ということをみんなで一緒に確認するために行っています。自分が何を信じてクリスチャンなのか。何を信じて白石教会の教会員なのか。「このように信じています」と自分の口で言える。それがクリスチャンであることの証しだからです。
 
 そのように、これまで7回、信仰告白を確認してきて、今日は「教会」について学びます。14まで項目がありますので、今日で、折り返しとなります。この「教会」についての学びは、この地上に置かれているクリスチャンにとって、非常に重要な学びです。というのも、この地上は実に色々な教会で満ちているからです。この「教会」ということを、きちんとわきまえていないと、あれもこれもごちゃごちゃになって、聖書が教えている教会ではなくなってしまうからです。
 
 今日の説教題は、そのことを意識してつけましたが、いつもよりも随分長くなってしまいました。
「キリストのからだに建て上げられる主の教会」
「キリスト」という言葉と「主」という言葉は同義語なので、少々くどいと思います。でも、くどいと思うくらい、ここにこだわる必要があるからです。それは、主の教会、キリストの教会と言いながら、キリストではなく、それ以外のものを大切にしたり、人間的なものをプライドにしたりすることが起こってくるからです。
 
「教会」というテーマの説教は、まさに、そこにメスを入れる手術です。その「教会」を、私たちは既に2020年から信仰告白の中で告白している。それが、私の中に、皆さんの中に沁み込んでいるか。根づいているか。手術ですので、少々痛かったり、堪えながら、という部分があるかも知れませんが、今日は、そのことをご一緒に味わいたいと思います。
 
 
1.キリストを信じる共同体として
 白石教会の信仰告白は、聖書に基づいて作られています。その中から、今朝は使徒の働き2章40節以降のみことばに聴いてまいります。ここから、教会が教会であるために大切なことは何か。そして、何のために教会があるのか。そのことを中心にお話をしたいと思います。
さて、皆さんは教会が教会であるために、何が大切だと考えているでしょうか。会堂を持っていることでしょうか。十字架がついていることでしょうか。いつもイベントをやっていることでしょうか。宗教法人格を持っていることでしょうか。
 
 今朝、開いた聖書箇所は、使徒の働きと言って、イエス様が天に帰られてからの弟子たちの様子が物語形式で書かれている書です。ですから、ここには律法の書のように、命題的に、こうしなさいというふうには書かれていません。それよりも、イエス様に救われ、罪が赦されて、本当の自由を得た者として、このようになりたいと思う様に書かれています。
 かつて16世紀に宗教改革がありました。この白石教会の名前の冠になっているメノナイト派の始まりとなったメノ・シモンズは宗教改革者と呼ばれます。ルターやカルヴァン宗教改革者と呼ばれます。その人たちが目指したものはなんでしょうか。それは、ルーテル教会やメノナイト教会をつくることではなく、初代教会のあり方に戻ることです。聖書に記されている主の弟子たちの群れ、その生き方に戻ることです。
 
 ここを見失うと、それぞれの宗教改革者たちの思いとはかけ離れてしまい、その教派の伝統を守るように変化してしまいます。彼らの改革は素晴らしいと思います。しかしそのすべてが良いわけではありません。彼らの改革も、当時の文脈では良かったことも、結果的に足りなかったり、やりすぎであったりしたことを含んでいます。それは宗教改革者たちも欠けのある人間ですから当然です。だから、大切なことは、彼らを伝統としてそのグループをつくるのではなく、彼らが目指した聖書に聴くことが大事なのです。そこで今朝も、彼らが目指した聖書から主の教会の姿を学ぶのです。
 
 41節を見ると「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた」とあります。彼のことばというのは、14節から40節までに語られている使徒ペテロの説教です。その中心的な内容は、36節からのことです。
かいつまんで言いますと「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。…それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」となります。つまり、これが信じるべき福音の内容ということになります。
そこにいた人たちは、このペテロを通して語られた福音を受け入れた。そしてバプテスマを受けたのです。
 
 だから、自分がイエス様を十字架につけてしまった罪人であることを認め、悔い改めてイエス・キリストの救いを受け入れる人がバプテスマ(洗礼)を受けることができます。これが、教会のメンバーになるために必要なプロセスです。私たちは大丈夫でしょうか。特に、メノナイトはアナ・バプテスト派とも言われますので、幼児洗礼ではなく成人洗礼を早くから唱えて来た歴史があります。
 
 それは、当時のカトリック教会だけでなく、その後に生まれたルター派カルヴァン派の教会も幼児洗礼は続けていたからです。しかし、そのような主張は、その後、多くの教会に受け入れられ、現在では、メノナイトに限らず、この聖書に書かれているように、福音を信じた人が洗礼を受けて教会に加えられるようになっています。だから、メノナイト派が唱えて来たことは、諸教会にとって益となったと言えます。しかし、それは聖書に書いてあることに立ち戻ることを大切にしたからであって、自分たちのグループの足跡を誇るためのものではありません。そのことを踏まえて私たちも、主の教会に連なるキリストの教会として告白しているのです。
 
「教会は、イエス・キリストを信じる信仰を通して、神が与えてくださる救いを受け入れた者の集まりであり、聖霊によって確立され、維持される新しい共同体です。」
 
 
2.宣教において必要なこと
 次に42節以降ですが、ここから、主の教会が教会として「いつも」行っていたことを見てまいりましょう。
42節から47節までを読みます。
「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」
 
 42節に「いつも」とあります。これは、別な訳では「ひたすら」となっていましたが、他にも「たゆまず」とか「専念する」「辛抱強く」など、「強い」という意味が込められた「いつも」なのです。
 
 ですから、そのあとに続く「使徒たちの教え」を守ること、交わりを持つこと、パンを裂くこと、祈りをすることに、その「いつも」がかかっているとすると、それぞれのことがどれほど教会にとって重要かがわかってきます。ひたすら、使徒たちの教えを守る。それは、ここの文脈では使徒ペテロが語った説教というふうに捉えることができます。その福音をしっかりと自分のこととして守って行くこと。そこに専念するというふうにも解釈できます。
 
 そして、そのようにクリスチャンになった者は、一人ではなく、信仰の兄弟姉妹との「いつも」「交わり」を持つことによって互いに励まし合うことが大切です。それは、教会とは主にある交わりが重要なことだからです。次にある「パンを裂くこと」は、現在、聖餐式となって少々儀式化していますが今も守られています。しかし、この順序からわかるように、福音を受け入れて洗礼を受けた者が、使徒たちの教えを守り、交わりの中で聖餐があるということです。私たちも、そこを目指しています。私たちも信じて洗礼を受けた者がたゆまずパンを裂くことを目指しつつ、今は2か月に一回かも知れませんが、更に、たゆまず続けたいと思います。
 
 そして、「祈る」こと。これは、この文脈で見るならば、個人の祈りではなく、教会としての祈りの大切さを示していると思います。祈りも「いつも、たゆみなく」です。白石教会では「祈り会」としては昨年から再開しましたが、「いつも」ですから、この礼拝式のあとも、せっかく集まっているのですから、全員でなくても、それぞれに、信仰の交わりとともに、一緒に祈るときがお膳立てなしで、あちこちであると素晴らしいなと思います。
 
 ここに書いてあることは、こうしなければ律法違反だというものではありません。むしろ、このようにありたいと願い目指すものです。そのことを、私たちも信仰告白でこのように言い表しています。
教会は、礼拝、奉仕、証し、互いの愛といたわりにおいて、キリストのからだに建てられます。」
これが、キリストのからだに建て上げられるキリスト教会の姿だからです。
 
 私たちも、そこを目指しているはずです。いや、目指しているからこそ、このような信仰告白を掲げているのではないでしょうか。当時の教会は、会堂もない、キリスト教会という看板もなく、また看板を出さなくても間違いなくキリスト教会でした。しかし、現代はどうでしょうか。今は「キリスト教会」という建物や看板があっても、果たして、本当に主の教会でしょうか。現代は、キリスト教会という看板があって、きれいな会堂を持っていても、本当に主の教会かどうかがわからない時代になっています。私たちはどうでしょうか。だから、私たちは、わかりやすいように、こう信じていますという信仰告白を求め、与えられたのです。
 
 しかし、それを持っていても、本当にそのように信じていなければ、それは、やはり看板に「キリスト教会」と書いてあるだけの偽物教会となってしまいます。でも、そうはなりたくありません。それで、あらためて、今日、私たちが告白している告白が聖書に基づくものであり、そこにいつも、たゆまず聴いていくことが真の教会であることを学びました。その一つひとつのことを一個の言葉に集約するならば、それは礼拝を大切にすることだと言えます。礼拝式には、このすべての要素が詰まっています。
 
 それは、礼拝式に出席することだけを言っているのではなく、この礼拝式を通して、教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈る私たちが、主の聖徒として整えられて、その生き方すべてが礼拝となり、そこに救いが起こってくるからです。その結果どうなると、みことばは証ししているでしょうか。それが46節、47節です。
 
「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」
 
 ここで、人々が救われたのが、彼らの熱心な伝道方法やイベントと書いていないことに注目したいです。あくまで救いをもたらすお方は主であり、私たちは、ただひたすら、この方を礼拝し、互いに交わりを持ち、喜んで食事をともにし、神を賛美する中で、神様はそういう教会に好意をもつ方々を起こして、救いに導いてくださるのです。
 
 
結び
 キリスト教会2000年の歴史と言いますが、これまで実に色々な教派、教会が生まれて来ている現実があります。それぞれ、歴史がありますから、それぞれの教派の歴史をすべて無視することはできないでしょう。しかし、それぞれが、「キリストのからだ」に建てられることを目標にしているはずなのに、その中に余計なものを挟んでいるとしたら、それは本当に主の教会でしょうか。
 
 その「キリストのからだ」をお城に譬えることができます。お城の石垣には、アウグスチティヌスやルターやカルヴァン、ウェスレーやメノ・シモンズなどという正当な信仰を言い表して来た人たちの石が積まれているでしょう。それは確かでしょう。しかし、それはキリストという建物の一部であり、部品に過ぎません。それぞれの尊い働きがあったとしても、ほめたたえるべきは神です。その石垣の一部だけ磨いたり、大きくすれば、そのお城は「キリストのからだ」としてふさわしくありません。お城ではなく、一個の石垣を強調して、その歴史と伝統を誇るようなプライドが生まれてしまうならば、そのような石垣は、ない方がましです。
 
 だから、本来、教会に人の名前はいらないのです。もし歴史的にやむを得ず、教会に人の名前を冠にしてしまっているなら、なおさら、その立ち方が問われます。それは、その名前以上にキリストが中心になければ、主の教会としては滅ぶからです。
 
 しかし、今日の聖書のみことばにあるように、私たちが主の教会として、福音を聞き、その教えを守り、「キリストのからだ」として建て上げられることをいつも、ひたすら、たゆみなく続けていくならば、この地域に住む、多くの人びとの救いに繫がっていくのです。


 そうであるならば、私たちも、初代教会の信徒たちのように、また、それを目指した宗教改革者たちのように純粋に、ひたすら聖書に聴きたいと思います。そして使徒の教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈り、主の業を現し、愛し合い賛美する、完成した教会、「キリストのからだ」へと建て上げられていきたいと思います。