のりさん牧師のブログ

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2023年2月5日 白石教会礼拝説教

説教題 「何をしてほしいのですか」
聖書箇所 マタイの福音書20章29節~34節
 
 

 使徒ペテロは、第一の手紙の中でこう言っています。
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」
 私たちも、実際に肉眼でイエス・キリストというお方を見てはいません。でも、愛しています。そして、信じています。さらに、この方を想い、この方のことを思い巡らすだけで、踊り上がるほどに喜びが湧いてきます。ペテロは、その喜びのことを「栄えに満ちた喜び」と表現しています。その喜びこそ「信仰の結果であるたましいの救いを得ている」証しだからです。
 
 この喜びをもって生きていることが、キリストを信じて救われている証拠。裏を返せば、喜びがないならば、救われていないということになります。救いと言うのは、救われた喜びが神への感謝となって溢れる状態であり、その感謝に押し出されて、私たちはキリストが歩まれた道を喜んで歩むのです。
 ところが、イエス様を信じて救われて喜んでいたはずなのに、元気を失い、喜び踊るどころか、失望感に襲われて、がっかりするときがあるのも事実です。そんなとき、喜んでいるふりをするならば、益々、その病状は悪化するでしょう。では、そういうことが起こるということは、それで救いを失うということなのでしょうか。ペテロが言っているような喜び踊るなんて、とても今の自分にはない。そんなとき、救いを失っているのでしょうか。
 
 私もこれまでの40年の信仰生活の中で、何度も「何の喜びもない」という時がありました。皆さんは、いかがでしょうか。今、イエス様に救われて本当に喜んでいるでしょうか。信仰の結果であるたましいの救いを得ているでしょうか。栄えに満ちた喜びを保っているでしょうか。
 今日の聖書箇所は、二人の盲人にスポットが当てられます。彼らのイエス様との出会いは、まさに救いを得て、どのように生きるのかという大切なことを教えています。
 
 
1.道端に座って
 29節、30節をお読みします。
「さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、『主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください』と叫んだ。」
 イエス様と弟子たちは、エリコという町を出た、とあります。これはすなわち、まさに次の町であるイスラエルの都エルサレムへ向かったということです。そこで、何が待っているのかは、前回の説教で触れましたが、18節、19節で言われていたことです。
「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
 
 イエス様の思いは、ひたすら十字架に向かっていた。そこに、その深い御心も理解できていない弟子たちと、違った意味でメシアとして期待して付いて来る群衆がいたのです。それは、客観的に見ると、一人の有力な男が現在の支配者に成り代わって王となるために、大勢の人々を引き連れて都エルサレムへ入ろうとする姿でしょう。
 長年、ローマ帝国の支配にあって、その主権を失っていたユダヤ人にしてみれば、またとないチャンスです。どの時代も、為政者に対する不満を抱えた人はいます。それで、現代であれば選挙で、政治的リーダーとして候補者を擁立し、これまで抱いていた不満が少しでも解消できるようにします。
 
 この時にイエス様について行った大勢の群衆も、そのような思惑があったと考えられます。そのことについては、次回21章に入ってからのことです。今日、注目したいのは、そのような社会的な動向や、社会の枠組みに入れないでいる人たちです。今日の箇所には、「目の見えない二人の人」が登場しています。彼らはどのように、その社会に存在していたのか。それは、「道端に座っていた」という言葉が、彼らの存在と生き様を表しています。
 多勢の群衆、つまり、ほとんどの人がイエス様について行く中で、そのことから取り残された人がいたということです。ザアカイの話では、イエス様を見ようとイチジク桑の木に上ったとありますが、彼らにはそんなことはできません。しかも、ザアカイのようにお金持ちでもなく、道端にいるしかない、手も足も出ない状態であったということです。
 
 しかし、彼らは、自分にできる精一杯のことをしました。それは、「叫ぶ」ということです。確かに目は見えない。しかし、声は出る。では、その声をどのように使うのか。それは、自分の窮状を主にお伝えするということです。しかも、彼らは、このときは、まだ「目を開けてください」とは、言わず「あわれんでください」と叫ぶだけでした。
 「あわれんでください」とは、「助けてください」とか、「同情してください」という意味がある言葉です。つまり、その心だけでも自分に向けてくださるならば、「助かります。救われます」という、現在の状況からの救いを求める積極的な叫びでした。
恐らく、目が見えるようになれば良いに違いない。しかし、これまで、長年道端にいて、そんな希望すら失っていたのでしょう。だから、きっと、イエス様が来られるまでは、目が見えないだけでなく、ものごいと同じように、食べ物やお金を求めるために、道端にいて施しを受けるだけでした。自分には何もないとがっかりした人生だったでしょう。
 
しかし、今、彼らはイエス様に「あわれんでください」と叫ぶために、その声を用いることができたのです。何もないのではない。声があった。口があった。しかも、群衆はそういう彼らを、黙らせようとたしなめますが、この二人の盲人は叫び続けるのです。特に、彼らのイエス様への呼びかけの言葉は信仰告白です。
「主よ、ダビデの子よ。」
 これは、イエス様のことを「メシア(救い主)」ですと大胆に、大声で告白しているのと同じです。これまで手も足も出ない人生であった人たちが、そこで、今できる最善の方法を、主を告白するために用いたことは、私たちの信仰の原点を教えています。
 
 私たちも失望の中でも出来ることがある。それは、その道端にすわったまま主に叫ぶことであり、主を自分の救い主として呼び求めることです。ここは、信仰者の原点です。何もない自分、道端に座っているしかない自分を認め、直ぐな心で、かっこつけないで、ありのままの心のうちを、神様に投げかけるのです。訴えるのです。
「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と。
彼らは、もう、自分の中でどうなることが良いのかもわからないほど、辛い日々が続いていたと推察できます。だから「あわれんでください」としか言えなかった。でも、「あわれんでください」という祈りは、究極的な願いではないでしょうか。もう、こんなにも惨めな気持ちで、ああしてほしい、こうしてほしいなんて言葉は出て来ない、そういう極限は人生には起こって来ます。そのときこそ、ただ主に「あわれんでください」と祈りたいと思います。
 
 
2.主は深く憐れんで
 するとどのようになっていったか。それが32節です。
「イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。『わたしに何をしてほしいのですか。』」
 ここでイエス様は、立ち止まって、その盲人たちを呼びました。ここで、イエス様と盲人たちの間の距離が気になります。それを解決するには、並行記事のあるマルコの福音書を見ると良いと思います。こう書いてあります。
「イエスは立ち止まって、『あの人を読んで来なさい』と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる』と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」
マルコ10:49、50
 
 マルコ福音書を見るとこのプロセスが詳しく書かれています。この目の見えない人たちの内の一人がバルティマイという名であることがわかります。イエス様が呼んだとは、その中継に、おそらく弟子がいて、弟子を介して、この目の見えない人たちがイエス様の所に来たということです。しかも、それは尋常ではない立ちあがり方、駆け付け方でした。それは「躍り上がって」です。
 彼らは、まさか、その叫びが聞かれるなんて、夢のような思いで立ち上がって、目は見えないけれども、もう道端に座りっきりではない、立ち上がって、今度は、その足をイエス様に近づくために使うのです。声だけではなかった。足も使えるのです。イエス様に会うために、です。
 
 そして、ここでイエス様らしいことを言われます。
「わたしに何をしてほしいのですか。」
 これは、もう何度も説教の中で言って来たことですが、イエス様は、わからなくて尋ねているのではありません。でも、あえて「何をしてほしいのですか」と質問をされます。それは、彼らが自分の口から、もっとその奥底にあることを聞きたいからです。また、あらためて、自分のことばで言うことで、彼らの思いが彼ら自身の中で整理され、感情だけで支配された言葉ではなく、本心を語るようにされるからです。
 
 北海道聖書学院の私の授業で、必ず、授業の最後で、神学生の皆さんに一言ずつその日の授業で受けた感想を述べてもらうようにしています。それは、その日学んだことを、他の人に伝えることによって、その人の中で整理され、その人の中にある学んだポイントを自覚するようにできるからです。100分の授業を1分くらいで語るのですから、心にある中心的なことが出てきます。
 イエス様も、目が見えず、大勢の群衆から外れていた彼らのその悩み苦しみ、道端に座っているしかなかった、これまでの人生で悩み、彼らの心の奥にしまってあった本音を、イエス様は本人の口から聴きたかったのです。そうすることで、彼ら自身が自分の問題点に気が付き、そこをイエス様に触れていただくことができるからです。
 
 彼らは、イエス様の質問に素直に答えました。あらためて、イエス様の顔を見るようにして出てきた願いは33節。
「主よ、目を開けていただきたいのです。」
 目が見えない人ですから、これは当たり前の願いにも聞こえます。しかし、あわれんでくださいという願いから、彼らの必要が具体的にされたのは確かです。今迄、どれだけ、目が見えないことで苦しんで来たでしょう。29節にあった大勢の人たちと同じことができない悲しみ。声を上げても黙らされるし、相手にしてもらえない苦しさ。しかし、今、ここに彼らは人生の分岐点に立たされたのです。
 
 今、暗やみの人生に光が照らされる、その時を彼らは迎えた。それは素晴らしい瞬間です。ここで、私たちも、やはり彼らの姿から、信仰というものを見つめ直したいと思うのです。どんなときでも、主に思いをぶつけても良いという自由があるのです。その声を主に対する祈りとして用いることができます。そこから、今度は立ち上がって、主のもとに行くというところまで導かれていきます。
 
 道端が自分の居場所ではなかった。まさに呼んでくださったイエス様の御許こそ、私の居場所、あなたの居場所です。 そういう私たちをイエス様はどうなさいますか。
34節。「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」
 
 ここにイエス様が深くあわれんで、彼らの目に触れてくださったとあります。マタイの福音書では、実は、この目の見えない方々の信仰についてはあまり触れていません。並行記事のあるマルコやルカには、ここでイエス様の「あなたの信仰があなたを救いました」というおことばがあって、彼らはいやされています。彼らの信仰が彼らを救った。つまり、これまで見て来たように声をあげて、「主よ、ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と食い下がって叫んだ信仰、イエス様の御許に躍り上がって近づく信仰が、彼らを救ったというふうに読めます。
 
 しかし、マタイでは、そのことにはまったく触れておらず、マタイだけにしかないことが書かれて、この場面が終わっているのです。それが34節です。それは、どういうことでしょうか。つまり、マタイがこの二人の盲人の癒しに見る救いをどのように伝えているかというと、それは、やはり救いとは主イエスの深いあわれみによるのだということではないでしょうか。
 しかも、彼らが食い下がって叫び続けた「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」という願い通りに、主は「深くあわれんで」くださった。実は、この「深くあわれんで」という言葉は、原語(ギリシア語)では30節の「あわれんでください」と同じ言葉ではありません。目の見えない人たちが叫んだ言葉は、言い換えれば助けてくださいという意味です。それは、誰かの助けを得たいという意味です。
 
 しかし、「イエスは深く憐れんで」という方の「あわれむ」という単語は、内臓、はらわたを意味する言葉が使われていて、それは、単に助けようと思ったとか、一般的な「かわいそう」という同情を超えた、自分の身に、彼らの痛みを引き受けて内臓が揺り動かされるほど痛みを負ったという憐みです。その「あわれみ」の違いをこの聖書の訳では「深く」という形容詞をつけて違いを表しています。だからイエス様は、本当はことばだけで癒せるのに、その深いあわれみをもって、自らにその傷みを負って彼らの目に触れて下さって癒されるのです。
 
 
結び
 ここに、今、エルサレムに向かう本当の意味が見えて来ます。イエス様がエルサレムに向かうのは、私たちの罪の身代わりとなって殺されるためです。私が、そして、あなたが受けるべきさばきの苦しみ、そして、この世で味わう苦痛のすべてを、ご自分に引き受けて十字架にかかられるためです。この盲人の癒しに見る主の深いあわれみは、単に肉眼が見えるようになっただけではなく、もっと深い、たましいの救いにまで及んでいるのです。
 
 それは、彼らが躍り上がって主の許に来たところに既に始まっていました。そして、実際に癒されて、彼らはどうしたのか。それは、イエスについて行ったのです。なぜついて行ったのでしょうか。希望通り目が見えるようになったのだから、あとはそのまま家に帰っても良いはずです。しかし、彼らは、それでは済まなかったのです。彼らの、躍り上がって主の許に来て、主の深いあわれみのしるしとして、直接目に触れていただいた、その愛に、彼らはついて行かずにはおられなかったのです。つまり、彼らは肉眼だけではなく、霊の目も開かれたということです。
 
 これが、主に救われた人の姿ではないでしょうか。それは、もちろん、主イエスを信じる信仰は大切です。でも、日々、信じた私たちを養うのは、自分が信じた事実だけにとどまるのではなく、その救いのためにご自分の身を裂かれた主の深いあわれみを知り続け、問い続けることこそ重要なのです。それが信仰の結果であるたましいの救いにある歓びを得ることになるからです。
 道端に座っていた二人の目の見えない人たちは、その道端からイエス様に叫び、結果、霊の目が明けられて、喜んでイエス様について行きました。この34節の「イエスについて行った」は、29節の群衆が「イエスについて行った」と同じ言葉が使われていますが、その意味は全く違います。
 かたや、利己的理由で救い主として担ぎあげようとしてついて行っている人たち、しかし、もう一方は、イエス様に叫びその深い憐みを受け取って、ついて行く人たちです。私たちはどちらでしょうか。
 
 私たちがいつも、救われた喜びを保っていくために大切なことは、ただ、ひたすら、自分がどこにいて、どこから、どのように救われたのかを思い起こし、そのような自分に神様がどれほどの深いあわれみをもって、どんなことをしてくださったかを覚え続けることです。
 
 それがイエス・キリストの福音です。神様がご自分の内臓がゆり動かされるほどに、深く憐れんでくださり、罪深く、地獄に向かっていた私たちを、愛する御子イエス様に私たちの罪すべてを負わせて死に追いやった。身代わりの罰を与えた。ここに罪人を神の子どもにつくり変える本物の愛、深いあわれみがあるからです。