のりさん牧師のブログ

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2023年2月26日 白石教会礼拝説教

説教題 「教会の使命」
聖書箇所 マタイの福音書28章19節、20節
 
 
序 
教会の暦では、先週の水曜日からレントが始まっています。レントとは受難節のことです。今年のイースターが4月9日なので、その40日前である3月1日が、今年の受難節の始まりなのです。受難節は、キリスト教会にとって待降節アドヴェント)と並んで大切な行事ですが、一般的にはアドヴェントやクリスマスの方が知られているでしょう。
 
受難節というのは、伝統的には主イエスの十字架の苦しみの原因である私たちの罪深さを嘆き、懺悔することが、その暦の目的です。受難節と聴くと、苦しいことが起こる期間ではないのかと思う方がおられるかも知れませんが、そうではないということです。
 
この受難節の第一主日となる今日、ご一緒に学ぶのが「教会の使命」であるというのも、神様のご配慮かなと思います。「教会の使命」と主の受難は切ることのできない、大切な教えです。それは、「教会の使命」への動機づけも、目的も、主イエス・キリストの十字架の恵みにあるからです。今日で9回目となる信仰告白に基づく教理説教ですが、あらためてご一緒にお読みしましょう。
 
●白石キリスト教信仰告白【教会の使命】
「教会の使命は、神の国を宣言し、神の国のしるしとなることです。イエス・キリストが教会に委ねたのは、すべての国の人びとを弟子とし、洗礼を授け、命じられたすべてのことを守るように教えることです。」
 
 
1.神の国のしるしとなる
皆さんは、教会の使命と聴いて、どういうこと思うでしょうか。今日、お読みした聖書箇所からすると、その答えは「宣教」だという事ができるでしょう。その内容と白石教会の信仰告白は、後半部分は、ほぼ同じです。それは、信仰告白はイエス様の大宣教命令と呼ばれるこの箇所からつくられているからです。しかし、そこに行く前に、その宣教の中心的なことまで告白しているのは、私はとても良いと思っています。
 
「教会の使命は、神の国を宣言し、神の国のしるしとなることです。」
 
ここに、教会の使命のことを宣教であると結論付けるために、神の国について言及していることは、非常に大切な視点だからです。つまり、私たちキリスト教会の着地点がここに結びつかないならば、いくら会堂を大きくしても、組織を緻密に作り上げても、空しいということです。
 
教会の使命とは、神の国を宣言し、そのしるしとなること。先ほどの賛美で「神の国と神の義を求めなさい」と歌いました。それが、教会の真理だからです。神の国とは、思い切り簡単に言えば天国です。パラダイスです。「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない(黙示録21:4)」至福の場所、神様が私たちにお与えになろうとしてお造りになったエデンの園の完成した神の王国です。
 
その天国を宣言し、天国のしるしとなるのが教会の使命です。だから、教会と天国は繋がっています。教会に来たら、天国に来たかのような喜び、祝福を味わうことができる。そういうところであるということです。
 
札幌では、秋になるとオータムフェストという飲食を中心とした地域おこしの催しがあります。そこに行くと、北海道各地の特産物をその町や村に行かなくても食べられて、その町や村の良さを、札幌で味わうことができます。音威子府村に住んでいる私の息子もスタッフとして来たことがあって、音威子府そばを販売して、音威子府の素晴らしさをアピールしていました。
 
つまり、そのアンテナショップによって、ぜひ、今度は本当にその町に行ってみたいという人たちを起こして、実際に来てもらうところに繫がっていくために、そのお店を出店しているわけです。教会もこれによく似ています。神様の祝福に満ちた、本当の幸せがある場所に一緒に行ってもらえるように、この地に置かれた、天国のアンテナショップとして教会があるのです。
 
だから、本当の喜びがある「教会においで」と誘うことが伝道になります。「ここに来たら、天国に行けるよ。味わえるよ。神様の子どもになれるよ」と誘いたいです。だから、教会の使命は、そのように天国のアンテナショップとして、本当に神の国の前味を味わえるように整えなければならない。それがアンテナショップである教会の使命だということです。
 
ところが、もし、このアンテナショップにいる店員同士で傷つけ合っていたら、そんなところにお客さんは来るでしょうか。「ここで天国を体験できます」と誘えるでしょうか。心から、そのような教会に来てほしいと思えるでしょうか。私はできません。むしろ、同じアンテナショップの「あちらのお店に行った方が良いと思います」と、他の教会をお勧めします。
 
神の国を宣言し、神の国のしるしとなる。それは、まさに、ここに神の国ありと、心から、喜んで伝道できるところにしていくということです。そのために大切なことが、前回の教理説教で学んだ、教会としての麗しい礼拝の姿です。「使徒たちの教えを守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」その礼拝する教会の姿。そこに、神様が救われる人々を仲間に加えてくださった。それは神の国のアンテナショップのあるべき姿です。
 
だから私たちも、使徒たちの教えである聖書を読み、その基準で教会形成をしようとしていると思います。しかし、難しいのは、その聖書を基準としたいという真理と、私たちに沁みついているこの世の基準がぶつかり合うということです。知らないうちに、教会の中に、本来聖書が求めていないものが幅を利かせて、私たち自身がそれに翻弄され疲弊することが多いということです。
 
今一度、あれもこれも無駄だとは言いませんが、私たちの業の中心である礼拝に来られなくなるようなことならば、それを一旦やめて礼拝に集中すべきと思います。教会の大切な業である礼拝ができなくなっているということは、教会のいのちに関わるピンチだからです。礼拝以上に大切な業は教会にありません。教会の使命を果たすために、最も私たちがささげるべきものは、主日礼拝だからです。それなくして宣教は始まりません。きれいな会堂を建てたとしても、壁をきれいに直したとしても、その中にいのちがないならば、空しいです。さらにコリント書のパウロのことばを借りていうと、その中に愛がないならば、それは教会の姿をした張りぼてです。
 
張りぼてならば、まだ良いです。中が空っぽなだけですから。でも、そこに入ったら怪我をするとしたら、それは危険です。ですから、そういうとき、信仰の原点に帰った方が良いです。もっと、弱さをもって来ても安心して集える教会。びくびくしないで済む教会。今日も来て良かったと言える教会。そういう教会を目指してまいりたいと思います。それこそ、神の国のしるしではないでしょうか。
 
 
2.宣教とは殻を打ち破ること
 そのように私たちは、教会の使命が「神の国のしるしとなることだ」と告白しているのですから、そう実行していこうではありませんか。そこでようやく、この大宣教命令に立って行けるのです。今日の聖書箇所の解き明かしは、以前にも2回ほどしましたので、細かくは言いませんが、今日は、このみことばから2つのことを押さえて、今日のメッセージの終わりにしたいと思います。
 
 まず一つは、19節の「行って」という言葉です。残念ながら、白石教会の信仰告白にこの言葉を入れるのを忘れていました。
 信仰告白の後半にはこうあります。
イエス・キリストが教会に委ねたのは、すべての国々の人々を弟子とし、洗礼を授け、命じられたすべてのことを守るように教えることです。」
 
 でも、ここを告白するときに、ここに「行って」という意味も含んでいるとご理解ください。この「行って」という言葉が宣教において、とても重要な言葉になってくるからです。というのも、クリスチャンというのは、もともと神から離れた罪人ですから、救われるときには、愛の神様が招いてくださって、そのままの姿で良いから来なさいと招かれたと思うのです。それは、今も、神様の前においては、何も隠さず、そのままで良いと思います。まだまだ失敗してしまう自分。まだまだ、罪の性質が抜け切れない自分を、そのままイエス様の十字架のもとに置く。それは大切なことです。
 
 しかし、宣教というときには、ここに主の弟子として生きる覚悟が求められているのです。それが「行って」という動詞に隠された動的信仰の決断です。主を愛し、主を証しする者として、主の弟子として、今いるところから立ち上がるとか、これまでは、こうだったけれども、ここからは、一歩踏み出す。それが宣教にとって欠かせない主への愛の表し方です。
 
 「行って」と言う時、神様に対する自分の殻を破るところに大きな意味があるのです。神の国とは、そのように、この世という価値観からの脱出、聖書という神の基準に飛び込む方向転換から建て上げられていくからです。イエス様ご自身が、神の子という殻を破って人となられました。それは、十字架において大転換を、大革命をもたらすためでした。十字架が恐ろしい刑罰のしるしから、それが神様の愛と祝福のしるしに大転換しました。
 
 一見敗北と見える十字架によって、主は完全な勝利をもたらしてくださいました。同じように、主を信じ、主を愛し、主の弟子とされた私たちにもその殻を破ることが求められているのです。そのままで良いと招く主の許に来たのなら、主によって新しくされて、宣教のために、主を愛するがゆえに、この喜びを他の人たちにも味わってほしくて、その一歩を踏み出すのです。
 
 そして、二つ目のことは、「あらゆる国の人びと」という言葉です。この部分を信仰告白では「すべての国々の人々」となっています。ここだけ見ると、宣教って海外に出かけることだと錯覚しやすくなります。でも、ここの本当の意味は「すべての民族」であり、言い換えると「どんな人にも」ということです。
 
 つまり、宣教とは、別に外国に行かなくても、私たちのまわりには、実に色々な人たちが既にいます。その人たちが、この神の国のアンテナショップである教会を通して、神の国の国民になる。それが、私たち神の国アンテナショップ店員の共通の願いであり喜びです。なぜならば、神の国の王様であるイエス様がそう望んでおられるからです。自分の町を愛しているアンテナショップの店員の言葉にも態度にも、それが溢れているのがわかると、本当に行ってみたいなと思わされます。同じように、私たちの宣教の動機も、主を愛し主の教会を愛しているなら、それが伝わっていくのです。そのとき、主も信じて救う人たちを起こしてくださるでしょう。この教会ならば、新しい人を送っても大丈夫だな、とです。
 
 
結び
神様から離れて自分勝手な生き方をしていた私たちを神様は、愛する御子イエス様をお遣わしになって、代わりにさばかれました。そして、信じた今も、私たちを独りぼっちにせず、聖霊を与えてくださって、その聖霊において、イエス様は世の終わりまでいつもともにいてくださると約束してくださっています。
 
だから、常に聖霊によって霊の目を開けていただき、教会の礼拝で主イエスのみことばに触れ続けるのです。悪い人と付き合うと悪くなっていくように、イエス様と交わっているとイエス様のようにされます。イエス様が私たちの毛穴からも溢れるほどに、主の愛が、主の愛と義と聖なる人格が、私たちから現れるようにされるのです。教会の使命は、そのように、神の愛に押し出されて始まります。だからこそ、礼拝が大切です。もし礼拝で恵まれたのならば、まずはその喜びと感謝をともに分かち合い、その喜びのままそれぞれのところに遣わされてまいりましょう。それが主日に集まって礼拝をささげる意味です。
 
今日も信仰告白についてみことばに聴き、主のいのちをあらためて受けました。主の愛によって救われたからこそ、この喜びを知ってもらいたいと思います。そういう礼拝をささげ、その恵みを分かちあう時こそ大切です。喜びやいのちを失うのではなく、いのちを与え、喜びを受ける主の教会。
 
 そこに神の国が表わされるからです。そこに教会の使命があるのです。
 
祈り