のりさん牧師のブログ

恵庭福音キリスト教会の牧師をしています。おもに日常で気がついたことや、聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

宗教改革記念日に寄せて

10月31日は宗教改革記念日です。それは、ルターによるドイツの宗教改革に由来するものです。今回はそれを記念して、私のレポートをご紹介します。

 

第三章 近世の教会

 

1.ドイツの宗教改革(1)

 マルティン・ルター(1483~1546)は1483年ザクセンの鉱山町アイスレーベンに生まれ、坑夫あがりの父と信仰篤き母の厳格な家庭教育を受け、14歳のときマグデブルクラテン語学校に入学しているが、その家系は代々農民であった。ルター自らも「私は農民の子である。私の曽祖父も祖父も父も生粋の農民であった」と言っている。翌年アイゼナハのゲオルグ学校に移り1501年、エルフルト大学の教養課程に入学。のちに1505年5月父親の希望で法学部に進んだが、まもなく7月17日、突然父の反対を押し切ってエルフルトのアウグスティノ修道会の修道院に入った。その動機を明確にすることはできないが、1505年7月2日に経験した雷雨によりルターが「死」を直感し、魂の救いを求めた事情があるとも言われている。

 

 修道院に入ると、神学を深く研究し、頭脳明晰なルターはたちまち頭角をあらわし1507年4月に司祭に任ぜられ、翌年ヴィッテンベルクの修道院に移り、同時にヴィッテンべルク大学の講師となってアリストテレスの哲学をはじめ道徳哲学を講義した。1511年には更に修道院副院長となり、大学の教授の地位を得たが、修道士として修業をすればするほど、カトリックの教義に対して疑問と不安が増すばかりで魂の平安が得られなかった。
 

 1513年頃のある時、ローマ人への手紙1章17節の「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」という聖句に接して、突然霊感に打たれ、神の義は、カトリックの教えのような人をさばく義ではなく、信仰によって義としてくださるところのその神の義であることを悟ったのである。これはルターが修道院の塔にある自室での経験であったところから一般に「塔の発見」と呼んでいる。「塔の発見」こそ宗教改革者ルターの誕生であり、この「信仰による義」というパウロの教えこそ宗教改革の精神であった。

 

 その頃、教皇レオ十世(在位1513~1521)はローマの聖ペテロ大聖堂を建築する計画をたて、その資金を得るために贖宥符を発売することをマグデルブルク大司教アルブレヒトに委託したが、その販売に当たったのは修道士テッツェルであった。しかし、ザクセンの領主フリードリヒ三世は領内での販売を禁じたので、ルターの住んでいたヴィテンベルクには来なかったが、住民たちが領外に買いに出かけるのを見て、ルターは非常に残念に思った。

 

 1517年10月31日、ルターは贖宥符の無効について公開論争をする目的で「贖宥の効力を明らかにするための提題」95か条をラテン語でヴィッテンベルク城教会の門扉に貼付掲示した。これが今日、世界のプロテスタント教会で記念されている「宗教改革記念日」である。しかし、この提題はラテン語であり、ドイツ国内の教会門扉に貼り付けたところで読める人はほとんどいなかった状況から、ヴィッテンベルク城教会の門扉に貼り付けたという話はルターの協力者であるメランヒトンによる創作であるとも言われている。

 

 いずれにしてもルターはただ大学の指導者や聖職者たちと論争するつもりであったのは確かで、まもなくそれはドイツ語に訳され、印刷されて全ドイツに流布された。これによりルターの考えに同調する人々が日を追って多くなっていった。

 1519年6月から7月にかけて教皇派の神学者ヨハン・フォン・エック(?~1524)とルターの間でライプツィヒにおいて激しい論争が行われ、ルターもこれによって窮地に追い込まれて考えを硬化し、教皇と決別せざるを得なくなり、宗教改革運動が展開されることとなった。翌1520年6月15日にはエックの要請により教書「破門威嚇書」が発せられた。これはルターの著作の中から41か条の箇所を引用して非難し、これを撤回しない限り破門するということを宣言したものである。

 

 この年ルターは、8月に「キリスト教的階級の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に与うる書」、10月に「教会のバビロニア虜囚について」、11月に「キリスト者の自由について」などを書いているが、これを宗教改革の三大文献と言っている。ことに「キリスト者の自由について」はルターの根本思想を述べたもので、それはキリスト者の内的人間、すなわち霊に生きる人間は信仰によってのみ義とされるのであるから、この権威や秩序や善行などからは全く自由であるが、キリスト者の外的人間、すなわち肉に生きる人間はすべて僕となって愛の奉仕をすべきと説き、ルターの思想の根本である「信仰のみ」の内容を端的に表明したものであった。

 

 その年12月10日、ルターは彼を支持するヴィッテンベルク大学の学生や教授たちの前で「破門威嚇書」を燃え上がる薪の炎の中に投げ込んでしまった。そして翌1521年1月3日、ルターはカトリック教会から破門された。

 ルターの問題でドイツが揺れ動いていたさなかに皇帝となったハプスブルク家のカール五世(在位1519~1558)は当時フランスと北イタリアで紛争を続けており、また神聖ローマ帝国の統治のためにも教皇の支持を望んでいたのでルターの意志を撤回させ教皇の好意を得るため、1521年4月、ウォルムス帝国議会にルターを召喚した。

 

 ルターは4月3日にヴィッテンベルクを出発し、4月16日にウォルムスに到着し、翌日帝国議会の開かれている建物に入った。議場で審問官は机の上に積み重ねてあるルターの書物に対して、それがルターの書いたものであるかどうかただされ、ルターは自分の書物であることは認めた。しかし撤回することに対しては、一日の猶予を求めた。翌日同じ時刻に議場に入り、その中央に立ってこう答えた。

「私の良心は神の言葉にとらえられています。ですから私は何も撤回できません。また撤回しようとも思いません。なぜなら良心に反して行動することは安全でもなければ正しくもないからです。私はここに立っています。神よ助け給え。アーメン」

 

議場は騒然となり、ルターは外に連れ出された。翌日皇帝は諸侯に諮問してルターを帝国追放にすることを決定し、正式には5月26日「ウォルムス勅令」として発令された。

 ルターはウォルムスからの帰路、行方不明になり殺されたという噂が広がったが、実際は彼を支持するザクセン公が騎士たちに依頼してルターを自領内のワルトブルク城に密かに匿い保護したのである。ここでの生活は10か月ほどであったが、その年の12月に秘密裏にヴィッテンベルクに帰り友人たちに会った後、ふたたびワルトブルク城に戻り、3か月間滞在中、以前から城内で続けていた新約聖書のドイツ語訳を完成し、1522年3月6日、ヴィッテンベルクに帰った。

 

1-1.ドイツの宗教改革(2)

 ルターがワルトブルク城に隠れている間に宗教改革の火の手はドイツ全土にひろがり、騎士戦争や農民戦争などと結びついて大きな社会運動へ発展する。

 騎士戦争は1522年9月にライン地方の下層騎士たちが宗教改革の風潮に乗って社会的不満から起こしたもので、人文主義者のウルリヒ・フォン・フッテン(1488~1523)もルターに共鳴して騎士戦争を支持したが、下層騎士たちは必ずしもルターの思想を深く理解していたわけでもなく、翌年5月には鎮圧されてしまった。これに反して農民戦争は長い歴史の中で農民の心に蓄積されてきた経済的、政治的圧迫に対する不満に宗教的なものが結びついて爆発したもので、その導火線となったのはルターの「キリスト者の自由」であった。しかし農民たちが本当に望んでいたものは、社会的な自由であった。

 

 ドイツの農民たちは以前から散発的に各地で一揆を起こしていたが、ルターの改革運動に刺激されて1524年から25年にかけて広範囲にわたって勃発した。最初は1524年6月、西南ドイツのシュバルツワルトに起こった一揆は翌年シュワーベンに移り、やがて南ドイツに広がり、1525年3月にはシュワーベンの農民たちが中心となって「キリスト者兄弟団」を組織し、綱領「12か条」が掲げられた。ルターはこれを支持して諸侯たちに対し、農民の反乱は神の裁きとして農民の要求を考慮するよう勧告すると同時に農民に対しては、武力放棄をやめるように忠告して、平和に和解させようと努めた。

 

 その後、一揆が北に広がっていくとトマス・ミュンツァー(1490頃~1525)の指導によって過激な様相を呈してきた。ミュンツァーはライプツィヒ大学で神学を修め、1520年頃からルターの改革運動に共鳴しているが、彼は下層社会の人々に同情し、キリスト者は地上の権力を倒して原始キリスト教の共産生活にしたがって神の国を建設すべきであるという理想をもって一揆を指導した。ミュンツァー指導のもとに農民たちが激化してくるとルターも一揆に対して批判的となり、政治活動と宗教活動の混同に反対し、諸侯たちにこれを弾圧するように勧告した。ミュンツァーたちは一時成功して1525年3月には市政を掌握したが、まもなく鎮圧され、数か月のうちに各地で農民は逮捕され数千人が処刑された。

 

 農民戦争がおさまると、1526年に皇帝カール5世はシュパイエルに帝国議会を召集し、今後は為政者たちが神と皇帝に対して責任を負うて処置することが決議されたが、それはカトリックルター派のいずれを選ぶかは彼らに一任されたことで、宗教問題は解決したかに思われた。しかし、1529年、第2回シュパイエル帝国議会が開かれ、多数派のカトリック派の諸侯たちは、前回の決議を無効であるとし、ルター派の弾圧が計られたため、ルター派の諸侯はこの決議に反対して抗議書を提出したので、以後、ルター派プロテスタント(Protestant 抗議者)と呼ばれるようになり、後年カルヴァン派その他すべてのカトリック以外の教派をプロテスタントと呼ぶようになった。

 

この第2回シュパイエル帝国議会以後、ふたたび両派の対立が起ったことを憂い、皇帝カール5世は、両派の協調を計って1530年6月にアウグスブルク帝国議会を召集し両派の教義について討議を行い、メランヒトン(1497~1560)らルター派の学者によって作られた「アウグスブルク信仰告白」が承認されたが、それは教皇至上権、化体説などカトリックの教義に対してあえて否認も排撃もせず極めて妥協的なものであった。

 

 こうしたルター派の譲歩にもかかわらずカトリック派は高圧的であったので対立は激しくなり、カトリック派に立つ皇帝は武力に訴えんと計画をすすめたので、翌1531年12月、ルター派諸侯は「シュマルカルデン同盟」を結成して危機に対処することとなり、両派間の戦争は避けられない状態となった。1545年のトリエント総会議において妥協が計られたが、今度はルター派が拒否したため最後の局面をひかえ、翌1546年ついにカトリック派諸侯とルター派諸侯の間に「シュマルカルデン戦争」が勃発した。その年の2月18日、マルティン・ルターは生まれ故郷のアイスレーベンでその生涯を閉じたのである。

 

 シュマルカルデン戦争はルター派諸侯の間に内紛があって乱れ、カトリック側も戦意を失って平和が回復し1555年にアウグスブルク宗教和議が結ばれた。

 この和議の要旨は以下の通り。

カトリック派とルター派も認めるが選択権は領主にあって、住民は領主の信仰に従わねばならない。もし住民がそれを望まない場合は自分と同じ信仰の領主のところに移住してもよい。ただし従来カトリックを信奉していた領主がルター派に改宗するときはその地位を失う。また自由都市にあっては両派の共存を認める。」

 この和議ではドイツ国民個人の信仰の自由は承認されず、しかもカトリックの領主の改宗は事実上不可能で多くの問題が残された。

 

 ルター派はドイツからヨーロッパ各国に伝播されたが、そのおもなものは北欧の国々であった。デンマークでいち早く、1520年ごろに国王クリスチャン2世によってルター派の導入が計画されたが成功せず、その後、ハンス・タウセンによってルター派が伝えられた。タウセンは1523年ヴィッテンベルク大学において神学を修め、ルターの感化を受けて1525年に帰国して、コペンハーゲンを中心にルター派を広め、1530年には「43か条信仰告白」を作成しているが、国王クリスチャン3世も彼の影響でルター派に改宗し、1536年には国教とし、ルターの協力者ヨハンネス・ブーゲンハーゲンをドイツから招いて改革を進め、国王を首長とする教会制度を確立した。

 

 スウェーデン宗教改革は、ペトリ兄弟によって行われた。ペトリ兄弟はヴィッテンベルク大学においてルターの教えを受けて帰国し、早くも1520年頃から改革をはじめ、国王グスターヴ1世の協力を得、1527年から国教となり、教職者はすべて国王の任命によるものとした。

 ノルウェーは、1537年にデンマーク支配下に置かれたため、その宗教改革デンマークの手によって断行され、16世紀末には国教となった。

 

1-2.ルターの宗教改革による神学的展開

 ルターの神学は、ローマ教会や、多様な支持勢力との議論を通じて、さらに展開していった。

 

(1)聖書の権威

 ローマ教会にて元来、聖書は教理の源泉とされていた。しかし中世末期においては「伝承(=伝統的神学、教義)」が聖書と並ぶ啓示の源泉とされ、聖書の解釈は教皇の決定権に委ねられていた。ルターはローマとの論争でこの教皇の権威と対立する中、自らは「聖書の権威において」発言することを明確にし、教皇公会議も聖書の権威に従属すると主張した。教会の権威を聖書に求めるこの姿勢は、やがて「聖書のみ」「聖書主義」というプロテスタント教会の原則となっていく。

 

 

(2)聖職者の独身制、修道院制、結婚

 聖職者の独身制については第2ラテラノ公会議(1139)で定められたが、ルターはこれを人間の伝承に基づくものとして退け、結婚は各人の決断に委ねられるべきとした(「ドイツのキリスト者貴族」1520)。これにより多くの修道士や修道女は修道院を離れて、結婚した(「修道院大脱出」1521)。

 

 同様に修道誓願を立て修道士になることは功績とはならず、修道生活は特別な聖なる道ではなく、この世の職業と同じ召命に基づくとルターは理解した(「修道誓願について」1521)。もっともルターは修道院制そのものを否定する意図はなく、その教育的、社会的機能を評価していた。ルター自身20年間修道士であり、それをやめる決断は容易にはなしえなかったが、1524年に「心痛めて」修道服を脱ぎ、翌年に元修道女のカタリーナ・フォン・ボラと結婚した。のちにルターは結婚について、最も愛すべき神の賜物だと語っている。最終的にルターは、修道院生活を非キリスト教的なものと否定した。その理由は、修道士たちがキリストにではなく、自分の功績に頼っていると判断したからである。

 

(3)教会:全信徒祭司論、信仰者の共同体、礼拝改革

 ルターは全信徒祭司論により、キリスト者は信仰により同じ霊性をもつとし、ここからローマ教会の聖職主義者、ヒエラルキー制度を否定した。すなわち聖職者に特別な霊性を認め、人々に恵みを仲介する存在として、サクラメントの執行、司祭叙階、教理の決定、罪の赦しの宣言の権限をもつとする理解を退けたのである。

 

 この全信徒祭司論に基づき、新しい教会論が展開された。すなわち教会は、信仰者の共同体であり、会衆が教理を判定し、教師を招く権限をもつという会衆中心の教会論である(「キリスト者の集まり」1523)。この教会論に基づき、ルターは礼拝改革を行った。礼拝では聖書の言葉を通じて、罪人に神の恵みを告知することに重きが置かれ、その結果、説教に大きな役割が与えられることになった。また会衆の理解のために言葉はラテン語からドイツ語に変えられ、ドイツ語聖書が用いられた。会衆の賛美のためにドイツ語の「讃美歌集」が出版され、ルターも「神はわが砦」など、作詞作曲を手掛けた。

 

このように、礼拝は犠牲を捧げる場ではなく、会衆が恵みを受ける場へと変えられたのである。さらに信徒や教職者の教育のために大小の教理問答がつくられ、また教会財政や困窮者の援助のために共同金庫が設けられ、会衆による教会維持の体制が整えられた。もっともルターは急進派との対立の中で、また教会制度の確立のために、次第に秩序の必要を主張し、全信徒祭司論や会衆中心の教会論は後退していく。

 

 

(4)見える教会の限界と教職制度

 「見える外的教会」は「真の霊的教会」と区別されるべきことをルターは唱えた。なぜならば、見える教会には現実として義人と罪人が含まれ、義人もなお罪人でもあるから、霊的教会はそのまま現実の教会に実現され得ないのである。しかし「見える教会」の中にキリストへの信仰があることによって、「霊的教会」はそこに実現されると理解した。

 

 ここから「見える教会」の存続には教会秩序が必要であり、教職制を含む教会制度が不可欠であるとルターは考えた。すなわち、牧師職を立て、説教と聖礼典の執行を通して神の言葉を宣教し、救いの約束を告知することが求められた。ルターは全信徒祭司論を唱えたが「職務」として宣教するのが牧師であり、そのため「内的召命」に加え、教会の「選任と招聘」を必要とするとした。「按手」はローマ教会の叙階のように受階者に特別な霊性を与えるものではなく、教会の職務への派遣と祝福の意味をもつとされた。牧師職は特別に崇高な存在ではなく、神の言葉に従属する福音告知の「仕え人」であると説いたのである。

 

(5)律法の意義

 ルターのヴァルトブルク滞在中にヴィッテンべルクの改革を主導したカールシュタットは、聖霊の働きを受けて律法の行為が成就されると説き、偶像禁止規定に基づき聖像を撤去することを義務として市の規制に定めた。これにより町に聖像破壊の混乱が引き起こされ(ヴィッテンベルク騒動、1522)、事態の収拾にルターは選帝侯より呼び戻された。ルターは、禁止されているのは聖像そのものではなく、崇拝することであるとし、律法の字義的解釈はキリスト教的自由を侵すとして、これを退けた。

 

 一方、反律法主義者アグリコラは、「律法」はキリストにより成就され、救いの道として意味がないと主張した。ルターはこれに対して、律法は義認へは導かないが、なお意味をもつとし、①罪を示し、②キリスト者の生活の指針を示し、③政治的統治の指針を示す機能を指摘した。これは後にメランヒトンにより「律法の三用法」とされ、ルター派神学の基礎となる。

 

【参考文献】

水草修治「キリスト教会史概論」(東京基督神学校講義ノート、2009年度版・2017年改訂)

・土井健司監修「1冊でわかるキリスト教史」(日本キリスト教団出版局、2018年)

・曽根暁彦「教会史入門」(日本キリスト教団出版局、2003年、11版)

・井上政己監訳「キリスト教2000年史」(いのちのことば社、2000年)

・菜花和男「キリスト教会史」(北海道聖書学院講義ノート、2015年)

・ティム・ダウリー(青木義紀訳)「地図で学ぶ宗教改革」(いのちのことば社、2017年)

・ヘンリー・ベッテンソン編「キリスト教文書資料集」(いのちのことば社、1972年)