日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

●「もしその人が」

レビ記
5章
1,人が罪に陥ったとき、すなわち、その人自身が見ていたり知っていたりする証人であるのに、証言しなければのろわれるという声を聞きながらも、それをしない場合、その人は咎を負わなければならない。
2,あるいは、汚れた生き物の死骸であれ、汚れた家畜の死骸であれ、汚れた群がるものの死骸であれ、何か汚れたものに触れて汚れていたのに、そのことが彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合、
3,または、いかなるものであれ、触れれば汚れると言われる人間の汚れに触れ、そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合、
4,また、害になることであれ益になることであれ、誓ったことが何であれ、人が軽々しく口で誓った場合、そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になってその一つについて責めを覚える場合──
5,これらの一つについて責めを覚える場合には、自分が陥っていた罪を告白し、
6,自分が陥っていた罪のために償いとして、羊の群れの子羊であれ、やぎであれ、雌一匹を主のもとに連れて行き、罪のきよめのささげ物とする。祭司は彼のために、罪を除いて宥めを行う。
7,しかし、もしその人に羊を買う余裕がなければ、自分が陥っていた罪の償いとして、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って行く。一羽は罪のきよめのささげ物、もう一羽は全焼のささげ物とする。
8,彼はこれらを祭司のところに持って行き、祭司はまず、罪のきよめのささげ物となるものを献げる。彼はその頭の首のところをひねる。しかし、それを切り離してはならない。
9,それから罪のきよめのささげ物の血を祭壇の側面にかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出す。これは罪のきよめのささげ物である。
10,祭司はもう一羽のほうも、定めにしたがって全焼のささげ物とする。こうして祭司はその人のために、陥っていた罪を除いて宥めを行う。そして彼は赦される。
11,もしその人が、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができないのなら、自分の罪のために、ささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として持って行く。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のきよめのささげ物であるから。
12,その人はそれを祭司のところに持って行く。祭司は、その中からひとつかみを覚えの分として取り、祭壇の上で、主への食物のささげ物とともに焼いて煙にする。これは罪のきよめのささげ物である。
13,こうして、祭司は彼のために、陥っていたこれらの罪の一つのゆえに宥めを行う。そして彼は赦される。その残りは、穀物のささげ物と同様に祭司のものとなる。」
14,主はモーセにこう告げられた。
15,「人が信頼を裏切ることをしたとき、すなわち、主の聖なるものに関して気づかずに罪に陥ってしまった場合、羊の群れから傷のない雄羊、それも、聖所のシェケルで数シェケルの償いの銀に相当すると評価される雄羊一匹を、代償のささげ物として主のもとに連れて行く。
16,その人は、その聖なるものに関して罪に陥っていたことの償いをする。それにその五分の一を加えて、祭司に渡す。祭司は、その代償のささげ物の雄羊をもって彼のために宥めを行い、彼は赦される。
17,また、もし人が罪に陥っていて、主がしてはならないと命じたすべてのうち一つでも行いながら自覚がなく、後になって責めを覚えるなら、その人はその咎を負う。
18,その人は羊の群れから、代償として評価された、傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れて行く。祭司は彼のために、彼が自覚せずに、また気づかずに犯した過失のゆえに宥めを行う。そして彼は赦される。
19,これは代償のささげ物である。彼は確かに主の前に償いの責めを負っていた。」

 

 主イエスがお生まれになったとき、ヨセフとマリアはエルサレムの神殿に行き、産後の汚れをきよめるためのささげものをしました。そのとき、ささげたのは鳩だったことは、よく知られています。それは、彼らの貧しさを表していると言うことです。

 

"そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。
それは、主の律法に「最初に胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる」と書いてあるとおり、幼子を主に献げるためであった。
また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。"
ルカの福音書 2章22~24節

神の律法は、神の義を表しており、罪汚れに対しては、非常に厳しい取り決めがあって、必ず動物に自分の罪を転嫁して血を流し犠牲としなければなりませんでした。

 

これらの儀式について、レビ記は詳しく、丁寧にそのことを伝えています。血生臭そうで、繰り返されるその言葉に、読んでいてくどさを覚える人も多いと思います。

 しかし、それは神が聖なるお方であるにも関わらず私たち罪人と関わろうとしてくださる愛の印でもあるのです。

 神は聖できよいお方ですから、罪あるものは滅ぼされても仕方のないことです。しかし、神はそうはなさらず、忍耐をもって私たちと関わり、どのようにしたら交われるのか、その可能性を考え、神に近づく道をつくってくださったのです。それが、この動物を犠牲にするという方法だったのです。

 

 しかし、更に、今日の箇所には神の大きな憐みを覚えます。それは、私たちの経済状況をよくご存じで、その貧富によってささげものを変更しても良いということです。本来、きよいものとされるのですから、一通りのものでなければならないはずです。それは、あくまで私たちの罪汚れをきよめるためであり、その汚れの大きさは、貧富の差によって違いがあるはずがないからです。

 

 しかし、神はそのようにお決めになったのです。だから、「もしその人が」羊を用意する余裕がない場合に鳩を、鳩すら用意できない場合は、小麦粉でも良かったのです。

 ここに神の義にして、また聖にして、同時に完全な愛のお方であることも知ることができます。

 よく旧約の神は恐ろしくて、新約の神は優しいと聞くことがあります。私自身もそう思っていたことがあります。しかし、それは大きな誤りであることを、この箇所からでも知らされるのです。

 神がこれらの、一見面倒くさそうな儀式を与えて、ここまでしなければならないのかというような血生臭いことを示すのは、私たちへの罪の自覚の促しであり、それは本来、それ自体が汚れを清める働きをしているのではないのです。あくまで、神というお方のきよさを知り、同時に私たちが本来ならば、交わることのできない汚れた存在であるという自覚のもとに、にもかかわらず神は交わりたいと願って、食い下がるように、このような方法を示されている。そこに、神の愛をも教えようとしているからです。

 

しかし、この方法は、前述したように本来の方法ではなかったのです。それは、後に神ご自身が、そのきよい身を裂かれて、この羊のように私たちの犠牲となられたからです。

 

 ここに、神の完全なきよさと義があらわされたのです。神の完全な怒りが表され、御子がその呪いを受けられたのです。新約において神が優しいなんて言うのは、罪の上に下された神の怒りを、私たちではなく、御子が負ってくださったので、その恐ろしさがわからないのです。しかし、同時に今日の箇所を読んだとき、私たちは、ただ一方的な神の憐みを受けたに過ぎないものであることに気づかされるのです。

 

神は私たちの懐状態さえも配慮してくださり、交わろうとする。その完全な愛もまた、御子の十字架の死で示されました。

 

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節


私たちには、実は罪に対する償いなんてできないのです。本来は羊すら間に合わないのです。私たちの罪というのは、本来、神の御子のいのちを要求するほど、私たちには賄うことができない大きな借金なのです。主の祈りで、「私たちの負いめをお赦しください」と祈りますが、その赦しの影には御子の犠牲があることを忘れてはいけません。

 

今日のみことばは、旧約の律法であり、一見難しく、分かりづらさを覚えるかも知れませんが、それはたった一度、主イエスのいのちと引き換えに、私たちにとっては最も簡単に、信じるだけで赦されるという方法にされました。その恵みを覚えたいと思います。

 

神のきよさの中にある完全な愛と恵みは、今、あなたの上に注がれ、あなたを神の子どもの地位に引き上げているからです。だから、御国が来ますようにと祈りなさいと主は言われるのです。それは、既に御国があなたのものであり、その天の御国を憧れて生きる聖なる国民とされているからです。

 

 

◎ 2020年1月19日 白石教会礼拝

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説教題 「夕暮れ時のソドム」             
聖書箇所 創世記19章1節~11節
 

序論
 聖書はときどき、昼と夜、光と闇、いのちと死という明暗(コントラスト)を用いて、その場面が、またはその人がどこに向かおうとしているのかということを現わしていることがあります。
 つい先月にはクリスマスがありましたが、それを迎えるアドヴェントでも、暗闇が地を覆っているとか、光は闇に打ち勝たなかったとか、そういう表現を用いて、真の光であるキリストが来られることがどれほど嬉しいことか、どれほど喜びに満ち溢れるできごとかということを現わしていました。
 今日の場面でも、その方法がとられているなと思わせられます。というのも、この19章の出だしは、18章の出だしと非常によく似たかたちで始まるからです。18章の1節からは、旅人(つまり人間の姿をした主とみ使いたち)が、アブラハムに現れました。その時間帯は「日の暑いころ」おそらくお昼どきです。そのあとでアブラハムは主から「あなたは祝福されるよ。来年の今ごろ子どもが与えられているよ」と祝福の約束をいただきました。一方、19章では、その旅人のうちみ使いの二人だけですがロトに現れます。しかも、このときロトが住んでいたソドムという町は滅ぼされようとしていました。その時間帯が「夕暮れであった」のです。
 見出しがついている聖書では「ソドムの滅亡」となっている箇所です。夕暮れというのは、日没間近ですから、ユダヤでは一日の終わりを意味しています。それは日が暮れて終わってしまうという闇、希望のない状況に向かっているということです。
 今朝は、あらためて滅亡に向かうソドムの町、つまり夕暮れ時のソドムにおける信仰者ロトから、みことばに聞いていきたいと思います。
 
1.旅人をもてなすロト 
 すでに序盤でロトの様子について触れていましたが、あらためて聖書を読みたいと思います。1~3節
「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。そして言った。『さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。』すると彼らは言った。『いや、わたしたちは広場に泊まろう。』しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。」
 「その二人の御使いは」と書かれています。それは、18章での出来事の延長線上に、しかもそんなに時間を隔てないで起きたこととして記しているということです。前回まで18章の場面というのは、場所としてはマムレの樫の木のそばにあったアブラハムの家とその近辺でした。マムレというのはマムレという人の土地であり、その場所の名前でもありましたが、正しい位置はわかっていません。でも、おそらくヘブロンという町の近くであったと考えられます。そこで、主は旅人の姿で現れてアブラハムを祝福しました。でも、神様と天使がそのように来られた目的のもう一つは、ソドムという町を滅ぼすということでした。でも、アブラハムはそのソドムが滅びないように執り成します。50人、45人、40人、30人、20人と何度も食い下がって、最後に10人の正しい人がいたならば滅ぼさないという約束を取り付けます。
 そして、アブラハムと話していた主だけが去って行かれて、二人の御使いがソドムを滅ぼすために町に入ったわけです。神様には、もうわかっていました。ソドムには正しい人が10人もいないということを。それで、町は滅ぼすけれども、そこに住んでいたアブラハムの甥っ子のロトとその家族のことは救おうと考えていたことがあとでわかります。
 この二人の御使いは、夕暮れ時にソドムに入りました。アブラハムがいたところからソドムまでは、約60キロです。30キロが一日の道のりと言われていますので、かなり早くというか、ここは御使いとしての業を使ったのかも知れません。
 ソドムに着くと、その入り口の門のところに丁度ロトが座っていました。当時の町の門というのは、集会が行われたり、裁判が行われたり、町でにぎわいを見せる場所でした。しかし、夕暮れ時には普通は家に帰ります。日没前に帰らないと、もう次の日にまたいでしまいます。
 この闇に向かって活動する様子もまた、終末的な雰囲気を伝えています。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダも、イエス様を売るために外に出て行きましたが、そのとき外が「すでに夜だった」と福音書記者ヨハネは記録しています。それは、闇に向かって行くところに、神の御心とは正反対の罪の支配、悪の世界に身を置いていることを言いたいからです。
 ロトはいったい、ここで何をしたかったのでしょうか。それは推測してもよくわかりません。ただ、わかることは、ロトは罪の町ソドムに住み、ソドムの人たちとある程度歩調を合わせて生活していたということです。そのことがどういう意味があるのか。そのことがロトの信仰生活に何をもたらすのかは、このあとの出来ごとからわかってきます。


2.罪の町から影響を受けるロト
 罪の町ソドム。その罪がどんな状況かを聖書は詳しく伝えます。何と町中の人々がロトの家を取り囲んで、こう言うのです。5節。
「そしてロトに向かって叫んで言った。『今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。』」
 ソドムの市民たちは「すべての人が」町に入ってきた二人の御使いに注目していたのです。でも、ただ新顔が来たから関心をもっていただけではなく、もっと強い目的をもって関心を持ち、しかも「ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ」とその身柄を引き渡すように要求してきたのです。ここで、注目する言葉は「知りたいのだ」という言葉です。
 今日も出てきました。「知る」という言葉。前回、新年礼拝の中でもお話しました。「主を知れ」とは「主を体験すること」であると。知るという言葉は原語で「手」という言葉から生まれている。だから、頭の運動ではなく手の運動とつながっている。つまり触れるという意味が含まれているのです。
 ですから、「アダムがその妻エバを知った」というときに、そこに夫婦の関係があったことを意味しているのです。ですから、ここで、ソドムの人たちが要求していることは、この二人の天使を性的な体験をもって知りたいということなのです。
 この性的な貪欲さ、節操のなさ、タガが外れてしまっている不道徳の罪に対して言っているのです。自分の好奇心のために、また欲求を満たすためには、相手が傷つこうがお構いなしに暴力によってでも手に入れようとする人間の罪深さ。ここがソドムが滅ぼされる要因であったことは間違いないでしょう。
 神様は、非情に忍耐深く人間が罪を悔い改めて主を信じることを待つお方です。しかし、主に従おうと思い悩んでいる人を罪にいざない、不道徳をはびこらせるものに対しては非常に厳しく扱われます。聖書を見る限り、神様はいつも祝福を持って私たちを愛し、交わろうとして待ってくださるお方として表わされています。しかし、このような性的に乱れた罪、人間のきよい結婚秩序が脅かされる事態に対しては、それが蔓延しないように警戒され、ときにさばき、滅ぼすことに至るのです。それは、先にもお話しましたが、このような罪の世界で悩んでいる人のため、主に心を開こうとしている人を食いつぶすようなことにならないように、そうなさるのです。
 ここで、ロトは身を挺して戸口に立って客人を守ろうとします。ただし、その言葉には、ロトのソドムにおける悪影響をみるのです。7~8節
「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
 ここでロトは娘を差し出すと言い出すのです。ここでソドムの人たちの求めていることが性的な意味であることが裏付けられます。同時に、ロト自身の信仰者としての残念さも知るのです。いくら客を守るにしても、自分の娘を犠牲にする愚かさに彼は気が付いていないのです。正しいことをしていると思っているのです。そうでなければ、こんなことは言えないでしょう。
 
3.心を痛めていた義人ロト
 だから、今日の箇所ではこのロトの不甲斐なさに目が留まるのです。しかし、聖書全体の文脈で見たときに、決して、それだけでは片づけられないということがわかります。ペテロの手紙第二2章6~8節。
「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」
 確かに、彼は罪の影響を受けた信仰者でした。しかし、このペテロの手紙のみことばによって、今日の箇所を振り返るときに、信仰の父アブラハムを思わせる行動に目を止めることができます。
 アブラハムも、3人の旅人を、自分からみつけて、走り寄ってひれ伏し、家に招き入れて、食事を提供しました。ロトも「彼らを見るなり、立ち上がって」迎えたとあります。そして、顔を地につけて伏し拝んだのです。これは決して彼らを礼拝したという意味ではありません。ここで使われている「伏し拝んだ」は、アブラハムの「ひれ伏して礼をした」(18:2)と同じ単語が使われているからです。違うところは、ロトの方が「顔を地につけて」いたというくらいで、ここはロトはアブラハムと同様に旅人を手厚く受け入れ、もてなしたという事が出来ます。
 見て見ぬふりをせず、旅人のために、その必要に答えようとすることは、その人の信仰の姿勢を現わしているとも言えます。なぜならば、旅人をもてなすことは、見なかったことにすればスルーできるにも関わらず、ロトはあえて声をかけて関わろうとした。その人の隣人になろうとしたからです。それは、彼の内側から湧き出る信仰の証しなのです。
 確かに、彼はもともとソドムの近くに居場所を選び、現在はそのソドムに住むものとなってしまいました。またその悪い影響をいくらか受けていました。しかし、このソドムの中では正しい人であったわけです。夕暮れ時に何を期待して町の門のところにいたのかは不明ですが、少なくとも旅人を家に招き入れて食事を提供し、宿泊させたことは、結果的にこのふたりの御使いをソドムの人たちの手から守ったことになったのではないでしょうか。きっと神様から見ても不十分だったでしょう。しかし、聖書は、つまり神は彼を義人だと言いきっている。「義人ロト。」ロトは、日々その正しい心を痛めていたと。
 私たちは、今、罪の町ソドムの住民になってしまったロトを非難し、その生き方に裁くかもしれない。ロトのようではダメだと断罪するかも知れません。もっと、潔く罪から離れた生き方があったのではないかと言うと思います。私もそう思います。
 しかし、聖書は、そのロトのことを断罪するどころか、「正しい心を痛めていた」人だったと弁護するのです。なぜでしょうか。それは、この罪の町ソドムに生きるロトの姿こそ、この罪の世に生きる私の姿であり、あなたの姿でもあるからです。
 
結論
 私たちも、罪とは決別したところで生活したいと思いつつも、クリスチャンだけで集まって生活することはできません。それは、実は主の御心ではないからです。むしろ出て行って福音を宣べ伝えなさいと言われるのです。それは、今、ほろびに向かっている人たちが神の国に入ることができるように、教えてあげる必要があるからです。
 私たちも、この社会に罪が蔓延して、私たち自身も罪に染まることを警戒します。しかし、罪というのは実は、外からくるものではありません。あなたがたの中から出てくるものだとイエス様も仰っています。外から入ったものはトイレに行って出せばよいと言われました。罪の力はいつもあるのです。しかし、私たちを支配するのが、その罪ではなく神である状態を望み、悲しみ、苦しみつつも願っていく。そこに神の救いがあり、助けがあるのです。
 そのために、神の御子が、罪人としてさばかれる必要がありました。それは、罪人の私の罪をあなたの罪を身代わりに負ってです。それがキリストの十字架の意味です。私たちは、このキリストのゆえに、行いではなく、このキリストを信じる信仰によって救われるのです。そのことを別な言い方で、義とされると言います。本来、それにふさわしくないものが、神の憐みによって正しいとされて、滅びを免れる。これが救いなのです。ロトの信仰生活は罪の影響を受けていましたが、彼は義人と言われました。それは、まさに私たちの姿を指さしていたのです。

 今日も、このような足りない者を正しいと宣言してくださる主の恵みを覚えたいと思います。だからこそ、益々、この心を低くして、この罪の世で私たちを義としてくださった主を愛していこうではありませんか。

◎きょうのみことば 「福音を語れるように」2020年1月15日

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"また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。

私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。"

エペソ人への手紙 6章19~20節

 


使徒パウロは、キリストの福音によって多くの人が救われることを願いつつも、祈りとしては常に、「私が口を開くときに語るべきことばが与えられ…福音の奥義を…知らせることができるように…語るべきことが…語れるように」と祈ってほしいと願いました。

 


それは、神の救いの業は確かに神の御心がその人のうちに行われる神の業ですが、そこには神が選ばれた人を通して行われることであり、その業のために、自分が召されているとパウロは自覚していたからです。

 


しかし、これはパウロだけでなく、先にキリストの救いに預かったものたちの使命でもあるのです。

 


私たちはよく、あの人が救われますようにと祈ります。確かにそれは間違いではないと思います。でも、本当に救われてほしいならば、自分が行って福音をしっかりと語れるように祈るべきではないでしょうか。

 


いやいや私にはそれは無理ですと思う方がおられるかも知れません。でも、そうであるならば、なおさらそうできるように願い祈るべきではないでしょうか。

 


福音を語ることを他人任せにせず、まず自分が語り、その使命を果たせるように願うのです。それが伝道であり宣教なのです。

 


今日も、愛するあの人に、あの方々に福音を真っ直ぐに語るものとして立っていけるように祈りましょう。

 

"朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。"
エペソ人への手紙 6章24節

●要約 舟喜 信 著 制度によらない「一つの教会」

A. 序論 
 新約聖書におけるキリスト教会は、「制度によらない一つの教会」を歴史的事実として表している。しかし、それは多くの主の教会を結び合わせる外的な組織がなかったということで、必ずしも当時の各地域教会にまったく組織的な営みがなかったというわけではない。むしろ、後に拡大し強くクリスチャンたちを結び合わせる組織的、制度的な営みが当初よりあったことは明らかである(使徒6章、15章等)。このような中で「制度によらない一つの教会」は、歴史における事実であり、その歴史を通して語られる教会の事実であった。それは、大きな勢力として組織化された教会を持って現されるものではないし、行き過ぎた多様化によって壊されることもなかった。それは、信仰によって起こされていく教会としての行動が、正しく果たされていくための枠組みであり、この原理は現代の教会とその業のために掲げるべき前提である。


A-1. 教会が聖書の原則に忠実であるということ
 現代の教会が聖書に忠実であろうとするとき、新約聖書に記されている教会の姿にそのまま戻ることはできない。教会政治におけるかたちも何が最も正しいスタイルか明確に支持する文言を見つけることはできない。その本質は、教会の形態よりも教会の存在自体の在り方において問うているのである。パウロが育てた教会は、何れも「一つの教会」として実を結ぶ苦悩を経験した。しかし、それは一致を生み出す苦悩ではなく、もともと一つとされている群れが相応しく整えられるためのものであった。つまり、地域教会が一つでなければならないということではなく、既に教会が一つであるという事実が、教会の在り方を決めていくために大きな意味を持っているのである。そのために、教会が聖書的であることは、教会の在り方の全領域において問われ、理解され、生きなければならない事実である。


B. 「一つの教会」であること
 クリスチャンは地域の群れにありながら、同時に「いたるところ」(Ⅰコリント1:2)にいるクリスチャンたちと同じ群れに繋がっている。この二重の立場があるという理解がエクレシアという言葉の用いられ方によっても明らかにされている。家の教会も一地域のクリスチャン全体も、全てのクリスチャンを含む全体もすべてエクレシアである。それは各地域教会が大きさに関わらず、その地に現された「一つの教会」としての性格を持っており、小さな教会が大きな教会の下部組織ではないということであり、「一つの教会」は全地域教会の総和ではなく、一つの地域教会が教会全体をその地において代表しているのである。


C. 「一つの教会」となること
 地域教会がそれぞれ特色を持ち違って見えるものがあったとしても、それは「一つの教会」であることの妨げになるのではない。なぜなら、教会が一つであるのは、同じ福音によって存在しているからである。福音は隔たりを取り除く力であり、「一つにする力」である。教会は福音によって一つにされているという、その一点において成立しており、十字架の和解なくして本来の一致はない。「一つの教会」は教会の状態を表わすというよりも、あらゆる違いを一つにする福音の働く場であると言える。それは単に個々のものを一つとするだけでない、一つとされたものが一つのものとして実を結ばせる聖霊の業である。「一つの教会」自体が聖霊の働きだからである。初代教会が味わった、教会内の分裂とそれを癒すための働きは、外に向かう和解の福音による分裂を癒す働きと同時進行である。多くの人が一つとされた地域教会は、内部的にもまた外部に対しても一つとなる業を成し続けるのである。パウロは教会の分裂を目の当たりにして、本来別々の者たちが一つにされることによって起こる緊張状態の現実を知った。それは教会には多様な階層の人々によって構成されているという現実である。だからこそ和解の福音によって一つとされる意味があり、変革され続けるべき責任を、この世の現実にあって負っているのである。


D. 「一つの教会」の展開
 パウロが伝道旅行中に各地域教会から集めたエルサレム教会への献げものは、各地域教会が群れとしてエルサレムの教会の人々と一つであることの証しであった。これは既に制度によらない教会が一つであって、そのゆえに何を考え、いかに行動するかを決める能動的な力の現れである。この現実が世界へと拡大したとしても、本質において変わるべきことではない。組織や制度化によって一致が表現される状況においても、本当の一致は、既に一致している事実に参与し、一つの教会とその業の中に生きることによって知るべきである。また、この世に対しても、教会は教会の外の世界と生き生きとした関係を持ちながら、「一つであること」を拡大する働きをいつも続けている。それは、教会はあくまでもこの世にあり、この世に手を伸ばし続ける存在だからである。
 
 
感想
  私は救いに与ったときから、教会が一つであるという概念が歪んでいたように思います。私が洗礼を受けたブラザレン派の群れは、それこそ制度によらない群れを目指していました。それは、新約聖書に記されている初代教会の本質的な在り方を、そのまま現代の地域教会に当てはめて、可視的にも現実的にも適用するというものでした。制度や組織を拒否し、非現実を現実としようとしていたのです。しかし、真の現実は、実際は制度化されていることをされてないとし、組織立っていることをしてないとするへそ曲がり的な解釈でしかありませんでした。
 目に見えないキリストのからだなる教会と地域教会を意識しつつも、この世に置かれている教会の現実を直視しない姿勢は、果たして聖書に忠実なのかと疑問を覚えたことを思い出します。天的なものが世的な中に置かれる現実は、パウロが体験した苦悩であり、現実的に「一つの教会」が一つであることの実を結ぶ、その苦悩の過程の中に見ることができます。聖書はその事実を、それこそ忠実に私たちに投げかけ考えさせているのです。だから、私たちは常に福音によって考え、十字架の恵みに立って、既に得ている「一つの教会」としての恵みを味わい、また考えていく必要を覚えます。そのために、現代を生きる私たちキリスト者に求められていることは、何が問題かを見極める洞察力であり、識別力であると思います。そこには歴史的な検証、または経験的検証を必要とします。
しかしながら、教会が主のからだなる群れとして存在するために欠かせない、聖霊の働きとみことばによって教えられ、整えられ、造りかえられていくために、聖書的検証を中心とした取り組みの必要性も思わせられます。その中で、主イエスがこの世で為された業とそこにある主のお心に益々近付くものでありたいと願わされるのです。
 この度、本書を通して、主の群れが一つであるという事実を土台とした地域教会に置かれている者として意識していくことの重要性を認識することができました。主がいのちを捨てるほどに愛された教会に置かれた私が、十字架の恵みに生かされて、主が愛された兄弟姉妹とともに「一つである教会」を意識する者、そして「一つである教会」が、教会の中での在り方を決める基本概念としてみことばが示している真理として、信じていく者でありたいです。
「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」ピリピ1:9~11
 
 
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◎2020年1月5日 新年礼拝

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説教題 「主を知り続ける恵みの人生」
聖書箇所 箴言3章6節
 
序論
 今年の干支は鼠だそうです。だからと言って何も変わったことはないのですが、私が最近目にするのが鼠の足跡です。朝、牧師館から教会に来るときに、ちょうど外の非常階段下にある物置の下あたりから、小さな足跡が点々として、会堂の外周をぐるっと回っているときもあるし、隣のアパートの方に横断しているときもあります。ときどき、その足跡に沿うようにカラスの足跡があったりもします。その足跡を見て、鼠がどんな生活をしているのか、どんな危険があるのか想像できます。
 つまり、私の教会に行く道すべてにおいて、鼠がいることを知らされています。これは、雪が降ってから教会に向かう道での出来事ですが、この道が一生のこととなると、関わってくるのは鼠だけではありません。まずは、家族、友人、近所の人、職場の上司、同僚、学校の友達、先生など、様々な人間模様が絡み合ってきます。誰から生まれ、誰と出会い、誰と結婚するかということでも、その人の道が変わってきます。
 その様々な出会いによって、あっちに行ったり、こっちに行ったり、その歩む人生の小道は曲がりくねっているのではないでしょうか。カラスに出会ったときの鼠の足跡がいつもと違っているように、私たちも何に出会うかで歩く道も変わってくるからです。
 昔、私が中学生くらいに「迷い道」という歌が流行りました。人生というものは、自分一人だけではなく、色々な人との関係で複雑になって、「一つ曲がり角一つ間違えて、迷い道くねくね」となっているのではないでしょうか。
 今日のみことば。つまり今年の年間聖句は箴言3章6節が与えられました。ここに、「主があなたの道をまっすぐにされる」とあります。これが、今日のみことばの着地点になります。それは、私たちの曲がりくねった、複雑に絡み合っている人生という道がまっすぐにされていくということ。しかも、自分でではなく、主によってなのです。だからこそ、その主を知るということがどういうことか。それが今日のポイントになります。その主が道をまっすぐにされるとはどういうことか。ともにみことばに聞いていきたいと思います。
 
1. 主を知れ
 今年の年間聖句は、壁に掛けられてあります。
「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。 主があなたの進む道をまっすぐにされる。」(新改訳2017)
 このみことばの中心的なことばは「主を知れ」という動詞です。この主を知ることが、人生の小道をまっすぐに進むことになる。これがこのみことばで言いたいことです。だから、まず主を知ることがなければ、祝福がないということを同時に言っています。
 では皆さんに質問しますが、皆さんは主を知っていますか。
 もちろん。知っているよと言えると思います。では主とはどんな方ですか。
 神学校に入ると、「神論」という授業があります。それは神というお方をどうことばで表すかという組織神学という学問の一つです。もちろん、それは聖書によって知ることができます。また、その聖書が言っているように、神様が造られたものによっても知ることができます。では皆さんは、神様をどんな方だと言いますか。
 まず、ご性質についてですが、神は聖であるということができます。それは汚れのない、他と交わらない唯一絶対のきよさである聖なるお方だということです。そして、罪を赦さない、悪を滅ぼす義なるお方であると言えます。さらに愛であるお方とも言えます。それは、罪で滅びる人間たちを救うために、愛する御子を与えるほど愛してくださったからです。ここに愛があると聖書に書いてある通りです。
また創造主であるということができます。三位一体です。父と子と聖霊という三つの位格をお持ちです。そして、永遠の中におられて、私たちのような物質や時間の制約を受けていません。他に知っていることありますか。
 こんな感じで、聖書から、そして、歴史的に初代教会から受け継がれてきた正統的な解釈で神様を言い表します。
 さて、「主を知れ」とは、そういうことを言っているのでしょうか。机の上で議論して、神とはこういう特徴があるとか、こういう性質だと言って分析することが主を知るということなのでしょうか。
 確かに、まだ神様を信じていない人に質問されたときには、そういう答え方もあると思いますが、それがすべてではありません。
もし、私が妻と結婚する前に、妻の寸法や、体重、さらに細かく分析して、ほ乳類でどうやら手が二本あって、指が5本ずつある。ああ自分と同じ人間だ。だから結婚しようと思うでしょうか。
 確かに妻についての客観的な情報を得るかも知れませんが、それが妻を知ったと言えるでしょうか。そうではありません。本当の意味で相手を知るとは、手紙を書いたり、声をかけて話しかけなければ、何も始まりません。話ができたら、映画に誘ったり、食事に誘ったりして、その中で何が好きでどんなことが嫌いかわかっていきます。しかも、それは根掘り葉掘り調査しているのではなく、興味をもって、関心をもって、愛情をもって知りたいのです。
 これが、聖書が言っている「主を知る」という意味です。以前にもお話しましたが、聖書の原語であるヘブル語では「知る」という単語は「ヤーダー」と言います。このヤーダーのもとになっている言葉は何というか覚えていますか。
 それは「ヤード」という「手」という意味から生まれている言葉なのです。「手」から「知る」という言葉が生まれている。それはどういう意味でしょう。
 それは、「知る」ということが頭の運動ではなく、むしろ「手」の運動であるということ。すなわち、「知る」ということは、手で触れるくらい体験が必要であるということなのです。だから、私がいくら妻の概略を知っても、それは妻という生き物を知っているだけで、聖書でいうところの「知っている」にはならないということです。
 それは、神様に対しても同じで、机の上で勉強して神様を知るのではありません。日常の生きた生活の中で、神に語り掛け、神に願い、神に聞いていく。それが神を体験する、神を知るということなのです。そして、ヘブル語の知るには、そのように体験する、触れるという意味の他に、認めるという意味もあるので、皆さんが持っている聖書では「認めなさい」と訳されているのです。だから、これも間違いではありません。英語の聖書も大体が「認める」という意味の単語を用いています。
 でも、どうして今回新しい訳では「知れ」と訳したのか。それは、言語に含まれている深い意味を生かすためです。「認めよ」にすると意味が限定されてしまい、ここで本来言いたいことを制限する可能性があります。それで、白石教会の今年の年間聖句は、より意味合いが豊かな「知れ」の方にしたというわけです。
 ですから、あなたが行く道、行く所、どこにおいても、どんなときでも、すべてにおいて、そこで主を知るとは、神というお方に興味を持ち、関心を持ち、もっと、渇いた心で、主の心が知りたいという求める思いで近づこうとする。それが信仰です。しかも、「知れ」という命令は現在形ですから「知り続けなさい」という意味も含んでいます。どんなことも、これで良いということはありません。特に神様については、いつも、常に求め続けなければなりません。私は聖書がこんなにも分厚く、膨大な本なのは、その深い森に主を求める熱心さが試されるためだと思います。
その本気度こそ、神様への愛だからです。「神様、あなたのことが知りたいです。あなたの御心が知りたいです。」そう求め続けることが、神を愛する信仰生活なのです。
 
2. 主がまっすぐにしてくださる
 そのとき、主は私達の歩む道をまっすぐにされると聖書は言います。
私は最初に言いました。私達の人生の小道は曲がりくねって、複雑で、そこを歩き続けて、すでに疲れ果てています。しかし、そういう生きづらい人生、先が見えない人生の小道をはっきりさせてくれるのが、主なのです。
今日、交読でお読みした詩篇23篇は、古代イスラエル王国の王となったダビデが歌った詩篇と言われています。
ダビデは、いつでも主を愛し、主に信頼する人でした。その信仰を、この23篇に見ることができます。全部見ませんが、「主は、わたしの羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と、どんな場面でも、そこに主の姿をとらえていました。しかも、恐ろしい裁き主の神ではなく、羊飼いである主として、親しく思っていたのです。そういうダビデは何を思って、この歌を歌ったのでしょうか。私は当初、この詩篇ダビデが少年時代に羊飼いだった頃の緑豊かな草原を想って歌ったのだろうと思っていました。2節で「主は私を緑の牧場に伏させ」と言っているからです。ところが、この言葉は、そうではないのです。
それは、ユダの土地には緑の牧場なんてないからです。むしろ岩肌が向き出しの荒野ばかりで、その岩の間から生えている草を食べさせるのがユダの地に住む羊飼いたちの仕事でした。
 ですから、ダビデがこの歌を歌っている背景は、やはり苦境に立たされた、緊迫した状況だったのです。目の前に敵が迫り、いのちの危険にさらされている状況です。では、主を愛し、主を知ろうと、覚えようと、認めようとしているのに、ダビデの道は決してまっすぐとは言えないのではないかと言えます。かえって複雑に絡み合い、厳しい状態ではないか。そう思えます。
 しかし、ダビデにとって、その状況よりも主がともにあるという確信こそ、ダビデにとっての平安であり、目の前に開けるまっすぐな道だったのです。
 この箴言の「主がまっすぐにしてくださる道」とは、確かに平穏で、なだらかで争いがなく、問題もない道という意味もあると思います。しかし、もっと大切なことは、どんな状況にあっても揺るがない心の平安です。神というお方からいただく、慰め、励まし、そして喜びによって、荒野に水が荒れ地に花が咲くような、状況に左右されない信仰が養われるとき、そこに御国に続くまっすぐな道ができるということです。
 大切なことは、主を愛し、主を知り続けようとするならば、すべてを任せて安心だということです。なぜならば、主を愛するあなたを主が決して見放すことはないからです。主ご自身が言われるのです。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」
 それは、イエス・キリストが、人間としてこの地上を歩んでくださって、その足跡を残してくださったからです。
 罪を犯して苦しむことは当たり前です。しかし、良いことを行ったにも関わらず苦しみを受けているならば、それは神に喜ばれることです。そういうとき、私たちはキリストの足跡を見つけることができます。
 それは、順風満帆のときは、残念ながら気が付きません。しかし、この世で、正しく生きようとして、かえって苦しみを受けているならば、それはキリストの足跡を見つけ、それに沿って従えるチャンスです。
 私が鼠の足跡を見つけたのは雪が降ったからです。雪がなければわかりませんでした。信仰の歩みも似ています。晴れているような時にはわからないことも、試練を通して逆に、主の姿が見えてくるものです。だからこそ、イエス様は言われたのです。あの逆説的な宣言を。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
 そのとき、ののしられ続けた十字架のキリストの姿が見えてきます。そのすべてを父なる神に委ねたイエス様の姿が鮮明にされるのです。そこに本当の慰めが待ち、天の御国が広がっているのです。
 そのとき、百人隊長が「この方は確かにまことに正しい人であった。神の子であった」と告白したように、目の前の敵すら神をあがめるようになるのです。ペテロも言います。
「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります」
 
結論
 これが聖書で言う宣教の原点であります。福音を伝えることとは、このようにだれかに聖書の話をすることも、もちろん大切ですが、その前に大切なのは、私たちキリストに行かされている者たちが、本当に主を知って、喜んで生きているかです。その中で、それを見た人たちが主を知りたいと思う様になり、求める心が起こされてきます。
 なんと主を知り続ける歩みは、私たち自分の道だけでなく、愛する方々の人生の道をもまっすぐにする力があるのです。
 
 今日は、これから聖餐式を通して主を知ろうとしています。「主を知る」というヘブル語ヤーダーにはもう一つは「覚える」という意味があります。イエス様は、あえて新約時代の私たちに、この聖餐式によって、主ご自身を覚えるようにと制定されました。
 この聖餐式を通して、心の底から主への愛を打ち明けましょう。それは、主がまずご自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ、まことの愛を示されたからです。それは、私たちが罪を離れ、神の義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに私たちはいやされました。そのキリストを覚えるのです。
 2020年が始まりました。新しい年を迎えさせてくださった恵みに感謝し、益々、教会に集まり、礼拝し、聖書を学び、それだけでなく、それぞれの家でも、職場でも、学校でも、道端でも、そこに主を覚えていきたいと思います。そこに、まっすぐに切り開かれた祝福の人生があるからです。
 
祈り

● 説教題 「羊飼いたちの礼拝」 聖書箇所 ルカの福音書2章8節~20節

序論
 ちまたではクリスマスムードが漂い、赤や緑の色どりでクリスマスリースやクリスマスツリーがあちこちに飾られています。普段、まったくキリスト教にかかわっていない人でも、だいたい、お祝いムードでパーティーなどが行われます。
 そのようなクリスマスムードに一役買っているのが、クリスマスソングだと思います。赤鼻のトナカイやジングルベルは讃美歌ではありませんが、ほとんどが讃美歌です。
 その讃美歌の多くは、聖書のクリスマスの情景を歌ったものが多いです。今日、始めの方で歌った「荒野の果てに」、次は「いそぎ来たれ、主にある民」、そして説教の後には「聞け、天使の声」はクリスチャンでなくても聞いたことがあるのではないでしょうか。
ここで問題です。今日皆さんで歌う讃美歌に共通している聖書のストーリーは何でしょうか。
 それは「羊飼いたちの礼拝」のお話がそのまま歌になっているということです。どの讃美歌にも、先ほど司会者の方に読んでいただいたルカの福音書2章14節の天使の言葉が歌詞に入っていました。それは「いと高き所に、栄光が、神にあるように」です。グロリア、イエクセルシス、デオとは「いと高き所に、栄光が、神にあるように」という意味です。
 そのくらいキリスト教会は、今日の聖書の箇所を出発点として、繰り返し繰り返し歌ってきたのです。それはどうしてでしょうか。それは、ここに本当のクリスマスの意味があるからです。羊飼いたちの礼拝。それこそ、現代の私たちキリスト教会につながる礼拝の原点があるからなのです。
 今日のクリスマス礼拝は、この羊飼いたちの礼拝をとおして本当のクリスマスの過ごし方と礼拝の意味についてみことばに聞いていきたいと思います。
 
1.礼拝は招きから
 8節~9節を読みます。
「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。」
 今日の登場人物で注目するのは羊飼いたちです。皆さんは、羊飼いを見たことがありますか。お友達などで羊飼いをしている人はいるでしょうか。なかなかいないと思います。牧場を経営している人がそれに該当するのかも知れませんが、飼っていても、せいぜい牛や馬だと思います。私は子どもころ、創成川沿いに住んでいまして、そこでヤギを1匹飼っていたことがあります。3~4歳の頃でした。だから、そういう意味では一時的にヤギ飼いの少年だったのかも知れません。
 羊飼いというのは、昔から遊牧民の仕事でした。イスラエル人とはもともとヘブライ人とも呼ばれて、渡ってきた人たちという意味があります。アブラハムモーセダビデも、みんな羊飼いでした。何よりも神様ご自身が羊飼いと言われていました。羊飼いは、羊を守るために命を捨てる職業です。イエス様も「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます」と言われました。そして「わたしがその良い羊飼いです」とおっしゃいました。
 ですから、そうみるとよい職業だと思います。なにせ神様と同じ働きをさせていただけるのですから。
しかし、実際は、当時のイスラエルでは大変蔑まれていた職業であったそうです。取税人や遊女と同じような扱いを受けていたようです。それは、まず動物を扱う仕事として軽蔑されていました。不潔な仕事だとされていました。汚れると思われていました。また、当時は様々なおきてを厳しく守ることが信仰者として尊敬されていましたので、動物の世話があって礼拝が疎かになる羊飼いたちは、蔑まれていたのです。また人口調査に該当しないほど低い地位だったとも言われています。3節に「人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った」とありますが、その人々の中に含まれていないから、ここで羊の番をしていたと言うことができます。
 そこに天使が現れます。ここはマリアのときとは違う現れ方です。ここでの羊飼いたちの驚きは、闇に包まれていた牧草地に目がつぶれるほどの栄光を見たことによる畏敬の恐れです。びっくりしたのです。しかも、照らした栄光は天使の栄光ではなく「主の栄光」であったと書いてあります。天使も被造物ですから、礼拝の対象ではありません。あくまで主の栄光が照らしたのです。ここに、礼拝の出発点が誰なのかが示されています。それは主の栄光です。つまり主ご自身の臨在があって礼拝ができるのです。それは当たり前のことだと思います。しかし、ここで注意したいのは、彼らが望んでこの場面に遭遇したのではないのです。何の理由も書かれていない。ただ主の一方的な選びがあったことだけがわかるのです。
 礼拝の出発点は、礼拝されるべき神がおられるという事実です。私たちが家を出て教会に出かけることが出発点ではないのです。しかも、礼拝とは私たちが出向くよりもまず、神様の方が近づいてくださっているということが、ここからわかります。礼拝のボールは神様の側にあって、それが人間の方に投げられる。そのボールをどう投げ返すか。しかも、ここで礼拝の司会をしている天使は自分の栄光ではなく主の栄光を表しているという、ここに礼拝奉仕者の模範を見ることができます。礼拝奉仕者は自分を隠し、自分が前に立っていても、あくまで主の栄光を表すのです。
 その天使はそこで招きの言葉というボールを投げました。つまり、礼拝に招いている理由を伝えます。10節。
「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。』」
 これは、神様が羊飼いたちを礼拝に招いていることばです。まずは、「恐れることはありません」アブラハムにも語られた主なる神様のいつもの安心できるフレーズ。ほっとさせられる言葉です。天使が語っていますが、これは主のことばです。私たちも礼拝司会や説教者によってみことばが読まれ語られますが、それは主のことばとして聞いているはずです。ここで羊飼いたちは、天使たちが来たのは、民全体の喜びの知らせ「福音」メッセージを伝えるためであること。そして、こう言います。11節~12節。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
 誰にも相手にされていない羊飼いたち。しかし、ここで主はみ使いを通して「今日、今、この時、「あなたがたのために」と、二回も繰り返して、他の人間は見捨てても、神であるわたしはあなたを見ているよ。あなたを呼んでいるよ。招いているよ。「救い主がお生まれになった」「あなたがたのために」と声をかけてくださったのです。確かにこの民全体のための良き知らせです。しかし、そのうれしい救い主誕生の場面にまずあなたを、今ここにいるあなたがたを選んで招待するよと言ってくださる。しかも特別にだれが救い主なのかがわかるように目印を教えてくれました。
「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます」何という恵みでしょうか。羊飼いにしたら、きっとずっと驚きっぱなしだったに違いありません。普段とは全く違う野宿。いつもとは全然違う夜番。ここで天使を通して神様からのメッセージを聞いて、羊飼いたちの心が恐れから段々と
燃やされてきます。喜びが湧いてきます。
 
2. 賛美しつつ礼拝から派遣される
ここでどうしましたか。そう、ここで神を賛美するのです。
 しかも、羊飼いたちが慣れていないので、天の軍勢が聖歌隊として賛美を導いてくれました。
「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」
 その賛美がどのくらいの時間だったのか、まったくわかりません。ただ言えることは、招かれ、メッセージをいただき、賛美をささげた羊飼いたちは、互いにこういわざるを得なかった。
「主が知らせてくださったこの出来事を見て来よう」
 ここでようやく救い主イエス様に会いに行く決断をします。み言葉と賛美で心が燃やされて、その招きに答えようと決意したのです。羊飼いたちには、あの東方の博士のような輝く明るい星はありません。それは、生まれたての赤ちゃんが飼い葉おけに寝ている。これが彼らに与えられた印だったからです。
小さなベツレヘムという村に入ると、捜し当てるのにそんなに時間はかかりませんでした。羊飼いたちは、マリアとヨセフと、飼い葉おけに寝ている赤ちゃんのイエス様を捜し当て、そこで天使のメッセージの通りだったことを証ししました。
 ここでメッセージ、つまり説教と証しの違いがわかります。天使は主のことばをそのまま伝えました。それが説教です。神から預かった言葉を語るのです。現代では聖書が完成していますので、聖書で語られていることを伝えるのです。また羊飼いたちは、そのみことばを聞いて体験した恵みを分かちいました。それを聞いた家畜小屋にいた人々は、羊飼いの証しを聞いて驚きました。それは、羊飼いたちが体験した主の恵みを語ったからです。証しというのは、信仰体験を通して神様をほめたたえることです。武勇伝や自慢話とは全く違います。主のことばが自分の生活の中で生きて働いたという、主が今も生きておられる恵み、こんな弱く貧しいものを顧みてくださったという主の憐みを語るのです。
 この出来事を通してマリアはすべて心に納めて思い巡らしました。このことは、のちに福音書を書くために取材に来たルカに伝えて、この福音書を書くのに用いられたでしょう。
 そして、そのあと羊飼いたちはどうしたでしょうか。どのように帰ったでしょうか。20節
「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
 羊飼いたちは、東方の博士たちのように立派な贈り物、ささげものは持っていませんでした。それは本当に何も持っていなかったからです。それでも礼拝に来ました。羊の番をするという仕事を置いて、その時間を使って、イエス様にお会いしたのです。ここは神様からのチャレンジでした。それは博士の黄金、乳香、没薬に比べたら金銭価値では劣るものでしょう。しかし、主の前には尊いささげものだったのです。
 何も持たないようで持っているのが、神に救われた者です。羊飼いたちのささげもので、この2000年間どれだけの人が励まされ、慰められたかわかりません。
 そして、最後のこの素朴で、まっすぐな信仰者の姿。新約聖書最初の礼拝、羊飼いたちの礼拝が、現代の私たちの模範です。みことばの通りだったことを喜び、神をあがめ、賛美しながらと書いています。それは、彼らの人生が変わったことを伝えています。社会から、国家からのけ者にされていた人生。人間としての数にもいれられていなかった人生。その希望がなかった人生に、賛美が始まったのです。おそらく、このときの賛美は、あの天の軍勢聖歌隊から導いてもらったあの歌でしょう。
『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』
 
結論
 私たちの人生も、主イエスに出会って、この方を愛し礼拝し続ける中に、賛美しながら歩む人生が起こります。
 羊飼いたちは、思いがけずイエス様の礼拝に招かれ、みことばを聞き、賛美し、証しをし、今度は主を礼拝し救いをいただいたものとして派遣されたのです。そこで心が満たされ、「賛美しながら帰っていった」のです。
 主を信じる者の歩みはすべてにおいて、「神をあがめ賛美しながら」の人生です。神を賛美しながら朝起きて、賛美しながらトイレに行って、賛美しながらご飯作って食べて、職場、学校、家庭の中で、それぞれ神を賛美しながら生きるのです。なんて素晴らしい人生でしょうか。
 
 私たちも、今日、このクリスマス礼拝に招かれ、みことばを聞き、賛美しています。そして、またそれぞれのところに遣わされます。ではその遣わされたところで何をするのか。
 心配いりません。ここから出て喜んで神を賛美しながら生きるだけで十分です。この礼拝から神様を賛美する喜びの人生が始まるからです。