日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

創世記8章1〜9節

 

1.人間が集まる理由(1~4節)
 1~2節を読みます。
「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」
 セム、ハム、ヤペテの三兄弟は、それぞれ子孫を増やして、一緒に同じ地域に暮らしていたようです。
 彼らが使っていた言語は一つでした。1節の「全地は一つのことば、一つの話しことばであった」とは、彼らの言語が共通した一つの言葉であったということです。それがヘブル語なのか英語なのかはわかりません。彼らは会話に不自由することなく暮らしやすいように平地を探してそこに定住しました。
先週、ハムの孫のニムロデがシヌアルという地に住んでいたので、今日のバベルの塔を建てたときの権力者ではないかという話がありますが、4節を見ると決して一人の権力者のために建てているのではないことがわかります。3~4節を読みます。
「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』」
 まず「互いに言った」とあります。直訳では「友達に向かって言った」と訳せます。その表現を「互いに」という意味で使うのがヘブル語のニュアンスなのです。彼らは一人の権力者ではなく集団でレンガを開発し、粘土ではなくアスファルトを利用してレンガを積み上げる技術力を得たのです。それで神様に感謝するのではなく「われわれは・・・名をあげよう」と言っています。一人の権力者ではなく、群れとして同じ方向に向かおうとした。
 彼らは町と塔を建てると言いました。その目的が「名をあげる」ためだったということが人間の罪の性質を表しています。その象徴が「頂が天に届く塔」でした。彼らは「名をあげよう」と自分たちの力を誇ることに価値を置き、すっかり神様へのまっすぐな信仰を見失っていたようです。
 この「頂が天に届く塔」とは、いったい何を意味しているのか。それは、自分たちの力で天に昇る。つまり自分たちで救いを手に入れられるという思い上がり、高慢がここにあったということです。自分たちの力で天国に手が届くと思った。
 その高慢は、神のことばよりも自分の業で勝ち取ることに魅力を持っています。また、その業を称賛されて益々思い上がります。だから、逆に聖書のように人間にとって都合の悪いことばかり書いてあると、耳が痛いので避けようとします。罪を指摘されるからです。
 このことは、既にイエス様を信じている私たちも注意が必要です。なぜなら、救いは神のことばであるイエス様の恵みなのに、何か自分ががんばってることに価値を置いてしまいやすいからです。毎週礼拝に出ていること、献金すること、奉仕すること、人に仕えること。神学校で学ぶこと。様々な信仰の歩みが、ときどき自分の業になることはないでしょうか。
 そのとき、私たちは天に届く塔を建てているということです。また、逆に、私なんか礼拝もあまり行けない。献金でいない。奉仕もできない。勉強もできない。だからクリスチャンとして価値がないと思っているなら、それもまた自分の力で天国に行く価値を求めているということです。どちらも共通することは、神の前に高慢であるということです。
 大切なことは、どのようなときも神のことばに聴くことです。ノアは神様からお言葉をいただいて、そのみことばの通り箱舟を造りました。だから彼らも主に伺うべきでした。しかし、彼らの建てる目的が主のためではなく、自分の名をあげるためだった。教会も人間中心になって神のことばに聴かなくなったら終わりです。

2. 「そこで神は人間を散らされる。」5~9節
 ここで神様はどうされたでしょうか。それは「降りて来られた」と書いてあります。人間が「天に届く塔を建てる」と息巻いて、上に上にと高く上ろうとすることを皮肉るように、神様は降りて来られる。その理由は「人間の建てた町と塔をご覧になるため」でした。
 ここを直訳すると「ヤハウェ【主】はアダムの子達が建てた町と塔を見るため」となります。ノアの子達ではなく、アダムの子達。まさに罪の性質をだれから受け継いだのか。そのことにも聖書はしっかりと触れています。ここに、神に近づくことが人間には到底無理であるという現実が鮮明にされています。人間がいくら努力しても神様には近づけない。それが現実です。どんなに良いことを積んで立派な人になろうとしても、その立派さは自分の満足になってしまうという現実です。
 しかし、神様は近づいてくださるのです。降りて来てくださるのです。ただ、このとき神様は彼らの思いあがり、高慢がはびこらないように、人間たちに混乱を与えて散らされることをお決めになりました。
 それが言語を混乱させるということです。ここから、その言語が通じる者たち同士で移動するようになり、世界に広がり、民族や国が形成されていきました。 
 当初、ノアの祝福が世界に広がる喜びであったはずだったのに、蓋を開けてみると、人間の罪のゆえに神様が介入されて、ようやく広がったのでした。8~9節を読みます。
「こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」
 彼らは「その町を建てるのをやめた」と書いてあります。神様の介入によって、ようやく彼らは世界に広がっていった。
 こうして、人間は世界に広がりました。そもそもは祝福を受けた人たちが神に感謝をもって広がることを目的としていましたが、現実はどうでしょうか。祝福は広がっているでしょうか。
 一昨年、第一回目の「ハンガーゼロ・日本国際飢餓対策機構の世界食料デーのための札幌大会が、北星学園女子中学校でありました。札幌市内の各教会の牧師や教会員、関係者が集まり、私も行って来ました。そこで聴いたお話で私の心に残ったことが二つあります。一つは日本で食べられるはずのものを捨ててゴミになった量です。食品ロスと言いますが、年間どのくらいだと思いますか。何と650万トンです。これは日本人が一人当たりご飯茶碗一杯分を一年間捨てているのと同じだということです。
 それではもう一つ、世界で貧しくて食べるものがないために死んでいる子どもは、どのくらいだと思いますか。これはクイズにしましょう。①4時間に一人②4分に1人③4秒に1人。正解は③4秒に1人です。
 世界に祝福が広がるように神様は人間を置いてくださいましたが、そうなっていない現実を見るとき、私たちは愕然とします。そして、恐らく多くの人は神様がいるなら何故こんなことが起るのかと神様のせいにするのではないでしょうか。
 しかし、聖書は何と言っているか。5節で言われていました。
「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。」
 聖書は、それは「人間が建てた町と塔」と言っています。つまり、今の現実は人間が起こしたことだと証言しているのです。その中で、不平等、貧富の差、過剰な経済競争、そして戦争が起っているのです。しかも、それは実は言葉が通じないから、言語が違うからという理由ではありません。確かに民族間、宗教間での紛争が起っていますが、それは実は表面的にそう見えるだけで、根本は違います。
 それは4節にあるように「名をあげよう」という、利己的な罪が集まってせめぎ合って生まれている現実なのです。その「名をあげよう」も突き詰めれば、不安から起るものです。自分が一番に、自分がスタンダードになれば安心できるからです。その発端はアダムから来ていることは、この創世記から始まる聖書で繰り返されている事実です。それは神の言葉よりも自分のことばを優先するところから始まっています。ですから、実は同じ言語を使っていても、私たち人間は必ずしも仲良しになれるわけではありません。
 社会の最小単位である夫婦を見れば一目瞭然です。同じ日本語を話していても、話がかみ合わないことを経験しないでしょうか。夫婦でも。その会話が成り立たない悲しみを味わったことはないでしょうか。

結論
 大切なことは、何でしょうか。それは神のことばによって一つとなることなのです。そのために、神様は私たちに聖書を与えてくださいました。昔は、単に自然を通して被造物を通して語られました。その後、罪が入って来たので、神様は預言者を送ってみことばを語られました。そして、最後に神のことばとしてイエス・キリストをお送りになって、そのお方を通して語られました。そして今は、そのキリストが建てられた教会を通して語られています。その教会は聖霊によって聖書から語っています。そして、今日も、聖書のことばから神の御心を聴いています。教会が生まれたペンテコステのときもそうです。弟子たちが集まっていると聖霊が下って、弟子たちは様々な言語で神のことばを語ったのです。大事なのは同じ言語よりも、霊感された神のことばに聴くかどうかです。
 私たちはみんな生まれた場所や育った家庭環境が違うもの同士です。本来なら一緒にいられません。しかし、このように一つ心になっているのはどうしてでしょうか。それは、神のことばによって一つとされているからです。だから夫婦もそうです。日本語で話しているのに話が通じなくても、神のことばに信頼するなら、そこに平和が訪れます。
 北海道聖書学院でも多くのキリスト教団体の人たちが集まります。日本同盟基督教団、福音バプテスト宣教団、インマヌエル綜合伝道団、福音自由教会日本福音キリスト教会連合など。どうして同じ神学校で学べるのでしょうか。キリスト教会という看板を掲げているからでしょうか。気が合うからでしょうか。そうではありません。神のことばである聖書に同じ価値をもって、そこから神の言葉を聞いて従おうとするからです。教会といえども、神のことばに聴かずに人間の思いを優先するなら上手くいきません。大事なことは神のことばで心が一つとなることなのです。
 そうです。主は、主のことばを聞かない者は散らされ、主のことばに聴き従う者たちを集められるのです。そして、今度こそ、主のことばを携えた者が、家庭に、職場に、学校に、世界に、それぞれの宣教の場へと遣わされるのです。その宣教の現場にだれが行くのでしょうか。
それは、あなたです。神の御心は、神のことばのとおりにおこなったノアの子孫が増え広がることだからです。

2020年7月13日(月) きょうのみことば

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「アザルヤの傲慢」

列王記 第二 15章1〜22節
1,イスラエルの王ヤロブアムの第二十七年に、ユダの王アマツヤの子アザルヤが王となった。
2,彼は十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレム出身であった。
3,彼は、すべて父アマツヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。
4,ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。
5,主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔離された家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、民衆をさばいた。
6,アザルヤについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。
7,アザルヤは彼の先祖とともに眠りについた。人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。彼の子ヨタムが代わって王となった。
8,ユダの王アザルヤの第三十八年に、ヤロブアムの子ゼカリヤがサマリアイスラエルの王となり、六か月の間、王であった。
9,彼は先祖たちがしたように、主の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。
10,ヤベシュの子シャルムは、彼に対して謀反を企て、民の前で彼を打ち殺し、彼に代わって王となった。
11,ゼカリヤについてのその他の事柄は、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。
12,主がかつてエフーに告げられたことばは、「あなたの子孫は四代までイスラエルの王座に着く」ということであったが、はたして、そのとおりになった。
13,ヤベシュの子シャルムは、ユダの王ウジヤの第三十九年に王となり、サマリアで一か月間、王であった。
14,ガディの子メナヘムは、ティルツァから上ってサマリアに至り、ヤベシュの子シャルムをサマリアで打ち、彼を殺して、彼に代わって王となった。
15,シャルムについてのその他の事柄、彼が企てた謀反は、『イスラエルの王の歴代誌』にまさしく記されている。
16,そのとき、メナヘムはティルツァから出て、ティフサフとその住民、その領地を討った。彼らが城門を開かなかったので、その中のすべての妊婦たちを打ち殺して切り裂いた。
17,ユダの王アザルヤの第三十九年に、ガディの子メナヘムがイスラエルの王となり、サマリアで十年間、王であった。
18,彼は主の目に悪であることを行い、一生の間、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。
19,アッシリアの王プルがこの国に来たとき、メナヘムは銀千タラントをプルに与えた。プルの援助によって、王国を強くするためであった。
20,メナヘムは、イスラエルのすべての有力者にそれぞれ銀五十シェケルを供出させ、これをアッシリアの王に与えたので、アッシリアの王は引き返し、この国にとどまらなかった。
21,メナヘムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。
22,メナヘムは先祖とともに眠りにつき、その子ペカフヤが代わって王となった。

 

 アザルヤは父アマツヤに倣って主の目にかなうことを行ったと聖書は証言しています。でも、高き所はそのままでした。このあと、アザルヤは主によってツァラアトにかかります。それは、彼の傲慢にあったと言われます。

 彼については歴代誌第二26章に、その功績と罪が記されています。彼は別名ウジヤであり、彼の教育者であるゼカリヤが生きている間は、委ねられたユダ王国をきちんと治めていました。ところが、途中から脱線し出します。

"しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は自分の神、主の信頼を裏切った。香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入ったのである。" 歴代誌 第二 26章16節

 ウジヤすなわちアザルヤは、祭司でもないのに、香を焚こうとして神殿を侵したのです。これは、いくらダビデ王家によるユダ王国の王とは言え、許されることではありません。

 その罪の行動の原因は何か。それは、彼の高ぶりであったと記されている通りです。彼は、最初はみことばに従い、信仰をもって歩んでいたと考えられますが、「強くなると」とあるように、事が上手くいって、何だか自分の力で、自分の能力で勝ち進んでいると錯覚し始めたのです。

 このような傲慢が信仰生活を蝕むことは、私たちにもあることです。自分の行いに立つとき、それまで主への感謝によって行ってきたすべての麗しい業が、献げものではなく、報酬を得るための業務と化すのです。

 きょう、このみことばから、私たちの中にある傲慢について思い巡らしましょう。もし気づかされる傲慢があるならば、そのまま主の前に置きましょう。そして、主にお取り扱い頂き、主の方法できよめていただくのです。

 大切なことは、そのままの自分を主に見ていただき、主の御霊によって変えられていくことを認め、委ねる祈りを、常に心がけていくことです。そこには、「強くなり」ではなく、へりくだる心が起こされて、自分の王国ではない、神の御国が広がっていくからです。

 

"だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。
あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう。
私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よわが岩わが贖い主よ。"  詩篇 19篇12~14節

 

"主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが高ぶる者には厳しく報いをされる。"
詩篇 31篇23節


 

"高ぶりが来れば、辱めも来る。知恵はへりくだる者とともにある。"
箴言 11章2節


"神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」"
ヤコブの手紙 4章6節


 

 

 

 

2020年7月12日 礼拝説教

説教題 「あの人は預言者
聖書箇所 創世記20章1節~18節

 

序論
 創世記から、神に選ばれた者として整えられていくアブラハムを学びます。
 今日の箇所で神様は、アブラハムのことを外国の王様に紹介しています。それが「あの人は預言者」ということばです。でも、どうして神様が紹介しなければならなかったのか。どうして、アブラハム本人の口からではなかったのか。ここに、今日の箇所でアブラハムが神様のお取り扱いを受ける大事なポイントがあります。しかも、今日の事件は以前も経験したような出来事です。
 果たしてアブラハム預言者として立っていけるのか。神を証しする者として立っていくために必要なことは何なのか。その問いをもってみことばに聴いてまいりましょう。

 

1.アブラハムの失敗とその影響
 アブラハム遊牧民でした。それで、住んでいたマムレの樫の木のところを拠点として移動しました。羊などを飼って動きまわる必要がありますので、今日お読みしたネゲブ地方のゲラルという、更に南に行った場所まで移動したと思われます。
 ここでアブラハム夫婦にピンチが訪れます。なんと妻のサラがこのゲラルの王様アビメレクに側室として召し入れられてしまったのです。でも、聖書はその原因が夫のアブラハムにあったことを告げています。2節。
アブラハムは、自分の妻サラのことを、『これは私の妹です。』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。」
 聖書は、ここで「アブラハムは、自分の妻サラのことを『これは私の妹です』と言ったので」と、アブラハムの言ったことが原因でサラがアビメレクの王宮に召し入れられてしまったことを指摘しています。「妻サラのこと」と、サラが妻であるのに、夫アブラハムはそれを明らかにしなかったと言っているのです。
 このような事件は以前にもありました。かつてエジプトに行った際、アブラハムは同じように妻サラのことを、自分の妹だと言ってエジプトのパロに召し入れられてしまったことがありました。アブラハムがなぜ妻サラのことを妹だと言ったのか。それは、妻があまりにも美しいことを妬まれて自分が殺されるかも知れないと思ったからでした。
ここがアブラハムの弱点でした。自分のことを微妙に隠すのです。それは、その理由が周りの目を恐れているからです。周囲の人の目、出会う人たちを恐れて、その人たちを信用できない姿勢。それは同時に神様を恐れず、神様を信頼していない姿勢でもありました。
 そこで神様は、特別にアビメレクの夢の中で彼に告げます。3節。
「ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。『あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。』」
 神様は、外国人の王であるアビメレクの夢でみことばを告げられました。これは特別な介入です。前回のエジプトの時はいきなり災いが起こりました。でも今回は特別に夢に現れてアブラハム夫婦を守り、同時にアビメレクをも救うことになったのです。
 神様はいきなり災いを与えず、警告してアビメレクが救われるように配慮されたのです。それはどうしてでしょうか。それは、アビメレクなりに最善を尽くして正しく生きようとしていた人だからでした。彼は5節でこう言っています。
「私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです」
 この世には義人はいないという観点で見るならば当然彼の正しさは不足しています。それは彼には妻やがいたことは17節に書いてありますので、そこを指摘したら彼の言葉は単なる言い訳に過ぎなくなるでしょう。でも神様のアビメレクへの指摘のことばは「あの女は夫のある身である」ということでした。それは、アビメレクが王様として側室を設けることに対しては触れず、ただサラが、アブラハムの妻であり結婚している女性である。だから人の妻を横取りすることになるので警告しているのです。
 アビメレクも、当時の王様としての常識の中で「側室は良い」と思っていたが、他人の妻を自分の妻にすることに関してはダメだと思っていたのです。その倫理観は正しかったわけです。その倫理観、道徳心のことをアビメレクは自分で「正しい心と汚れない手」と言って弁明したということです。それは、主を知らない外国人なりに最善を尽くして正しく生きようとしている人の美しい姿でした。だから、そのことを神様も評価しています。6節。
「神は夢の中で、彼に仰せられた。『そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。』」
 神様は、アビメレクの弁明に何とお答えになったか。それは、
「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた」
 神様が「そうだ」とこのアビメレクを認めるところに神様の深い愛と憐みを覚えます。アビメレクはアブラハムの子孫でも親戚でもありません。砂漠にすむ小さな国の王様です。だから真の神様のことは知らなかったと思われます。でも、そうであっても、主は彼の心を「よく知っていた」と言ってくださる。しかも罪を犯さないように配慮してくださっている。ここに、聖書の神様が決してイスラエル人だけを救おうとしているのではなく、神に造られたすべての人間を愛し身許に招いておられることがわかります。
 それは、現に私たち日本人に対しても同じです。神様は、どの国のどの民族の人でも、その人の中に残っている神のかたちをご覧になって祝福を与えてくださるお方だということです。しかも、神様はアビメレクにこのように言われます。7節
「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」
 神様は、アビメレクに妻を返しなさい。さもなければ死ぬとは言われていますが、何よりも大事なことを二つ仰っています。
 その一つは、「いのちを得よ」です。神様がこの警告をなさっておられるのは、アビメレクがいのちを得るためだったという福音のメッセージです。そして、もう一つは、その妻の夫であるアブラハムに祈ってもらったらそうなるということです。それは、「あの人が預言者」だからだと。アブラハム自身が言えなかった主を信じる人としての立場を神様が証ししてくださったのです。これによって、アビメレクが救われるばかりか、アブラハムの役割を異邦人であるアビメレクに知らせて、神様がアブラハムを通して行おうとしている人類救済の大きな計画を垣間見せたのです。それはアブラハムを通してすべての国民が祝福されるという祝福のことです。

 

2.アブラハムの弁明と回復
 結果的にサラは返されて、アブラハムは、このアビメレクのために祈り、名実ともに神の預言者として整えられます。先に17節、18節をお読みしましょう。
「そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。」
 そこでアブラハムは祈ったとありますが、それは自分のためではありません。彼が出会った人。言い換えると神が出会せてくださった人であるアビメレクとその家族、彼に関わる人々の祝福です。この他の人のために祈ること、執成すことは、実は既に経験していました。それは、あのソドムとゴモラが滅ぼされる前のことです。しかし、それだけでなく、さらに神の預言者となるためには、彼はもう一度、自分の弱さを知り、それをあらためて神様の前に取り扱っていただかなければなりませんでした。9節、10節を読みます。
「それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。『あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。』また、アビメレクはアブラハムに言った。『あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。』」
 アビメレクはアブラハムに言います。あなたは何ということをしてくれたのか。ここまでは前回のエジプトのパロに言われたことと同じでした。しかしアビメレクは更に続けます。あなたが…こんな大きな罪をもたらすとは。いったい私がどんな罪をあなたに犯したというのか。アビメレクが繰り返し強調していることは何でしょうか。それは罪の問題です。それは、アブラハムの罪です。それもこんな大きな罪と、アビメレクは、この出来事を罪の問題としてアブラハムに訴えているのです。これは前回のエジプトではなかったことです。どうして、アビメレクがここまで罪を犯すことになることに大声を上げているのでしょうか。それは、彼の方が神を恐れていたからではないでしょうか。異邦人であり真の神を知らないはずのアビメレクですが、神を恐れているからこそ、罪に対して敏感に反応し、アブラハムがもたらしたこの失敗が単にアブラハムの弱さを越えて、それは罪であると指摘したのです。
 では、それに対するアブラハムの反応はどうだったでしょう。11節
アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。」
 アブラハムの答えは、「この地方には、神を恐れることが全くないので」という、明らかにアビメレクをはじめとするこの地域の人たちを蔑んでいるということ暴露し、それを正当化して自分は仕方がなく妻を妹と言っている。しかも、それだって決して嘘ではないと。妻のサラが母の異なる妹であるのは確かなのだから。なんと言っても「私を殺すと思った」「あなたたちは神を全く恐れていない」そうやって、自分の判断はあなたを困らせたかも知れないが、それは私のせいではないのだ。そう言っているようなものでした。これはアビメレクにすれば侮辱です。ここで逆にアビメレクのその正義感によって、アブラハムは殺されても仕方がない状況です。
 するとここまでアブラハム預言者として、どうでしょうか。神の御心を行うべく選びの民、祭司である国民として大丈夫でしょうか。しかし、ここで、ある出来事を通してアブラハムは造り変えられます。14節~16節
「そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。そして、アビメレクは言った。「見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。」彼はまたサラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」
 そこで、アビメレクがしたことは、そのグダグダ言い訳をし続けるアブラハムに対する怒りや、呪いではなく、何と祝福を与えるのです。前回、エジプトのパロはただ恐れて、頼むから早く出て行ってくれという感じでしたが、アビメレクは違いました。アビメレクは、自分の土地さえも自由に住んでいいよ。お金もあげるので、それがこの土地で生きるための助けになるだろう。そう言って、アブラハムとサラを祝福したのです。

 

結び
 実は、この14節から続く二つの「そこで」を通して、アブラハムが神の選びの民、預言者として、神様との関係も修復されたという事が出来ます。というのも、今日の創世記20章に入ってから、なぜか「主」という神様のお名前が見当たりません。でも、この二つの「そこで」を通らされてから18節でようやく「主が」と出てきます。これは明らかに創世記の記者が意識的にそうしたと考えられます。それは、「神」という言葉の間中、アブラハムの心は「主」から離れていたということです。主ではなく人を見て恐れていたということでしょう。でも神様は、あえてアブラハム自身の弱さに向き合わせ、一連の出来事を通して、最後にアブラハムは「主」を見上げることができたのです。
 ですから、それは、まずアブラハムは自分の弱さから生まれた大きな罪に、彼自身が気付かされることでした。そして、エジプトでもそうですが、ここに来ても他の外国人たちを見下す姿勢、その高慢にも主はくさびを打ち込まれました。アブラハムが蔑んでいたアビメレクの方がむしろ正しく生きようと最善を尽くしていた。しかも、罪に敏感に反応して神を恐れて生きていたことです。ここで、アブラハムの高慢な鼻がへし折られたのです。そして、最後に、そのアビメレクが、どうして最後にアブラハムに怒りを燃やして処刑せず、また早く帰れと追い出さず、財産を与えて祝福したのか。
 それは、主の赦しを経験していたからです。実は選びの民アブラハムではなく、アブラハムから見下され、この土地には神を恐れることがないと見くびられていたアビメレクが、主の大きな憐みと赦し、その愛に打たれて、彼の心は呪いや怒りから解放され、本来怒りを注ぐはずの相手、アブラハムを祝福するものとされたのです。
 そのアビメレクの姿を通して、アブラハムは、彼が主に対する感謝によって祝福していると気付かされ、目が開かれたのではないでしょうか。それで、18節から、あらためて主なる神、ヤハウェなる主は、遠くにいる神ではなく、さらにアブラハムに祝福を与える主として歩んでくださるのです。

 

適用
 このアブラハムの出来事は、私たちの信仰の歩みにもそのまま適用できます。私たちもみんな弱さを持っています。しかし、弱いから仕方ないと、その弱さに負けたままでいることを放置してはいけません。その弱さの放置は、大きな罪を犯すことに繋がるからです。
 今日のみことばでアブラハムが変えられたのは、まず罪の指摘を受けたこと。そして怒りや呪い、叱責ではなく、祝福を与えるアビメレクの生き様によってでした。アブラハムの罪を指摘しながらも、主の赦しを受けて自分も赦す。それこそ、福音の感謝の中で生きる信仰者の姿です。
 主の赦し、主の愛を経験した人の姿は出会う人の生き方を変えます。主に罪が赦され、その愛が分かった人はその生き方で福音を伝えているのです。その生き様で主の祝福を広めているのです。アブラハムは、このアビメレクを通して主の祝福の恵みを味わい、多くの人々のために神の前に執り成し祈る人に変えられたのです。
 何よりも主イエス・キリストの贖いによって神の完全な赦しの福音をいただいた私たちは、このアビメレク以上に、またアブラハム以上に神様の偉大な愛を知らされています。そうであるならば、自分の弱さから逃げずに、主に取り扱っていただきたいと思うのです。あなたの弱さはなんでしょうか。ついつい繰り返してしまう失敗。それぞれ違うと思いますが、そのことを、繰り返してしまうからと言ってあきらめないで、主の前に悔い改め、それでもなお赦しを持って「預言者」だと呼び、アブラハムを立たせてくださる主の愛に触れていくのです。
 今週も、益々主を愛し、感謝し、祈る人、主の預言者として、整えられていこうではありませんか。


祈り

2020年7月11日(土)きょうのみことば

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「アマツヤの高慢」

列王記 第二 14章1~16節

"イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの第二年に、ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となった。
彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はエホアダンといい、エルサレム出身であった。
彼は主の目にかなうことを行った。ただし、彼の父祖ダビデのようではなく、すべて父ヨアシュが行ったとおりに行った。
すなわち、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。
王国が彼の手によって強くなると、彼は、自分の父である王を討った家来たちを打ち殺した。
しかし、その殺害者の子どもたちは殺さなかった。モーセの律法の書に記されているところに基づいてのことであった。主はその中でこう命じておられた。「父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。」
マツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討って、セラを取り、その場所をヨクテエルと呼んだ。今日もそうである。

 

 北イスラエルの王がヨアシュの時代、南ユダはアマツヤが王でした。アマツヤは前回、家来たちの謀反で殺されたヨアシュの子でした。彼の良いところは、主の目にかなうことを行ったことでした。これは褒め言葉です。だから、父を殺したものを逮捕し処刑したものの、その子どもたちには、その罪を負わせませんでした。それは律法にあるように生きたということです。しかし、ダビデほどではなかったと評されています。しかも父ヨアシュのようだったということですから、「高き所」はそのままで、主を信じているようで、同時に偶像にも仕えていた、もしくは自分流の礼拝を行なっていたと言えるでしょう。それが父から受け継いだ信仰だったのかも知れません。

 私たちも、主を信じていると言いながら、主よりも大事にしているものはないでしょうか。確かに偶像は拝んでいないかも知れませんが、金銭に執着していたり、ギャンブルや酔酒に依存していたり、やめた方が良いとわかっているのに、ついまたしてしまうあのことも、私たちを縛っているなら、それは偶像であり、高き所ではないでしょうか。

 そこに気づかずに、自分は信仰は大丈夫だと自負していると、そこにサタンが働きます。

 

そのときアマツヤは、エフーの子エホアハズの子、イスラエルの王ヨアシュに使者を送って言った。「さあ、直接、対決しようではないか。」
イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに人を遣わして言った。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に人を遣わして、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。
あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」
しかし、アマツヤが聞き入れなかったので、イスラエルの王ヨアシュは攻め上った。彼とユダの王アマツヤは、ユダのベテ・シェメシュで直接、対決した。
ユダはイスラエルに打ち負かされ、それぞれ自分の天幕に逃げ帰った。
イスラエルの王ヨアシュは、アハズヤの子ヨアシュの子、ユダの王アマツヤをベテ・シェメシュで捕らえ、エルサレムにやって来た。そして、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、四百キュビトにわたって打ち壊した。
彼は、主の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、すべての器、および人質を取って、サマリアに帰った。
ヨアシュが行ったその他の事柄、その功績、ユダの王アマツヤと戦った戦績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。
ヨアシュは先祖とともに眠りにつき、イスラエルの王たちとともにサマリアに葬られた。彼の子ヤロブアムが代わって王となった。"
 

   

 信仰は恵みなのに、自分の行いかのように、自分の誇り、自分の功績のように思わせるサタンのささやきがあります。一見些細なことに見えるものを放置するならば、そこから大きな罪を生み、痛い目に遭うことになるのです。

 アマツヤもそうでした。主の律法を守りへりくだって歩んでいるならば、それは主に祝福されたでしょう。しかし彼は、何を勘違いしたか、イスラエル民族としては兄弟的存在である北イスラエルに戦いを挑むのです。でもそこで、主は北イスラエル王ヨアシュに働いてくださり、その戦が無駄であることを喩えを用いて諭します。

 しかし、アマツヤの高慢は覚めず、とうとう戦闘が始まってしまい、結果、南ユダ軍は北イスラエルに負けて逃げ、エルサレムまで入り込まれて、神殿や王宮にあった金銀等の財宝と国民を人質として連れて行かれたのでした。

 アマツヤは、主の目にかなうことを行ったと言われていながら、高き所は残していた。その信仰の曖昧さが、結局アマツヤ自身の生き方にも現れて、自分の首を絞める結果となったのです。

 私たちも、信仰の目を開いて、除かれていない罪はないか。特に、その些細に思っていることはないかチェックが必要です。そこにサタンが入り込み、高慢につながり、自分が見えなくなって余計な行動へと向かってしまうからです。その行動や言動は、今度は周囲を巻き込み、あなたが守るべき愛するものたちをも不幸に追いやってしまうのです。

 きょうのみことばは、そのことを私たちにも適用させるべく教えています。だからこそ、きょうも繰り返し覚えたいのは、そのあなたの高き所に、主の十字架が立てられたということです。

 知らないうちに犯している罪。その高慢の高き所である、あのゴルゴタの丘に主は重い十字架を負いながら登られ、私、そして、あなたのために、その上で釘付けにされたこと。そのことを覚えたいのです。

 その十字架こそ、高ぶってしまう私の身代わりであった。そこに心を向けるとき、そこまでしてあなたを愛された主の御顔が見えてきます。その主を仰ぐ限り、そこにサタンは入って来られません。それは主によって悪魔の誘惑は遮断されるからです。

 きょう、あなたの高き所はなんですか?あなたの高き所はどうなっていますか?その高い所を、その主に委ねましょう。主がそこで死なれたことを、受け入れましょう。主はあなたを愛して、そこに執着せずに神の愛に執着するようにと待っておられます。

 その愛から、あなたを引き離すものは何もないのです。

 

"信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。"ヘブル人への手紙 12章2節

"しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。"ローマ人への手紙 8章37~39節


 

2020年7月9日(木)きょうのみことば

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列王記第二12章

1 ヨアシュはエフーの第七年に王となり、エルサレムで四十年間、王であった。彼の母の名はツィブヤといい、ベエル・シェバ出身であった。
2 ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。
3 ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。
4 ヨアシュは祭司たちに言った。「主の宮に献げられる、聖別された金のすべて、すなわち、それぞれに割り当てを課せられた金や、自発的に主の宮に献げられる金のすべては、
5 祭司たちが、それぞれ自分の担当する者から受け取りなさい。神殿のどこかが破損していれば、その破損の修繕にそれを充てなければならない。」
6 しかし、ヨアシュ王の第二十三年になっても、祭司たちは神殿の破損を修理しなかった。
7 ヨアシュ王は、祭司エホヤダと祭司たちを呼んで、彼らに言った。「なぜ、神殿の破損を修理しないのか。もう、あなたがたは、自分の担当する者たちから金を受け取ってはならない。神殿の破損にそれを充てなければならないからだ。」
8 祭司たちは、民から金を受け取らないことと、神殿の破損の修理に責任を持たないことに同意した。
9 祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴を開け、それを祭壇のわき、主の宮の入り口の右側に置いた。こうして、入り口を守る祭司たちは、主の宮に納められる金をみな、そこに入れた。
10 箱の中に金が多くなるのを確認すると、王の書記と大祭司は上って来て、それを袋に入れ、主の宮に納められている金を計算した。
11 こうして、勘定された金は、主の宮で工事をしている監督者たちの手に渡された。彼らは、それを主の宮を造る木工と建築する者たち、
12 石工、石切り工に支払い、また、主の宮の破損修理のための木材や切り石を買うために支払った。つまり、金は神殿修理のための出費のすべてに充てられた。
13 ただし、主の宮のための銀の皿、芯取りばさみ、鉢、ラッパなど、いかなる金の用具、銀の用具も、主の宮に納められる金で作られることはなかった。
14 その金は、工事する者たちに渡され、彼らはそれと引き替えに主の宮を修理したからである。
15 また、工事する者に支払うように金を渡した人々が精算を求められることはなかった。彼らが忠実に働いていたからである。
16 代償のささげ物の金と、罪のきよめのささげ物の金は、主の宮に納められず、祭司たちのものとなった。
17 そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取った。さらに、ハザエルはエルサレムを目指して攻め上った。
18 ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、主の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。
19 ヨアシュについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。
20 ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをベテ・ミロで打ち殺した。
21 彼の家来シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデが彼を討ったので、彼は死んだ。人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。彼の子アマツヤが代わって王となった。

 

 たった7歳で南ユダ王国の王となったヨアシュは、その後家来たちの謀反によって殺されるまで40年間治めました。しかし、信仰者としては甚だ疑問があったようです。2節の言葉はそのことを物語っています。

2 ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。

 ヨアシュは、いつも主の目の前にかなうことを行った。でもそれは祭司エホヤダがヨアシュを「教えた間」と、あえてその部分が強調されているようです。そもそも、幼いヨアシュを王座に着けたのは祭司エホヤダでした(2列王11:19)。そのことを国民は見ていました。ヨアシュも子どもの頃から、祭司エホヤダがそばにいて教育者となり、補佐役となって彼を支えてきました。

 確かにアタルヤの圧政で滅ぼされかけたダビデ一族の生き残りのヨアシュであり、祭司エホヤダが教育者としても良かったのですが、ヨアシュが王となり、さてまつりごとを行おうかといういうときに、思う様にいかない。そんなことが、この12章の前半部分に記されています。

 特に神殿修繕費を神殿にささげられたものの中でそれを使って修繕するようにと、祭司たちに命じても祭司たちが言うことを聞かなかったように、そこに王国の首長としての求心力の無さを見ます。しかし祭司エホヤダが考案した献金箱をつくり、そこにささげられたお金で修理する方法は問題なく用いられました。

 そこにアラムの王ハザエルが攻めてきます。ところが、これまで先祖たちが聖別して神にささげたもの、また王宮に蓄えてきたものをヨアシュは簡単にハザエルに与えて難を逃れます。一見、戦争せず平和的に解決して良かったように見えます。でも、ヨアシュはこのあと家来たちに殺されることになったのです。

 ヨアシュの何が間違っていたのでしょうか。それは、やはり祭司エホヤダあっての王であり、祭司エホヤダあっての信仰者だったということです。つまり、エホヤダの助言の中で動くうちはうまくいってたけれども、エホヤダを離れてヨアシュ自身の判断には、エホヤダにあった信仰と、その信仰によって神から与えられる知恵がなかったのです。また、神への畏れもなかったと思われます。先祖たちが「聖別してささげた物」(18節)を敵に渡すことは果たして正しかったのか。聖別したということは、それは神のものとなったということですから、それを、たとえ王とは言え、勝手に流用してはなりません。

 おそらくヨアシュは、祭司エホヤダにその確認すらすることも嫌だったことが考えられます。親離れ的にそのように思う気持ちはわかりますが、だからと言って、神のものを盗んで良いというわけではありません。それで他国との平和を築けたとしても、そのような外交はまたいずれ同じ場面で、同様の要求がされるでしょう。つまり他国の軍事力に負けて、その国の金蔓となったことを意味しています。

 私たちも、信仰の自立は大事です。親がクリスチャンの場合は親を通しての信仰があるでしょう。またそれがあなたに影響力のある先輩クリスチャンかも知れません。牧師かも知れません。でも、私たちが自分自身できちんと神様と向き合って、神様のことばにいつも聞いていなければ成長はありません。周囲の助言がうるさいと思う様になって、いきなり自立しようと思っても、このヨアシュのように単に人間的な浅知恵での対処療法で、一見平和的な解決に見えたとしても、実は根本的な解決に至っていないばかりか、その判断がこのあとの状況を悪化させることになってしまうのです。

 そうならないためにも、今、与えられている環境の中でへりくだってみことばを聴き、たとえ尊敬する先輩クリスチャンに対してだったとしても、その人間に依存しない、ただ、その人が愛し仕えている神への思いを学んで、人ではなく神を意識していくことです。まず一人で神に向かって祈ること。そこに私たちの信仰の自立の一歩があるのです。

 

 

 

2020年7月8日(水)きょうのみことば

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列王記 第二 11章
1,アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族全員を滅ぼした。
2,しかし、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバは、殺される王の子たちの中からアハズヤの子ヨアシュをこっそり連れ出し、寝具をしまう小部屋にその子とその乳母を入れた。人々が彼をアタルヤから隠したので、彼は殺されなかった。
3,彼は乳母とともに、主の宮に六年間、身を隠していた。その間、アタルヤが国を治めていた。
4,七年目に、エホヤダは人を遣わして、カリ人と近衛兵それぞれの百人隊の長たちを主の宮の自分のもとに来させ、彼らと契約を結んで主の宮で彼らに誓いを立てさせ、彼らに王の子を見せた。
5,彼は命じた。「あなたがたのなすべきことはこうだ。あなたがたのうちの三分の一は、安息日に務めに当たり、王宮の護衛の任務につく。
6,三分の一はスルの門に、もう三分の一は近衛兵舎の裏の門にいるように。あなたがたは交互に王宮の護衛の任務につく。
7,あなたがたのうち二組は、みな安息日に務めに当たらない者であるが、主の宮で王の護衛の任務につかなければならない。
8,それぞれ武器を手にして王の周りを囲め。その列を侵す者は殺されなければならない。あなたがたは、王が出るときにも入るときにも、王とともにいなさい。」
9,百人隊の長たちは、すべて祭司エホヤダが命じたとおりに行った。彼らは、それぞれ自分の部下たちを、安息日に務めに当たる者も、安息日に務めに当たらない者も、祭司エホヤダのところに連れて来た。
10,祭司は百人隊の長たちに、主の宮にあったダビデ王の槍と丸い小盾を与えた。
11,近衛兵たちはそれぞれ武器を手にして、神殿の右側から神殿の左側まで、祭壇と神殿に向かって王の周りに立った。
12,エホヤダは王の子を連れ出し、王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。こうして人々は彼を王と宣言し、彼に油を注ぎ、手をたたいて「王様万歳」と叫んだ。
13,アタルヤは近衛兵と民の声を聞いて、主の宮の民のところに行った。
14,彼女が見ると、なんと、王が定めのとおりに柱のそばに立っていた。王の傍らに隊長たちやラッパ奏者たちがいて、民衆がみな喜んでラッパを吹き鳴らしていた。アタルヤは自分の衣を引き裂き、「謀反だ、謀反だ」と叫んだ。
15,祭司エホヤダは、部隊を委ねられた百人隊の長たちに命じた。「この女を列の間から連れ出せ。この女に従って来る者は剣で殺せ。」祭司が「この女は主の宮で殺されてはならない」と言ったからである。
16,彼らは彼女を取り押さえた。彼女が馬の出入り口を通って王宮に着くと、彼女はそこで殺された。
17,エホヤダは、主と、王および民との間で、彼らが主の民となるという契約を結ばせ、王と民との間でも契約を結ばせた。
18,民衆はみなバアルの神殿に行って、それを打ち壊した。彼らはその祭壇と像を徹底的に打ち砕き、バアルの祭司マタンを祭壇の前で殺した。祭司エホヤダは主の宮に管理人を置いた。
19,彼は百人隊の長たち、カリ人、近衛兵たちと民衆すべてを率いた。彼らは王を主の宮から連れて下り、近衛兵の門を通って王宮に入った。王は王の座に着いた。
20,民衆はみな喜んだ。アタルヤは王宮で剣で殺され、この町は平穏となった。
21,ヨアシュは七歳で王となった。

 

 エフーが王となった北イスラエル王国に対して、その南にはユダ王国がありました。北王国イスラエルでは、歴代、幾つもの王朝が起こされ、その都度立てられた王様によってイスラエル王国を治めていましたが、南のユダ王国は唯一ダビデ王朝だけで、代々ユダ王国を治めていました。ところが、そのダビデ王朝のユダ王国も一度だけ、ダビデの血筋ではない人が王であった時があったのです。しかも女性の王というのも彼女だけです。それがアタルヤでした。

 アタルヤについては、既に8章で説明がありました。

 

"アハズヤは二十二歳で王となり、エルサレムで一年間、王であった。彼の母の名はアタルヤといい、イスラエルの王オムリの孫娘であった。
彼はアハブの家の道に歩み、アハブの家に倣って主の目の前に悪であることを行った。彼自身、アハブ家の婿だったからである。"列王記 第二 8章26~27節


 アタルヤは、北イスラエル王国のあのアハブとイゼベルの娘でしたので、その悪影響を受けて育ったと思われます。ユダにおいて自分の息子アハズヤが死ぬと、何と他のダビデ王朝の一族をみな殺したのです。そして、その王座に自分が就くという恐ろしい事態となったのです。

 北イスラエル王国で王朝がころころ変わっても、そんなに大きなことではないかも知れません。でも、ユダ王国ダビデ王朝が途切れることは、大変大きな意味があります。それは、真のイスラエルを治めるメシア、救い主がダビデの血筋から生まれることになっていたからです。これは神様による救いの計画でした。アタルヤは、その神様の計画を妨害したのです。ですから、アタルヤのしたことは悪魔的な行動だったと言えます。

 しかし、彼女を蛇の如く用いて神の計画を妨害しようとする悪魔の策略も、アタルヤにとっては、義理の娘にあたるエホシェバの起点によって打ち破られます。エホアハズの子の幼きヨアシュを乳母とともに神殿の中に匿い助けたのです。

 きっとエホシェバは、自分がしたことがこのあとどのような展開になるのかまではわからなかったでしょう。しかし、彼女のしたことが、全人類を救ったと言っても過言ではないほどのことであったことは、新約の時代を生きる私たちにはわかります。

 そうです。エホシェバは単にヨアシュを助けただけではなかったのです。そのあとに生まれるイエス・キリストをも助け、神の救いの計画が果たされるために用いられたのでした。

 ここに、神様のくすしい摂理が見えるのと同時に、そこに用いられる人が必ず配置されていることにも気づかされます。祭司エホヤダもその一人でした。

 私たちの人生においても、不思議と私たちが神様から離れないために、近くに置かれている人はいないでしょうか。悪魔の働きを阻止して、あなたが主のものとして歩み続けられるために、あなたの近くに置かれている主の伏兵のような存在の人はいないでしょうか。

 その人自身は、そのことには気づいていないと思いますが、神様があなたを愛して、あなたが一人ぼっちにならず、滅びてしまわないために、神様が配置してくださっているのです。

 きょう三つのことを感謝しましょう。一つは悪魔的なアタルヤによってダビデ王朝が滅ぼされかけましたが、神様の不思議な配慮と摂理によってエホシェバが用いられ阻止され、そこから主イエス様が生まれ、私たちの救いを完成されたこと。二つ目は、同じようにあなたにもエホシェバのような存在の人があって今、救われ、神のものとされ、今もなお、その人を通して神の支えがあること。三つ目は、あなたもエホシェバのように誰かのために用いられているということです。それは、あなたにはその自覚はないかもしれません。でも、それはエホシェバも同じでした。

 それで良いのです。知らないうちに誰かの救いのため、神様の業のために用いられることほど嬉しいことはありません。なぜならば、そのようにして私もあなたもダビデ王朝の中に、救い主イエス様の中に招かれているからです。

 悪が蔓延りがっかりするようなことの中にある、主の揺るぎないご支配への希望を持って、きょうも歩ませていただきたいと思います。

 

"善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。
自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。"ペテロの手紙 第一 2章15~16節

 

 

 

2020年7月7日(火)きょうのみことば

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列王記 第二 10章18~36節

"エフーはすべての民を集めて、彼らに言った。「アハブは少ししかバアルに仕えなかったが、エフーは大いに仕えるつもりだ。
だから今、バアルの預言者や、その信者、およびその祭司たちをみな、私のところに呼び寄せよ。一人も欠けてはならない。私は大いなるいけにえをバアルに献げるつもりである。列席しない者は、だれも生かしてはおかない。」エフーは、バアルの信者たちを滅ぼすために、策略をめぐらしたのである。
エフーが、「バアルのためにきよめの集会を催せ」と命じると、彼らはこれを布告した。
エフーが全イスラエルに人を遣わしたので、バアルの信者たちがみなやって来た。残っていて、来なかった者は一人もいなかった。彼らがバアルの神殿に入ると、バアルの神殿は端から端までいっぱいになった。
エフーが衣装係に、「バアルの信者すべてに祭服を出してやれ」と命じたので、彼らのために祭服を取り出した。
エフーとレカブの子ヨナダブは、バアルの神殿に入り、バアルの信者たちに言った。「よく見回して、ここには主のしもべがあなたがたと一緒に一人もおらず、ただバアルの信者たちだけがいるようにせよ。」
こうして彼らは、いけにえと全焼のささげ物を献げる準備をした。エフーは八十人の者を神殿の外に配置して言った。「私がおまえたちの手に渡す者を一人でも逃す者があれば、そのいのちを、逃れた者のいのちに代える。」
全焼のささげ物を献げ終えたとき、エフーは近衛兵と侍従たちに言った。「入って行って、彼らを討ち取れ。一人も外に出すな。」そこで、近衛兵と侍従たちは剣の刃で彼らを討って投げ捨て、バアルの神殿の奥の間にまで踏み込んだ。
そして、バアルの神殿の石の柱を運び出して、これを焼き、
バアルの石の柱を打ち壊し、バアルの神殿も打ち壊し、これを便所とした。それは今日まで残っている。
このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。
ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。
主はエフーに言われた。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」
しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけることをせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。
そのころ、主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土で彼らを打ち破ったのである。
すなわち、ヨルダン川の東側、ガド人、ルベン人、マナセ人のギルアデ全土、つまり、アルノン川のほとりにあるアロエルからギルアデ、バシャンの地方にまで及んだ。
エフーについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、彼のすべての功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。
エフーは先祖とともに眠りにつき、人々は彼をサマリアに葬った。彼の子エホアハズが代わって王となった。
エフーがサマリアイスラエルの王であった期間は二十八年であった。"

 

 きょうの箇所で、中心的なことはバアルという偶像に仕えていた者たちを根絶やしにしたエフー自身が、バアルではないが、他の偶像である金の子牛に仕えていたという問題です。つまり、他人には厳しく、自分には甘いというエフーの態度です。

 確かにバアル礼拝は、道徳的にも破廉恥極まりない宗教でした。しかし、バアルでなくても、唯一の神である主以外を礼拝することは、主の前に罪です。

 エフーは、そのことをどう思っていたのでしょうか。聖書は何と言っているのでしょうか。まず主のエフーへの評価を見てみましょう。

 

30節

"主はエフーに言われた。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」"

 

 主はエフーのしたバアル礼拝をイスラエルから一層したことを評価して、彼と彼の家への祝福を約束しました。しかし、それは四代までであることがわかります。しかも、彼の治世においても、不穏な様子を窺わせることが記されています。

32節
"そのころ、主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土で彼らを打ち破ったのである。"

 エフーがバアル礼拝をイスラエルから一掃したことは良いことでしたが、彼の罪は見過ごされません。

29節

ただしエフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることから離れようとはしなかった。

 

31節

しかしエフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけることをせず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。

 エフーの罪とは、北イスラエル王国最初の王であるヤロブアムが始めた金の子牛礼拝を続けたことでした。その罪は、かつてヤロブアムが、北イスラエル王国の民が南ユダ王国にあるエルサレムの神殿に礼拝に行くことをやめさせるために始めた政策でした。それが、北はダン、南はベテルの両方に金の子牛の礼拝所を設置することで、国民がどちらへ向かっても金の子牛を拝むように仕向けたのです。しかも、ヤロブアムは、その金の子牛こそ、イスラエルの民をエジプトから救った主であるとしたのでした。つまり、国民の主への信仰を否定せず、偶像をもって主への礼拝としたのです。

 その悪習慣を続けたこと。それがエフーの罪だったのです。主への信仰を認めながらも、それを主がお望みになっている仕方ではなく、自分の方法で、自分が満足するかたちで行うということです。

 この方法、見えるものに依存する信仰は私たちにも適用できます。主を信じているといいながら、そのような偶像を持ち続けていることがあるということです。それは、さも主を信じていると見せかけて、実は偶像を拝んでいるような、信仰を骨抜きにしてしまうことがあるということです。

 目に見えない主を信じているといいながら、目に見えるものを置くことで安心しているものはないかということです。

 それは、例えば毎日聖書を読むことはどうでしょうか。毎日聖書を読むことは大事なことです。それは、主のことばを毎日聞くことだからです。でも、それが形式化していないか点検は必要です。それは、聖書を読むという行いによって自分の信仰は大丈夫だと思っていないか。それは、毎週の礼拝にも言えるかも知れません。毎週日曜日に神様を礼拝することは大切なことです。しかし、毎週礼拝しているという行い、かたちに依存しているなら、それは主に喜ばれることでないということです。

 そこに、他の人が例えば明らかに罪深いことをしているのを見て非難して、エフーがバアルの祭司たちを滅ぼしたように断罪したとしても、実は私に、またあなたにある罪深い部分も気づかされ、それを主の前に精算しなければ、エフーと同じなのです。

 でも、今、私たちには罪が示された時に、すぐに赦していただくお方が立っておられます。それがイエス・キリストです。

 私たちには、知らないうちに罪が染みついているものです。でも、気がつかされたならば、悔い改めて主イエス・キリストの十字架の贖いに委ねることによって罪は赦されて、その罪のゆえに滅ぶことはなく、永遠のいのちが与えられ、イエス・キリストが神を愛し人を愛して罪のない生き方を全うされたように、私たちもその主の似姿へと変えられていくのです。

 エフーは他の人の罪は見えても自分の罪は見過ごしました。でも今朝、主はこのみことばによってそのことを私たちに教え、私たちが主の前に悔い改めて、握りしめている罪を主の前に告白して、主の喜ばれる道を歩むように招いておられます。きょうもぜひ、一度立ち止まって、心のうちにある全てを主に打ち明けて、主の赦しの愛をもって、出会う人たちにも、その赦された愛をもって遣わされていきたいと思います。