日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2022年6月26日 白石教会礼拝説教

説教題 「世の救い主イエス・キリスト
聖書箇所 イザヤ書53章
 
 

白石キリスト教信仰告白

イエス・キリスト
イエス・キリストは人となられた神のことば、神のひとり子、世の救い主であり、十字架の死とよみがえりによって、私たちを罪の支配から解放し、神と和解させてくださいました。御子イエスは天に上げられ、父なる神の右にあって今も私たちをとりなし、栄光のうちに再び来られます。」
 
 白石教会の信仰告白に基づく教理説教は、今日で3回目になります。今日の教理説教のテーマは「イエス・キリスト」です。このテーマこそ、私たち白石教会だけでなく、すべてのキリスト教会における中心的な信仰の告白であると言って良いと思います。それは、このお方をどのように信じ告白するかということは、教派に関係なく、教会にとってのいのちであると言っても過言ではないからです。
 5月から再開された聖書研究会ではエペソ人への手紙から学んでいますが、その1章から、その手紙を書いた使徒パウロは、私たちがいただいている救いについて、ある言葉を繰り返し用いていました。それは「キリストにあって」、「彼にあって」、「この方にあって」など、必ずイエス・キリストにあって、この救いがあり、このキリストにあって、私たちが選ばれ、神の子どもとされ、天国を受け継ぐ者となっているからです。つまり、このお方なしには、救いはありえないということです。このお方なしには、罪人が神の子どもにされるなんて出来事は不可能であったということです。
 
 そのように、聖書全体を見ても、聖書そのものがすべてイエス・キリストにあって書かれていることがわかります。聖書66巻を貫いているテーマは「イエス・キリスト」です。旧約聖書にはキリストご自身の名は書かれていませんが、そのストーリーの中から、教えの中から、預言の中から、イエス・キリストのシルエットを見ることができます。ですから、旧約聖書においてキリストは映し出され、新約聖書において実体が明らかにされているということなのです。
 だから、いつもの礼拝説教も実はその中心はイエス・キリストです。イエス・キリスト抜きの説教はあり得ません。キリストのお名前が出て来なくても、必ず、そこにキリストの業、その使命にかかわる内容を含んでおり、まさに、いつも「この方にあって」神様に礼拝をおささげしている。そのことを今日も覚えたいと思います。
 
  限られた時間ですので、信仰告白の細かい解説というよりも、告白文を二つのポイントに分けて、そこから浮かび上がってくる主イエス・キリストを味わっていきたいと願っています。まず、ポイントの一つ目として「人となられた神のことば」であるということです。それは、本来、目に見えない神ご自身でありながら、私たち人間に語り掛けてくださる、そのことばとが、人間になられた。それはどうしてか。そのことに注目したいのです。
 
 そして、二つ目のポイントとしては、このお方が神様と私たちを和解させてくださった仲介者であるということです。それは、私たち罪人の弁護者であり、今もなお、天の父なる神の右におられて、執り成しておられるお方である。そのことをあらためて見ていくということです。

 


1.人となられた神のことば…キリスト
 ではまず、「神のことばが肉体をとる」とはどういうことか考えてみましょう。色々な切り口があると思いますが、「ことば」についてまず考えてみましょう。「ことば」というのは、人間関係の中で考えるとき、互いの意志を表現するときに口から発する音であったり、書いた文字や文章だったりします。つまり、相手がいて、その相手に意志を伝達するものです。
 
 聖書には「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)と書いてあります。この聖書でいう「ことば」と訳されているもとのことばは「ロゴス」と言います。それはギリシア語ですが、辞書を引いてみると、単に「ことば」というよりも、もっと広い範囲の意味を持っていることがわかります。確かに言葉に関する意味ではありますが「話、言語、言明、質問、風評、弁明、教えを説くこと、叫び」などです。それが、聖書で使われる場合には、直訳することが困難な場合があるくらいです。
 
 だから「初めにことばがあった」という日本語の訳も、普通に「ことば」と訳していますが、これを最初に「ことば」と訳したのは宗教改革者のルターだと言われています。彼は、ローマ・カトリック教会から破門され、初めてドイツ語の聖書を翻訳するときに、このロゴスを、ドイツ語でいう「ことば」という単語に訳した。そこから、各国の言葉で訳するときには、それぞれの国の原語でいう「ことば」にしたということです。
 
 でも聖書を旧約聖書からずっと見ていくと、確かにイエス様が神のことばであることがわかってきます。たとえば、旧約聖書ではもともと、神様から人間に言葉が語られるときには、目に見えない状態の神様から声があって、そのことばが語られていたと考えられます。アブラハムにことばがあったというとき、そのとき、アブラハムの目の前には肉眼ではその声の主は見えないのです。
 
 しかし、イエス様が来られてからは、イエス様ご自身が、その肉体をもった状態で声を発せられ、みことばをお語りになりました。まさに、以前は空間の中からの声でしかなかったのに、目に見えるかたちで、そのからだを通して、人間の発声方法を使ってお語りになった。それは、神のことばが肉体をもって来られたということではないでしょうか。
 また、今日聖書朗読でお読みしたイザヤ書53章は、イエス様が降誕される700年くらい前に書かれたもので、その時から、救い主の姿が預言されていたものです。いかがでしょうか。とてもリアルに、700年後に来られるメシアの姿を現しています。しかし、この預言をしたときイザヤは、先ず預言者として、神様から与えられたことを、声に出して語ったはずです。預言者ですから。そして、そのことばを文字にして記録しました。
 
 つまり、この預言がされたときには、このイザヤ書53章に描かれている救い主はことばに過ぎない訳です。しかし、それから約700年後に肉体をとってイエスという方がお生まれになって、イザヤが預言したことばのとおりに歩まれた。イザヤの預言の通りに生きられ、死なれた。それは、ことばが「人となって、私たちの間に住まわれた。」まさに受肉した神のことばであったということです。
 
 しかし、神のことばが人となられたというのは、そのように旧約聖書を成就するためだけではありませんでした。それは、どういうことでしょうか。それは、人の肉体を持つことによって、私たち肉体を持つ者の痛みや悲しみや苦しみさえもその身に負って味わってくださるためでもあったのです。それまで、天上においては、神として、他のいかなる被造物にも依存せず、皮膚も骨もない霊の存在として、ご自身だけで成立していたお方です。しかし、人間となられたことで、鼻と口を塞げば苦しいし、蚊に刺されば痒くなる。ラーメンを食べ過ぎたらお腹を壊す。殴られ、鞭を打たれ、釘をさされたら痛いのです。
 
 新約聖書のヘブル人への手紙4:15には、こう書いてあります。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
 
 イエス様は、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」とあります。それは、そのことも経験するために、肉体をとって来られたということでもあります。そうでなければならなかったのです。それは、私たち罪人の苦しみ、この世という罪の世界を限界のある肉体をもって生きることの辛さ、悲しさ、苦しさを知るためです。
 
  私たちの肉体は、弱いです。その弱さすら主は身をもって体験するため、肉体をとった神のことばとして来てくださいました。だから、この方のことばが益々信実であり、信頼できるみことばとなるのです。神様は口先だけのお方ではない。自らこの生きづらい罪の世界で生きなければならない辛さ。理不尽さなど、すべての点で同じところを通ってくださった。だから、このお方を通して語られ、実行された神のことばが益々、真実で信頼できる唯一のいのちのパンとして私たちを生かすのです。だから、そのお方の霊である聖霊によって霊感された聖書のことばは、まさに私たちを生かす神のことばとなるのです。
 
 
2.神との和解…仲介者キリスト
 しかし、このお方を正しく告白するためには、それだけならば片手落ちです。なぜならば、イエス・キリスト神と人との間に横たわっている罪を取り除く世の救い主、神と和解させ、今もとりなす真の仲介者として、私の中に、皆さんの中にとどまっていなければ、その信仰は足りないからです。
 
 白石教会の信仰告白では、「…世の救い主であり、十字架とよみがえりによって、私たちを罪の支配から解放し、神と和解させてくださいました」とあります。この部分が非常に大切であり、救いがかかっている、重要な教理になっています。この救いの原理こそ、聖書が書かれ、残されている理由だと言えます。いくら、イエスという立派な方を尊敬し、そのようになりたいと思っても、このキリストというお方が、何からの救い主なのか。どこから救ってくださるお方なのかということを知らなければ、救われることはできません。
 
 それが罪からの救いです。それを信仰告白では「罪の支配からの解放」と言っています。それは、罪というものは、病のように、私たちの肉体も精神も蝕み支配する、自分ではどうすることもできない死に至る病のようなものだからです。罪については、またあらためて6回目の教理説教で取り上げますが、アダムとエバが神様のみことばを軽んじ、自分たちが神のようになれるという誘惑に負けて犯してしまった堕落から始まっている、神との断絶の関係をもたらしているものです。嘘をつくとか、人の物を盗むとか、人を傷つけるなどは、罪の結果であって、罪そのものではありません。人間が神を信じないで、神から離れてしまっている状態が罪なのです。
 
 罪から来る報酬は死ですとみことばは言います。それは、神を信じないで、神から離れることを自ら選んだ結果、死んだあとも神様から離れた状態のままで、滅びである死に至るのだと言うことです。そもそも、滅びというのは悪魔のためにもうけられた場所です。世の終わりが来て、人々を惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれることが聖書に記されています。そして、続いてこうも書いてあります。「そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
 
 つまり、信仰告白で言っている「罪の支配からの解放」とは、今、この地上における罪の支配からの解放だけでなく、やがて訪れる滅びからの解放でもあることを、しっかりと覚えていきたいと思います。その解放が、このイエス・キリストを信じることによって行われる。それは、私たちが支払うべき、神様への借金をイエス様が支払ってくださったからです。そのことが、今日、お読みしたイザヤ書でもきちんと預言されていました。
 
5節と6節
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
 「彼」というのは、イエス様のことです。イエス様は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。イエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、イエス様の打ち傷によって、私たちはいやされたと読み直すことができます。
 
 この箇所を、どうしてイエス様のことだと断定して読んで良いのか。それは、新約聖書において、そのように解釈しているからです。使徒の働き8章では、エチオピアの宦官がエルサレム巡礼の帰り道に、まさにこのイザヤ書53章を読んでいて意味がわからなったという場面が出てきます。しかし、そこにピリポという弟子が現れて、ピリポはこのイザヤ書の聖句から始めてイエスのことを彼に宣べ伝えたと書いてあります。また、使徒ペテロも、第一の手紙の中でこのイザヤ書を引用しています。


  Ⅰペテロ2:22~24「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
 
 「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」とイザヤ書53章5節のみことばの「彼」をペテロは、「キリスト」に置き換えて引用しています。
 聖書が聖書の真実性を証言しているのです。
 
結び
 このように、イエス・キリストは世の救い主として、罪人である私たちの身代わりとなって神様からの懲らしめを受けてくださった。それゆえに、私たちは罪という不治の病から癒されたのです。だから、神様は、そのことを信じた私たちのことを罪人ではなく、義人として扱ってくださっています。
 
「えっ?でも、まだ罪を犯してしまうのに!」と思われる方がいるかも知れません。でも、大丈夫です。神様によって救われるとは、私たちの行いではなく信仰によるので、今の状態を心配しなくて良いのです。イエス様を信じるということは、神の子であるイエス様と言う新しい衣を着るということです。それは、神様から見るとイエス様のように見てくださるということです。でも、中身がこのままで良いのかと言う質問があるかも知れません。それは、大丈夫です。
 
 イエス様を信じて、イエス様と言う義の衣を着た時から、聖霊が与えられますから、着せていただいたイエス様という衣にふさわしく、中身も変えられていくからです。そして、まだ完全に中身が変わっていなくて、日々犯してしまう罪のことも、今はイエス様が天の父なる神様の右にいて、執り成していてくださっているのです。それは真の仲介者として、真の弁護人として、不完全な私たちの弱さのせいで滅びることがないように、弁護してくださっている。すなわち、それができるのは、弁護してくださるイエス様ご自身が、真の仲介者として、私たち人間の弱さをすべて知っておられるからです。
 
  これが、私たちが信じ告白するイエス・キリストです。まさに、「イエス・キリストは人となられた神のことば、神のひとり子、世の救い主であり、十字架の死とよみがえりによって、私たちを罪の支配から解放し、神と和解させてくださいました。御子イエスは天に上げられ、父なる神の右にあって今も私たちをとりなし、栄光のうちに再び来られます。」
 
  このお方は、信じる私たちをやがて迎えに来ます。その時まで、ぜひ、ともに励まし合いながら、このイエス・キリストを大胆に告白し、宣べ伝えてまいりましょう。

◎詩篇を味わいましょう。

詩篇 100篇


1,全地よ主に向かって

喜びの声をあげよ。


2,喜びをもって主に仕えよ。

喜び歌いつつ御前に来たれ。


3,知れ。主こそ神。

主が私たちを造られた。

私たちは主のもの主の民その牧場の羊。


4,感謝しつつ主の門に賛美しつつ

その大庭に入れ。

主に感謝し御名をほめたたえよ。


5,主はいつくしみ深くその恵みは

とこしえまでその真実は代々に至る。

f:id:kinokunizaka66:20220624072742j:image

2022年6月19日 白石教会礼拝

説教題 「だれが救われるのか」
聖書箇所 マタイの福音書19章23節~30節
 
 

 前回のお話を少し振り返ります。前回は、永遠のいのちを得るために、どんな良いことをしたらよいかと言う質問がありました。そのことを主イエスに質問した青年は、自分の力で永遠のいのちを手に入れることができると思っていました。良い行いをした人に対する報酬として神様が永遠のいのちをくださる。そういうふうに金持ちの青年は考えていたのです。
主イエスは、彼のその誤った常識に乗ってあげて、このように言われます。
その常識で永遠のいのちを得るというのであれば、あなたにはまだ足りないことがある。それは、あなたの財産を貧しい人たちに与えなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。「その上でわたしについて来なさい」とです。
 
 その上でついて来なさいというのは、その財産を貧しい人たちに施しても、まだ足りない。「そこでようやくわたしに付いて来ることができるのだ。それをあなたはできますか。できないでしょう。人が自分の力で永遠のいのちは得られるものではない。」
そのことを主イエスは、教えてくださったのですね。この青年は悲しんで去って行きました。その理由が、「この人は多くの財産を持っていたからである」とある通りです。
 
 それで金持ちの青年は、悲しみつつ去って行った。でも、その悲しむことが、彼に見る救いへの希望でした。自分には欠けた所がないと思っている人は、やはり聖なる神との出会いを通して、自分の至らなさ、罪の悲惨を知らなければならないのです。
 そこであらためて主イエスは、この青年が金持ちであったことを用いて、救いについて大切なことをお語りになります。それは、この「金持ちが救われることが難しい」という問題は、私たち主の弟子の問題でもあるからです。
 
 今日のお話は、お金持ちの人に語られているのではなく、主の弟子たちに対してです。それは、主の弟子たちが陥りやすいことだからです。でも、聖書を見ても、主の弟子たちは決して裕福とは言えない。しかも、みんな当時のイスラエルの中でも蔑まれていたガリラヤ地方の出身者ばかりです。そういう彼らと、金持ちの話題はどのように関係しているのでしょうか。そして、現代に置かれている私たちもクリスチャンとして、この「金持ちが救われることが難しい」という話は、どのように繋がっているのでしょうか。
 
 
1.神にはどんなこともできる
 23節「それから、イエスは弟子たちに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。』」
 主イエスは、金持ちが天の御国に入るのがむずかしいと言われる。これを聞いた弟子たちは、たった今、悲しんで去って行ったあの金持ちの青年のことを言っていると思ったでしょうね。さらにイエス様は、この金持ちが救われる難しさをわかりやすくするために、譬えを用いてお語りになります。
 
24節「まことに、あなたがたにもう一度告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 らくだが針の穴を通る方が簡単だなんて、イエス様はユーモアたっぷりです。ここは笑って良い場面です。時々、イエス様は大げさな譬えを用いて、私たちの頑なな心を柔らかくしてくださいます。それは、「まことに」と、とても大切なことをお語りになるとき、みことばの種が弟子たちの心の畑によく植わわるために、面白いことを言って、アイスブレイクなさるのです。
 しかし、これを聞いた弟子たちは笑うどころか、「たいへん驚いた」とあります。そしてイエス様に言います。
「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
 
 先週も言いましたが、当時、金持ちは神様から祝福されている証しだとされていて、お金持ちであれば天国に入れると誰もが思っていた常識でした。これまでイエス様について来ていた弟子でも、そう思っていたくらい、彼らの常識になっていました。
 
 そこで、この言葉を語った弟子たち。この彼らの言葉は非常に絶望に満ちていることがわかるでしょうか。金持ちが救われないのなら、私たちは尚更無理だという意味です。それは、イエス様について従って来ていることに、実はその救いの確信がないという表明でもあります。
でも、この弟子たちの驚きの言葉。このショックはとても大切なことではないでしょうか。それは、悲しんで去って行った金持ちの青年に自分を重ねていくことになるからです。誰もが、神様の意図から外れて、自分の方法で神に近づけると考えていた。良い行い。お金持ち。そして、そこから適用するならば、自分をよく見せようとする肩書、学歴、資格、地位など、それがすなわち「お金持ち」と同じく、天の御国には相容れないものであり、むしろ遠ざけてしまうものなのだ。自分を膨らませているもの、それを握りしめている限り、救いは難しい。しかし、主イエスは、このように言われます。
 
26節「イエスは彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。』」
ここで、弟子たちを「じっと見て」とあります。そのくらい、神に救われるということがどういうことか、弟子であるあなたたちにはわかってほしい。そういう強い思いをもって、じっと見つめるイエス様の姿はご自分の弟子に向けられる特別なお姿です。
 
そして、実は、お金持ちのことも、天の御国に入れないとは一言も言っていません。「むずかしい」と言っておられるだけです。つまり、人間にはむずかしいことだけれども、神ならば救うことがおできになる。そのことをイエス様は言われているのです。
 
ですから私たちも、まず、救いが私たち人間にではなく、本当に神様が出発点であって、私たちには何の功績もないことを覚えたいと思います。神様がどんなことでもできるというのは、ご自身の完全なきよさにおいて、そして、ご自身の完全な愛において、全能であるということです。そのどんなことでもお出来になる、その原動力は、神様ご自身のその聖なるご性質にかかっている。だから、救いに関しては、ご自身の完璧な与える愛において、このような罪人の私をも、皆さんをも救うことがおできになるということです。
 
エス様はそのように、救いとは神がなさる、神でなければできないことなのだから、お金持ちに代表される、自分を誇らせ、大きく見せようとする一切の持ち物を捨てて、イエス様に従う。ここに、救いのための大切な一歩がある。そのことに弟子たち、私たちが気付くように導いておられるのです。
 
 
2.主のために捨てる
 そのことに弟子の一人ペテロが気付いたようです。27節。
「そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。『ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。』」
 
 ここでペテロが気付いたのは、お金持ちのように、自分のためにたくさんのものを身につけるのではなく、むしろ捨てていくことが大切だということです。ペテロは、きっと、自分がイエス様に召された時のことを思い出していたでしょう。マタイの福音書4章18節~22節を読みます。
「イエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。 漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨てて従った。そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧に なり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」
 
 弟子たちがイエス様に呼ばれ、召されていくときの様子が描かれています。ここで、ペテロとアンデレは「網を捨てて従った」とあります。それは自分たちの生活を支えていたはずの、その網を「捨てた」のです。そして、ヤコブヨハネも、これまで自分を育ててくれた父親と、漁師にとって命である舟も、そこに残してイエス様に従って来たのでした。
 
 またマタイもそうです。彼も収税所に座って仕事をしていたとき、イエス様に声をかけられて、彼はどうしたか。こう書いています。
「すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」マタイ9:9
 おや、マタイだけが立ち上がっただけで何も捨ててないように見えますがそうではありません。ルカの福音書を見ると、このように書かれています。
ルカ5:27「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」
 マタイはもともとレビという名であったと言われていますが、ルカの福音書では、マタイは何を捨てたでしょう。それは「何もかも捨てて」従ったとあります。
 
 もうこれだけ見れば十分でしょう。イエス様について来た弟子たちみんなが自分の大切なものを捨てて、イエス様に従って来たのです。そのことを、ペテロはきっと思い出して、イエス様を信じていくということは、握りしめていたものを手放していく旅であるという答えにたどり着いたのではないでしょうか。
 
 救いを得るというときも、更に献身者として召されるときも、同じような状況に出くわします。イエス様を信じて歩むとは、これまでの生活が一変することになっていきます。それは、これまで持っていなかった永遠のいのちという神のいのちを持って、この地上を生きることになるからです。そうなると、この世の価値観や常識とは違った視点が与えられ、自分がこれまでいかに罪の中にいたかが見えてきます。そうすると、家の中でクリスチャンになるときに、家族から反対されたり、友達付き合いが変わって来て、友達から疎まれるようなことに出くわすかも知れません。また、そういう心配が襲ってくるかも知れません。
 
 そういう時に、その心配や恐れに負けて教会に行くのをやめたり、洗礼を受けることをやめるという状況になるかも知れません。しかし、一見、その困難と思える中にあっても、神の国とその義を第一にしていくときに、まさに、すべてのものが永遠のいのちとともに添えて与えられるのです。一歩、神の御心に近づくなら、家族の中で争いを生んでしまうと恐れていた、そのことすら神様が用いてくださって、その反対していた家族をも救われるようになるのです。
 
 または職場においても、クリスチャンになったら会社の中で浮いてしまうのではないかと思っていたら、予想を超えて、上司の信頼を益々得て、職場での働き方が変わっていくと言うこともあるでしょう。今、お話したことは、私自身が経験してきたことなので、確信をもっていう事ができます。
 
 そうです。主を信じていくときに、握りしめていたものを捨て、心配事を手放していくときに、失っていくどころか、手放したものが、もっと豊かにされて戻ってくるようになるのです。主を信じて救われるとは、いっとき、神様からのチャレンジがあります。神様から「本当にわたしに従って来るかと」言う、神様からのチャレンジがあります。でも、それを恐れずに、一歩踏み出したときに、必ず、そこに祝福があるのです。それが、主の弟子になる者がこの世にあっても経験させられる、祝福の道です。本当の豊かさとは、主イエス・キリストと繋がるときに、与えられるものなのです。
 
 ただしペテロはこのとき、その豊かさをまだ経験していませんでした。それで、「何かいただけるでしょうか」と、従って来たことへのご褒美を要求しています。しかし、イエス様はそういうペテロを叱ることもなく、自分を捨てて従って来る弟子たちには、このあと神の国における、その地位を約束されています。28,29節
 
しかし、最後には、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」と言われて、釘を刺しています。それは、せっかく捨てて従って来たのに、知らないうちに高慢という金塊、プライドという宝石を蓄えてしまう弱さが私たちにあるからです。彼らが、そのことを本当の意味で経験するのは、これから十字架に向かう歩みにおいてです。
 
 
結び
 最後に、億万長者で有名なマイクロソフト社のビル・ゲイツが言っていた「ビル・ゲイツよりもリッチな男」という話をしたいと思います。知っている方もおられると思います。
 
ビル・ゲイツにある人が質問しました。「あなたよりリッチな人はいますか?」
ビル・ゲイツは答えました。「います。私よりリッチな人はいます」と。そして、こんな体験談をしてくれたそうです。
それは、まだ私がリッチでも有名でもない頃のこと。ニューヨークの空港に着いた時の話です。新聞の売店があったので、新聞を買おうとして財布を見たところ、小銭がありませんでした。それで、新聞を元に戻し、「小銭がないので買うのをあきらめます」と言ったところ、その新聞屋さんは、「じゃあ、これタダで差し上げますよ。」と言ってくれました。新聞屋さんがあまりに勧めるので、私は新聞をただで受け取りました。
2、3カ月後、私は同じ空港に降り立ち、また新聞を買う小銭がありませんでした。
ところが、またしても新聞屋さんはタダで新聞をくれると言うのです。私は「小銭がないからと言って、それは受け取れない。」と断りました。彼は言いました。
「受け取ってください。私は自分の売り上げから あなたにシェアするだけですから、損はしません。」
それで、私はまた新聞をただで受け取ったのです。あれから19年が経ち、私は有名になり、リッチになりました。
ある日、突然、私はあの時の新聞屋さんを思い出したのです。それで私は1ヶ月半かけて彼を探しまわり、ついに見つけました。そして新聞屋さんに「あなたは私を知ってますか?」と聞いたところ、「はい。知ってます。ビル・ゲイツさんです」と彼は言いました。
私は彼にもう一度 尋ねました。
「あなたは私に、1度 タダで新聞をくれたことを覚えてますか?」新聞屋さんは言いました。「はい、覚えてます。私はあなたに2度あげました。」
それで私は言いました。「あの時、あなたが私にしてくれた親切に ぜひお返しがしたい。何でも欲しいものがあれば言ってください。私がそれを満たしてあげます。」
新聞屋さんは言いました。
ゲイツさん、あなたがそうすることは、私があなたに行った親切に釣り合いません。」
私は、「なぜ?」と尋ねました。 すると彼は答えました。
「私は貧しい時にあなたを助けました。でも、あなたは ”今“ 、私を助けたいと言う。
 世界一の金持ちになったあなたが、一体どうやって私があなたにしたのと同じ親切が出来ると言うのですか?」
 
この日、私は、この新聞屋が私よりリッチだと知った。なぜなら、彼は金持ちになることを待たずして人を助けたからです。本当に豊かな人間というのは、豊かな心に満たされた人であり、多くの金を持っている人ではない。
 
 まさにキリストを信じ、永遠のいのちを持ち、神の子どもとされた私たちは、貧しさの中に真の豊かさを兼ね備えている者なのです。それは、ほかならぬ御子イエス・キリストのいのちという代価が支払われるほどに、価値ある者として、今、神の前に立たされ、この世に置かれているからです。
 
 金持ちが天の御国に入るのはむずかしい。実は、私たち全ての人が、そのような者であったのです。しかし、その難しいところから、神様はどんなことでもできる全能の愛によって、愛する御子を送ってまでして、私たちを救ってくださったのです。だからこそ、今、私たちは握りしめている全てのものを、手放し、捨て去り、神に委ね、お任せしていくのです。そこに何かいただけるでしょうかという、下心を持つ必要ありません。
 
 それは、このときの弟子たちにはまだ与えられていなかったものが、今の私たちには与えられているからです。それが、十字架で死なれ、三日目によみがえられたキリストご自身です。だから、このあと何がもらえますかなんて質問は出て来ないのです。既に、キリストご自身をいただいているからです。この方にあって、私たちはキリストの貧しさを受け、同時にキリストにあって最も富む者とされたからです。「だれが救われるのか」それがこのような者だということです。
 
 終わりに、そのような私たちクリスチャンのことを見事に言い表している使徒パウロを通して語られたみことばを読んで説教を終わります。
「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」Ⅱコリント6:8~10