のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

王の右と左

"人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」"
マタイの福音書 25章31~46節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 主イエスは確かに再び来られることを明確にお語りになりました。「人の子は」と、ご自分のことを表す救い主としての称号を用いて、御使いをともなって最後の審判を行うのです。

 

 そして、この主イエスのお話は途中から「王は」と、主語が王様になるのです。一瞬たとえ話しに移行したのかと思ってしまいますが、そうではないようです。人の子は王であると言うことであり、このお話のテーマを見ると王の右と左にいる者たちへの裁判の様子なので、人の子すなわち救い主の役割として、人をさばく王たる姿を指し示しているのです。

 

 キリストは確かに救い主であるが、その救いを提供されて信じた者と、せっかく提供されていながら信じなかった者を最終的に振り分けるのです。確かに神は愛ですが、その愛を踏み躙る者への忍耐をも受け入れず、放置するならば、神はその選択を尊重して、神の方がそのような彼らを放置されるのです。

 

 人はそもそも、天地創造のあとのエデンの園において神のことばによって生きることよりも悪魔に唆されて自分で善悪を決める方を選んでいた。その選びを人の意思として尊重して放置され、人は罪人となってしまいました。

 

 神は人に自由意思を与えて創造されたので、人間の選択を尊重されます。しかし、それでは滅んでしまうので助け舟のごとく救いの道を備えて、その救いを選ぶようにあらゆる努力をもって、また忍耐をもって招き、待っておられました。

 

 そして、最後の手段として御子なる神ご自身が来られて、人の罪を身に負って神のさばきを受けるというアクロバティックのような、人には到底考えつかない方法で罪人を救う道を開かれたのです。なぜそこまでするのか。それは神が愛だからです。しかし、その愛に触れてもその救い主を選ばないならば、神はその選択を尊重せざるを得ないのです。この神の葛藤を考えましょう。

 

 さばかれて滅ぶのは、その選びをした人間の責任であり、神にはその意思を無視して、罪を放置したまま赦すことはあり得ないのです。何故ならば神は聖であるからです。聖なるお方は罪とは共存できないという意味です。その後性質上、罪を持ったままの者はその聖なる神の栄光の前に滅びるしかないのです。

 

 ですから、救い主が人を右と左に振り分けられることが最後の審判であり、そこに永遠のいのちと永遠の滅びという明暗があり、そこにも私たちが何を選んでその時まで過ごして来たかが問われるということです。

 

 主イエスはこうも言われました。

"自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。"
ヨハネ福音書 12章36節


 それが王であり人の子である救い主、神の御子の御心です。私が、あなたがその与えられている選択権、意思をもって、今光あるうちに、罪を悔い改めて、この光を信じ受け入れなければならないのです。

 

 ぜひ、あなたに投げられたボールを神に投げ返してください。そのボールを無視することなく、きちんと神の胸に目掛けて投げ返してください。そのキャッチボールをしてくれるのを、今ひたすら待っておられるからです。

良い行いを備えておられる神

"実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。"
エペソ人への手紙 2章10節

私たち一人ひとりは全能なる神様の作品です。作品とは、作り手がきちんと計画と目的をもって作られたということです。その目的とは神を愛し隣人を愛することです。

 

しかし、人間の歴史を聖書を通して振り返る時に、人間は神から与えられた自由意志を自分を神とするために用いて、神の目的から外れ、自分勝手な道へと向かってしまったことがわかります。

 

イザヤが預言したように、その自分勝手さは全ての人に受け継がれて行きました。

 

"私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。"
イザヤ書 53章6節

「私たち」と言っているように、これは預言者であるイザヤを含めた全ての人が

「それぞれ自分勝手な道に向かって行った」のです。

 

「しかし」ともイザヤは言います。それは、その神に逆らう咎を彼、すなわちキリストに負わせたということです。そこに救いがあります。神はご自分に逆らう人間を即にさばくことをなさらず、救われる道を備えられたのです。

 

ですから、このキリストが私たちの罪を負って死なれた救い主であると信じ受け入れるならば、私たちは、これまでどんな生き方をしていたとしても、神がつくってくださった、もともとの目的に生き、神を愛し隣人を愛する者とされるのです。

 

そこまで私たちを救おうと手を尽くされる神は、それだけで終わらず、救われた私たちが行うべき良い行いすら備えたというのです。これはなんという恵みでしょうか。

 

私たちはつい自分の力だけで頑張って良い行いをしようとする者ですが、そうではなく既に備えられた神からの賜物としての行いを表す。これこそが、救われた者の生き方であるということです。

 

キリスト・イエスにあって造られたとは、イエス・キリストを信じた者は、そういう者にされているということです。

 

そうです。キリストを信じた者は新しい生き方に変えられたのです。自分を振り絞って良い行いをしようと頑張らなくても、私たちのために御子をも惜しまずに死に渡された神の愛を知り、その愛に応えて生きようとするときに、聖霊が助けてくださって、感謝に喜びが満たされて、それが良い行いを生み出していくのです。

 

それが神が備えてくださった良い行いです。だから、神の前に造られた者としての喜びをもって、今日も至れり尽くせりの神に心から賛美と感謝をささげてまいりましょう。

 

"二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」"
ヨハネの黙示録 4章10~11節

余計な出費の痛みに見る罪の精算の恵み

先日、旧宅から新居へ引っ越しをしましたが、それでも多くのゴミが残っていました。結果的にそれは業者に頼んで、ほぼ処分したのですが、引越し後にも関わらず、そのゴミの量は2トントラック2台分もあったのです。

 

実はゴミとは言い難い新品の物も多くあり、新居へ運びきれなかった多くの物品の山でした。いくつかをリサイクル業者へ持って行きましたが二足三文で、そんなに期待していたほどの金額では引き取ってもらえませんでした。

 

結局、ゴミ屋敷でも片付けてくれる業者に来てもらうしかなかったということです。

 

ただ、その金額が顎が落ちるほどの金額で、他にも相見積もりすれば、まだ安いところはあったのでしょうが、私も引越しだけでかなり疲れており、それで済むならば仕方ないこととして受け入れるほかありませんでした。

 

今回のこの片付けに多額の費用が発生し負担したことを通して、私たちの罪の問題と重なることを思わされました。

 

私たち夫婦だけの生活で4LDKの牧師館に住み、この6年間で知らないうちに増えていったゴミの山は、まさにいつの間にか、様々な罪を溜め込み、手のつけようがなくなっている私たちの姿であると言うことです。

 

いつも神様の前に出て悔い改めて罪の精算をしていないと、ある時に、その罪が膨らんで、大きな損失を経験してしまい、挙げ句の果ては、神のさばきに会うのです。それはお金の問題ではなく、払い切れない途方もない罪の負債となってしまうということです。

 

しかし、今回の費用はほぼ、退職金と同額であり、それは神様からの助け舟があったことでゴミをすべて廃棄できたと言えます。それはまさに私たちの罪の精算を御子の血潮によって支払ってくださった救いのようです。多額の費用を支払うことは、たとえ退職金を充てたとは言え、大きな痛みがあります。

 

それは御子が代わって私たちの罪を負って死なれたことと同じです。御子が罪を負ってくださったので私たちのさばきは免れたものの、御子の血が流された以上、私たちがそのことを思う時に痛みを覚えるように、私も多くのゴミを自分で片付けずに済んだ分、大変楽ができたのですが、その代償は大きかったと言わざるを得ないのです。

 

このことを通して、神による贖いの業がどれほどの恵みであり、そこにある神の痛みをあらためて考えることができました。決して自慢できる話ではなく、隠して置きたいほどに恥ずかしいことですが、そこにも神の御心が示されていたのです。

ただ、ただ、私たちの主なる神にのみ栄光がありますように。

 

"キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。"
テモテへの手紙 第一 2章6節

新しい宣教の場へ

f:id:kinokunizaka66:20240229062139j:image

昨日恵庭市役所へ行き転入届を提出し、これで晴れて恵庭市民となりました。人口約7万、世帯数約3万5千という、北海道の市町村の中でも、これから伸びゆく町の一つだと言って良いでしょう。

 

隣接する千歳市には、北海道の玄関口である新千歳空港があり、反対側には、昨年から大賑わいのエスコンフィールドがある北広島市があります。今、この新千歳空港から札幌市までにある沿線の町々が熱いと私は思っています。

 

今計画中の北海道新幹線は別ルートながら、現在、半導体企業であるラピダスが千歳市に新しい工場を建設中で、これから、そこに勤める社員たちが千歳市だけでなく恵庭市にも居住する可能性が大きいです。

 

その中には、クリスチャンの社員もいるかもしれないし、人が増える分、選ばれていながら眠ったままの主の羊たちもきっといると考えられます。

 

また私個人としては、この恵庭という名前もとても好きです。なんと言っても恵みの庭ですから、話題性だけだなく、そもそものイメージがとても良いと、勝手に気に入っています。

f:id:kinokunizaka66:20240229062211j:image

まずは、今市民として恵庭に参りましたが、これから、ここでの暮らしが始まるために、色々と準備がありますので、この一ヶ月間、粛々と進めていきたいと願っております。また、これまで住んでいた札幌の家の整理や清掃もあるので、約一ヶ月後の牧師就任式に向けて、神様に祈りつつ、御心のままに整えられたいと思います。

 

"神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。"
ピリピ人への手紙 2章13節

最後の礼拝奉仕

本日で白石キリスト教会での奉仕が終わります。色々な事情があって、このような日を迎えているのですが、そこに、神様の憐れみがあり、導きがあり、計画があり、それらが摂理されて今日があると言えます。

 

物事には私たち人間各々の出来事や理由があります。私たちの都合で動かした側面が当然あります。その行動に私たちの責任はもちろんあります。しかしながら、そのような人間の思いや人間の都合だけで物事が進んでいるのではなく、そのような浅はかな人間の仕業をも、神様はご自分の御心のうちに取り扱い、さも、もともと神の計画に仕組まれていたのだと言えるほどに、用いておられるのです。

 

私の白石教会辞任にも様々な側面がありますが、ただ、ただ、主なる神の憐れみであり、同時に導きであったと信じます。残された方々に主からの励ましと慰めがあり、牧者不在の間も何とか神様から離れずに、教会に通い続けていただきたいと願います。

 

神様の導きであるのならば、必ず、この兄弟姉妹たちは、立ち上がって行けると確信します。

 

この主なる神に、栄光がとこしえにありますように。

 

"すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。"
ローマ人への手紙 11章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

オンデマンド授業のお知らせ

f:id:kinokunizaka66:20240219215713j:image

https://youtu.be/VeDFZhjF-LU?si=GmveMMQMTxmQ5auV

 

北海道聖書学院では新たにオンデマンド授業を始めました。その突破じめが私のキリスト教会史です。

第一回目の講義だけ無料でご覧になれますので、学びたい方は北海道聖書学院へお申し込みください。