のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

びっくりした

2024年4月19日夕方5時30分頃の薄暮時、某教会を訪問したが不在のため、教会の右横を通り右折して、スバル建設の前の通りへ出ようとした際、左側から来たIさん運転のトヨタヤリスと接触。自車のフロント全面から左部を損壊。先方は左後部破損。しかしながら両方とも走行可能。ただし自車はフロントナンバープレートごとフロントグリルが損壊しているため法的に走行不可。先方は事故処理後、帰社(札幌市東区)。双方に怪我はなし。こういう場合、やはり自分自身の不信仰や罪について思い巡らす。神様が何かを教えようとされていると考える。また、一見禍いに思うことを通して、自分の生きた方の本質的な気づきがあるのではないかとも思い巡らす。はっきりわからないので祈る。真実なお方に。警察には17時36分に連絡していたようだ。その後、18時50分頃にレッカーが来て車を移動。4月20日には北海道三菱自動車石狩店へ搬送する予定。損保ジャパンに電話をするも音声ガイダンスに3〜4回チャレンジするもなかなかうまく進まなかったが、結果的オペレーターが出て状況を伝えた。実際の事故手続きは週明けにLINEで行うことになった。

 

この事故を自己分析すると、薄暮時で車のライトをつけている車とつけていない車の混在する状況で、先方の車はライトをつけていなかったと思われる。おそらくこのあとのドライブレコーダーでの分析で検証されると思われる。

やはりライトをつけている車が目に入り、私も右折するため何度か左右をキョロキョロ確認するも、交通量が多くなっている時間帯もあって、優先道路に出て行くタイミングで緊張していたのだと思う。おそらく、普段の運転の中でもこのようなことはいつもあり、そこにたまたま車が来ていなかったので事故にならなかっただけで、本来ならいつ事故を起こしてもおかしくないことがあるのだと思う。

 

今回、この薄暮時での運転の怖さを知らされ、このことを教訓にしなければならないと思う。同時にこれまでが守られていたのだとすると、それは神様の守りであり、今回の事故は、その支配される神様の許しがあって起こったとも思える。そのとき、その理由を知りたくなるのは当然だと思う。そのことを神様に祈り、私に与えられたイベント記録として覚えていきたい。

 

それだけに、聖書を開きみことばからその答えを教えていただきたいと願っている。

北海道開拓の歴史を学ぶこと

北海道が北海道という名がつけられて開拓が始まったのは、明治の開始とほぼ同じ時期です。

 

北海道開拓の父と呼ばれる松浦武四郎が、その名付け親と言われていますが、1868年に北海道という名が公式に始まったのでした。

 

しかし、北海道はそもそも蝦夷地と呼ばれ、徳川幕府や明治政府が支配する以前から、アイヌの土地でした。アイヌの土地でしたと言うと語弊があります。アイヌは国を持たないので、北海道全域がアイヌ王国ではなかったので、そこを正式に行政府を置いたのが日本だった。だからそもそもアイヌの土地ではないという見方もあるからです。

 

しかしアイヌのコタンがいくつも点在していたわけですから、そのコタンを集約するアイヌとしての行政府がなかったとはいえ、そのような形態のアイヌの国であったとも言えるのではないでしょうか。国という定義を私たちの常識で決めつけて、自分を正当化するのは乱暴です。そのことは、アメリカやオーストラリアの開拓等にも言えるでしょう。

 

そのようなアイヌのことを無視して北海道開拓はないのです。だから、北海道開拓の歴史を学ぶ時、開拓者たちの偉業を讃えたい気持ちはわかりますが、元々暮らしていたアイヌを虐げ駆逐したことを無視して開拓のみをそのまま賞賛することはできません。

 

開拓者たちの業績は業績として評価しますが、それによってそこに元々暮らしていた人たちが住処を失うことになったとしたら、その開拓は侵略とも言えることを弁えるべきです。

 

自分は開拓民の子孫だとか、先祖は屯田兵だったという方にとって、ご先祖様は誇りでしょう。でも、その影に泣いていた人々がいたことを抜きにして、自分たちの歴史を賞賛だけで終わらせてはならないのです。

 

あらためて、北海道開拓の歴史にある、蓋をしてはいけない事実を事実として学び、そこから未来に繋がる同じ人間としての平和的なあり方を模索しつつ、ともに神が与えてくださった救いの希望を受け取っていきたいものです。

いよいよ

2月末にメノナイト白石キリスト教会を辞任して、3月はほぼ引越しの片付けや、新居における整理、また新任地である恵庭福音キリスト教会での準備に追われる一ヶ月でした。3月31日のイースターに説教奉仕があったものの、4月7日の牧師就任式が終わるまでは何となく落ち着かなかったのです。

 

その就任式が無事に終わり、いよいよ恵庭福音キリスト教会の正式な主任牧師としての日々が始まったわけです。やはり、次週の礼拝説教の準備が大切ですが、次週は同時に聖餐式や役員、教会学校教師任命式もあり盛りだくさん。礼拝後には主任牧師になって初めての役員会もあります。その議案書づくりも必要でしょうね。

 

まだ、なかなか新任地における波に乗り切れていない感がありつつ、本日、水曜日の祈り会があります。

 

この緊張感をワクワク感に変えて、一つひとつを楽しんでみましょう。

 

使徒パウロは復活の主イエスに会い、使徒として歩み始めるときに、まずアラビアへ赴いたことを思い出す。それは、恐らく、アラビアの砂漠で神と交わり、神からの啓示を受けていたのだと思います。そのように神の業に向かう時に、やはり神との時間を持つことの大切さを学びます。

 

そしてペテロと過ごす時間もとったように、先輩牧師からの教育期間も必要でしょう。

 

私も前任者がいる状況での赴任なので、この一ヶ月はそのような時間もとることはできました。

 

いよいよ、主にあって牧師としての責任感をもって一歩前に出る気持ちです。これまでは就任前でもあったので、いくら内定していたとしても前任者がいる場では大いに譲って来ましたが、これからは勇気をもって大胆にまいりましょう。全ては神様への愛と献身が大切です。

 

私が不十分でも、必ず主は御霊により助けて、このような者であってもご自身の業を行わせてくださると信じます。

 

"それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。"
ヨハネ福音書 14章31節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

あなたを背負っておられる主

"彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。"
イザヤ書 63章9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行

 

私の人生を振り返る時、そこにはいつも主の御手を見ることができると言っても良い。幼い頃から、クリスマスという行事に何故か興味を持っていたことや、十字架刑のキリストの絵画から始まり、「キリスト」という伝記を図書館から借りてよく読んでいたことや、中学くらいからは聖書を欲しいと思っていたことや、英語を学べと行かされた英語塾が宣教師の家だったことなど、数えればきりがない。

 

私が気づいていないだけで、もっと多くの箇所で主の御手があったとおもう。そして今も、牧師になるように導かれて、今また新しい場所で働こうとしている。

 

主は良いお方。このような者に目を留めてくださり、いつも良いもので満たしてくださるお方。

 

今日のみことばには続きがある。それは、そのように主によって担われていながらイスラエルの民は神の敵となったという神への叛逆があったことだ。そのことにも私自身を重ねることができる。

 

私も主によって背負われてここまで守られていながら、神に対して罪を犯し続ける者であるからだ。

 

そうすると、尚更、そのような罪に染まった者であるにも関わらず、主は私を愛してくださっている事実に、胸を打たれる。

 

その愛と憐れみに感謝したい。そして、きよい主にふさわさいものとして、これからも造り変えられたいと願う。

 

主よ。あなたを愛します。今日も一日お守りください。イエス様の御名により。アーメン。

 

 

神の武具を身に着けよ

"悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。"
エペソ人への手紙 6章11~13節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 使徒パウロはエペソの信徒たちに、その手紙の終わりにあって「神の武具を身に着けなさい」と命じています。その理由は、「私たちには格闘」があるからです。

 

 その格闘とは紛れもなく、血肉、つまり肉眼で見える人間に対してではなく、その背後に働いている悪魔であり、それに従っている悪霊たちです。その悪魔の策略に対して堅く立つことができるためなのです。私たちはつい目の前に見えるものを敵と認識して、その敵を憎むものですが、使徒はそうではなく、その背後に働く霊的な力を識別するように言っているのです。「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」とです。

 

 このことをパウロは表現を変えて強調しています。

「邪悪な日に際して対抗できるように」

「一切を成し遂げて堅く立つことができるように」

 

  それは悪魔の策略は邪悪な日という、その時を意識した備えです。それが今日かも知れないし、明日かも知れない。いや、もう始まっている。そのように、戦う時を意識して、神の武具を整えていくのです。その備えを一切成し遂げて堅く立つことこそ、私たちが日々行うべきキリストの兵士としての務めです。

 

 兵士たちは、いつも戦いに備えている必要があります。平時であっても必ず非常呼集があり、夜中でも身支度して集合するという演習を繰り返し、戦いの日にそなえるのです。それだけではなく、日々、その戦いに即応できるように、自分に与えられている小銃などの携行武器の点検整備を常に行なっています。また、それだけでなく、兵隊として動けるように日々訓練するものです。そして、その戦いに必要な体力も健康も気をつけて備えます。

 

同じように、悪魔に対抗する日の戦いも神の武具を日々点検し、それに必要な霊的体力を得ておくのです。それが、14節以降で言われている諸々の神の武具です。ぜひ、そのところはご自分でお読みください。今日もともに神の武具を身に着けてまいりましょう。

 

 

初支笏湖

恵庭へ引越してから、これまで行かなかったところへ行く機会が増えてきましたが、支笏湖もその一つです。

 

先週、39年目となる結婚記念日があり、また来月からいよいよ恵庭福音キリスト教会の牧師として歩み出すので、ここでプチ旅行をしようということになりました。

 

お金も時間もたくさんある訳ではないので、近くで疲れない程度に、と考えてみると、今まで行ったことのない場所ということで支笏湖となったのです。

 

丸駒温泉も初めてですが、まあ、綺麗な湖を見ながら温泉に浸かれることが醍醐味の温泉だと思います。泉質や食事など、施設として飛び切り良い訳ではありませんが、一泊二日の小学校の修学旅行のようなスケジュールなので、これはこれで良かったと思います。

 

まずは、湖の写真をご覧ください。昼から夜、夜明けにかけて撮影してみました。

 

f:id:kinokunizaka66:20240328072036j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072425j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072150j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072402j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072320j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072241j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072045j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328071945j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072020j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072233j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072216j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072101j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072417j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072338j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072001j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072131j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072312j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072029j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072011j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072251j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072354j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072208j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072114j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072053j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072409j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072327j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072308j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072414j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328071936j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072434j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072225j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072259j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072110j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072346j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072123j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072158j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328071953j:image
f:id:kinokunizaka66:20240328072141j:image

受難週第三日「後悔するユダ」

"さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。
そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。
「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。
祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」
そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。
このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。
そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。
主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」"
マタイの福音書 27章1~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 イスカリオテのユダはイエスを裏切った男として有名です。しかし、今朝のみことばにあるように、彼は自分のしたことを後悔していたようです。このような姿を見ると、決して他人事ではない、そこに私たち自身の姿も見えるのではないでしょうか。

 

 私もいつも後悔して生きていると言っても過言ではありません。それは自分の言ったことやしたことがあまりにも罪深かったり、だらしないことが多いからです。そして、そのことが神様の御心を悲しませていることに気づかされるからです。

 

 ユダもまた、イエスというお方を裏切ったのが、決して金のためではなく、彼の中でイエスというお方に希望を持てなくなったらだと言えるでしょう。それは、自分という殻が邪魔をして、目の前に本物の神がおられるにも関わらず、見えなくしていたからです。

 

 イエス様ご自身はいつも変わらずきよく、いつも愛に満ちており、出会う人々に平安を与えることができるお方です。にも関わらず、3年半もともに旅をして、四六時中一緒にいながら、そのことを見失うのです。それは、現代においてもイエス様を信じていると言って洗礼を受けクリスチャンとして歩んでいる私たちも起こりうることなのです。

 

 イエスというお方を信じてクリスチャンになった。でも、その最初の恵みの喜びを忘れ、また共に主がいてくださる恵みに感謝できなくなっているときに、私たちも目の前にいながら主に希望を持てなくなったユダなのです。

 

 そういうユダに対して主イエスは、最後の晩餐の席でも彼が裏切ることを実行しないように諭し待っていてくださいました。しかし、ユダが自分からその招きを拒み、闇の中へ出て行ってしまったのです。その選択、自由意志を神様は悲しみながらも強制的に止めません。それが天地創造のときから神様が人間をお造りになった原則でした。

 

 神様は人間をご自分の思い通りになるロボットとして造ったのではなく、あくまで自由な意思で自分から神と喜んで交わろうとすることを望んで、人間をそのように造られたのです。

 

 今朝、ユダが裏切りを後悔してもそれが報われなかった場面を見てまいりましたが、やはりここで、ユダは主イエスとともにいた恵みの期間を振り返って、裏切ることを実行しないように、またもし実行してしまったとしても、イエスご自身という光の中に悔い改めて戻ってくるべきであったと思わされます。

 

 私たちも今朝、イエス様のこのことばを思い出して、自分の中にいるユダの可能性を覚えつつ、あらためて主の前に悔い改めて、ともに今日の受難週第三日を歩ませていただきましょう。

 

"そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。
自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。"
ヨハネ福音書 12章35~36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 光あるうちに、悔い改めのチャンスがあるうちに、主に立ち返ろうではありませんか。