日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

◎受難週 聖金曜日

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●聖書のことばからキリストの受難を味わいましょう。

"私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」"
イザヤ書 53章1~12節


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"さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
エスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」"
マルコの福音書 15章33~39節

 

"キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。"
ペテロの手紙 第一 2章22~25節
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●友よ歌おう11番

「ドロローサ」

 

1
私の罪のために 重い十字架負わされ

あざける人の中を耐えてゆかれたイエス

ドロローサ ドロローサ カルバリーの丘へ

ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

 

2

私の胸の中に 刻まれた主の十字架

いばらの冠つけて 祈られる主の姿

ドロローサ ドロローサ 悲しみの丘へ

ドロローサ ドロローサ のぼっていく道

 

3

私は行こう今日も 主の歩まれた道を

血汐のあとをたどり 十字架を負ってつづこう

ドロローサ ドロローサ よろこびの丘へ

ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

 

4

血汐の道はつづく 十字架の跡のこして

あがないの丘越えて 父なる神のみ座に

ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

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●讃美歌136番、讃美歌21-310番

  教会福音讃美歌129番、新聖歌114番

  

「血潮したたる」

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血しおしたたる 主のみかしら
とげに刺されし 主のみかしら。
悩みと恥に やつれし主の
痛ましきさま だれのためぞ。


2
主の苦しみは わがためなり。
われこそ罪に 死すべきなり。
かかるわが身に 代わりましし
主のあわれみは いととうとし。


3
慕しき主よ、 わが牧者よ、
はかり知られぬ 愛の泉。
迷うこの身を たずねもとめ
導きましし 日ぞなつかし


4
主よ、 主のもとに 帰る日まで、
十字架のかげに 立たせたまえ。
かくも悩める 主をはなれて
われはいずこに 去り行くべき。


5
なつかしき主よ、 はかり知れぬ
十字架の愛に いかに応えん。
苦しみ悩む わが主のため
この身といのち すべて捧げん。


6
死すべき者を あがなう主よ、
十字架の光 見させたまえ。
み傷をあおぎ み手によらば
いまわのときも 安けくあらん。

 

"このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。"
エペソ人への手紙 1章7節

 

 

◎受難週 棕櫚の聖日

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"その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスエルサレムに来られると聞いて、
なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
エスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。
「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。"
ヨハネ福音書 12章12~16節

 イエスイスラエルの王として迎える大勢の群衆は、祭りに来ていた人々でした。それはユダヤの三大祭の一つである「過越の祭り」です。みんな熱心なユダヤ教徒で、外国に住んでいるユダヤ人だけでなく、近隣に住む割礼を受けた異邦人ユダヤ教徒もいます。

  彼らはメシアの到来を待ち望んでいるのです。そのメシアこそナザレのイエスであることを認め、旧約の預言どおりにロバの子に跨って入城するイエスを喜んで迎えたのです。

  このときは、誰もこのメシアが捕らえられて十字架に磔にされるとは思ってもいなかったでしょう。イエスとともに入城した弟子たちですら、イエスダビデのような政治的な王となることを信じていたでしょう。

  もちろん、このあとにイエスは逮捕されるのですが、このエルサレム入城は将来起こるキリストの再臨の予型(モデル)でもあることを、この棕櫚の聖日では受け取りたいと思います。

  私たちも、これから雲に乗って来られる私たちの王、真のメシアを大喜びで迎える者でありたいと思うのです。そして、そのためには全世界に福音を宣べ伝える必要があります。

  待ち望む私たちは、ただ待つのではなく、主が来られる時まで、主の福音を地の果てにまで伝える責任があるのです。

  その使命をもう一度確認しましょう。今日から始まる受難週には、もちろん主イエスの十字架への道を覚え、その苦しみに心を重ねるものです。しかし、それだけではありません。

  その苦しみは、何のための苦しみなのか。どうして主はその苦しみを耐え抜かれたのか。それを思う時、私たちはこの受難にある産みの苦しみという側面を再度あらためて確認し、だからこそ、主の王としての来臨を待ちつつ、大胆に宣教するものでありたいのです。

  ぜひ、あなたもエルサレム入城された主イエスがもう一度、新しい天のエルサレムとともに来られ、新しいエルサレムで完全な愛ときよさによるキリストのご支配を待ち望もうではありませんか。

  

"しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
使徒の働き 1章8節

"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」"
ヨハネの黙示録 21章1~4節

【祈り】

キング牧師

 

われらが疲れ果てし時の神よ
われらが黙して涙する時の神よ
われらをここまで伴い来り
み力にて光に導きたまいし神よ
願わくは
われらをとこしえに守りたまえ
ああわが神よ
願わくは
われらが汝に出会いし所より
足を踏みはずさざらんことを
この世の酒に酔いしれしわが心が
汝を忘れざらんことを
願わくは
汝のみ手におおわれ
われらがとこしなえに
わが神と
わが祖国に
真実ならんことを

 

「御国が来ますように」

 

 

◎受難節 第32日 木曜日

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●サムエル記 第一 9章21節

"サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」"

神の人、さばきつかさ、予見者であるサムエルは、主の言われるとおりにキシュの子サウルに声をかけました。それは、イスラエルの王としての選びでした。

その選びに対するサウルの答えが、この言葉だったのです。

 

サウルはへりくだって、自らを「取るに足らないもの」と言いました。

聖書において神に選ばれる者は、みな自らを小さな者、役に立たない者であると言います。

あのモーセもギデオンも、またエレミヤも、神の働きに自分自身の至らなさを自覚していました。

 

使徒パウロもこう言います。

"そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。"
コリント人への手紙 第一 15章8~9節


 神はへりくだる者と共におられる方であり、へりくだる者を用いるお方です。それはどうしてでしょうか。

 

"しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。"
コリント人への手紙 第一 1章27~28節


神の選びは完全です。神の判断は完璧です。神はこの世を支配して神の国をもたらすために、この世に御子を送られました。その御子によって、この世を救い、真の神の支配を確立するからです。

その方法は、私たち人間にはとても思いつかないものでした。なぜなら、強い軍隊によって強権的につくり変えるのではなく、御子を被造物である人間としてあえて貧しい家に生まれさせ、ナザレという蔑まれた町の出身とし、十字架の死にまで従わせ、その御子の死を通して、この世を贖うことでこの世を取り戻されるのです。

 

そこに神の知恵があるのです。神は宣教のことばの愚かさを通して、私たち人間に救いをもたらされたのです。神のこの贖いの業こそ神の知恵、十字架のことばなのです。

 

主はその十字架への道を、ただひたすら歩まれました。その御顔をエルサレムに向けて。

"さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。"
ルカの福音書 9章51節

今度の日曜日は、棕櫚の聖日です。

まさにエルサレム入城を果たした日であり受難週の始まりとなります。いよいよ十字架の道が迫るこの日々に、私たちも思いを重ね、このような取るに足らないもののために主が苦しみの道を通られたことを覚えたいと思うのです。

 

【祈り】

全能の神よ、
弱さのうちに倒れてしまう私たちを顧み、ひとり子の受難の力によって、強め、立ち上がらせてください。

あなたに希望をおく民の信仰を強め、祈りを聞き入れてください。
枝を振りかざして、勝利の王、キリストを迎える私たちが、キリストのうちに良い実りを結び、あなたに捧げることができますように。
聖霊の交わりの中であなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主、イエス・キリストの御名によって。

アーメン。

◎受難節 第31日 水曜日

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●サムエル記 第一 8章4~7節

"イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやって来て、彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
彼らが、「私たちをさばく王を私たちに与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。それでサムエルは主に祈った。
主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。"

  イスラエルの長老たちは、さばきつかさであり、主の預言者であるサムエルを退けて、他国のような王を欲しがりました。それは、サムエルを否定するだけではなく、サムエルを遣わした主をも否定したということです。

  主イエスエルサレム入城の際、多くの人がイエスイスラエルの王として迎えました。しかし、その週の金曜日には、その王であるイエスを否定し、十字架につけるよう総督ピラトに叫んだのでした。罪状書きにはピラトによって、こう記されました。

「ナザレ人イエスユダヤの王」

 

キリストは王であり、また私たちの大祭司でもあると聖書は言います。

 

"しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、
また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。"
ヘブル人への手紙 9章11~12節

  キリストは神の恵みの大祭司として天の聖所に入り、犠牲をお献げになりました。キリストがお献げになったのはご自分の血潮でした。それによって永遠の贖いが成し遂げられました。

  生ける神に仕え、本当の礼拝を献げたいと願います。生ける神である主を礼拝することを可能にするのはキリストの血潮です。本当の礼拝を実現するのは私たちの犠牲ではありません。神ご自身の犠牲なのです。神の犠牲によって神の身許に至る道が開かれました。どの礼拝も、どの聖礼典もキリストの血による新しい契約に基づいています。どの説教にも、どの祈りにもキリストの血潮が振りかけられているのです。

 

  私たちは、その神の御子、主イエスの犠牲がそこにあることを知らず、王であるイエスの死刑を求めました。神が与えた王を退けたのです。しかし、神はそのキリストの死と復活をもって、キリストが永遠の王であることを明確に示されました。

  いばらの冠はキリストの王冠であり、十字架はキリストの玉座になったのです。

  今日も、あなたのために苦しみの道、十字架への道を歩まれたキリストこそ、真の王であり大祭司であることを信じ、受け入れてまいりましょう。

 

【祈り】

チャールズ・ヘンリー・ブレント(聖公会司祭1862年〜1929年)

 

イエス・キリスト

あなたは十字架の堅い木の上で愛の御腕を広げて

全ての者が来て、あなたの御腕に抱かれるようにしてくださいました。

それゆえ、あなたの御霊をまとわせてください。

今度は私たちが愛をもって腕を伸ばし

あなたを知らない人々にあなたを知らせ

あなたの愛をもたらすことができますように。

 

【参考文献】

小泉健『十字架への道はない 受難節の黙想と祈り』日本キリスト教団出版局,2019年

● 「決して誓ってはならない」 聖書箇所 マタイの福音書5章33~37節

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序論
 私が白石教会の牧師になって、先週で丸一年が過ぎました。一年間、神様の憐れみと、皆さんの祈りに支えられて、この一年があったことを、主にあって感謝いたします。これまでの一年間は、ハネムーン期間と言われています。結婚したての夫婦に見立てて、新婚気分で過ごす一年だということです。ですから、ここからが勝負です。新婚夫婦は、とりあえず最初のうちは、初めて一緒に暮らすということ自体に感謝し、何があっても笑顔で赦しあって過ごせます。しかし、その期間が過ぎると、新鮮味が薄れて、お互いの嫌な部分、反りが合わない部分にストレスを感じて、それが爆発するときが来るのです。こういう、ハネムーン期間が終わった夫婦がどうやって、更に愛し合って、助け合っていけるのか。そのことについて、星の王子様を書いたサン・テグジュペリはこう言っています。
「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。」
 サン・テグジュペリはクリスチャンでしたので、「ともに同じ方向を見つめる」というのは、同じ主を見上げていくということです。クリスチャンでない人だって、同じ趣味を持っている夫婦はいつまでも仲が良いものです。そうであるなら、真の神を信じている私たちが、うまくいかないわけがありません。
 ただし、どちらかが相手を見たまま、または互いに見詰め合ったままだと、うまくいきません。それは、神でなく、相手を気になり出すからです。今まで可愛いと思っていた部分が醜く見えたり、楽しいと思っていた癖にイラついたりするということです。また、相手の言葉の揚げ足を取って、嫌なことを言われたとか、または親切なことばを忘れて、夫婦だからといって、大変失礼なことを言ったりしてしまうものです。そのとき、私は思い出します。あの言葉を。
「あなたは神の教えに従って、夫としての分を果し、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、いのちの日の限りあなたの妻に対して堅く節操を守ることを約束しますか。」

 ここにおられる結婚している人は、ここで「はい」と言って誓約したはずです。
 ここでようやく今日の聖書の言葉と重なってきます。イエス様は、34節で「決して誓ってはならない」と仰せになりました。しかし、私たちは誓約をして、それぞれ結婚したはずです。また、結婚だけではありません。洗礼を受けるときにも、「最善を尽くして礼拝を守り教会員としての務めを果します」と約束したはずです。それは誓ったということではないでしょうか。
 イエス様が決して誓うなと言われたのに、それで良いのでしょうか。今日は、まさにそのことをみことばに聞いていきたいと思います。

 

1. 誓いを果す気がないなら決して誓うな(誓いを軽んじてはならない)
33節。「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果せ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」
 これまで、この山上の教えではモーセ十戒から、私たちが持っている罪の根に対してイエス様はメスを入れてきました。ほとんどの人が、自分は守っていると思っている「人を殺さないこと」や「姦淫をしないこと」に対して、その心の状態を指摘して、罪人であることを自覚させて神に助けを求めるように語られてきました。だから、神様が遣わした救い主イエス様を信じるなら、聖霊が与えられて、きよい生き方ができるように造りかえられるのです。
 今日の箇所も基本的には同じ意味をもっています。それは、当時のユダヤ人指導者たちが、誓うということを頻繁に行っていながら、誓いを果せなくても自分たちには罪がないとしていたということです。つまり、言い逃れです。それは、本来、守れていないのに、守っていると思っていた「殺人」や「姦淫」と同じレベルに、この「誓い」もあったということです。
 当時のユダヤ人は当然、神に対して誓うことは果すべきと考えていました。たとえば、レビ記にはこう書かれています。19:2
「あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」
 また伝道者の書にも、「誓ったことは果せ。誓って果さないよりは、誓わないほうがよい」伝道者の書5:4~5とあります。
しかし、彼らは、果す自信がないとか、初めから果すつもりのないことは、神に対して誓うのではなく、天に対して、また地に対して、またエルサレムに対して、仕舞いには自分の頭をさして誓っていました。そうすることで、神に対する誓いではないので、たとえ果さなくても罪に問われないように逃げ道をつくっていたのです。そもそも、主の名をみだりに唱えてはならないという戒めを厳格に守るあまり、誓いのときにも主の名を出さないことから、誓うという言葉や行為自体が空論化していました。主の名を出せないなら、主の名を汚すことにはならないので、他のものに置き換えて誓うことで守らなくても大丈夫というスタイルになってしまっていたのです。
それに対するイエス様の反論が34~36節で言われています。
「 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。」
 ここに出てくる天、地、エルサレム、頭は、当時のユダヤ人たちが誓いのときに、用いていたものです。主の名をみだりに唱えられないので、その代わりに何となく権威がありそうな、主の御名の代わりになりそうなものによって誓いを立てていました。そして、誓いを果せないなら、主の名によって誓ったわけではないと言い逃れを平気でしていたのです。
 この精神は、心で「ばか者」と言ってるけど実際には殺してないから罪を犯していないとか、心で情欲を抱いて人を見ているのに、実際に不倫してないから罪を犯していないというのとお何じ理屈です。
 しかし、イエス様は何を指して誓っても、それは主の名によって誓っていることになっていると仰っているのです。だから、神の名でないからといって、軽はずみに誓うなと言っているのです。
 天を指して誓えば、それは神の御座だと。地は神の足台。エルサレムは偉大な王である神の都です。頭だって、私たちのものなのに髪の毛の数すらわかっていないし、私たちの思いで色を変えることもできません。それは神の御手のうちにあることです。
 大切なことは、何でしょうか。それは本当に、絶対に誓ってはならないということでしょうか。そうであるなら、私たちの結婚式や、洗礼式での誓約は罪なのでしょうか。それとも、それは約束であって誓いという意味ではないと言い逃れるのでしょうか。
 かつて、私が所属していたブレザレン派の教会では、文字通り「誓う」という言葉を使うことはしませんでした。だから、誓約のときは、「約束します」ということをあえて意識的に言っていました。確かアナバプテストの解釈もきわめて厳格に「誓う」ことを避けてきた歴史があると聞いてます。しかし、現実的に結婚しているし、洗礼も受けているわけです。しかも幼児洗礼ではなく、きちんと信仰をもってから洗礼を受けているわけですから、そこには約束があり契約があるはずです。いや、それは誓うという言葉を使っていないから誓いではないというのでしょうか。
 ここで、イエス様は仰います。

 

2. 「はい」は「はい」(「誓う」という言葉の問題ではない~態度をはっきりさせよ)
 37節「だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」
 イエス様が言われたのは、誓いということばの問題ではない。どんな約束、また何に対して誓ったとしても果さなければ、その責任はすべてあなたに問われるのですよということです。大切なことは、「はい」には「はい」と答え、「いいえ」ならはっきりと「いいえ」と答えなさいということです。
 誓っているのに、誓いという言葉を使ってないとか、約束だから誓っているわけではないとか、そんな言葉の遊びで責任逃れするな。「はい」と「いいえ」だけでじゅうぶんだと仰っているのです。そうでなければ、これまで多くの人たちが行ってきた誓約が無効になってしまいます。旧約時代だから誓って良かったけど、新約は駄目だというのでは意味が通じません。
 この箇所もきちんと前後の文脈で読まないと、この節だけ抜き取ってしまっては、イエス様が本来仰りたいことを汲み取ることができません。
 何よりもイエス様ご自身が、大祭司カヤパに尋問される場面で、誓っています。大祭司カヤパは「生ける神の名によってあなたに命じる。あなたは神の子キリストなのか。言いなさい。」と問います。大祭司が生ける神の名によって命じているということは、神の子キリストであると誓うのか誓わないのかという意味です。それに対してイエス様は「あなたの言ったとおりだ」とはっきりと誓ったために、大祭司はその衣を裂いて怒りを表し、イエス様を有罪としたのです。イエス様はいつも、「しかり」と答える方でした。よく使われる「まことにまことに」とは、原語では「アーメン、アーメン」です。これは「しかり」と同じ意味ですが、より強い「その通りです。本当です。」という意味です。だから、イエス様の教えは律法学者のようでなく権威ある者の教えとして聴こえました。
 律法学者たちの教えとは、まさに「はい」でもなければ「いいえ」でもない。「白でもなければ黒でもない。賛成でもなければ反対でもない」という曖昧な教え方だったからです。
 パウロもこう言っています。Ⅱコリント1:20
「このお方には「しかり」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。」
 主イエス自らが「しかり。アーメン」と仰って、権威ある者のように教えられました。それは、私たちが約束を守れない弱い者、心の貧しい者であることを認めて、イエス様の真実アーメンの上に招かれて、このお方を信じる信仰によって、この方のいのちを受けて「しかり」アーメンと言って神に栄光を帰すようにされるためです。
 律法学者たちは正しく歩めないことを認めないで、言い逃れで神の律法を骨抜きにしていました。それがずっと「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、そして「決して誓ってはいけません」と続いているテーマです。
 誓うという言葉がなくても、「はい」と「いいえ」それだけで十分誓っていることと同じです。良くないのは、神様に対する態度の曖昧さです。この問題は信仰の問題、救いの問題に繋がるだけに、大切なテーマなのです。
 神に従うかどうか。神様を信じてもいなければ、信じていないわけでもない。たまにどちらでもないという答えに出会います。しかし、神様の前にどちらでもないという答えは、「いいえ」と同じです。しかし、「いいえ」と言わず濁す姿勢は、終末において悪魔と一緒に裁かれるリストに入っている「臆病者」のことかも知れません。また熱くもなく冷たくもないという、神様が吐き出される信仰者の末期的な状態かも知れません。
 イエス様は、常に「しかり」でした。いつも神様への態度はアーメンであり、人々に対してもアーメンでした。真実でした。しかりでした。
 今、私たちは、この主の御名によって「アーメン」と祈り、宣言し、約束しています。結婚も、洗礼もまさに主の御名によって誓ったのです。それは罪でしょうか。そうではありません。なぜなら、軽はずみな気持ちで、言い逃れしようとして誓ってはいないからです。だれが浮気をするかも知れないから誓わずに約束という言葉を使いましたと言うでしょう。だれが途中で信仰を失うかもしれないから誓わずに約束という言葉を使いましたと言うでしょう。もし、そう言うとしたら、それはこの37節でイエス様が言われるように「悪いことです」。これは「悪い者」とも訳せる言葉です。

 

結論
 私たちが行った誓約はそれぞれ命がけなのです。その命がけは今、イエス様がご自身のいのちを賭けて私たちの罪を負ってくださったからこそ、この方の名によってアーメンと言って、主のいのちのゆえに大胆に毎日が誓いの連続の中で生かされているのです。
 私自身、牧師になって一年が経ちました。一年前にここで誓約をして、按手を受けたことは、たんなる形式ではありません。あの誓約に、あの按手にいのちが懸かっているのです。それは、私のいのちであり、妻のいのちであり、またそれを受け入れられたみなさんのいのちであります。
 しかし、それを保障するのは私たち自身のいのちをも贖ってくださった御子の十字架から流れ出る血潮であり、御子のいのちなのです。そこに言い逃れではなく、ただ神の恵みが溢れているのです。この主イエスの十字架をこれからもともに見上げていきたいと思うのです。私たちの誓いは、互いを見詰め合って達成できるものではありません。私たちそれぞれが、ともに主を愛し主に仕えるところに果されていくのです。
 いよいよ来週は棕櫚の聖日です。今日、御顔をエルサレムに向けられた主の十字架の苦しみを日々覚えつつ、言い逃れではない真実のアーメンを主にささげていこうではありませんか。

祈り 愛する父なる神様。私たちは真実でなくてもあなたはいつも真実です。私たちの不真実のためにイエス様が十字架にかかって死んでくださりありがとうございます。今、私たちはその主の十字架の贖いを信じてあなたのものとされました。真実な主のいのちによって、私たちをも主の真実の中に招き入れてくださり感謝します。どうか、日々私たちはあなたに祈り、あなたの前に約束し、誓いつつ歩むものです。そのあなたへの言葉が言い逃れではなく、真実に「はい」と「いいえ」でありますように聖霊によって導いてください。聖霊によらなければ、あなたへの誓いを果すことができない弱い私たちをどうか受け入れ、支えてください。今週もともにおられる主のゆえにきよい歩みができるように導いてください。あなたを愛し、隣人を愛します。主の御名によって。

◎受難節 第五主日

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使徒パウロよるエペソ教会長老たちへの告別説教から。万事につけ彼らに示してきたこと。

 


①労苦して弱い者を助けること。

②キリストのことば

「受けるよりも与えるほうが幸いです。」 を思い起こすべきこと。

③キリストご自身がそのように歩まれたことであり、私たちもその歩み(十字架への道)を、与えられている聖霊の助けの中で、キリストの十字架による贖いの恵みに溢れて実践すること。

 


キリストの愛を受け、罪を赦された者が、同じように弱さを覚え、苦しみを抱える人々にそのキリストの愛を与えることができる。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」2コリント1:4

 

【祈り】

アッシジのフランチェスコ(1181年〜1226年)

 

主よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

 

憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところに許しを、
分裂のあるところに一致を、

疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、

絶望のあるところに希望を、
闇に光を、悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください。

 

慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

わたしたちは与えるから受け、許すから許され、
自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。

 

 

◎受難節 第26日 木曜日

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●サムエル記第一2章25〜26節

"人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだったからである。
一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。"

祭司エリの息子たちは、「よこしまな者たちで、主を知らなかった」(Ⅰサムエル2:12)と言われています。別訳では「ならず者」と言われています。しかし、いずれも「主を知らない者」であったことが明らかです。別訳では「主を知ろうとしなかった者たち」だったとあります。

 

主を知るとは、たんに知識や認識において思うこととは違います。この「知る」という言葉は、もともと「手」という言葉と繋がっており、触れること。つまり、触って体験して「知る」というふうに、体験が伴う認識だということです。

 

聖書では、この言葉を夫婦関係においてたびたび用いられています。(創世記4:1)

 

ですから、このところは、エリの息子たちは、主を体験しなかった、主を体験しようとしなかったと読むことができます。

 

それで、彼らは祭司でありながら、ささげものを貪り、祭司としての務めを疎かにしたどころか、主の礼拝を汚していたのです。

 

そこで、父親のエリが25節の言葉を告げました。

人間に対する罪なら神が仲裁をしてくれるが、主に対する罪のためには、その仲裁に誰が立てるだろうかという、この言葉。

この言葉には、一つの真理が隠されています。それは、まさに神の前における罪のために誰が立つのかということです。

 

旧約時代は、その罪のために動物が犠牲になりました。しかし、その動物の犠牲はあるものの雛形であり、実体ではありませんでした。

 

この25節の直後に26節で、少年サムエルについての記述があります。

「一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」

  このあと、このサムエルが成長して、この混沌とした礼拝だけでなく、イスラエルを建て直します。最後の士師として、最初の預言者として、イスラエルをさばき、このサムエルを通して、イスラエル王国を治める王が任命されていきます。

 

ここに、イエス・キリストの予型があります。

エスもこの少年サムエルのようでした。

"イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。" ルカの福音書 2章52節

  このイエスもまた、イスラエル王国。つまり神の御国を建てるために来られたお方です。ですから、この少年サムエルも少年イエスも、神様の大きな計画のために働くために、主にも人にもいつくしまれる歩みが大切だったのです。

 

その歩みは、神の計画のためにいのちを捨てるという歩みであったからです。それを十字架への道と呼ぶことができます。イエスは神と人間を隔てている罪を取り除くために、その罪をご自分の身に負って死んでくださいました。それによって信じる私たちを御許に召してくださったのです。

 

だから、そのイエスの歩みは、イエスを信じる者たちの歩みでもあります。使徒パウロはこう言いました。

"私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。"
コリント人への手紙 第二 4章11節


私たちは、地上の命は地上の命としてあって、誕生で始まって死で終わるのであり、終わりの日に復活して新しい命に生きることになると考えます。使徒パウロの語り方は違います。

たしかに私たちは病み、傷つき、老い衰え、ついには朽ちていきます。しかし、「私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(Ⅱコリント4:16)。私たちはバプテスマ(洗礼)によって主イエスと結ばれ、すでに主イエスの命を生き始めています。私たちはこの世からのものを一つ一つ捨てていきます。絶えず死に渡されています。そのただ中で、主イエスの命は私たちの死ぬべき肉体にすでに現れています。

 

私たちも主を知らない者、知ろうとしない者でなく、主を益々知り、主にも人にもいくつしまれる歩みの中で、更に主イエスの道を進んでまいりたいと思います。主の十字架の贖いの恵みを覚えながら。

 

【祈り】

エドワード・ブーヴェリー・ピュージー(英国教会司教1800〜1882)

 

主イエス

あなたの十字架の愛のゆえに

どのような十字架のもとにあっても

喜びにあふれた者とならせてください。

あなたの愛を妨げるものをすべて

私から取り除いてください。

あなたをもっと深く愛することができますように。

あなたの愛で私を溶かしてください。

私のすべてが愛になり

私の存在のすべてをもってあなたを愛せますように。

 

【参考文献】

小泉健『十字架への道』日本キリスト教団出版局,2019年