日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

●黙想:「異邦人の地で」マタイの福音書 15章21~28節

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"21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
25  しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。"

  イエス様と弟子たちは、同胞であるユダヤ人指導者から受け入れられず、地中海沿岸の異邦人の住む地域に移動しました。そこは、ツロとシドンの地と呼ばれていました。またはスロ・フェニキアとも他の福音書では言われています。

 なぜ、イエス様がこの異邦人の地に来られたのでしょうか。

 

  一つ考えられることは、ユダヤ人たちがイエス様をメシアだと受け入れないため、救いが異邦人にもたらされることになったからだということです。このことは、もともとアブラハムへの契約から言われていたことではありました。しかし、それはアブラハムの子孫であるイスラエル民族を通して真の神が証され、メシアが示されて救いが及ぶことが目標でした。

  しかし、ユダヤ人たちはイエス様をメシアとして示すどころか受け入れなかった。それでも神様の計画は遂行されて、受け入れないユダヤ人たちによって、結果的には異邦人のために救いが及んだと言えます。

  そんな番狂わせ的なことにより、イエス様のメシアとしての役目は更にイエスを必要としている人たちに広がったということです。つまり、医者を必要としている病人として自覚していた人たちに医者である主が来てくださったのです。

  ただし、そのためには弟子たちは訓練が必要だったことも事実です。弟子たちはみんなユダヤ人ですから、異邦人の地に入ることも、異邦人と関わることも避けたいところです。彼らの常識では、ユダヤ人指導者たちが言うように、異邦人の汚れが感染ることを心配するはずだからです。

  この独善的選民意識はイエスの弟子としては改革が必要でした。それで、このツロとシドンの地が用いられたとも言えるのです。

 

  ここに、異邦人の女性が登場します。彼女はイエス様の評判を知っていました。だから、自分の娘のために、嫌われている存在であることを承知で、イエス様に話しかけてきました。ユダヤ人から蔑まれても仕方がない。それよりも娘のいのちが大切だという母親としての愛が、様々な障壁をも乗り越えさせています。

  この場面を見ると、私の母を思い出します。私がまだ3〜4歳の頃、家の近くを流れる川の向こう岸で遊んでいました。私の姉と従兄弟も一緒でした。ところが当時はまだ野良犬がいる時代です。白い大きめの犬がやってきたのです。私たちは怖くて一目散に逃げたのですが、一番小さかった私が逃げ遅れて、川に繋がる汚いドブ川に足を滑らせて落ちてしまったのです。

  私の記憶では、ドブに落ちて一度沈み、浮いたところで見えたのは、上から私を見下ろす白い犬の顔でした。

 結果的に私はたまたまそこを通りかかった女性に助けられたのですが、先に逃げた姉から緊急連絡を受けた母の姿を今でも私は忘れません。

  家からは50メートル以上離れていたと思いますが、母は裸足で慌てて走って来たのです。私は汚い黒いドブ川の水で汚れて泣いていましたが、母は必死に走って来たのです。そうです。母の愛は必死なのです。子どものためにはなりふり構わず、ただ助けたい。その思いだけで、蔑まれることや痛めつけられることなどはどうでも良いのです。

  この異邦人の女性も、自分の娘のためにはなりふり構っていられません。

 

  嫌われていることを覚悟でイエス様に話しかけます。

 

22 「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。

 

  ところが、イエス様はいつものイエス様と違って、とても冷たい態度をとります。これはどうしたことか。今こそ彼女の声に聞くときではないでしょうか。しかし、イエス様は彼女を無視されます。

  どうしてでしょう。どうしてイエス様はこのような態度を取られたのでしょうか。それは、彼女の熱心さを試すためだったのでしょうか。やはり、イエス様の言われるように、先にイスラエル人のために来られたからという理由からでしょうか。

  しかし、それは実は表面的なことでしかありませんでした。

 

  イエス様にとって、彼女の信仰はよくご存知のことだったでしょう。イエス様はそのことを既に悟られていたと思われます。というのも、イエス様と彼女との言葉のキャッチボールは非常に息のあった掛け合いになっているからです。

   

  この出来事で、一番心を騒がせていたのは、実は弟子たちでした。彼らにとって異邦人は近づきたくない人たちです。その中でも女性であることは、付き合う以前の問題。会話をするなんて論外だったはずです。だから、最初のイエス様の行動は、彼らにとっては当たり前であり、むしろイエス様の行動を喜んだでしょう。

  しかし、イエス様はその彼らの冷たい姿勢、困っている人に対する冷ややかな態度を改めさせるために、この女性の信仰を用いて、異邦人の信仰を絶賛することで彼らに恥をかかせ、その思い違いを訓練されたのでした。

  イエス様は、弟子たちを訓練されます。それは、どんな人にも寄り添い、神の国の到来を告げ知らせ、イエスこそメシアであることを受け入れさせるためでした。それなのに、高いところに立って、人を見下し、自分たちはきよいのだと、困っている人を蔑む弟子たち。その態度は神の国に相応しくないのです。

  イエス様はそのことをよくご存知で、彼らの差別的態度の間違いを教えるために、彼らが蔑む異邦人の女性の素晴らしい信仰を絶賛することで、良い意味での嫉妬を起こさせ、自らの間違いに気づくことを求められたのでした。

 

  私たちも先に救われた憐れみを履き違えて、特権意識のみで立っているなら、この弟子たちと変わりません。神の恵みを、自分たちの功績と勘違いしてるなら、この弟子たちと同じです。また、毎週礼拝していることや、奉仕していることに感謝を忘れ、そうできていない人をさばき、蔑むなら、この弟子たちと同じです。自分の方が先輩だとか、自分が信仰歴が長いなどと自惚れているなら、この弟子たちと同じです。

 そのような信仰の態度のあるところに、医者を必要としている病人が来ることはできません。真の医者であるイエス様のところに連れてくるはずの私たちが、手を引いてあげるべき人たちよりも偉そうにしていたら、だれも安心しません。だれも一緒いたいと思いません。

  イエス様の弟子たちって偉そうで近づけないと、神の国を目の前にして、尻込みする人たちが増えるでしょう。そのとき、私たちは、イエス様の救いのために用いられるのではなく、逆に妨害しているのです。

  今日、イエス様はそのことを、このカナン人の女性とのやり取りの中から示してくださいました。イエス様が喜ばれるのは、自惚れて人を蔑む弟子ではなく、イエス様を心から喜び、へりくだって救いを得ようとする純粋な愛と信仰なのです。

 

  今日も、私たちを憐れんでくださり、いのちを捨てられた主があなたを招いておられます。子犬でも落ちたパン屑をいただきますと告白しましょう。パン屑で十分幸せですと答えてまいりましょう。

天の御国の門の門口に立たせてくださいと願いましょう。

  あの十字架上の強盗の一人のように、ただ思い出してくださいと、それだけで十分幸せですと告白してまいりましょう。

 

詩篇 84篇
1,万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。
2,私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。
3,雀さえも住みかを燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。
4,なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。セラ


5,なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。
6,彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。
7,彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。
8,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ


9,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。
10,まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。
11,まことに神である主は太陽また盾。主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。
12,万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。

  

 

  

  

●黙想:「心から出るもの」マタイの福音書 15章16~20節

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"16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。
17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。
18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。
20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」"

  私たちの悪い思いはどこから出て来るのでしょうか。汚い話になりますが、嘔吐物は胃から出てきます。排泄物なら大腸から出てくるでしょう。では、悪い思いはどこにしまってあるのでしょう。どこに蓄えられてあるのでしょう。

 

  イエス様は言われました。

18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。

 

  心というのは目に見えないものです。そして悪い思いも目に見えないものです。しかし、目には見えませんが確かにあるものです。なぜなら、その悪い思いが心から出てきて口にのぼり、吐き出されて周囲に様々な影響を与えるからです。

 

  木の枝が揺れるのを見て風が吹いていることを悟るように、周囲の出来事から悪い思いが言葉となって、また行動となって外に表れることを知ることができるのです。パウロは言います。

 

"悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。"
エペソ人への手紙 4章29節

  このパウロの勧めは、心に蓄えられているものが悪い思いであるならば、そう簡単には実現できないことを気づかせます。悪い思い、罪が心を支配している以上、いつまでたっても、「人の成長に役立つことば」によって「聞く人に恵みを与える」ことなんてできません。

  ここに私たち罪人の現実を知らされます。イエス様は、パリサイ人たちが人の汚れについて外からやってくると思っていたので、そのことを分からせるためにこのことをお語りになっているのです。彼らがあまりにも、自分たちはきよくて、取税人や罪人、異邦人などは汚れていて、そういう人たちに近づいたり、交わったりすることで汚れが移ると考えていたからです。

 

  しかし、汚れというのは、外から来て伝染するのではなく、むしろ私たち自身の中から出てくる、どうしようもないものであることをイエス様は教えておられるのです。

  ですからイエス様はこう言われました。

"イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。"マタイの福音書 9章12節

  そうです。私たちは罪という病におかされている。そのことを自覚して医者に診てもらわなければならない存在だと言うことです。しかし、その自覚がないならば、その病によって滅びる。だから、そうならないために、イエス様が来られた。イエス様が、私たちの罪という病気をご自分で負って死ぬために来られたのです。

  だから、私たちは自分にはどうすることもできないことを認めて、真の医者であるイエス様に頼るなら、その病は癒されるのです。

  イエス様を信じて罪が赦された者には、心が悪い思いで満たされる人生ではなく、聖霊が住んでくださって、私たちの心にきよい思いを与える形づくってくださいます。その聖霊の働きを信じ、聖霊のご支配を願うならば、イエス様を信じた私たちは神のことばを心に蓄える努力が必要です。

 

"キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章16節

  主のことばを心に蓄えられるならば、聖霊がその主のことばを良い畑に落ちた種のように成長させ、豊かな実を結ぶようにしてくださいます。

 

 私たちの心は、本来ならば悪い思いで満たされるものです。しかし、その罪という病を負ってイエス様は十字架にかかり死なれました。そのイエス様をあなたの救い主と信じるなら、あなたの心にも聖霊が住んでくださり、きよい心に造り替えられるのです。

 

"キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。"
ペテロの手紙 第一 2章24節


 

 どうか、今日という日に、あなたの心にイエス様をお迎えしませんか。あなたの心を悪い思いではなく、主のことばで満たしてみませんか。そうするなら、あなたの内側から、悪いものではなく、生ける水の川が流れ出るようになるのです。

 

"わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」"
ヨハネ福音書 7章38節

  

  

●黙想: 「主よ、助けてください」マタイの福音書 14章22~33節

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"それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
エスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
エスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
エスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
エスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。"

 私は毎日が「主よ、助けてください」の連続です。きっとイエス様も毎日「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃっているでしょう。しかし、その御手は、「すぐに」私をつかんでいてくださいます。

  

  信仰生活とは、主に救われて弟子とされた者が、この世のという湖の上を舟で進むことに似ています。

  イエス様はあえて私たちだけのような状況を許されます。

 

「イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、」

とあるようにです。

  そこで弟子たちは嵐に悩まされます。聖歌に「人生の海の嵐に」という歌があります。

 「人生の海の嵐に、もまれきしこの身も、不思議なる神の手により命拾いしぬ。」

  このことに弟子たちも、事実、湖の上で悩まされていました。しかし、それはこの世においては当たり前の現実です。この世というのは、天の御国ではありませんから、いのちの危険にいつも晒されているのです。

  罪を犯しエデンの園から追放された人間は、罪によって呪われてしまった土地で汗して糧を得て、苦しんで子を産み、虚無に服した被造物の中で、常にいのちの危険に晒されて生きなければならなくなったのです。

  しかし、神はイエス・キリストを、その罪の世界に送り、私たちを救ってくださいました。それは、滅びゆくこの地から救われて、天の御国の国民とされたということです。だから、私たちの進む先には必ず御国があるのです。その約束は変わりません。

  でも同時に、この世において、先に救われた者としてなすべき業があるのも事実です。先に救われた者は、キリストの弟子として、キリストが歩まれたように歩まなければなりません。そのことをキリストの世の光、地の塩として歩むとも言います。また、キリストの香りを放って歩むとも言います。

  

"しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。"
コリント人への手紙 第二 2章14~15節


  そのときに、歩むべき道は、道とは言えない険しいものです。今日の箇所においては、まさに湖の上を歩かなければならないようなことの連続です。この世の価値観の中で、みことばを第一として歩もうとするとき、お金は儲からなくてひもじい思いをするかも知れません。周囲の人から除け者にされるかも知れません。

  しかし、そのことは主が許されてその状況があることを忘れてはいけません。イエス様は、弟子たちだけで、あえて舟に乗り込ませることを許されるからです。しかし、必ず近くにおられるのです。

  そこで、さらに歩いてここまで来いとお命じになるお方。そこで、「主よ」と叫びながら、途中まではうまく歩けているかも知れませんが、そこで自分で歩いているという自惚れが出てきて、やはり沈みかけるのです。なぜなら、自惚れは主から目を逸らさせて、周囲の危険のみが現実となって襲って来ることに誘うからです。

  大切なことは、どんなときも主イエス様から目を離さないことです。主から目が離れるとき、そこにあるのは呪われた世界の現実があるのみです。怖いのは当たり前、恐れて沈むのは当然のことです。この世は神の子らを飲み込もうと、いつもそのいのちを狙っているからです。

 

"身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。"
ペテロの手紙 第一 5章8節

  でも主に祈り叫ぶなら、主の御手は、すぐに伸ばされてあなたを助け出します。そのとき、主は必ず言われます。

 

「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』」

  その繰り返しの中で、私たちの信仰が練られていきます。だからこそ、主からのチャレンジに応えていきたいのです。それは、自分にはできるから踏み出すのではなく、自分には無理だからこそ、主から力をいただいて踏み出す一歩です。そこで経験する全てのことは、必ずあなたを成長させ、キリストが歩まれた道をあなたも歩めるようにされていくのです。

 

エスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
エスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。

 

  今日もあなたの手をすぐにつかんでくださる主が共にあることを覚え、ただ主だけを見て歩ませていただこうではありませんか。

「いと静けき港に着き、我は今安ろう。救い主イエスの手にある身はいともやすし。」

 

"試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。"

ペテロの手紙 第一 1章7節

(引用聖句は全てペテロの手紙から)

 

 

  

●黙想:「天の御国の価値」: マタイの福音書 13章44~46節

"44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。"


  「天の御国は◯◯のようなものです」というフレーズを、主イエス様はよくお使いになります。今日のみことばもこれまでのたとえと同じように、天の御国について語られています。そして、今日のたとえのポイントは、天の御国の価値についてです。

  イエス様は、同じマタイの福音書の中で、私たちの価値観と私たちの心についてこのように言われました。

 

"あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。"
マタイの福音書 6章21節


  私たちの心というものは、私たちの宝。つまり価値を置いているものに向けられているものだという意味です。心を置いているというのは、心がその価値によって支配されているということです。

  私が子どもの頃、プラモデルが好きで、特に戦車のプラモデルを、いつもどのように作るかを色々と考えていました。色を塗ることや、ディオラマにする時の場面設定などをいつも思い巡らしていました。ただ、それをプラモデルを作るときだけなら良いのですが、学校の授業のときも先生のお話も上の空で、頭の中がそのことだけになっていたことを、昨日のことのように思い出します。

  きっと、皆さんも同じような経験があるのではないでしょうか。

  今日のたとえ話でも、宝を見つけた人は自分の全財産を費やしても、その宝を埋めてある畑を買うほどだというのです。つまり畑に埋めてある宝が大切なのですが、その宝の入れ物にも価値を置くほど、その宝への執着心を表していると思います。

  またイエス様は、天の御国は真珠を探している商人のようだとおっしゃいました。先ほどは「宝」だと言われたのに、今度は「真珠」かと思いきや、その真珠を探している商人のようだと言うのです。それはどういうことでしょう。

  それは、そのように真珠に価値を置いて、なりふり構わず手に入れようとする姿勢自体にこそ価値がある。それが天の御国だとイエス様は言われるのです。

  それは、その宝ものを入れる入れ物であるあなた自身が、本物の宝に対して、比較級の価値ではなく、最上級の価値であるなら、そのあなた自身が宝物の価値と等しくなるからです。

  パウロはこういっています。

 

"私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。"コリント人への手紙 第二 4章7節

  この宝とはイエス様のことです。そして、土の器とは、そのイエス様を信じて心に受け入れる私たちのことです。たとえ単なる土でできた器だとしても、その器に本物の宝を入れるなら、その宝の価値で、土の器さえも価値あるものにされるのです。

 

"大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。
ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。"
テモテへの手紙 第二 2章20~21節


  また、イエス様は、このように言われています。

 

"『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」"ルカの福音書 17章21節

  今日、イエス様はあなたの心の中に宝として臨んでおられます。そのイエス様をあなたの宝、あなたの救い主として受け入れるなら、その救い主こそ、なくてはならないお方であると求めるなら、そのあなた自身が天の御国です。神の支配です。神の王国、神の宮となるのです。

  なぜイエス様が私たちにとって、全てをささげても価値あるお方なのか。それはイエス様がらまず全てを捨ててまでも私たちを救うために、天の御国から降りてこられ、現にそのいのちを捨てて、私たちを愛してくださったからです。

 

"まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。"ヘブル人への手紙 9章14節

  全てを捨ててまでも手に入れようとする商人のように、私たちも真の真珠であるイエス様を探し、手に入れ、心の中にお迎えしたいと思います。

 

"あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。"
コリント人への手紙 第一 6章19~20節

 

◎ 「だから神の国と神の義を求めなさい」 聖書箇所 マタイの福音書6章24~34節

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序論
 昔、私が仕事をしているとき、時々やりにくいなあと思うことがありました。それは親方が二人いる現場です。私は電話局の工事をしていました。普段は二人一組で、そのうち一人が先輩なのでうまくいきます。でも、ときどき、他の班で若い人が休むと、その班の班長が私の班に応援に来るのです。そうすると、当然いつもの班長には一番に従って仕事をしますが、応援で来ている人も先輩ですから、一応、その人のことも立てなければなりません。そうすると、どっちからも使われるだけで、何の応援にもならず、かえっていつもよりも能率がさがって仕事が終わらなくなってしまうのです。「船頭多くして船山に登る」と言うことわざがありますが、そういうことです。
 船のキャプテンが何人もいると、指図する人が多すぎて物事がまとまらず、目的とは違う方向に進んでしまうということです。仕事の能率が下がるくらいなら大したことではありませんが、私たちの人生だとしたら大きな問題です。
 イエス様は、今日のマタイ6章24節で「だれも、二人の主人に仕えることはできません」と言われました。それは、一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするから」です。まさにキャプテンは一人が良いということです。そして、そのキャプテンこそ神様ですということです。
 今、私たちはマタイの福音書の山上の説教の箇所からみことばを聞いています。それで、この6章に入ってからは、私たちイエス様の弟子たちの信仰の歩みについて教えているということを見てきました。そして、この6章には、常に二つのことに対してあなたはどっちなのか。そういう視点で読んでいきましょうということを最初にお話したことを覚えているでしょうか。
 それは、つまり必ず二人の主人が示されていて、あなたは弟子としてどっちですかという問いが、あったということです。
 6章1~23節までで振り返ると、人に見せるためなのか、神様を愛するためかということです。19節~20節には、それが天に宝をたくわえるのか地にたくわえるのかという問いもありました。
 いずれにしても、ずっと二人の主人が示されていたということです。そのまとめが今日のところになります。
 それで今日の主題は「だから神の国と神の義を求めなさい」です。サブタイトルをつけるなら、「へりくだって被造物から学びなさい」になると思います。

 

1.  大切なものを間違ってはならない
 イエス様はガリラヤの小高い山の上から弟子たちに、そして取り巻く群衆に語りました。
「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
 この言葉は、これまでの神か人間かということを別な表現で言い換えています。もちろん神は同じ神ですが、もう一方の主人が人間ではなく「富」と言われています。それは19節からの天に宝をたくわえるという、貯金の話があって、私たち人間の最も心が支配されやすいものがお金であることをイエス様がよくご存知だからです。
 富というのは、お金がたくさんある状態のことです。ですから、私たちの宝のあるところに、私たちの心もあるので、あなたが支配されているのはどっちですかということです。ここまでが23節までのまとめとなる問いです。
 みなさんは、神か富かどちらに仕えていますか。この質問、この話題を信仰をもっていない人ではなく、弟子たちにされていることがとても大切です。
 イエス様は他の箇所でこう言われました。マタイ10:16
「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。」
 イエス様は弟子たち、つまりイエス様を信じている私たちをこの地上に置いていることを、狼の中に送り出しているとおっしゃっています。そうです。私たちは今、神の国の国民にされながらも、今いる場所は狼の群れの中にいる状態なのです。それは、とても危険な状態に常にさらされているということです。その危険な状態の中で、私たちはまず何を求めるべきでしょうか。25節。
「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」
 イエス様は言われます。こんな危険な状態にあるのに、食べたり飲んだり、着ることで頭がいっぱいになっていませんか。そのためにお金があれば何でもできると、お金が、その富が神様になっていませんか。いのちやからだが大事なことはわかっていても、それに対する備え方、価値観が間違っていますよ。と、イエス様はおっしゃっているのです。
 そこで、信仰者の模範を示します。第一の先生は空の鳥です。26節27節。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」
 もちろん空の鳥も毎日食べるものを探して一日終わります。しかし、明日以降のことまで計算して生きてはいません。むしろ、毎日与えられているものだけで生きている。いや天の父が養っているというのです。そして、次の先生は野のゆりです。28~30節
「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」
 野のゆりは鳥のように自由に飛びまわれませんが、その命がある限り、神様によって与えられている姿のままで生きています。それもまた、神様が装ってくださっているというのです。しかも栄華をきわめたソロモン王よりも、野のゆりの方がまさっているというのです。
 この鳥も野のゆりも、彼らの存在がどれほど素晴らしいかもっともよく表しているのが、彼らの主語が「天の父」または「神」であるということです。
 私たちは自分の信仰生活を話すとき、主語は「私」でしょうか。私はこうした。ああしたという話をするでしょうか。しかし、空の鳥も野のゆりも自分では語れませんが、イエス様が代弁して言われます。天の父が養ってくださる。神が装ってくださる。これが証しです。これが信仰者の模範だとイエス様は言われるのです。
 6章に入って弟子としての歩みが教えられてきました。その結論なのに、イエス様はあえてご自分を見なさいとか、わたしに習いなさいとは言わずに、空の鳥、野のゆりから学び、わきまえなさいと言われるのです。
 それは、彼ら被造物には生きていく上で大切ないのちもからだも、神様が与えてくださるという前提ができているからです。それは本能だよと蔑むこともできます。でもそう言い切れるでしょうか。大事なことは、へりくだって、この被造物から学ぶことです。イエス様は、ずっと心の貧しい者は幸いであるという前提でここまでお語りになっています。それは、主の前に正しい自分、出来る自分ではなく、どれだけ貧しい者か、どれだけ弱い者か、どれだけ罪深い者かをまず自覚することです。どれほど、神様よりも目に見えるものに翻弄され、お金の奴隷になっていることか。神様を信じていると言いながら、どれほど自分の価値観を優先していることか。
 それが富に支配された、自分のルール優先の生き方です。つまり、それは異邦人が切に求めていることなのです。(言い換えれば、この世の価値観に支配)


2. 私たちのうちに御子がかたちづくられる
 だからこうだとイエス様は言われます。33節
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
 私たちの前にはいつも二つ選択肢があります。神の支配か、この罪の世の支配か。神のルールか、この世のルールか。神の国とは神の支配という意味でもあります。
 マタイの福音書では「天の御国」と使われることが多いのに、ここでは「神の国」と言われています。マタイの福音書ユダヤ人向けに書かれていると言われています。それは、主の名をみだりに唱えてはならないという律法を守るあまり、神という表現も避ける傾向があったので、マタイはそこを配慮して「天」という言葉を使っているという解釈からです。
 しかし、ここであえて「神の国」と言っているのは、この国がたんなる天国のことではなく、支配という意味合いが強いからだと言えます。天の支配だとおかしいので、神の支配を第一に求めなさいということです。
 それが後の世だけではなく、今、この現実の中に、神様の支配がありますようにという願いです。この願いは、もうすでに学んできました。主の祈りの中で。御国が来ますようにといつも祈っているのは、まさにこのことです。
 まずこの社会に、神様の支配があるように求めたいです。最近、札幌市内で2歳の子が自分のお母さんと連れ合いの男に虐待され、衰弱死するという痛ましい事件がありました。最近、多いです。他人に暴力を受けて殺されることも悲しいですが、実の親に虐待されていのちを落とす事件が続いています。これは、最近、こういう悪い親が増えたというよりも、今まで表面化しなかっただけです。最近、他人の家のことも警察は聞いてくれるようになりました。昔は民事不介入と言って、事件にならなければ警察は動きませんでした。特に家庭内のけんかとか暴力沙汰も、家庭内のこととして事件化しませんでした。最近、ようやく表に出るようになっただけです。しかし、行政もまだまだです。児童相談所と警察の間でも責任のなすり合いのようなことになっています。
 そんな社会に罪が、また悪がはびこらないように、この世の為政者たちに権威が与えられているのに、うまく機能していないというのが現状です。この他にも学校のいじめの問題も、学校と先生、また教育委員会の間でも問題があるようです。
 このようなことが毎日報道されています。いったいいつの事件がどれなのかわからなくなるほど、同じような事件が続いています。
 だから、神様の支配が、神の国がここに起こるように求めていく必要があります。そして同時に求めていくべきものがあります。それが「神の義」です。
 さきほど申し上げました。富に支配された自分ルールの生き方が私たちの周りにいつもあるということを。神様が、この世に介入しこの世に神の国を広めようとしても、人間が自分のルールでやっていたら、神の支配は進みません。かえって妨害になります。せっかく児童相談所や警察というきちんとした機関を設けて、今、虐げられて悲しんでいる人たちを救いたい、二度と悲しい事件が起きないようにしたいと思っても、この世の義には限界があります。それは、神の義ではないからです。
 人間は、今、良いことをたくさん考えて行おうとしています。それは評価できます。しかし、どうしても限界があるのです。それは、そこに神様抜きにやろうとする人間の選択があるからです。どうしてもその問題にぶつかるのです。
 天地創造でアダムとエバが善悪の知識の木の実を食べることを選んでから、人間は神の意志よりも自分の意思を優先するようになりました。ここから、いつも二人の主人があるのです。そして、どっちが良いのかわかっているのに、自分のルールを優先させて、神様のルールは宗教だと言って外すようになってきました。現代は、まさにその影響を大きく受けています。
 その影響はキリスト教会にも入ってきて、聖書よりも人間の善悪の知識が優先されていることがあります。社会で大勢が言っていることの方が聖書で神様が仰っていることよりも優先される時代になってきています。
 そのとき、益々、この6章33節のみことばが教会に響き渡るのです。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
 それは、やはり私たちキリスト教会が、あらためて狼の中に置かれていることを自覚して、だからこそ、いのちに大切なもの、からだに大切なもの、つまり私たちを本当に生かすのは神ご自身であることに立ち返ることです。そして、大事なことはどうやったら神の義がこの地上に来るのか。それは、まず主の弟子である私たちが、絶えず神の義であるキリストの十字架の恵みに立ち続けることです。

 

結論
 パウロはこう言います。Ⅱコリント5:21
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」
 神の前に、足りない者であることを認め、しかし、そのためにイエス様が私たちの代わりに罪とされて死なれた。それは、そのイエス様が持っている神の義を、神のルール、価値観を受けて、この狼の中にあって神の義となるためだと聖書は言っています。このように、神の義とされた私たちは日々、この聖書によって、益々神の義として整えられるのです。
 それは、私たちのうちに住まわれる聖霊が、主イエスを信じる者を御子イエス様と同じ姿に変えてくださるからです。聖霊が住むあなたこそ、まさしく神の国だからです。もうすでに、あなたの中に神の国、神の支配は始まっているのです。
 その神の国である私たちが集まるところ。それが教会です。その教会が神の国の支店、出張所として、この世で神の国を現す責任があります。この狼が取り巻く世界で、神の義を示す責任があります。その神の国の大使、使節として、あなたは選ばれているのです。
 神の国と神の義を第一にすることは、まずあなたが神の国になることです。あなたの全てを天の父のご支配に明け渡すことです。そのためにイエス様が最も低くなられて、まず家畜小屋に来られました。それは、罪に汚れた私たちに住んでくださって、そこを神の国にするためです。
 私たちはそのイエス様から神様の義をいただくのです。それが私たちにとって、何よりも大切なことです。いのちのため、からだのために必要なものはお金ではありません。この世の権力や地位、名誉でもありません。
 しかし、天のお父様は、私たちに必要な一切のものをよくご存知です。31節32節、34節。
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。…だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」
 天のお父様のご支配の中にあると思うとき、不思議な安心感に包まれます。それはあの空の鳥のように、また野のゆりのように、ただ存在し、私が生きているのではない。神様が私を生かしているのだと実感できるからです。
 この被造物から学ぶ視点はとても大切です。それは、被造物自体が神の国と神の義を既に求めて存在しているからです。パウロはこう言います。
 ローマ8:19~23
「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」
 神の子どもたちの現われを待つ被造物。それは人間の罪によってもたらされた虚無からの解放があり、被造物全体がうめいて、その神の国の回復を、そして神の義が行なわれることを待ち望んでいるのです。だから、私たちも同じように被造物から学んで、ともに神の国が来ることを、神の義が行なわれることを願うのです。神の子どもたちの現れとは、私たちが次々に救われて神の子としていただくことです。そこには御子の犠牲によって、神の子としていただく恵みがあることを日々覚えていくことが第一に求められている視点です。だからパウロは、このあとこう言うのです。ローマ8:32
「 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

 富、人間の知恵、人間の善悪の知識ではなく、神の国と神の義を第一に求めていきたいと思います。それは空の鳥や野の花から学ぼうとするへりくだりが求まられます。信仰の薄い者たちと言われて、そのとおりですと答えて、だから神様を第一に歩みたいのです。

 

祈り
天のお父様。あなたは真の神、私たちの父です。空の鳥を養うに、また野のゆりを美しく装うように、私たちをも愛し慈しんでくださる恵みを感謝いたします。しかし、さらにそのような被造物を通して、私たちもうめきながらあなたの子とされる恵みをいただいていることを感謝します。どうか、私たちも空の鳥や野の草花が待ち望む世界を待ち望むものとさせてください。今、この日本でも多くの不幸な出来事が起きています。どうか、そこに私たちが神の子として、あなたのご支配、あなたの義、ルールを現せるように導いてください。そこに御心が天で行われるように地でも行われますように。この地に御国が来ますようにお願いいたします。

◎「善き力に我囲まれ」新生讃美歌73番

https://youtu.be/fdcFBMZeb-w

大和カルバリーチャペル 坪井永城副牧師の賛美

 

作詞: Dietrich Bonhoeffer 1944

作曲: Siegfried Fietz, 1970

 


1

善き力にわれ囲まれ

守り慰められて

世に悩み共にわかち

新しい日を望もう

過ぎた日々の悩み重く

なおのしかかる時も

さわぎ立つ心しずめ

み旨に従いゆく

 


善き力に守られつつ

来るべき時を待とう

夜も朝もいつも神は

われらと共にいます

 


2

たとい主から差し出される

杯は苦くても

恐れず感謝をこめて

愛する手から受けよう

輝かせよ主のともし火

われらの闇の中に

望みを主の手にゆだね

来るべき朝を待とう

 


善き力に守られつつ

来るべき時を待とう

夜も朝もいつも神は

われらと共にいます

 

 

 

 

 

● 黙想:マタイの福音書 13章1~9節

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"その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。
エスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。
また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
耳のある者は聞きなさい。」"

  この話は有名な種まきのたとえです。この話の解説はこのあとイエス様ご自身がなさっています。

  私たちは全てこの土地のどれかに当てはまるはずです。

  鳥がすぐにきてしまう土地なのか、土の薄い岩地なのか、または茨のしげる土地なのか、または良い地なのか。

 

  しかし、ここで「私は良い地です」と答えられる人は一人もいないのではないでしょうか。つまり、誰もがなかなか神様からいただいたみことばをうまく活かせているとは言えないのではないでしょうか。私もせっかくいただいた主のことばをふさわしくいかせているとは思えません。

  また、どの土地が自分かというよりも、やはり、どれも自分の姿だと思うのです。

 

  ある時は、せっかくいただいたみことばを何か別の仕事が入って来たことで、そちらに気を取られているうちに、いつのまにか失っていることがあります。それは鳥に取られてしまう土地と同じです。それは道端のような、畑にすらなっていないということでしょう。

 

 また、せっかくいただいた主のことばを、集中して聴いて咀嚼して、また反芻することを怠り、自分の中にたくわえられず、一時の感動だけで、なかなか信仰の成長のために活かせないことがよくあります。それは薄い土の岩地と同じ状態です。このような土地は、よく耕さなければなりません。

 

  また、せっかくいただいた主のことばを、この世的な価値観や自分自身の善悪の知識が優先してしまい、みことば中心に考えを進められずに成長が伸び悩むことが常にあります。最近はキリスト教会にもこの世的な考えが入り込んでおり、神様の御心ではなく、人間的な価値観に立つ思想の方が優先されているのです。そのような茨は、きちんと伐採しなければなりません。しかも根こそぎにです。

 

  このように、私たちという土地は、まず道端であるならば、神様の畑になるように整備する必要があります。それは、神のものとされている自覚と確信が必要だということです。それはあなたのために死んだくださった方、主イエスをいつも思っていることが大切です。自分自身が神のものとされた恵みに立つことです。

"背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。"エペソ人への手紙 2章5節

"信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。"
ヘブル人への手紙 12章2節

  

  また岩地にあるときは、もっと神のものとして訓練される必要があります。それはみことばが根付く努力をすることです。ふかふかな畑になるために、あなたは何ができるでしょうか。それは毎日みことばを読むときを確立することです。みことばが残らないならば、残るようにむしろみことばによって耕すことです。その繰り返しが大切です。どんな畑でもみことばによって耕しているうちにきよめられます。つまり、ふかふかな畑になっていくのです。

  "みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。"
使徒の働き 20章32節

"キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章16節


 

  そして、茨がはびこっているときは、まず求められることは、あなたの中にある人間的な価値観を捨てることです。そのためには、御霊の働きに委ねることが大切です。聖霊はあなたの価値観を神の価値観へと変えることを助けてくださいます。それは、あなたの中にキリストが充ち満ちるためだからです。

  

"また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。
詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。"エペソ人への手紙 5章18~19節


  酒に酔って気持ちを楽にさせることは、御霊の働きを妨げます。それは自分の方法で心を満たすことだからです。それよりも、御霊に満たされることを求めることによって、主を賛美する心が湧き起こり、この世の価値観を取り除くことができるのです。

 

  聖霊の満たしを求めていきましょう。聖霊に不可能はありません。私たちが、ただ主の十字架の贖いを信じて、そこから溢れてくる神の愛と恵みによって、神に感謝をささげるとき、私たちの心は耕されて、もともと道端であったとしても、岩地であったとしても、また茨に覆われた荒地であったとしても、神の土地、「良い地」に変えられるのです。

 

  ですから、私たちが求めるべきものは、まず神の国と神の義です。この国に、この街に、いや私自身に神の国がたてられるように、また神の義、神のルール、神の価値観が満ちて、主イエスの似姿に変えられるように願い続けるのです。そこに御霊がともに働いてくださるからです。

 

 "まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。"
マタイの福音書 6章33節

"私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"
コリント人への手紙 第二 3章18節