日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2022年9月11日 白石教会礼拝説教

説教題 「神と格闘する」
聖書箇所 創世記32章22節~32節
 説教者 川﨑 憲久 牧師
 
序論
 子どもの頃、よく親戚の叔父たちとプロレスごっこをしました。当時5~6歳の私にとって、既に青年である叔父たちは大人ですから、その大人相手に普通は勝てません。でも、叔父たちは、よく手加減して負けてくれたことを思い出します。
 
 今日の聖書箇所は、神と格闘するヤコブの姿が描かれています。その格闘は、何か面白い状況です。最終的に勝ったのは誰だったでしょうか。それはヤコブです。そのために「イスラエル」という新しい名前をいただきました。でも、本当にそうでしょうか。本当に、この格闘はヤコブが勝ったのでしょうか。いったい、この神様との格闘はどういうことなのでしょうか。
 
 前回まで、自分の故郷にいよいよ帰るというときに、ヤコブには解決しておかなければならない課題がありました。それは、兄エサウとの和解でした。でも、ヤコブとしては、できれば避けて通り過ぎていきたい問題です。しかし、神様が、天使たちを遣わして神の陣営を見せてくださって、そういうヤコブを励まします。それで、ヤコブも背中を押されて兄エサウとの和解に臨むという場面でした。
 
 前回のメッセージでは、ヤコブのその向き合い方、その方法はまず横に置いて、彼の問題に向き合う姿勢そのものを評価して、私の白石教会へ仕えていくみことばとして、証しさせていただきました。ですから、ヤコブの信仰者として最善を尽くしたようで、実は欠けだらけのやり方。色々とまだまだ問題ありきの彼には、あまり注目していませんでした。しかし、やはり、神を信じて生きようとする者に対して、神様は、造り変えるためにとことん付き合ってくださる方です。
 
 その信仰が成長して、その内面だけでなく、行動においても神の民としてふさわしく整うためです。これから、約束の土地、憧れの故郷に帰るにあたって、やはり、その故郷にふさわしい者として完成に向かって造り変えられることが大切なことだからです。ヤコブが神を信じる契約の民として、益々きよめられていくのです。そこで、神様とのレスリングがある。この出来事のユニークさは、聖書を見渡しても、ここだけです。
 
 普通であれば神と戦ったら負けます。なぜなら相手は神なのですから。しかし、ヤコブは勝ったと言われています。これは、どういうことでしょうか。私たちの信仰の歩みにおいても、私たちは勝利を得ているでしょうか。それとも、敗北しているでしょうか。
 
 
1.ヤコブの葛藤
 前回、使者をエサウのもとに遣わして、その結果、エサウがわざわざ家来を400人連れて迎えに来るということになりました。そこでヤコブは、神様から、神の陣営を見せられたのですから、そこで大船に乗ったつもりで、行けばよいのに、エサウを恐れ、自分なりの方策を立てます。それは、自分の群れを二つに分けて、もしエサウがやって来て攻撃して来ても、もう一つの群れが守られ、全滅しないようにするためです。前回の7節では「ヤコブは非常に恐れ、心配した」とあります。
 
 かつて兄エサウを侮り、長子の権利を奪い、父イサクからの祝福も奪って逃げて、何の謝罪もなく生き延びていたヤコブ。彼にとってエサウは自分のことを許さずに今もなお復讐しようと待ち構えている敵としか捉えられていないということです。ヤコブは神様に祈りつつも、やはり、昔からの姑息な手段でその場を乗り切るという性質は変わっていなかったようです。彼はエサウへの贈り物を三段階に分けて、エサウの怒りをなだめる作戦を遂行します。それで贈り物を先に送って、自分と家族はヤボク川の北側で宿営しました。
 
 ところが、なかなか寝付けなかったのか、ヤコブは夜のうちに起きて、家族を起こして、先に川を渡らせることにします。ここは、なぜこうしたのか、これまで色々な説があります。たとえば、日中帯は暑いので、涼しい夜に移動させたという気候的な理由。または、たとえエサウが襲撃してくるとしても、夜は安全だろうというふうにも読み取ることができます。でも、これまでのヤコブの様子を見ていると、そのような思いがあったかも知れませんが、彼は、迷っているとか、混乱しているのは確かです。
 
 神の守りがあることを伝えられていながら、彼の古い性質が邪魔をして、せっかく神様だけに信頼したいのに、古い自分が邪魔をして、なかなか気持ちよく前に進めないのです。すぐに姑息な手段が浮かんでしまい、そう動いてしまう自分とは、いったいなんだろうと、自己嫌悪に陥っていたとしても不思議ではありません。
 
 そして、もう一つは、これまであのラバンにも現れてくださって、ここまで神様の恵みなしには生きて来られなかったはずなのに、今、目の前に迫ってくるエサウを恐れている情けない自分がいるということです。
 
 ここにヤコブの葛藤があります。神様に信頼を置きたいのに、全然できない自分。そして、エサウの顔色ばかり気にして、まったく神の陣営が身近に感じられないこの不安。そのもどかしい自分の気持ちの置きどころのなさに、きっとヤコブは眠れなかったのだろうと思います。そして、先に家族を渡して、自分だけがまずここに残ったのは、そのような混沌とした自分の気持ちを神様の前に祈ろうと思ったからではないでしょうか。
 
 ヤコブは、決して自分が行おこなった、「群れを二つに分ける」とか、「贈り物を三段階に分ける」その手段に満足していません。むしろ空しさを覚えているのです。姑息なやり方でその場をやり過ごすという、同じことを何十年も繰り返してしまっている自分に嫌気がさすような、残念な気持ち。
 
 私もそうです。いつも同じようなことで失敗し、がっかりすることの多い者です。全く変わらない、変えられていないように見える自分。そして、みことばが与えられているにも関わらず、なおも不安があり、主ではなく、他のことを恐れている自分がいる。正しい在り方はわかっているのに、神様がずっと遠くに感じて、祈りが空気に向かって話しているような虚しさすら覚える。
 
 ヤコブも、このとき先に家族を渡らせて、自分だけがここに残って、神様をもっと身近に感じたい、神様と顔と顔を合わせるようにして、神様との対話を求めたのではないでしょうか。どうか、あなたが本当にともにおられることを私にわからせてくださいと。
 
 
2.神が始められた格闘
 それが24節です。
ヤコブはひとりだけ、あと残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。」
 ここで「ある人」が突然登場します。やはり、「ある人」または25節では「その人」とあるように、人の姿で現れた御使い、または神ご自身が、60歳のヤコブと格闘した。でも、このときのヤコブにはこれが誰なのかが分かりません。エサウかも知れないと思ったかも知れません。一人でポツンと佇むヤコブに、突然、誰かが組み合って来るという、びっくりする展開です。ヤコブは心臓が飛び出そうになったでしょう。家族を先に向こう岸に送って、自分一人かと思いきや、突然人が現れて、自分に掴みかかって来るなんて、咄嗟に自己防衛本能が働くような場面です。
 
 もっと、前置きがあって、「ヤコブさん、相撲を取りましょう」と言って「はっけよーいのこった」と言ってくれたら良かったのに、不意打ちを食らうような格闘でした。しかしレスリングが始まって、すぐに「その人」はヤコブに「勝てない」と判断したと書いてあります。そして、ヤコブのもものつがい、すなわち関節を外したとあります。それで、どっちが勝ったのかと言うと、この話の流れでは、ヤコブが勝ったことになったようです。26節~28節
 
「するとその人は言った。『わたしを去らせよ。夜が明けるから。』しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』その人は言った。『あなたの名は何というのか。』彼は答えた。『ヤコブです。』その人は言った。『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。』」
 
 それは、この人がヤコブに新しくつけた名前が「イスラエル」で、その理由が「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」とある通りです。でも、私がここを初めて読んだ時、勝てないのを見て、この人はヤコブの足の関節をはずしたということは、この人の方が勝ったのではないかと思いました。しかし、この人はヤコブが勝ったと言うのです。これはどういうことなのでしょうか。
 
 この人は、やはり、このあとヤコブが「私は神を見た」言って、その場所をペヌエルと名づけたように、神ご自身であったと言って良いでしょう。ヤハウェなる神が人の姿で現れてヤコブレスリングをしてくださって、「ヤコブよ、お前の勝利だ」と言ってくださる光景、これは、やはり神様の親心ではないでしょうか。これは、まさに私が子どもの時に、親戚の叔父さんが手加減して負けてくれたように、親心として、ヤコブを励まし、神を信じる神の民として立たせたのではないでしょうか。
 
 ここでヤコブが経験したことは、ヤコブにとって何なのでしょうか。それは、一人きりになって、1相変わらず姑息な自分、2神様が一緒にいてくださっているというのに、不安が消えずエサウを恐れている不信仰な自分に向き合い、そして、もっと神の陣営を、実感をもって知りたい。安心したい。神と顔と顔を合わせるように話がしたい。そのときに、神様が、いきなり組み付いてきて、レスリングを始め、もものつがいを打たれ、「ヤコブよ、おまえの勝利だ」と言われる。
 
 そのときヤコブが得たものは何か。それは、これをいただかなければ「私はあなたを去らせません」と言って与えられた、神からの祝福でした。この祝福を願って、ヤコブはもものつがいをはずされても、この神の人を離しませんでした。それは、この人が神であり、格闘の中で組み合い、その懐の中で得た安堵感、格闘しながら伝わってくる平安をヤコブは得て、この人が神であると気付いたからではないでしょうか。もう少しで夜が明けるくらい長時間にわたって、ヤコブはももの関節が外されて痛いにも関わらず、今、組み合っている、この人、つまり神から伝わってくる安堵感。そこに直接、祝福を得たいと願い続けたヤコブ。結果、その祝福を神は、ご自分を負けたことにして、与えたのです。
 
 しかし、ヤコブ自身は、この格闘において勝ったという風にはとらえておらず、そこにこの神との格闘の価値があるのではなく、「私は神と顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」ところにヤコブの信仰の戦いにおける価値が示されています。それは、本来、人は罪人であり神と顔と顔を合わせることは不可能だからです。ヤコブ自身も、自分が、神様からの恵みとまことを受ける価のない者だと言っていました。
  
 しかし、神はそのような者に近づいてくださって、組み合うほどに、抱きしめるように近くにおられることをわざわざ教えてくださるお方。そして、この状況は、ヤコブに神ご自身が、ヤコブが滅びないように現れるための最善の方法だったのでしょう。名を教えないとか、夜が明ける前に去るというのは、それが神ご自身の顕現と大きく関わっていたからでしょう。この旧約時代、このヤコブの時代に神がご自身を現わせるぎりぎりの方法で、神ご自身が負けたことにして、ヤコブに「勝利=祝福」を与えたのです。
 
 
結び
 神様は、このヤコブの時代から約2,000年後に、私たちが肉眼ではっきり見ても滅びないように人間の姿で来てくださいました。そのお方はインマヌエルと呼ばれるお方。神が共におられるという意味です。そのお方は十字架にかけられて殺されました。その十字架刑を敗北のしるしではないかと揶揄されることがあります。ユダヤ人もギリシャ人も「死刑になった男がなぜ救い主なのか」、「十字架が救いだ」なんて愚かだと蔑んでいると使徒パウロが言っています。
しかし、そこに神の知恵があるのです。確かに主は負けた者のように鞭打たれ、釘付けになって十字架にかかられたのは、そのお方を信じる全てのものに神の子どもとされる祝福をお与えになるためでした。つまり、神は十字架に磔にされた男イエスを信じる者を勝利者としてくださるためだったのです。ヨハネは言いました。
 
「世に勝つ者とは誰でしょう。それはイエスを神の御子と信じる者ではありませんか」(Ⅰヨハネ5:5)
 今、私たちは、このヤコブと神の格闘で、神が敗北したことを受けて、ヤコブ勝利者とされているように、キリストの十字架を受けて勝利者とされたのです。ヤコブは神と格闘し、勝利を得た者として新たに旅立ちます。このあと残されるのは、神によって外された腿の関節の痛み、そして足を引きずらなければならない不自由さと言うしるしです。ヤコブは、そのしるしを通して、神と組み合ったときの神の汗や匂いを、その体温を思い起こし、その神が常にともにおられて、自分のいのちの救い主であることを感謝する者とされたのです。
 
 私たちにもしるしがあります。それは、今度は神ご自身がその身に受けてくださった痛みです。私たちの主イエスは十字架の上で死にましたが、三日目によみがえられました。しかし、その復活されたからだには、十字架刑で受けた傷が生々しく残っていました。イエス様は、その傷を弟子たちに示されました。すると、弟子たちはどうしたでしょうか。こう書いてあります。
「弟子たちは、主を見て喜んだ。」(ヨハネ20:20)
 
 その主の傷跡によって、弟子たちは十字架にかかられたが今もなお生きておられる主であることがわかって喜んだ。愛する主がよみがえられて、今もともにおられることを喜んだのです。その主イエスは、今もなお、天の父なる神の右に、その傷をもって立っておられます。そして、私たちが、死んで天に召されて主と顔と顔を合わせて相まみえるとき、私たちも喜ぶのです。その傷跡を見て。しかし、そのときを待たずとも、このように、礼拝の中でみことばと聖餐を通して、その主のしるしをこの地上にいるうちから見る者とされています。
 
 この主が今もインマヌエルの主として、このときのヤコブに対するのと同じようにあなたとも、ともにいてくださるのです。そして、ときには、このような神との格闘も与えてくださいます。今日のヤコブの神との格闘は、神様から始めたことがわかります。神様は今も、信じる私たちとともにいて、レスリングしようと、深く、強く、親しく関わってくださろうと、実は抱きしめようと自ら近づいてくださる優しいお方です。この主は、あなたが遠く離れているように思っていても、いつも近くにいて励ましておられるお方です。いつも、必要な力を与えようと待っておられるお方です。
 
 今日の31節は、「彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上った…」
とあり、主がともにある信仰者の歩みにある希望の道を美しく表しています。
 
 私たちの今週の歩みも、主の御顔が太陽のように輝いて、その道を照らすでしょう。その主が遠く、高く、離れておられるお方ではなくて、今は、イエスを通して与えられている聖霊によって、あなたの中から、日々語っておられます。いつも親しく顔と顔を合わせて語り合おう、交わろうと待っておられる主に心を開いて、今日から始まる新しい一週間も、安心してまいりましょう。

2022年8月24日 白石教会礼拝説教

説教題 「キリストのかたちへと」
聖書箇所 コリント人への手紙第二3章18節
 
 

聖霊は、神の霊、キリストの霊であり、人に罪を悟らせ、悔い改めを促し、神に心を開くすべての人を真理と義の道に導かれます。聖霊は、教会に力を与え、いのちの源となり、救われた者をキリストのかたちへと変えていきます。」
 
 
1.もうひとりの助け主
 今日のテーマは「聖霊」です。白石教会の信仰告白の4番目にある通りの順番です。でも、「聖霊」については、これまでの信仰告白からの説教においても、またペンテコステ礼拝でも触れてきましたので、今日は少しポイントをしぼってお話ししたいと思います。そのポイントとは説教題にあるように「キリストのかたちへと変えてくださるお方として」ということです。
 
 これまでもこの教理説教では、聖書、神、イエス・キリストと三回学んできましたが、信仰告白を見ると、「聖書」のところにまず、「聖書は、すべて神の霊感による」と学びました。それは、聖書は当然、人間が記したものですが、その記した人間に聖霊が働いて、その書いたものが神のことばとして特別に守られ、神のことばとして残されてきたということです。また、「神」のところでも、父子聖霊という三位一体の神様の第三位格のお方として学んでいました。
 
 また「イエス・キリスト」のところには書かれていませんが、「イエス・キリストは、聖霊によって処女マリアに宿り、人としてお生まれになった」ことは使徒信条でいつも告白しています。また、イエス様ご自身が、ヨハネから洗礼を受けたときに、聖霊が鳩のように下られた場面をマタイの福音書の講解説教でも学んできたところです。そして、ペンテコステでは、その聖霊がその弟子たちに下り教会が誕生したことや、今や、このイエス・キリストを信じて救われキリストの弟子とされた私たちクリスチャンもまた、その主イエス様のように聖霊に満たされて生きる者でもあるということを学んできました。
 
 しかし、私たちは聖霊に満たされて歩みたいと願いつつも、いつも同じ罪を犯してしまったり、きよくない考え方や、悪いことばを口から出してしまい、なかなか聖霊に満たされ続けることの難しさを覚えるのものではないでしょうか。先週の水曜日の聖書研究会昼の部でエペソ人への手紙を学んでいますが、ちょうど「神の聖霊を悲しませてはいけません」という箇所の学びでした。パウロは、そこで「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」と教えていました。そして、むしろ「人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」と教えていました。それが聖霊に満たされた人の姿であるということです。そのことをパウロは「新しい人」を着る者と言っていました。
 
 つまり、イエス様を信じて救われたということは、キリストを着せられて神の子ども、つまり養子にしていただいているということです。それは、放蕩息子のたとえ話で、ボロボロになってお父さんのところに帰って来た弟息子に、お父さんが新しい服を着せますが、そういうイメージです。
 
 私たちはイエス様を信じて救われたということは、神様によって義の衣であるキリストを着せられたという意味です。自分のことを見ると、いつもまだ罪を犯してしまう弱さがあるのに、どうして神様は私の事をきよいと言ってくださるのか。それは、イエス・キリストという神の子の衣をまとっているからなのです。だから、まずは表面的には神様から見れば、御子イエス様のことを見るように見ていただいているということです。
 
 だから着せていただいているキリストのゆえに、私たちは、その罪によって滅びることはないのです。
 
 では、いつになったら、中身も神の御子イエス様のようになれるのか。それが聖霊の助けによってであるとイエス様は言われるのです。今日の交読文があるヨハネ福音書を見ると、イエス様は、聖霊のことを「助け主」とお呼びになっています。しかも14章16節を見ると「もうひとりの助け主」と言われていて、ひとり目の助け主がご自分であることを証ししています。
 
 イエス様を信じて救われるというのは、単に死んだあとに天国に行けるというだけでなく、この地上で生かされている時から、天国の国民としてふさわしく整えられるということなのです。だから、そのためには、まずキリストを着る。そして同時に私たちの心に、聖霊に住んでいただいて、内側からも助けていただける。これが、救われた私たちの特権です。
 
 ヨハネ福音書1章12節にはこう書かれています。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
 この「特権」とは、その神のこどもとしてイエス様のようになれるように、神様が造り変えてくださるという奇蹟です。罪の中に死んでいた者が、そのまま地獄に行かないで、天国の国民として、いやそれ以上に「神の子ども」として造り変えてくださるという前代未聞の恵みだということです。
 
 そのことを、この福音書を書いたヨハネはこうも言っています。1章16節。
「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」とこの救いの恵みの驚くほどの祝福を語っているのです。
 私たちにとって、イエス・キリストの救いとは単に「死んだあと天国に入れて良かったね」というだけではなく、イエス様のような「神の子ども」としてのかたちまで受け継ぐ者とされたということです。
 
 そのためにキリストを着せていただいただけでなく、もうひとりの助け主まで住んでくださって、内側からも大工事をしてくれるという、この上ない恵みをいただいたということです。まず、この恵みをあらためて覚えていきたいです。もうひとりの助け主。その助けが今、私の中に、皆さんの中に与えられている。自分では、こんな自分の貧しい部分、弱い所、罪深さは絶対に良くならないだろうと思えるかも知れない。しかし一流の建築士である聖霊が内側から、私と言う家を、またあなたという家を、土台から建て替えてくれているのです。私たちはその恵みに感謝して、その助けを妨害しないように、むしろ、ともに建て上げていく神の業に参加したいと願うようにされるのです。
 
 結果的に、私たちの努力も、意欲も益とされて、私たちはキリストのかたちへと造り変えられるということです。
 
 
2.栄光から栄光へと
 そのように、聖霊は私たちが神を信じて、神の子どもとされるために、いつもともにいて、必要な力といのちを与えてくださり、キリストのかたちへと変えていきます。
 
 今日の聖書箇所としては、第二コリント3章18節でした。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
 
 このみことばでは、「キリストのかたち」のことを「主と同じ姿」と言っています。キリストのかたちに変えられるというのは、主イエス様と同じ姿にされるということになります。では、天の御国に行ったら全員イエス様なのか。そんなことではないですね。主と同じ姿ということ。つまりキリストのかたちというのは、表面的なかたちのことではなく、その性質、気質において同じにされるということ。そして、この地上においても、イエス様を目標にして、イエス様に倣って生きることであるということです。
 
 パウロが、「生きることはキリスト。死ぬことも益です」と言っているのは、キリストが生きられたようにパウロも生き、死なれたように死ぬ者であるということでしょう。生きるにしても死ぬにしても、すべてがキリストに結び合わされた人生だからです。
 ですから、キリストに結び合わされ、キリストのように生き、キリストのように死んだ人は、パウロ以外にも大勢います。その中から、今日は一人の人の生き様を通して、「キリストのかたち」を見てみましょう。
 
 皆さんは「森永太一郎」という人を御存じでしょうか。現在では、お菓子や乳製品の大手ブランドとなっている森永製菓、森永乳業の創業者です。また先般、銃撃事件で亡くなった安倍晋三元首相の奥さん昭恵さんは、森永太一郎の外戚にあたるそうです。
 
 森永太一郎は、慶応6年(1865)に肥前の国、現在の佐賀県にあった陶磁器を扱う商人の家で生まれました。6歳で父を亡くし、母親が再婚し母とも離別します。そして親戚の家を転々としながら育ち、12歳から父親と同じ陶器商人として修行を始め、23歳の時にアメリカへ渡りました。そこで苦労しながらお菓子やパン製造のスキルを身につけます。
 そのアメリカで、生まれて初めてキャンディを口にした太一郎は、その瞬間に菓子職人になろうと決心したそうです。そして、どうしても日本の子どもたちに食べさせたいと、アメリカで日本人であることで差別を受けながら、10年以上も辛く厳しい修行を重ねました。しかし、そのような中で教会へ通うようになります。そしてイエス様を信じてメソジストの日本人教会で洗礼を受けます。彼に洗礼を授けたのは、札幌農学校の学生だった内村鑑三新渡戸稲造に洗礼を授けたハリスでした。
 
 1899年(明治32)に帰国した太一郎は、東京で小さな菓子工場を始めます。そして、ガラス張りの箱型の荷車を特注して、屋根には漆塗りの板に金色の文字でこう書きました。
「キリスト・イエス 罪人を救わんがために世に給えり」という第一テモテのみことばと「義は国を高くし、罪は民を辱かしむ」という箴言14章34節のみことばです。
 彼は熱心なクリスチャンになっていたのです。だから、明治維新後もなかなか消えないキリスト教へのバッシングにも堪えて、伝道しながら、マシュマロやチョコレート、キャラメルなどのオリジナル菓子を生産し、車に積んで東京の街を売り歩きました。その後も、「耶蘇の菓子屋」と揶揄されつつ次々にヒット商品を生み出して、彼の商売は祝福され発展していきます。彼のうちにかたちづくられたキリストが仕事にも反映して、品質本位で誠実に徹した彼の経済理念と使命感に繋がったのです。
 
 まさに彼の生き様に御霊の実がかたちづくられて行きました。栄光から栄光へと主と同じ誠実さ、神への献身へと押し出して、祝福されていったのです。
 
 ところが、やがて彼は、仕事がうまく行き、有名にもなり、お金持ちになっていったときに、信仰から離れてしまいます。太一郎が後にこう言っています。
「私はその時、名利の奴隷となり、金銭や物質偶像崇拝者となって…百万長者を夢見て野心満々たる際は、神に感謝の念も皆無となった」
 そのときから30年も教会に行くことをやめてしまい、事業の成功も、自分の労苦や能力の賜物だと思い上がってしまっていたのです。
 
 しかし、そのような慢心していた矢先に20歳のときから連れ添った妻を失います。そして再婚しますがまた死に別れてしまいます。その言い知れぬ喪失感の中で彼は、ようやく、目が覚めます。その喪失感の中で、これまで自分がどれほど神のみ旨を痛めてきたかを知らされ、深く悔い改めの祈りに導かれるのです。事業が伸びたのも神から受けた特別な恵みだったのに、思い上がっていた自分の愚かさに気付いたのです。まさに、彼に住んでおられた聖霊が彼に罪を気づかせ、悔い改めに導いたのでした。
 
 涙ながらに太一郎は神に祈りました。すると心の奥から「主よ、みもとに近づかん。のぼる道は十字架に…」という讃美歌がわき溢れてきて、涙にむせび祈る中で、そこに神の声を聞いたと言います。「われに帰れ」と。
しかし、それは、実は長い間ずっと彼の心に響いていた言葉であったということです。御霊が、ずっと太一郎がキリストのかたちに近づくように、神の子どもとして回復するように語っておられたのでした。
 
 そして、さらに心の中に声が響いたそうです。
「行け。迷える多くの者に証しせよ。われ汝を助けん」
それはまさに、助け主の声ではないでしょうか。
 
 太一郎は晩年、「ただ主にのみ忠実なるしもべとなって、神のご恩を証しする」ために、迷える世界から神に呼び戻されたと、証ししています。
 そのときから、十数万戸ある全国の取引先や販売店、その従業員たちやあらゆる人々にキリストの福音を伝えるため、国内外を巡ったと言います。そうです。そこから、あらためて創業当時の聖書のことばとエンゼルマークをシンボルとして掲げた原点に帰って、あらためて神の栄光のために生き、そして、天に凱旋して行ったのです。
 
 
結び
 私たちの信仰の歩みも、決して平たんではありません。キリストのかたちに日々変えられていると聖書は言っているが、なかなかそれを実感できず、かえって後退している感じさえします。
 
 しかし、森永の創業者である森永太一郎の生涯を観るときに、その紆余曲折している人生にこそ、聖霊が助け導き、時に、信仰から離れてしまっていたとしても、彼の努力や能力ではなく、住んでおられる御霊が内側から語ってくださって、神の方に引き戻してくださる神の憐みを観ます。ここまでして、罪深い私たちを御許に招き、戻そうとされる主の憐みに心から感動を覚えます。
 
 そして「行け、迷える多くの者に証しせよ、我汝を助けん」と諭されて、主が生きたように生き、主が十字架の上で死んだように、死ぬのです。しかし、そのあとに待っているのが、よみがえりのキリストと同じようによみがえるということです。天の父の前に完成された神の子どもとして迎えられ、その目の涙を拭っていただくということです。
 
 私たちの人生もそうです。キリストを信じてここに今置かれているということは、森永太一郎だけでなく、私たちも同じように、キリストのかたちへと変えられていく神の祝福の道を歩む者とされているという事です。それが御霊なる主の働きです。
今週も、この聖霊に助けられて、その御声を聞きつつ、キリストのかたちへと変えられて行こうではありませんか。