日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

◎「大祭司カヤパの前に立つイエス」:マタイ26:57~68 

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1. 不当な裁判とイエス
 まず、初めに「裁判とイエス様」について考えたいと思います。57~59節を
お読みしましょう。
「イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まではいって行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。」
  逮捕されたイエス様は、大祭司カヤパの家に連れて行かれました。この家は、26章4節で「イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した」とされる家と同じ場所です。しかし、この裁判は大祭司の個人的な取調べではなく、一応、正式なものであることが、59節の「祭司長たちと全議会は」という情報で明らかにされています。
 このユダヤ人の議会は下の注を見ると「サンヘドリン」と記されています。
このサンヘドリンは全議員71人で構成される宗教的、政治的な事柄を審問する
ユダヤ人の最高決定機関でした。その構成メンバーは、57節にあるように、祭
司や律法学者、長老たちでした。
  この裁判がどれほど正式なものかはよくわかってはいません。ただ、この出来
事を記したマタイは、この裁判が正規の議会によって行われたが不当な裁判であったことを繰り返し伝えているのがわかります。59節を見ると、「イエスを訴える偽証を求めていた」と書いてあります。ここだけでも、普通ではないことがわかります。
  初めからイエス様を殺したがっている時点で、冷静さを欠いている裁判です。しかも、この裁判が夜に行われたということが問題です。実は、議会は昼間に行わなければならない規定がありました。ですから、こんな真夜中に、しかも大祭司の家と言う、個人宅で行うのが規則違反なのです。さらに、先ほども触れましたが、イエス様を訴える偽証を求めていたとありますから、明らかに十戒の「偽証してはならない」という戒めにも違反しています。
 このように、この裁判自体が本来であれば無効であったわけです。しかし、彼らはそのような問題点に見向きもせずに、ただイエス様を殺すことだけに集中していました。一つの頑固な思いのゆえに、本来気がつかなければならないことも気がつかないのか、故意に無視しているのか分かりませんが、正しい裁判ではなく、不当な裁判になっていたのです。
 60節を見ると、多くの偽証者たちが出て来たと書いてありますが、イエス様を死刑にするための証拠を挙げることはできませんでした。
最後に二人の人が出てきて、こう訴えました。61節。
「この人は『わたしは神の神殿を壊して、それを三日のうちに建て直せる』と
言いました。」
 以前、イエス様が「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でそれを建てよう」と仰せられたことについて、残った最後の偽証者たちが訴えてきたのです。しかし、イエス様が神殿を壊すとは言っていないし、その訴えは言葉の揚げ取りです。結局、並行記事が書かれているマルコの福音書の方を見ると、「この点でも証言は一致しなかった」と書いてあり、彼らの悪巧みは上手くいきませんでした 。
 ここで、この58節のペテロの存在が気になります。前回、イエス様を捕えようとする大祭司のしもべの耳を切り落としたペテロが56節では、他の弟子たちといっしょに逃げたと思いきや、この裁判をこっそり傍聴していました。このペテロの行動は69節以降に繋がる場面です。しかし、あえてマタイはイエス様の裁判に同席していた人物として書き残しているのです。それは、どうしてでしょうか。今までずっと共に旅をしながら教えを受けていたイエス様が、目の前で不利な裁判を受けているのに、ペテロがそこにいた目的は「成り行きを見る」ためだったと書かれています。どういう意味でしょうか。
 私はずっとこの場面は、56節で弟子たちがみな逃げて行ったことの代表としてのペテロ。つまりイエス様を見捨てた弟子として残念な奴だと、かなり上から目線で捉えていました。しかし、これまでのペテロの言動を思い起こしてみると、決して軽はずみにペテロを非難できないと思わされました。なぜなら、イエス様が逮捕されそうになったとき、他でもなくペテロが剣をもってイエス様を守ろうとしたからです。そこで大祭司のしもべの耳を切ってしまいましたが、ペテロはイエス様のお言葉に従って剣を捨てました。
  ですから、この裁判の席にいたのは、周囲を恐れつつも、いのちを捨てても一緒にいたいと思った自分の主がどうなるのか。もしかしたら、いつもの、あの奇蹟で敵を打ち破るかも知れない。そんな複雑な思いでペテロの精一杯の主に対する愛で見守っていたのではないでしょうか。

 

2. 大祭司とイエス
ここで大祭司カヤパが発言します。62節。
「そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。『何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。』」  
大祭司カヤパは、このサンヘドリンの議長であり、この裁判の裁判長でした。
ですから公平に裁判を進めなければなりません。だから、この62節のように、不利な証言に対して言うことはないのかと表向き裁判長らしい質問をします。しかし、イエス様はいっさい口を開きません。イエス様はどんな偽証をされても答えませんでした。
 しかし、あることをきっかけにイエス様は口をお開きになります。それはどういうことでしょうか。63節。
「しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。『私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。』」
 それは、カヤパが大祭司として、生ける神によって命令したからです。いくらカヤパが悪巧み的な裁判をして、不当であるとわかっていても大祭司はユダヤ人にとって最高の権威です。その権威を持つ大祭司が「神の権威によって命じる」ことに対して答えなければ、それ自体が罪となってしまいます。ですから、イエス様はあくまで神様の権威の前にある従順なお姿で、ここで口を開かれたのです。
 イエス様にとってさばくお方は大祭司カヤパではありませんでした。ただ天のお父様に対して誠実に、忠実にその潔白な態度を示されたのです。
  しかし、カヤパは今、大祭司として、生ける神によって命じますと宣言してから、「あなたは神の子キリストなのか。その答えを言いなさい」と問いました。「それで」という言葉が、カヤパの作戦変更を表わしています。それは直球で勝負に出たということです。それは、先ほどの偽りの訴えが不発に終わってしまった今、この憎きナザレのイエスを殺すためには直球勝負しかないからです。「それで」神の権威によって命じたのです。
私は、このときの光景は実は大変恐ろしいことに気がつきました。それは、真の大祭司であるイエス様を差し置いて、神の権威を振りかざすカヤパの姿のことです。大祭司とはもともと出エジプトのときにモーセの兄であるアロンから始まった役職です。その仕事は神様と民の間に立ち、執り成すことです。民の罪を贖うために立てられた礼拝を司る役目です。しかし、その仕事はあくまでやがて本物の大祭司が来られるまでの雛形に過ぎませんでした。本当の大祭司が来るまでの有限的な役目だったのです。ヘブル人への手紙は、大祭司イエス様について多くのことを記しています。その一部をお読みします。
ヘブル7:24~25
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
ですから、カヤパはイエス様の前では、本当は逆にイエス様によって執り成される側の人間です。イエス様によって神様の怒りをなだめていただく立場です。それが、今、神の権威を直接お持ちのイエス様に対して、ある意味、偽者が神の権威によって命じているのです。
  しかも、本物の大祭司であるイエス様よりも、カヤパの方が立派な大祭司の衣装を身につけ、その権威を見せつけています。清潔な亜麻布に青い織物の衣をまとい、その裾は金の鈴や、布でできたザクロでふちどられていて、頭には大祭司を象徴するターバンをかぶっていました。しかし、一方、イエス様は長旅で薄汚れた衣服を着ていたと思われます。このコントラストがこの裁判での一つの山場だと思います。
  大祭司カヤパは神様に召されたからこそ大祭司として神殿に仕え、このサンヘドリンでも議長として裁判長として置かれているはずです。たとえ背後に政治的な力があって悪巧みがあったとしても、イスラエルの大祭司また祭司とは神様の権威によって任命されるものです。神様の召しを意識して初めてその働きが行えると思います。だから、もしカヤパが本当に神様によって立てられている大祭司なら、目の前におられるお方がどんなお方か悟ることができたのではないでしょうか。少なくとも不正な裁判は行えないはずです。
  クリスチャンも聖なる祭司と言われています。また、クリスチャンというようにキリストの御名がつけられて呼ばれる恵みに与っています。このことは、すべてイエス様の十字架の贖いのゆえに与えられた神様の恵みによるものです。
  しかし、気をつけないとその恵みに慣れてしまい、感謝がなくなり、この恵みの立場が当たり前になってしまうことはないでしょうか。教会に加えられている恵みも当たり前。礼拝に毎週来られることも奉仕できることも当たり前になりやすいです。あくまで神様の恵みで成り立っているのに、目に見えることで他の人を見てさばく思いになったり、評価をしてしまう。ある意味、他の人に対して判決をくだしてしまう、そのとき、私たちは、このカヤパと同じだと言えます。そのとき、私たちの前に主がおられることを見失っています。
  あくまで今与えられている立場も、生活も主の恵みです。賜物です。それをいつも感謝していくものでありたいです。

 


 

 

◎「キリスト者が武器を取ることは」マタイの福音書 26章47~56節

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"イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。
エスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。
エスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。
しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。"

 


Ⅰ. 序 論

 私がキリスト者になってから持っていた疑問は、キリスト者が戦争をすることが正しいことなのかということである。それは歴史的に見ても、実に多くの戦争にキリスト教国と言われる国々が関わっ
ていることがわかるからである。また、教会外の方々の声として、宗教があるから戦争があると言うことを聞くことがある 。しかもキリスト教国が中心となって戦争を起こしているという非難である。つまりキリスト者が戦争を起こしているという意味である。人間の歴史は戦争の歴史であり、そこに宗教が必ず関与している。特に聖書の歴史も人と人の争い、戦争を避けて説明することはできない。
  そこで、その最小単位であるキリスト者個人が武器を取ることに注目しようと思った。それは、究極的には、集団を構成する個人として武装するところから戦争が起こるとも言えるからである。
聖書は、キリスト者が武器を取ることを何と見ているのか。聖書はキリスト者が武器を取ることについて、どのような答えを持っているのかという問いをもって、イエスが語られたことばからそのことを調べたいと思わせられた。
  それで、マタイの福音書26章52節に記されている「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」に着目し、そこから浮かび上がるものを調べ、このイエスのことばを書き残して、著者は何を言いたかったのか、イエスご自身は何を伝えようとされたのかを深く調べたいと思い、テーマとして選んだ。 

 

Ⅱ. 研究の前提
 私は聖書66巻すべてが、神の霊感によって記された、誤りのない神のことばであると信じる。またマタイの福音書の著者については、増田は歴史的な伝承として、また内的外的証拠等からマタイが著者であるという可能性を支持し 、エトキンソン も山口も同様にマタイの可能性を支持している 。ゆえに、この前提に立って本論文の執筆を進めるものとする。なお、文中の日本語訳聖書の引用は基本的に新改訳聖書第三版を用いる。

 

Ⅲ. 研究の目的と範囲
 本論文の目的は、マタイの福音書26章52節からキリスト者が武器を取ることについて、その意味を明らかにすることである。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」という言葉は、聖書を見渡しても黙示録を除いて、このマタイの福音書でしか見出せない 。いったい聖書は何と言っているのか。これを語ったイエスの真意は何か、また著者がこのことばを書き残した理由は何か。 
この箇所については、キリスト教会もキリスト者も立場によって見解が大きく異なっており 、意見の対立という現実を見るときに、果たしてこれで良いのかと疑問が湧いてくる。
以上の問いから、本論文を通して、キリスト者が武器を取ることの意味と理由について考えたい。もちろん必要と思われる部分は旧約聖書からも取り上げたいが、新約聖書の光に当てつつ必要最小限度にとどめたい。旧約聖書の聖絶等についても掘り下げるなら、本論文において収めきることができないことが明らかだからである。かえって旧約聖書の成就としてのメシアであるイエスが語られ、イエスが望んでいるキリスト者のあり方について学びたい。ひいては現代を生きる私たちキリスト者が武器を取って戦争すること。戦闘に参加することをどのように考え、どのように行動すべきなのかという問題にも光が当てられ、混沌とした世界にあって、今後の教会の果たすべき役割について少しでも実践に繋がる答えを見出し、このような取り組みを通して私たちキリスト者が日々キリストに似る者とされていくことをより深く味わいたい。

 

 

 

 本 論

Ⅰ.翻訳比較
マタイ26:52のギリシャ語本文と日本語訳・英語訳を比較し、問題の所在を明らかにする。マタイ26:52のギリシャ語本文と、おもな日本語訳聖書と英語訳は巻末資料1の通りである。

 

Ⅰ-1. 翻訳比較の結果
ギリシャ
 UBS 5版とネストレ28版を比較したが、本論文の釈義上問題となるような箇所は見当たらなかった。
 
②日本語訳
各日本語翻訳を比較したが、際立って翻訳上、問題とされるような箇所は見当たらなかった。しかし、「剣」を納める場所について、新共同訳が「さや」と訳出しているが、他の日本語訳では「もとの所」などもともとあったところに戻せと言う意味だけで、それがどこなのかを確定していない。しかし並行箇所ヨハネ18:11を見ると「剣」を納めたのがθήκη(さや)であることが示されているため、新共同訳の翻訳において「さや」と確定したことが推定できる。UBS5版もネストレ28版も「さや」を意味するθήκηは使用していないため、これは新共同訳の意訳であることがわかる。
 また新改訳と新共同訳の「納めなさい」に対して、口語訳は平仮名で「おさめなさい」と訳し、フランシスコ会訳と詳訳聖書では別な漢字の「収めなさい」と訳されている。発音はすべて「おさめなさい」であるが「収納」という言葉があるように剣や刀を「おさめる」場合、基本的に「納」と「収」のどちらでも同じ意味で使用することができるため、この程度の訳の違いによって、意味を大きく変えさせるようなことはないと考えられる。
ゆえに日本語訳においても、釈義上問題となるような箇所は見当たらなかった。

 

③英語訳
 英語訳はNIVだけが主文“Put your sword back in its place,”が先行しているが意味において大きな違いはない。またNIVは「滅びる」(ἀπολοῦνται)に対して「死ぬ」“die”を使用しているが、他の英語訳は「滅びる」“perish”を使用している。
原語ἀπολοῦνται についての考察は文法解析において行うため、英語訳の翻訳比較での分析はここまでとする。

 

Ⅱ. 本文批評
UBS5版とネストレ27版を比較すると、UBS5版はαὐτῆςの後ろに「·」がつくが、ネストレ27版では「,」がついている。しかしネストレ28版ではUBS5版と同様に「·」に変更されている。
以上のことから、本テキストに異本がないと判断する。よってUBS5版をマタイ26:52の本文と確定し、このまま釈義を進めるものとする。

 

Ⅲ.問題の提示
Ⅲ-1. 「剣」μάχαιρα の語彙研究
 聖書本文から「剣」μάχαιρα について考察するにあたり、まず「剣」の聖書的語彙について調べ考えたい。
 新約聖書における「剣」μάχαιρα は、26箇所の節で29回使用されている 。中でも13例は福音書のイエスの逮捕の場面に集中している。それは常に一般的な刃物を意味しており、特に調理器具と言うよりは武器としての意味合いの方が強い 。
新約聖書ではもう一つῥομφαία という「剣」を意味する単語が用いられているがῥομφαία は新約聖書中7回しか使用されておらず、ルカ2:35で一回と黙示録で6回 である。岩隈によればῥομφαία は、トラキヤ人等の用いた幅広く長い大剣のことを言い、一般的にはμάχαιρα と同様に剣であるとする 。ルカにおいては、イエス誕生後、エルサレム神殿にいたシメオンがイエスの母マリアに告げた預言の中で一度使用しているが、イエスの受難について「剣」という言葉で表現している。また黙示録においても、イエスの口から出ている両刃の剣として、抽象的な描写で用いている。
以上のように、ῥομφαία はμάχαιρα に比べて形状が大きく特殊なイメージで語られているが、いずれにしても、本テキストで使用されているμάχαιρα との劇的な差異がないことを認め、μάχαιρα を中心に検証を進める。
さて、μάχαιρα を構成しているμάχη は「争い」を意味する名詞だが、E.Plumacherは、μάχη の動詞形であるμάχοηαι (争う)から派生した語ではないとしている 。しかし、聖書で「剣」は、実際的な戦争における武器として400回以上も言及しているほかに、象徴的な意味で、戦争、争い、苦痛、暴力、武器全般などを表現するために用いられている 。書簡においては、「神のことば」を鋭い剣に喩えている 。
以上の結果から、新約聖書において剣μάχαιρα は一般的な刃物としての意味だけではなく、戦い、争いに使われる道具としての武器、またそれを用いて行われるところの戦いや争いなどの象徴的表現としても用いられていることがわかる。

Ⅲ-2. ペリコーペ分析
 次にペリコーペ分析によって他の福音書と比較し、マタイの文脈で語られている意味を深めていきたい。

 

①マルコ14:43  
 この箇所はマタイ26:47と並行している。ここではイエスを逮捕しに来た群衆が持参していたものとして「剣や棒」が挙げられている。この「剣や棒」という言葉は慣用句のようにマタイ26:55でもイエスによって使用されている 。
 「剣や棒」という言葉は、この場面では集団での暴力的な威圧感を表す道具として、丸腰のイエスとのコントラストを生んでいると推察できる。マタイ26:55のイエスの言葉としての「剣や棒」も、共観福音書記者たちは、口を揃えるように「まるで強盗にでも向かうように」とまったく同じ言葉でその対比を強調していると考えられる 。
 
②ルカ22:36~38
この場面は、本テキストの場面の直前である最後の晩餐後の出来事であるが、イエスは着物を売って剣を用意するように言われ、しかも弟子たちが剣を二振り 用意したことが書かれている。このやり取りだけを見ていると、イエスが剣を用意させており、しかもイエスは彼らの剣の準備に対して「それで十分」と答えられ、武器を準備しておくことの必要をイエスが認めていたということだけではなく、むしろ指示していたように見える。
 それを受けて、弟子が師であるイエスの逮捕に際し、その準備した武器を使用することは一般論的には理に適っていると言える。ところがイエスはその剣を納めるように弟子に命じ、しかも「剣を取る者はみな剣で滅びます」と言って剣を用いること自体を否定することばを告げられたのは、それまでの発言と矛盾しているように見える。
 このことについて宮村は、それは「神の恵みの力による霊的武具 、特に祈りの備え 」であると解釈している 。また、遠藤は、「弟子たちに、剣を抜かせないことを、学ばせるための剣であった」と言い、目の前の問題や危険に対して、剣ではなく祈り以外に方法はないと言う意味で解説している 。また石川も、この一文だけで、イエス武装を奨励し好戦性を示唆すると考えるには無理があるとしている 。

 

ヨハネ18:10~11
 一方ヨハネでは、並行箇所において、この群衆がどういう人たちなのかが明らかにされている。また剣や棒もὅπλων「武器(複数形)」という言葉によってまとめられている。それはすなわち、剣や棒が「武器」であるという説明になっている 。
 共観福音書では、弟子のうちの一人であることは語られていてもヨハネだけが、実際に剣を振るったのが誰であるかを記録して、イエスが逮捕される場面を共観福音書とは違う角度で伝えている。イエスがユダに裏切られ、イエスを捕まえるために多くの群衆が剣や棒を持って集まって来たとき、近づいた大祭司のしもべに向かってシモン・ペテロが剣を抜き、耳を切り落とす。しかも、ペテロが耳を切り落としたことは、このあとペテロの否認の場面でも触れられていることは興味深い 。
 また共観福音書ではペテロが抜いた剣は「もとに納めなさい」とイエスに命じられたと伝えているが、ヨハネでは「さや(θήκη)に収めなさい」という言葉を伝えており、ペテロが剣を鞘に入れて所持していたことが明らかにされている。

 

Ⅲ-2-1. 小結論
 本テキストの並行箇所を見ると、マタイとマルコは、ほぼ同じ内容を記しているのに対し、ルカ、ヨハネは違った角度からこの場面を描いている。特に、ヨハネによれば剣を取った弟子はペテロである ことがわかり、ルカによれば剣で打とうと思ったのはペテロだけではなく、イエスの周りにいた弟子たちもそうであったということがわかり 、またペテロによって耳を切られた大祭司のしもべがイエスによって癒されたことがルカにより明らかにされている 。
 イエスご自身は、弟子たちに剣を用意させた。しかし、それは弟子に武装させ世の権力との戦闘を指示したのではなく、どのような理由であれ、剣を取ることが滅びをもたらすものであることを教育するためであったと推察できる。

 

Ⅲ-3. 文脈の検討
 マタイの福音書26章52節の内容を考察する前に、マタイの福音書の背景を理解し、26章が書かれた意味を知っておく必要がある。そのため、ここではマタイの福音書の緒論的なこととその中での26章の意味を簡潔に整理する。

Ⅲ-3-1. マタイの福音書の目的と特徴
 マタイの福音書の執筆目的について、マタイ全体として伝えようとしている、その内容の特徴を以下の三つにまとめる。

 

(1)イエスが誰であるかを明らかにすることが挙げられる。神の国の訪れを告げ知らせ、病人・身体障害者を癒し、悪霊を追い出し、ガリラヤ各地を巡って、その後エルサレムで逮捕され十字架によって処刑され、三日目によみがえったイエスが、旧約聖書によって示されてきたキリストであり、旧約聖書の成就のために来た方であることを証ししようとしていると読み取ることができる 。このことは、旧約聖書からの引用や数多くの言及からわかる。

 

(2)内田によれば、マタイの福音書はイエスの教えを数多く収め、説教を5つにまとめているということである。それによって、イエスの弟子たちは、すでに来た神の国の現実の中でどのように生きるべきかを学ぶ ということである。

 

(3)律法主義的ユダヤ教の敬虔との対比において説明されている。イエスがもたらすものはユダヤ教の一派ではなく、むしろイスラエルに代わる新しい神の国の建設とその国民を生み出すことである 。

Ⅲ-3-2. アウトライン分析
 マタイの福音書全体からアウトラインを分析する。前述の内田の解説を参考に巻末資料7を考察すると、神の国の到来とマタイの福音書は深く関係しており、イエスダビデ王家の末裔であって、マタイが繰り返し記す「天の御国」(βασιλεία τῶν οὐρανῶν)
の王(メシア=油注がれた者)として表されていると言われていることが明確にされていく。ゆえに神の国の王として来られたイエスのことばと行動に注目し、そのことを念頭に置いて著者マタイが本テキストにおいて何を伝えようとしているのかを「剣」(μάχαιρα)が使用されている以下の5ヵ所から検討する。

 

① マタイ10章(34節)
 マタイがまず最初に「剣」(μάχαιρα)を使用している10:34に注目する。
 34節は、38節の「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言われたイエスに対する献身を促す段落の一部である。イエスはここで剣をもたらすために来たと言っているが、文脈から考察すると「平和」との対句として用いられているため、刃物としての剣を直接的に言っているのではないと考えられる。前後の文脈から鑑みても34節の剣は、イエスに弟子として従おうとするときに起こる軋轢について言っていると推察できる。その軋轢が、ルカが言うように分裂であろうし、戦争、争い、苦痛、暴力という意味での剣であるとも言えるのではないだろうか 。
 フランスは、イエスがもたらす「剣」とは、ここでは軍事的な衝突ではなく35~36節が示しているように、社会の激しい分裂であると言っている 。
 確かに、並行箇所であるルカ12:51によれば剣ではなく「分裂」であると明らかにされている。つまり「平和」に対する「分裂」という意味で婉曲的に「剣」を用いているのである。しかし、ルカがそのように説明しているのに、なぜマタイは「剣」と記録したのか。もし「分裂」という意味で良ければ、ルカと同様に比喩を用いずに「分裂」と記しても良かったはずである。しかし、あえて「剣」としたところに、次に「剣」が使用されている箇所との関係性、連続性に意味を持たせていると考えることができるのではないだろうか 。つまり、弟子たちはイエスに従う歩みの中で起こる「剣」を経験し、自分の十字架を負ってイエスについて行くことができたのか。イエスに従うことでもたらされる剣に対してどうだったのかが問われてくると考えられる。
 以下②の箇所との関連性の分析については、「Ⅴ.マタイ10章と26章の関連性の分析」(p.26)において行う。
 
② マタイ26章(47、51、52、55節)
 マタイが次に「剣」を記録しているのはイエスの逮捕の場面に集中している。10:34の「剣」を念頭に文脈を追ってみると、イエスの存在によって「剣や棒」を持った群衆が押し寄せたことに目が留まる。マタイ26:47~55は、福音書では「ゲツセマネの祈り」から「イエスの裁判」。そして「十字架刑」に繋がる場面である。
 この直前までイエスは、三人の弟子 を連れてゲツセマネの園で祈っておられた。そうこうしているうちにイエスを裏切ったユダが大勢の群衆とともにやって来た。このとき群衆は手に剣や棒を持っていた 。人数は600人ほどであったと言われている 。その威圧的な群衆にイエスの逮捕を命じていたのはサンヘドリンを構成していた祭司長たち、民の長老たちであった 。つまり、彼らが持っていた剣や棒は為政者側の権威の下に所持していたということができる。これらの群衆がイエスを逮捕するための案内役をイスカリオテのユダが務めていた 。
このユダのイエスに対する口づけが打ち合わせどおり合図となり、群衆が来てイエスに手をかけて捕らえた 。ここで弟子の一人が剣を取り大祭司のしもべに切りかかりその耳を切り落とした。そこでイエスは言われる。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」そして、そのあとの言葉 により、この場面で剣を持って反撃するべきではない理由が示される。
エスは、彼らの武器に対抗するだけであれば、神に祈願し、ローマ帝国の大軍にまさる天の御使いを配下に置き、それを撃ち滅ぼす力を持っていることを明言した。しかし、その力をあえて用いない道を選択したのである。その理由の一つとして旧約聖書の預言成就のためであることがイエスの言葉からわかる。それは、イエスは神の計画を実行しなければならなかった。それは、このまま捕えられて十字架に架けられることを意味していると考えられる。ゆえに、ここで剣をもって抵抗し十字架を遠ざけようとすることは避けなければならないということではないだろうか。そういう意味で、ここで剣を振るうことは、聖書の預言の成就に逆らうという意味において相応しくないと考えられる 。そのあと弟子たちはイエスを見捨てて皆逃げてしまった 。

 

Ⅲ-3-3.小結論
 以上のようにマタイの福音書は、過去との関係を旧約聖書との連続性とユダヤ教との非連続性というかたちで明らかにし、同時に将来に向って形成されていく教会という展望を示しており、それが天の御国の到来とメシアであるイエスによって旧約聖書の預言が成就されるという観点から見ると、以下のように区分することができる 。
・1~4章11節:ダビデ王家から生まれたメシア
・4章12~15章20節:御国の到来~招き~真実~世の現実
・15章21節~20章34節:御国への備え~目指すは十字架
・21章1~25章46節:御国の開始~メシア入城~終末の預言
・26章1~28:20節:御国の完成を目指して~イエスの逮捕・裁判・十字架・死・復活・昇天
 マタイの福音書における26章の役割としてわかることは、イエス旧約聖書で預言されていたメシアである数々の証拠の中で、イエスの弟子たちを含めて、当時の多くのユダヤ人たちがそうであったように、ダビデのような地上における政治的、この世的な王とは全く異なった姿のメシアとしてイエスが現わされたということである。つまり、この世の価値基準では到底受け入れられない王の姿である。この視点が本テキストを読み解くときにも必要であると思われる。

 

Ⅲ-4. 問題の提示のまとめ
 以上「Ⅲ-1」~「Ⅲ-3」へと検討を進めてきた結果、問題点が明確になったので以下の三つにまとめた。
(1)イエスがここで剣を取ることをやめさせた他の理由は何か。
(2)イエスの弟子が防衛のために武器を使用することは正当であったのかどうか。
(3)本テキストとマタイ10:34とはどんな関連性があるか。

Ⅳ.  マタイ26:52の文法分析
以上の提示された問題の答えを読み解くために、イエスが語られた26:52の文法的な分析を行う。

 

Ⅳ-1. マタイ26:52の各単語のパースと図解分析
 ギリシャ語本文の単語の意味や構造をわかりやすくするために、パース と図解分析 を行う。マタイ26:52における主文は、ἀπόστρεψον τὴν μάχαιράν σου εἰς τὸν τόπον αὐτῆς·[剣をもとに納めなさい]であり、その理由としてπάντες γὰρ οἱ λαβόντες μάχαιραν ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται.[剣を取る者はみな剣で滅びます]が語られている。その主文と従属文を接続しているのが接続詞γὰρである。

 

Ⅳ-2. マタイ26:52の文法解析
(1) ἀπόστρεψον
最初に、主動詞ἀπόστρεψον について見ていきたい。ἀπόστρεψον(基本形ἀποστρέφω)は、新約聖書において9箇所、その内マタイにおいては2箇所で使用されている。また新改訳聖書において、「断る、もとに納める、惑わす、立ち返らせる、取り払う、離れる、背ける、背を向ける」などと訳出されている 。
 ἀπόστρεψον(第一不定過去命令法二人称単数)は、接頭辞ἀπό
と動詞στρέφω が組み合わされてできている合成動詞である。もと
もと語幹のστρέφω 自体に、「変える、返す、戻す」 という意味
があり、それに前置詞ἀπό が接頭辞として着く事により、基本的
にその前置詞によって意味が修正される。
 Bauerによると、その用例として「return、put back 」が挙
げられているが 、翻訳比較を見ても、「Put~back in its
place」や「Put up again~into his place」など、元の場所に戻すという意味で訳されており、語幹のστρέφω 「戻す」という動詞に前置詞ἀπό の機能が加わっていることがわかる。
 ゆえにイエスの弟子に対するこの命令には、その剣を別途使用する可能性を示唆していたかどうかは不明だが、公に取り出された武器としての剣を、「あったところに」戻す、仕舞う、片付けることに重点を置いていると推察できる。

(2) τὴν μάχαιράν σου
 次に、この文における目的語τὴν μάχαιράν σου の役割について考える。τὴν μάχαιράν σου は、既に語彙研究の中で取り上げた「剣」としてのμάχαιράν に定冠詞τὴν と人称代名詞σου で構成されている。
σου は二人称単数、属格であり、その様々な機能のうちの「所有」である可能性が考えられる。文脈上、剣を取って大祭司のしもべの耳を切り落としてしまった「弟子」を指す人称代名詞である。その剣が、弟子の所有物か否かは別としても、そのとき所持していた物であるということは確かである。主動詞ἀπόστρεψον に対して何を納めるのかが、この目的語τὴν μάχαιράν σου によって明らかにされている。
 
(3) εἰς τὸν τόπον αὐτῆς·
 ここで補語εἰς τὸν τόπον αὐτῆς· について見ていきたい。εἰς τὸν τόπον αὐτῆς は主動詞ἀπόστρεψον に対して、目的語τὴν μάχαιράν σου をどこへ納めるのかを明らかにしている。
前置詞εἰς は、対格を伴って、「~の中に、~の中へ」という意味で用いられ、新約聖書においてἐν に次いで、その頻度は多く、ἐν と同様に空間的次元を表すが無方向の場所・位置関係ではなく、一つの目標に至る一定の方向を指示する 。つまり本テキストにおいて「剣」を納める場所が曖昧なものではなく、納められるべき本来の場所であることを意味していることがわかる。τὸν τόπον(対格、男性、単数)の中にαὐτῆς(属格、女性、単数)が納められるということである。αὐτῆς は「剣」μάχαιράν と性、数、格が一致しているため剣を示す代名詞として用いられている。τὸν τόπον がどういう場所かについては、共観福音書ではすべて「さや」θήκη とは明確にしていないが、前述したとおり並行箇所であるヨハネ18:11によれば「さや」θήκη(対格、女性、単数)であることが推定される。
 
(4)πάντες γὰρ 以降の文
①接続詞 γὰρ
 γὰρ は、続く文章が前文の理由を明らかにしていることを示している。日本語に訳すなら「なぜなら」、「だから」、「というのは」となるが、実際に日本語の聖書本文では、日本語の接続詞に置き換えるというよりは、語尾の中に「~だからである」などと、γὰρ の存在が生かされる訳になっている場合が多い。このγὰρ の存在によって、「剣を納めなさい」とイエスが命令した理由が、剣を取る者は全員滅びる者「だからである」ということを言っていると考えられる。

 

②形容詞 πάντες
 このπάντες を境に、前段の剣を元の場所に納めるべき理由が語られる。形容詞πάντες は、πᾶς の主格、男性、複数形であり、主語οἱ λαβόντες μάχαιραν を形容している。πᾶς の意味としては、「すべての」であり、英語のall、everyと同様に用いられている。単数の名詞とともに用いるのであれば「何れの」という意味にもなるが、本テキストにおいては冠詞、分詞とともに用いられているため「~はすべて」、「~はみな」というように述語的地位に立って訳すことができる 。すると、この「すべて」、「みな」はどの範囲のことを言っているのかを捉える必要がある。主語οἱ λαβόντες μάχαιραν を新改訳のように「剣を取る者は」とすると、剣を取る者を文脈で判断しなければならない。
以上の分析から、πάντες は、47節の「剣や棒を手にした大ぜいの群衆」であり、51節で実際に剣を抜いて大祭司のしもべに撃ってかかった「イエスといっしょにいた者のひとり」であると推察できる。つまり、この場面で剣を持っている者たち全員ということである 。

 

③主語 οἱ λαβόντες μάχαιραν
 主語は、新改訳で「剣を取る者は」と訳しているοἱ λαβόντες μάχαιραν である。動詞λαμβάνω の不定過去分詞能動態であるが、冠詞οἱ を伴う名詞的用法であり、複数形なので、直接には、そこに居合せた剣を持つすべての人について言及していると考えてよいと言える。

 

④述語 ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται.
 主語οἱ λαβόντες μάχαιραν「剣を取るものは(みな)」どうなるのかが説明される。ἀπολοῦνται は、未来形、三人称、複数、中態であり、前置詞ἐν の機能「手段」として、剣を取る者が「剣によって」(ἐν μαχαίρῃ)滅びることを意味している。それは、何者かによって滅ぼされるのか、自分自身で滅びるのかは断定できないが、このἀπολοῦνται は、マタイの福音書では17回使用されており 、最初に出てくるのが2:13で、最後は27:20である。それは何れもイエスを殺害しようとする陰謀であり、27:20では明らかにイエスを十字架につけようとする意味で、「死刑にする」ことへの言及として用いられていることとして注目できる。その他の用例としては、失う、滅びる、救いに漏れるなど、文脈によって用いられ方が異なるが 、先に挙げた2:13と27:20がイエスへの言及であることに対して、それ以外は12:14を除いて人間に対して使われている。12:14はちょうどマタイがἀπολοῦνται を使用している17箇所中9番目にあり、マタイの福音書の構成上イエスについて用いられているἀπολοῦνται の中間地点にあたる。
 マタイが福音書を著すにあたり、福音書の最初、中間、最後という三箇所にἀπολοῦνται を配置したことにどのような意味があるのかは確定できないが、イエスの歩みが、失われた人間、また滅びゆく人間のために、メシアとしてそのἀπολοῦνται (失う、滅び)をご自身で負われる歩みであったこと、または十字架においてἀπολοῦνται (死刑、殺される)を負われたことを考えさせられる。

 

Ⅳ-3. 小結論
(1)イエスが「剣を捨てよ」ではなく「剣をもとに納めなさい」と命じたのは、その剣を別途使用する可能性を示唆しているものではなく、むしろ公に取り出された武器としての剣を目に触れないように、片付ける、仕舞う、その状況から離れさせる意図があったと推察できる。それはつまり剣を用いることをイエスが認めていないと考えられる 。
(2)以上のイエスの命令は、剣を取った弟子だけでなく、また剣と棒を持って集まって来た群衆だけでもなく、その場面に居合わせた剣の持つ権力、能力、威力等に価値を置く人間全員に対して語っているとも考えられる。
(3)その剣を取る者は、みな滅びる(ἀπολοῦνται )ことが警告されている。それは剣に拠り頼む者すべてに対するものであると考えられる。その滅びるべき人間のために、イエスがἀπολοῦνται を負ってくださったことを、マタイのἀπολοῦνται の用い方から考えさせられる。ただし、イエスがこの26:52文脈で、その滅びをイエスご自身が負うことまで言っているとは断定できない。

 

Ⅴ.マタイ10:34と26:52の関連性の分析
(1)剣とイエス
 マタイ10:34で初めて使用された「剣」は、文脈の検討でも既に触れたが、直接的な武器を意味しているというよりは、争いや分裂等の意味があることを確認してきた。
エスは徹底して敵を愛することを表し、平和をつくる者は幸いであること を、まさに神の御子ご自身として、言葉においても行動においても貫徹した歩みをされたが、そのイエスがこの罪の世に来られたことは、必然的に世の罪が御子の光によって明らかにされ、争いや暴力、分裂に満ちている事実が露呈される。ヨハネの言うように、イエスは「ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」ことに分裂が起こる要因があると推察できる 。つまり、イエスを受け入れなかったこの世に分裂や争いの種があるということである。それがイエスの言う「剣をもたらすために来た」という意味ではないだろうか 。  

  確かに本テキストで登場する「剣や棒」は字義通りの武器であることはペリコーペ分析でも触れてきたとおりである。しかし、マタイがあえて剣という言葉を二箇所 に限定していることから、マタイ10章と26章の間には何らかの関連があると推察することができる。

(2)剣と滅び
 10章においては39節でἀπόλλυμι が使用されている 。そこでは「滅び」とは訳出されておらず「失う」という意味で用いられている 。しかし、10:39の「自分のいのちを自分のものとする者」がそれを「失う」ἀπόλλυμι ということと、26:52の「剣を取る者」はみな剣で「滅びます」ἀπόλλυμι との繋がりを考察するとき、「自分のいのちを自分のものとする者」と「剣を取る者」に関係性があると推察できる。
 10:34~39のイエスに従う弟子たちの生き方についてイエスが語られたという文脈では、「自分のいのちを自分のものとする者」とは「自分の十字架を負ってわたし(イエス)について来ない者」であると考えられる。その意味を汲んで26:52に重ねるなら、「剣を取る者」とは、イエスに従うこととは反対の生き方をする者を指すことばであると推察できる。即ちそれは、剣をもし取るならば、イエスを守るのではなく、またイエスのためにいのちを捨てるのでもなく、むしろ「滅びる」ことになるという意味として分析できる。

(3)剣と弟子たち
エスが、十二弟子を任命し彼らに求めたことは、イエスに従うことにおいて起こる「剣」を伴う十字架への道を、その苦難を負って歩むことであった 。ところが、実際に「剣と棒」を持った人々が迫ってきたときに弟子たちが取った行動は「剣」を取って戦うことであったが、イエスによってその剣を納めるよう命じられるや否や、イエスを見捨てて、みな逃げてしまった。
 このことから、イエスが求めていた弟子としての歩みを弟子たちのだれもが実行できなかったと推察できる。

 

Ⅴ-1. 小結論
 10:34の内容から、イエスは剣をもたらすために来られたと言うことができる。その剣には、争いや分裂等という意味が込められているが、それは、イエスご自身が持っているものではなく、この世が持っている性質であると考えることができる。事実、イエスに対して群衆は26章において「剣と棒」を持って捕らえようとした。そういう意味で「剣がもたらされた」と言うことができる。
 それに対してイエスの弟子もこの世の武器である「剣」を抜き防衛しようとしたが、イエスは「剣を取る者はみな剣によって滅びる」と言われた。弟子たちは世の力と同じ方法で戦おうとしたが、それはイエスの心ではなかったのである。
 そこで、10章との繋がりを考慮すると、26章の「剣」が字義通りの剣というだけでなく、分裂や争いなど の内容をも含み、それら一切が罪から起こる結果として象徴的な意味での「剣」でもあるという可能性を示唆していると捉えることができるのではないだろうか。そのように、10章と26章には「剣」、「滅び」という言葉において、関連性があると考えられる。それが著者マタイの視点で配置され、マタイの福音書として、イエスがメシアであり神の国の王として十字架に向うという、一貫した姿勢が描かれている。その十字架こそ神の国建設におけるイエスの王として果たすべき務めだったからである。
 また同時に、10章にある十二使徒におけるイエスに対する従順というテーマが26章に至るまで続いており、10章でイエスが言われた「剣」に象徴される受難に対して、弟子たちが26章でどうなったのかが明らかにされている。結果的に弟子たちは全て逃げてしまい、求められていた使命を果たせなかったため、イエスがお一人で、その「剣」が指し示すところの受難を負われた事実に、イエスのメシアとして来臨の目的である十字架の意味が見えてくる。
 以上のように、マタイの視点は26:52においても、イエスの贖罪を意識した意味を含んでいる可能性があると考えることができる。

 

結 論

 本論文において、キリスト者が武器を取ることについて考察し、提示した問題 についての答えを探ってきたが、結論として以下のようにまとめる。

(1)イエスが弟子に剣を取ることをやめさせた理由
 マタイ26:52における釈義から以下の三つのことを挙げることができる。
①武力は、イエスがメシアとして建設する王国には相容れない方法である。
②武力がなくても神の計画は遂行される。
③武力に訴えるものはむしろ滅びる。
(2)イエスの弟子が防衛のために武器を使用すること  
 本論文の研究範囲において、その正当性が認められないことは、前述の理由から明らかである。
(3)本テキストとマタイ10:34との関連性
 本研究を通して得た以下のことを理由として、その関連性を完全に否定することはできないと考える。
①本テキストの「滅びる」というイエスのことばが、直接イエスの十字架の贖罪性に言及しているかどうかについては、釈義においてそれを断言できるほどの証拠を得ることができなかったが、弟子たちが負い切れなかった「十字架」という「剣」(苦難)と、また剣を取る者たちが受けるべきἀπόλλυμι 「滅び」をイエスが負われたことを示している二重の可能性があること。
②10:34の「剣」を本テキストにおける「剣」に重ねることで、本テキストの意味が単に倫理的な事柄だけを言っているのではなく、マタイのテーマであるメシアなるイエスによる神の国建設にとって不可欠な十字架、復活、教会、終末に焦点が合わせられていくと考えられること。

 

適 用

以上の結論を踏まえ、そこから導き出されたキリスト論的視点、またキリスト教倫理的視点に立って考察し、本論文の適用とする。
 イエスは、ご自身をこの世に投じ「争い、分裂、暴力」としての剣を取る私の身代わりに滅びる者、失われる者となってくださった。キリスト者は、その十字架の犠牲に表された神の愛をまず受け取る必要がある。また、キリスト者は、その愛に押し出されて、御霊の与えるみことばの剣 に日々聞き、日々教えられ、日々砕かれつつ備える者とされていかなければならない。キリスト者にとっての剣とは神のことばであると適用できるのではないだろうか。  
「剣」に示されるこの世の力に頼るのか、それとも神のことばに頼るのかが問われているのではないか。キリスト者はイエスがそうされたように、暴力としての剣ではなく御霊の与える剣である神のことばに立つ平和を選択することが求められていると推察する 。
 ゆえにイエスは、ご自分で報復せずに神に全てのさばきを任せるという姿勢を表した。それは「正しくさばかれる方」である神に任せたからであると弟子ペテロがその手紙の中でも証言している 。
ここから、もし私たちが不当な攻撃を受け死に至ったとしても、すべてのさばきの主権は神にあるということを認めることがまず大切であると考える。
 キリストが求めておられていることは、後に来る完成した神の国を先取りした姿勢であり視点ではないか。現在は、神の国は到来したが広がりつつもいまだ完成したとは言い難い。だから、一時的に、世の権力を認めつつ 、この地に御国が来るように、御心が天で行われるように地でも行われるように祈りながら 、やがて訪れる完成した神の国を見据えた信仰が求められる と考えることができる。

 

 

 

 

 

 

◎黙想:「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」: マタイの福音書 26章36~46節

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"それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
エスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
エスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
エスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」"

  今日のみことばは、ゲツセマネの園での主イエスの祈りである。特に、今日は表題にあるように「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」に注目したいと思う。

  

  私はこのみことばを読んで、主イエスが私にもこのことばを語りかけておられると感じた。

  私は何といつもまどろみ、主がいつも一緒におられるのに喜びも感謝も薄いものか。

  主がこれほどまでに悶え苦しみ、血の滴りのような汗を流すほどに、天の父に訴えかけておられるのに、何と私は希薄なのか。主の御苦しみをどうしてともに味わおうとしないのか。どうして、そのくびきは負いやすいと言われながら避けているのか。

 主とともにいた 弟子たちも、眠ってしまい、主御自身が十字架刑によって父なる神から切り離されることにどのように向き合っておられたのかを聞き逃してしまった。主のその真実な祈りの模範を、我が事として聞けなかった。

 このゲツセマネでの祈りもまた主の祈りである。それは大きな試練の中に置かれた時に、私たちもこのように祈っても良いという模範でもある。

  今日、私たちにもこの上もない大きな試練、苦難、悲しみが覆ってくるかも知れない。でも、そのときこそ、この時の主イエスのように、そのまま飾らず真実な心で天の父に叫んでも良いのではないだろうか。

  格好つけず、ありのまま心をさらけ出し、裸になって父に訴えても良いのではないだろうか。

  その祈りがそのまま聞かれなくても、その素直な祈りが私たちを真実な神の業に用いられる。素直にそのままの心を訴えるとか何が起こるのか。それは、苦しみの中で混乱し、緊張していたその心が不思議と整えられて、与えられた使命に立っていくことができるようにされるのである。

  主は祈りの後どうであったか。

『立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。』」

  弟子たちに「立ちなさい」と言われた主は、ご自分がまず立ち上がって敵の手に捕らえられることをよしとされたのである。その裏切る者によって売られて、悪意に満ちた大祭司の審問にかけられ、拷問を受け、そのリンチの中にあっても、ただひたすらに神の子羊として、その手に落ちる道をあえて選ばれた。

  その主の御心を私たちはどのように捉えているだろうか。

  今日、私たちも立ち上がりたい。主の仰られた「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」という言葉に従いたい。主の道を歩みたい。主よ、あなただけが私の主、私の神であると明確に告白したい。

  十字架の道を、自分の負うべき十字架を負いながら、ひたすら歩き全うするものでありたい。

  

◎ 「テラの一生」 :創世記11章27~32節

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序論
  アブラハムは、キリスト教だけでなく、ユダヤ教イスラム教においても重要な存在です。それは、いずれも旧約聖書を使っているからです。日本人にはあまり知られていないと思います。私も教会に通うようになるまで知りませんでした。でも世界規模で見ると超有名人です。
  この創世記を書いた人は、アブラハムという人を意識して創世記を書いたと思われます。前回までの「セムの歴史」も、どんどんアブラハムに近づいている感がありました。それはアブラハムを指差していたからです。そして、先週まで読んでいたマタイの福音書も、イエス・キリスト系図の最初にアブラハムの名前を記しています。それは、イエス・キリストは、誰もが知っている、あのアブラハムの子孫だということです。
  今日から、そのアブラハムの生涯を通してみことばに聞いていきたいと思います。その突破締めが「テラの歴史」です。それで、今日のメッセージとしては、まず①アブラハムの父テラという人について考えたいと思います。そして、次にその②テラ一家に起こる不幸について。最後に、その③不幸から祝福の道へということを、ともにみことばに聞いてまいりましょう。

 

1.アブラムの父テラ
 アブラハムという名前は、あとで神様によってつけられた名前です。このときはまだアブラムという名前でした。アブラムという名前は「父は高い(高貴だ)」、とか「父は愛する」または「彼は父を愛する」という意味で、聖書を見てもアブラハムのもともとの名前として出てくるだけです。この名前を見るだけでの解釈ですが、お父さんのテラという人はアブラムをこよなく愛していたと言えるかも知れません。または、私たち新約の信仰者から見ると、天の父から愛されていた人であったと見ることもできます。なぜならば、アブラハムの選びというものは、新約の私たちクリスチャンの選びと繋がっているからです。
 それは救いは行いではなく恵みだということです。それはノアの箱舟のノアもそうでした。彼は主の目にかなっていたと聖書に書いてありましたが、それは主の顔の前に恵みを受けたという意味です。あくまで救いの主権は神様にあり、その選びの基準が私たちの行いではないということです。
 アブラムもそうでした。アブラムが選ばれたその理由が決して行いではないということを、このアブラムの父テラとその家族を通して知ることができます。
 テラという人は、メソポタミヤにあるウルという町に住んでいました。当時の町というのは、都市国家のかたちをとっていて、町そのものが一つの国のような時代です。しかし、その地域一帯の信仰状態は、唯一の神である主ではなく、多くは月を神とする多神教を信仰していたことが、考古学的な調査でわかっています。
 最近の科学では、多神教から一神教が生まれたと言われています。しかし、それは進化論的な考え方、合理主義の影響を受けた考え方です。でも聖書はその逆です。もともと唯一の神である主がおられて、その主に造られた人間が罪を犯した結果、神でないものを神とするようになったと聖書は言います。しかも、人間は自分の欲望を制御できなくなりましたので、その欲望の数だけ偶像をつくるようになったのです。ノアの箱舟以降、神様はセム一族を祝福して、その歩みを導いていたはずですが、やはり罪人からは罪人しか生まれません。
 このテラ一家が住んでいたウルという町も例外ではなく、すでに偶像崇拝が当たり前の地域となっていました。
では、テラ一家自体はどうだったのでしょうか。あのアブラハムを生み出した家族なのだから、さぞや立派な信仰者の家に育ったに違いない。そういう理解があると思います。蛙の子は蛙と言います。よくも悪くも、その親に似て子は育つものです。だからアブラハムの父テラも立派な信仰者だったと思いたいです。
 しかし、どうでしょう。聖書は正直です。あの信仰の父と呼ばれたアブラハムの家族なのだから、良いことばかり書いてあると思いきや、そうではないのです。このテラの信仰については、同じ旧約聖書ヨシュア記というところで、神様のことばとしての証言があります。
ヨシュア記24:2「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムとナホルとの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。』」
 アブラハムの父テラは、ほかの神々に仕えていたと言われています。そうです。テラ一家は、その当時の他の家と同じように、唯一の神である主ではなく、「ほかの神々に仕えていた」のです。ここに「神々」と書いてあるからと言って、他に神々がいるわけではありません。言葉を補うなら、複数の神でないものを神として拝んでいたということです。
 このあたりは、日本人の私たちに似ているなと思います。皆さんの家はどうでしょうか。昔から先祖代々クリスチャンファミリーという方はいらっしゃるでしょうか。
 私の家は、もともとは浄土真宗です。祖父は南無阿弥陀仏のお経を読むことを得意としていたほど、親鸞聖人が大好きでした。親戚の家にいくと、一応親鸞聖人の御親筆と言われる古い書があるくらい親鸞が好きです。
 そのような家の中でクリスチャンが生まれるのは確立何パーセントでしょう。それは奇蹟に近いです。それは皆さん自身も同じではないかと思います。この日本と言う、まさに様々なものを神として拝むことがスタンダードな宗教意識の中からクリスチャンが起こることは、石ころからアブラハムの子孫を生み出すのと同じくらい、人間には不可能なことです。
 テラも信仰の父アブラハムの父親だからと言って、主を信じる特別立派な信仰者ではなかった。むしろ偶像崇拝者だったのです。

 

2. 不幸の連続の中で
 このように、アブラムの家庭には信仰的な問題がありました。それで、ここからは、さらにどんな問題が、このテラ一家にあったのかをみていきましょう。
 テラにはアブラム以外にもナホルとハランという兄弟がいました。彼らはテラが70歳のときに生まれたと26節に書いてあります。アブラム、ナホル、ハランと書いてあるので、アブラムが長男だと思うのは要注意です。メッセージの冒頭でもお話したように、この創世記が指差すものはアブラハムです。だから、アブラムが筆頭なのはそのためです。また彼らは三つ子ではありません。テラが70歳のときに、いっぺんに全員が生まれたのではないのです。だから誰が長男か次男かなどはわかりません。
 いずれにしてもテラにとってこの三兄弟は矢筒の中の三本の矢と同じです。当時の男性優位の世界にあって、テラ一家の展望は明るかったのではないでしょうか。しかし、この三兄弟の中で問題が起こります。
28節。「ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。」
 テラ一家に悲劇が起こりました。三人の兄弟のうちハランが死んだのです。それが病気なのか事故なのかはわかりません。どちらにしても、家族が死ぬ、特に親にとっては子どもが先に死ぬことはあってほしくないことのナンバーワンです。また、アブラムやナホルにとっても、兄弟が死ぬことは何ともいえない悲しみです。
   私にも兄弟がいます。下に弟がいます。以前は上に姉がいました。以前、皆さんにもお話した記憶がありますが、私の姉は、28年前に死にました。当時27歳の姉は二人の小さな子どもを残して逝ってしまいました。
 自殺でした。理由はわかりませんが、あるとき急に倒れて、当時暮らしていた岐阜県内の病院に入院したのですが、その病院の屋上から飛び降りたのでした。即死ではありませんでしたが、しばらくの昏睡状態のあと息を引き取ったのです。そのとき、私も弟として悲しかったのですが、やはり母がもっとかわいそうでした。姉が倒れたという知らせを聞いて、すぐに飛行機に乗って様子を見に行こうとしていた矢先に、飛び降りたという知らせを受け、その後間もなく死亡の知らせが来たのです。姉の様子を見に行こうとしていたその母の足が、間に合わず、葬儀に向かう足になってしまった。その母のことを思うと実に悲しいです。
 テラもそうだったと思います。聖書は淡々と記していますが、このみことばの背景にはテラの悲しみ、そして家族の悲しみがあったことを察することができます。
 そのハランには息子のロトがいました。また娘のミルカとイスカがいました。
29節。「アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。」
 アブラムはサライという女性と結婚しました。彼女は、ここには書いていませんがテラにいたもう一人の妻の娘でした。つまりアブラムにとっては異母兄妹です。ミルカは父ハランの兄弟であるナホルと結婚しました。イスカのことはわかりません。
 そのような、悲しみを経験したテラ一家でしたが、問題はそれだけではありませんでした。
30節。「サライ不妊の女で、子どもがなかった。」
 記されているテラ一家にとってのもう一つの問題は、残された息子の一人であるアブラムの妻が不妊だったということです。女性が子どもを生めないということは、当時の世界では価値がないと見なされていました。この思想を聖書が推奨しているわけではありません。むしろ女性を神様が憐れむからこそ、このサライの存在がクローズアップされていると言っても良いと思います。しかし、偶像崇拝者の彼らにとって、女性を尊ぶという思想はまだなかったと思われます。現代でも、女性は子どもを生まないと価値がないような発言を平気でする政治家がいます。科学や文明が進んでいるとは言っても、人間の罪深さはこのアブラハムの時代から4000年間変わっていません。
 テラ一家も当時の価値基準の中で、そのレッテルを張られ、その価値基準で悲しみを味わったと思います。これはテラとしてはさらに一家断絶の危機感が益々この家族を覆ったことになります。ナホルがハランの娘ミルカと結婚したのは、何とかテラ一家としていのちの絆が続くことを願ってのことだったかも知れません。しかしサライ不妊の女性だったことは、後継ぎの希望の灯火がハランに続いてまた一つ消えていった。そう言えるのではないでしょうか。きっと、晴れている日でも曇りに思うような精神状態。そのとき信仰している神々にいくら拝んでも心が晴れない。そんな状態がテラの家に続いていたことでしょう。

 

3.  不幸から祝福の道へ
 ここで、テラ一家に転機が訪れます。
31節「 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。」
 テラ一家は、アブラムとその妻サライ、そしてロトを連れて引っ越すことにしました。どうして、急に引っ越すことにしたのでしょうか。しかも、ウルという町の周辺ではなく、遠くカナンを目指して旅立つというのは、どうしてなのでしょう。
 このテラ一家が旅立つことについては、新約聖書で解説があるので見てみましょう。
使徒7:2~4 そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け。』と言われました。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、ハランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが・・・」
 ステパノの解説によれば、栄光の神が現われたと言われています。しかも、テラにではなくアブラハムに現われたのです。ですから、アブラムがいつから真の神を信じていたのかはわかりませんが、アブラムと神様の接点の一番最初は、偶像の町ウルにおいてであるということになります。 
 唯一の神である主が特別にアブラムに現われて、おそらくそのことをテラに告げた。テラは不幸の中にあって、息子アブラムに現われた主というお方に一途の希望を持ち、その息子を通して聞いた神の約束を信じて、旅立つことを決意したのではないでしょうか。
 ただ目的地がカナンだということはまだ示されていませんでした。31節にある「カナンの地に行くために」とは、おそらく創世記の記者がこれを書くときには、既にイスラエルが、カナンの地を約束の地と示されていた背景で書いていたので、あえて最終的なゴールまで記したのでしょう。だから、やはり彼らにはどこへ行くのかを決めていない状況で出発したと思われます。
 いずれにしても、このときテラ家族が落ち着いた場所はカナンではなく、ハランという町でした。
 そのハランでテラは死にました。享年205歳でした。それまでの先祖たちに比べると早死にです。でも、私たちからするとかなり長寿です。この死を見て、またテラの一生を振り返って、彼の一生はいったいどんな一生だったのでしょう。不幸な人生だったでしょうか。それとも幸せな人生だったでしょうか。
 私は、今回、この箇所からみことばを何度も読んで備えている中で、やはりテラは幸せな人生だったのではないかと思うのです。確かに、息子が死んで悲しい思いをしました。また、アブラムの妻サライ不妊の女で、後継ぎができないというがっかり感もあったかも知れません。しかし、息子アブラムに主が現われてくださり、その言葉を信じて思いきって旅立つことを選んだ。そこに、彼の幸せへの第一歩があったと思うのです。信仰というにはまだ幼い、初心者、求道者のような荒削りの信仰だったかも知れません。しかし、不幸に覆われていた思いから、一歩前へ進むために、神のことばに聞こうとした。ここに、真の幸せが待っている。いや、そこから始まったのです。

 

結論
 私も今、幸せです。何が幸せなのか。それは、日本的な仏教や神道の常識の中で生まれ育ちながら、今、こうやってイエス様を信じることができて、その救いの中を歩ませていただいているからです。私の歴史にイエス・キリストが入ってくださった。私の人生がキリストによって、キリストの歴史に組み込まれた。でもそれが今の私の歴史、私の人生になったのです。そして、日々神のことばに聞き、そのみことばから明日への一歩を踏み出すチャレンジが与えられる。
 確かに苦労はあり、悲しみを経験することもあります。しかし、今、キリストを信じ、このお方を愛する人生は本当に幸せです。
  テラの歴史。本当は「アブラハムの歴史」と言ってよいはずなのに、主はあえて聖書に「テラの歴史」と記録しました。テラにとって、これは非常に光栄なことではないでしょうか。
 聖書でテラは無名の人かも知れません。しかし、主はアブラハムを通して、みことばを与え、みことばを信じて一歩踏み出すテラを祝福し、その子孫からイスラエル民族を生まれさせ、救い主を世に与える一族として用いられたのです。
 あなたも、この日本と言う国で救われたこと、またこのように教会に来て礼拝していることは、このテラと同じ祝福の道にあるということです。では、ここから次に何をすべきか。それは、主のことばを信じて一歩踏み出すということです。その一歩を主が必ず祝福してくださるからです。その祝福はあなたの一生だけで終わりません。あなたの家族にも、そしてあなたの友達にも広がっていくからです。


祈り

  神様。私たちが今こうしてあなたのものとされていることは奇蹟です。狭い門から入りなさいとイエス様は言われましたが、そこから入る者がまれであるはずなのに、そのまれな中に私たちを入れてくださって感謝します。どうかテラがアブラムを通してあなたのことばを信じて新しい生き方へ踏み出したように、私たちもあなたのことばを信じて、あなたに日々従う道を進むことができるように導いてください。残念、不幸と思われる中にあなたの祝福を味わうものとならせてください。どうか、主を信じる第一歩を与えてください。その一歩から家族、隣人にも祝福が及ぶ主の道を歩ませてください。

●今日のみことば: マタイの福音書 25章14~30節

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"天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。
それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。
だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。
この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』"

  天の御国とは、神の王国とか神の支配と同義です。神様のご支配、御心が完全に現されること。またその場所も含みます。

  イエス様は、その天の御国をある人になぞらえて譬え話をされました。それは神様ご自身を表しているとも言えます。

  

  今日、登場した三人のしもべは、神様からチャンスを与えられた私たちの姿を表しています。

  それぞれ、タラントの額が違いますが、これは神様からの私たちそれぞれへの賜物ですから、文句を言うことはできません。それは、陶器が自分を造った陶器師に文句を言うのと同じです。造られた陶器をどうするかは陶器師次第です。そこに神様の主権を見ることができます。

"人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。"
ローマ人への手紙 9章20節


  私たちもそれぞれ神様からの与えられた個性という賜物、能力という賜物があります。それぞれに神様の深い配慮の中で与えられていますから、感謝して用いる。そして、しもべたちが主人に喜ばれるために用いたように、私たちも神様に喜ばれるように用いるのです。

  しかし、この三人のしもべのうち一人だけ外に出された者がいました。彼は、地の中に隠していたと答えて、主人のさばきを受けたのでした。

  なぜ、3番目のしもべだけ、こんなにも酷い仕打ちを受けているのでしょか。タラントを捨てたわけではないのですから、それなりに評価をしてあげても良かったのではないでしょうか。

  やはり、主人は冷たい人だったのでしょうか。

 いいえ。これは、タラントをどうするかを考える以前の、主人に対する思い。主人への愛があるかどうかが計られたのです。

  先の二人と、三人目のしもべと明らかに違う点は何でしょう。それは、帰って来た主人の言葉に対する彼らの応答に現れています。

 一人目も二人目も答えは同じでした。

 

「ご主人様。私に〇〇タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。ほかに〇〇もうけました」

 日頃から主人のしもべたちへの愛を知っていた二人は、普段受けている主人の愛に応えてこのタラントを用いたことが、この言葉から察することができます。彼らは普段も主人からの愛を感じて過ごしていたのです。だから、出かけると言って預けられたタラントに対して、「預けてくださいました」とへりくだって答えたのです。

 ところが、三人目のしもべは、このタラントを地に埋める以前から、主人の愛を知らず誤解し、かえって悪意をもって誤った判断をしてしまいました。

 これは、主人に対して全く愛のかけらもない、たんに怖い方というレッテルを貼って、自分の態度こそ正しいと思っていたでしょう。

  その普段からの感謝のない生き方、愛を受け留められない生き方が、主人にとって外に追い出すに価するものだったのです。

  私たちも、普段からの神様への愛が問われています。その普段どのように神様を愛して、その御心を悟りその愛に応えようとしているか。その神への愛の大切さを主イエスは教えているのです。

  たんなる宗教活動なら形だけで良いでしょう。しかし、私たちの天の父を愛することは宗教ではありません。私たちが神様から造られたものとしての信仰による恵みであり賜物なのです。その、神からの愛をどのように用いるのか。それが今日の箇所から学ぶことではないでしょうか。

 

  神はあなたに主の愛というタラントをくださいました。その愛を地に隠すか、それとも、受けた愛を隣人のために用いるかは、あなたの選択にかかっています。どうか、御子をさえ惜しまずに死に渡された神様の愛を、そのまま受け取って、しかし、隠さずにどんどん、この世のまだ神を知らない人たちに表していこうではありませんか。

  "私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。"
ヨハネの手紙 第一 4章16節

 

"私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。"
ヨハネの手紙 第一 4章19~21節

 

  

  

●今日のみことば: マタイの福音書 24章35~39節

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"天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。"

  旧約聖書の時代、イスラエルの王であるメシア(油注がれた者=キリスト)が来られ、イスラエルを救い世界を支配するという預言が度々ありました。

  その預言はイスラエルにとって希望であり、信仰の中心的テーマとなっていきました。

  イエス様は、まさにそのメシアとしてこの地上に来られ、この地に救いをもたらすためにユダヤベツレヘムでお生まれになり、ガリラヤのナザレで育ち、エジプトで総理大臣となったヨセフ、またはイスラエル王国で王国となったダビデのように、30歳で宣教を開始されたのでした。

  イエス様を信じる弟子たちをはじめ、多くのユダヤ人がぞろぞろ付いて来ていたのは、病の癒しのため、教えを聞くためであると同時に、あのダビデ王のように、イスラエルを圧政から救い出してくれることを期待していたからだったのです。

  つまり、イエス様が一度の来臨の中で、しかも政治的な王として強い軍事力によって、直ぐに事が動くものと期待していたのです。

  ところが、イエス様が仰せられたのは、この地上に終わりが来て、それから人の子つまりメシアであるご自分がもう一度来られるということでした。

  その世の終わりが必ず来る。この地上は必ず滅びる。だから、私たちにどうしなさいと言われているのでしょうか。それは、滅びることのないわたし(イエス)のことばを信じるということです。

  この世は滅びるのにこの世のものに執着してはいけません。それはいずれなくなるものですから。そうなる前に大切なことは、なくならないものを見出し、なくならないことのために早めに働くことなのです。

  "なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」
エスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」"
ヨハネ福音書 6章27~29節

  その永遠になくならないものこそ、主のみことばであるし、主ご自身であるということなのです。

  主は一度来られましたが、それは、罪人を悔い改めさせて、その赦しのために流された十字架の血潮によって救い、神を愛し隣人を愛する者に造り変え、獲得するためでした。

  だから、イエス様のことをダビデ王のようにと期待していた人々にとっては、イエス様は期待外れでした。

  しかし、それが神様の救いのプランだったのです。だからこそ、もう一度来られるのです。それがあのノアの箱船の時のように、突然、みんなが主のことばを忘れて、この世のことに執着している時、つまり「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」しているときに来るのです。

  私たちは、主の憐れみによって、主のみことばである聖書を通して、既にノアのときがどうであったのかが知らされています。それは、主の時まで、どのようにこの世を歩んだら良いのかがわかるということです。

  今日、私たちはあらためて、主がもう一度来られることをみことばを通して学びました。主の再臨のときは、いつかは誰も知りません。しかし、だからこそ、この天地、この世の価値観のように滅び去ってしまうものではなく、永遠に滅びることのない、私たちが命を賭して信じても良い価値ある主のみことばに聴いていきたいと思うのです。

  それは、その延長線上に主の再臨があるからです。大切なことは、いつも霊の目を開いて、「目を覚まして」私たちのためにいのちを捨ててくださり、もう一度、迎えに来てくださる主を愛するということ。その慕わしいことばに聴いていくことではないでしょうか。

 

"ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。"マタイの福音書 24章42節

  

●今日のみことば: マタイの福音書 24章21節

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"そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。"
  

   聖書では終末について多く語られています。その中で「大患難時代」という時代が来ると言われています。

  今日のみことばも、イエス様ご自身が語られた終末に起こる出来事です。それは、今まで誰も経験しなかったような「大きな苦難」のことです。世の初めから、今後も起こらないような大きな苦難とは、やはり大患難時代と言っても良いと思います。

  人間の歴史を紐解くと、その時代にもし私が置かれたならば、きっと大患難時代だと思えるようなことが多々起こっています。

  特にキリスト教会が誕生した1世紀頃から見ると、まずローマ帝国による迫害は、大患難であったと言えるのではないでしょうか。恐らく、当時のクリスチャンたちは、その患難を経験して、すぐにキリストが再臨されると期待したはずです。

  しかし、ローマ帝国による迫害の時代そのものが大患難時代ではありませんでした。その後は、キリスト教ローマ帝国の国教になると、教会の中に腐敗がはじまります。保護されて、国家と教会が一つのものとされたとき、教会はおごり高ぶり、謙遜さを失い、強い軍隊を持つ、キリストとは似ても似つかないおぞましい集団へと変貌しました。

  聖書を人々に与えず、教皇の権威を強調して、聖書には記されていない多くの伝承が教義に取り入れられ、どんどん誤った方向に進んでいきました。

  中世ヨーロッパにおけるキリスト教会は、そういう意味で患難時代であったと言えるのではないでしょうか。

  しかし、それもまた、それ自体が終末における大患難時代であったとは言えないでしょう。

  結局、あとで振り返ってみない限り、それがイエス様の言われる「世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難」

だとは判断できないのではないかと思われます。

  それは、その都度のしかかる患難の中にいて、その時がもっとも辛い出来事だと、きっと思うからです。だから、誰も大患難時代があったとしても、また、そうでなかったとしても、それが終末に起こるはずの大患難時代とは判断できないのです。

  しかし、そういうときに更に偽キリストが現れて、ますます混乱させると言われています。

"そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。
偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。"マタイの福音書 24章23~24節

  現在でも自分こそキリストだと言って新しい宗教ができています。もしかしたら、もう既に大患難時代が来ているのかと錯覚するくらい増えています。

  しかし、まだ全世界に福音が行き届いていないと思いますので、世の終わりはまだだとも言えます。

"御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。"
マタイの福音書 24章14節
 では、まだイエス様が再臨されないと言い切れるのか。ここが、終末を考えるときに注意しなければならないことです。つまり、主の再臨は誰も知らないし、知ることができないので、軽はずみに高をくくって、主はまだ来ないとか、世の終わりではないと判断することも間違いだと言うことです。

  なぜなら、その時は本当にだれも知らされていないからです。

  "ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。"
マタイの福音書 24章36~37節

  

  明日あらためて主の再臨について聴きたいと思いますが、確かに主は雷のように一瞬に誰にでもわかるかたちで来る。それだけは言えることです。

  "人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。"
マタイの福音書 24章27節

  その主を愛して待つことができるのなら、主は豊かに聖霊を注いでくださり、どんな患難をも乗り越えられると信じます。私たちの精神力や気力が強ければ耐えられるというものではありません。

  そのような大患難時代でも、そこを乗り越えていけるのは、ただ主の憐れみとご支配があるからこそではないでしょうか。

  そうであるなら、尚更、いつが大患難時代かということを考えるよりも、益々、私たちを愛していのちを捨てられた主を愛し続けられるように、祈り求めていくことが大切なことではないでしょうか。

  どうか今日も、インマヌエルの主があなたとともにいることを感謝し、味わい、その主を愛する歩みを進めていこうではありませんか。

  

"神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。
私たちが苦しみにあうとすれば、それはあなたがたの慰めと救いのためです。私たちが慰めを受けるとすれば、それもあなたがたの慰めのためです。その慰めは、私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、あなたがたに与えてくれます。"
コリント人への手紙 第二 1章4~6節