のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

主の聖徒の死

"主の聖徒たちの死は主の目に尊い。"
詩篇 116篇15節

今朝方(14日)、私の前任教会である日本メノナイト白石キリスト教会のT兄が天に召されました。

 

私のよき理解者であり、信徒説教者としても用いられた主の器でした、

 

随分以前から肝硬変をわずらい、近年はそこに癌も見つかり、余命いくばくという感じではありました。

 

私も白石教会をいきなり辞任し、T兄には大変申し訳なかったと、心から思っています。私が仕えた6年弱の間、私はいつもT兄に相談し、T兄から色々なことを教わっていました。

 

2020年に採択された白石教会の信仰告白は、T兄の念願でした。それをご一緒できたことは、私にとって何よりの形見です。

 

86年間のご苦労も、今、天の御国に凱旋されて、痛みもなく、嬉しいときを過ごされていることと思います。

 

明日15日10時から一般会葬とのことなので、急遽まいりたいと思います。

 

聖徒たちの死は主の目に尊い。それはその他の聖徒たちの目にも尊いです。もはや、悲しくはありません。ただ寂しさはあります。

 

T兄のご家族の上に主からの豊かな慰めがありますように、お祈りいたします。

もし罪が…

"もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。"
ヨハネの手紙 第一 1章6~10節

 使徒ヨハネば、この第一の手紙の冒頭で、この手紙を書いた目的とその内容を端的に述べています。

 

"これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。"
ヨハネの手紙 第一 1章4~5節

 目的は、この手紙の書き手であるヨハネと受け取り手の人々の「喜びが満ち溢れるため」であり、その内容を、神には闇がなく、光そのものであるということです。

 その神の光としてのご性質、存在を知ることにより、既に救われた私たちクリスチャンが喜びを取り戻し、しかも溢れるほどその喜びに満たされるということです。

 ヨハネがこのような手紙を書いた背景には、当時のクリスチャンたちが、恐らく当時に起こっていた迫害により、救いの喜びを見失い、迫り来る恐ろしい迫害の魔の手に翻弄されていたからに他ならないでしょう。

 

 そのような上記の中で、今日のみことばも書かれていると思う時、「もし○○」という構文に、私たちの喜びを失わせている中心的テーマと、そこから脱却するための信仰と行動が見えてきます。

 もし私たちが自分の罪の問題を考えずにいるならば、それは神との関係を壊すことになる。そこに神の光はなく、そこに神の赦しもない。

 なぜなら、私たちが救われるために神の御子が尊い血を流されたからです。そして、今もなお救われていても、私たちは古い人を持ちつつ、新しい人であるキリストを着せていただいているゆえに、神の前に罪を認め告白していくことで、これから犯す罪も赦されるのです。

 

 ですから、私たちがいただいているきよさとは、御子の贖いの血によるものであり、聖霊の内住によるものです。私たち自身から出たものではないのです。あくまで主からいただいいるゆえのきよさなのです、そして、これから栄光から栄光へと変えられていくことを望みつつ過ごすのです。

 

 あなたは、神様との和解は済んでいるでしょうか。神様に罪をきちんと告白しているでしょうか.私たちが自分の罪をきちんと認め、それを告白するならば、既に私たちのために十字架にかかり死なれたイエス様の血潮により、許され、それだけで神様との関係は修復されます。しかし、思い上がって自分には罪がないと言ったり、罪を犯したことがないというならば。私たちのうちに真理はなく、神様を嘘つき呼ばわりすることだとヨハネは言います。

 

 そうであってはいけません。私たちは救われましたが、今もなお古い人が残っていて、その病魔は救われた後にもその影響を私たちに与えます。しかし、それで終わってはならないのです。どんな罪も、昨日も一昨日も犯してしまった罪も、恥ずかしがらず、諦めず、きちんと告白しましょう。そして、そこでいただく許しの恵みにの高さ、長さ、深さを覚えましょう。

 その恵みに生きる時、私たちは新しく生まれた者としての歩みが始まります。主の祈りでも、私たちの負い目をお赦しくださいと祈るのは、罪の問題は日々祈るべき課題だからです。しかし、その罪の問題を放っておかず、向き合って神に告白すれば、それで愛する神様と子どもとされたあなたの関係は揺るがなくなっていくでしょう。

 

 どうか、その恵みを忘れずに、日々告白しましょう。それゆえに日々、悔い改めましょう。そこに、神様の私たちに対する愛が鮮明にされるからです。

 

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節


キリスト教会史 第三回目講義

1. エルサレム教会の成立
 イエスを審問したポンテオ・ピラト(Pilatos,Pontios)は、ローマ帝国から任命された第5代の総督で、その任期は紀元26年から紀元36年まであったので、イエスゴルゴタの丘で十字架刑にかかられたのは、その期間中であったという歴史的史実として認められる。しかし、正確な年代を決定することはできない。

 十字架からおろされたイエスの亡骸は、ゴルゴタの丘に近い墓に葬られた。それはサンヘドリンの議員で金持ちであったアリマタヤのヨセフという弟子の所有する墓であり、まだ誰も葬ったことのない新しい墓であった。

 

 すべてが終わったと思った弟子たちは故郷のガリラヤ地方に帰った者もあったし、エルサレムの町の隅で悲しみに包まれていた者もあった。

 ところが、ここに奇蹟が起こった。福音書は、イエスが復活して弟子たちに現れたことを証言している。エマオへの道で、エルサレムの町で、更にはガリラヤで、復活のイエスに会ったのである。悲しみは喜びに変わり、失望に打ちひしがれていた弟子たちの心は希望に燃えた。このイエスの復活こそ、これからのキリスト教会の歴史でその原動力となった中心的な史実であり教理である。

 パウロは復活についてこう述べている。

 

「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」コリント第一15:44

 

 弟子たちが見たイエスのからだは、御霊に属するからだであり、壁をすり抜けることもできれば、魚を食べることもできた。

 

「そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。」ルカ24:42,43

 

 それは幽霊のようなものではない、新しいからだを持ったイエスを弟子たちは見て、ほんとうに、イエスを神の子キリストと信ずることができたのである。

 このイエスの復活という出来事を通して、弟子たちは新しい信仰に燃えてエルサレムに集まって来た。その後の弟子たちの活動については使徒12章に詳しく記録されている。弟子たちは、はじめから新しい教団を起こす意図はなく、ただユダヤ教徒の一員として忠実にユダヤの律法を守り、エルサレム神殿で礼拝し、ユダヤの習慣にしたがって敬虔な生活を送っていたので迫害もなく平穏な日々を過ごすことができた。

 

 しかし、そこには全く新しいものがあった。それは、復活のイエスにおいて旧約のメシア預言が成就したという信仰とその信仰に生きる者のみが、来たらんとする終末の日に神の国の栄光を受けるという喜びの自覚であった。イエスは、単に弟子たちの信仰を建て直し、自身の死の意味に新しい光を投じただけではない。人類を救うために神がイエスをこの世に遣わして成し遂げたという良い知らせを、全世界に伝える任務を弟子たちに授けたのである。しかし彼らは、自分たちだけでこの任務を果たすのではない。イエスは、彼らに宣教の力を与える神の御霊を約束したのである。(マタイ28章、ルカ24章、使徒1章)

 

 その聖霊の降臨に「教会」のはじまりがあった。教会は、はじめに信仰があり、組織は後からできたのである。教会史を紐解くに当たって、このことは極めて重要なことである。

彼らは十二使徒によって指導されていたが、イスカリオテのユダの欠員は、くじで補欠された(使徒1:15~26)。そのうちでもペテロ、ヨハネヤコブがおもだった指導者で、そのほかにイエスの兄弟ヤコブも教会の重要な立場にあった。

 イエスをメシアであると信ずる人々は「イエス・キリストの名によるバプテスマ」(使徒2:38)を受けたが、五旬節に三千人が仲間に加えられた(使徒3:41)。信じる人々は日増しに多くなりエルサレム神殿の「ソロモンの廊」という回廊に集まっていた(使徒5:12)。

 

 その集団は十二使徒のもとに、食事を掌った7人の執事が選ばれ(使徒6:2~6)、その後「長老」と呼ばれた指導者たち(使徒11:30、15:2他)と他に預言者、教師と呼ばれる役割の者たちがいた(エペソ4:11)。

 

 その集団は「使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒2:42)「そして、毎日 心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし」(使徒2:46)、「一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた」(使徒2:44~45)と記されてあるように、緊密な愛の共産生活を送っていたことは、イエスの愛の教えを自分たちの生活原理としていたからにほかならない。彼らの中には確かに、神によってよみがえらされ、神の右にあげられたイエスが生きておられたのである。

 

 彼らがイエスをメシアと信じ、イエスの教えを実践する群れとしてかたい交わりを続けているうちに、やがて一般のユダヤ人たちから白眼視され、敵視されるようになっていった。その発端となったのがステパノの論争で表面化し、迫害が起こった。

 

 ステパノは、あの7人の執事の一人として選ばれた人で(使徒6:5)、ユダヤ人の会堂の人々を相手にイエスがメシアであることを主張して議論を行ったが、反対派は彼を捕えて大祭司のもとに連行し裁判にかけた。しかし、ステパノは議会で堂々と自己の信仰を告白したため、民衆は彼を市外に引き出し、石打にして殺してしまった。(使徒6:8~7:60)

 

 このステパノの死はキリスト教史における最初の殉教であった。この事件によってユダヤ人たちとの間はますます険悪となり、エルサレムを中心として迫害がおこり、多くの信徒たちはユダヤとサマリヤの諸地方、またはカイザリア、ダマスコ、アンテオケ、キプルス島にまでも散っていった。不思議なことに、このことによって福音の種は各地にまかれることになったのである。苦難の歴史の中に働いた神の大いなる御業と見ることができる。

 

当時、ユダヤ本土に住むユダヤ人たちは、昔からのモーセの律法に忠実であったが、シリア、小アジア、エジプトを始め、ギリシア、イタリアなどに住むユダヤ人たちはヘレニズム文化の影響を受け、多くは当時の公用語であったギリシア語を語り、コスモポリタン的な生活をしていた。彼らは遠き昔、バビロン捕囚時代頃から各地に散在していたがユダヤローマ帝国支配下におかれるようになると益々その数は増していった。彼らは「ディアスポラ」(Diaspora 散らされた者)と呼ばれ、異教文化の影響を受けながらもユダヤ人として自認し、各地にユダヤ教の会堂(シナゴーグ)を建て、礼拝を行うことは忘れなかった。使徒パウロディアスポラの一人であった。

 

 その会堂には異教徒からの改宗者がいたことを見逃すことはできない。本来、ユダヤ教民族宗教でありユダヤ人=ユダヤ教徒であったがヘレニズム世界の会堂には非ユダヤ人のユダヤ教徒が少なくなかった。彼らは、すべてのユダヤ教の律法を遵守し、割礼を受け、ユダヤ教の儀式を厳格に行うことが要求され、一般に「プロセルートス」(Proselutos こちらへ来る者)と呼ばれていた。イエスの十字架を代わりに担がされたクレネ人シモンや使徒の働きに登場するエチオピアの宦官がエルサレムに巡礼に来ていたのは、彼らがプロセルートスであったからである。

 

 キリスト教ユダヤ教的性格から脱皮してヘレニズムの世界に広がっていくときに、その大きな力となったのはそのような改宗者たちであった。

 いずれにしても、ステパノの迫害が契機となって7人の執事の一人であるピリポは、サマリヤから更に遠くカイザリアまで足を伸ばした(使徒8:4~25、40)のをはじめとして、「散らされた人々」はフェニキアキプロスからアンティオキアにまで及び、「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒11:26)が、アンティオキアはシリアの首都で、ローマ帝国時代には総督府がおかれ、ローマ、アレキサンドリアに次ぐ帝国第三の都市として繁栄し、華麗なヘレニズム文化の花が咲き、数多くのギリシア人が住んでおり、東西文化交流の要地でもあった。

 

「ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。」(使徒11:20~21)と記されているように、それまでユダヤ人たちにだけ伝道していたのが、アンティオキアから初めてギリシア人にも福音が伝えられるようになり、文字通り「世界宣教」が開始されたのである。

 

 そのことがエルサレムに伝えられると直ちにバルナバが派遣されて指導にあたり(使徒13:1)エルサレム教会と並んで宣教の二大基地となった。使徒パウロの世界宣教は、このアンティオキアからはじまったのである。

 

 

2.ディアスポラユダヤ教とLXX聖書

 ペルシャメソポタミア、エジプトには多数のユダヤ人が在住し、エジプトではBC7C、5Cにはユダヤ教の神殿まで建設されている。イエスの時代までにはローマ帝国内の主要都市にはユダヤ人共同体が出来ていた。

 ディアスポラユダヤ教は、キリスト教ローマ帝国に広がっていくための主要な通路の一つとなった(使徒13:5、14、17:17)。パウロの伝道方法を使徒の働きに見ると、彼はまずその町のユダヤ教の会堂に出かけて伝道している。そこにはユダヤ人と回心した異邦人であるがまだ割礼は受けていない「敬虔な人々」がいた。彼らに旧約聖書から、預言されていたメシアがナザレのイエスとして到来したと論じたのである。

 

 このとき用いられていた旧約聖書が70人訳聖書(LXX、Septuagint)である。このユダヤ教は、ヘレニズム世界共通語となっていたコイネーに翻訳されたLXX聖書を提供する。とはいえ、コイネーが通じたのは東方のヘレニズム世界であって、西方はラテン語圏だった。たとえば、ヒッポのアウグスティヌスギリシャ語が苦手で、ラテン語の聖書を用いていた。ラテン語圏でギリシア語が使えるのは教養の高い人々だけだった。

 70人訳聖書と呼ばれるのは、72人のユダヤ人学者がヘブライ語聖書をそれぞれ別々に訳を完成させて持ち寄ると、それが逐語的に一致していたという伝説による。つまり神の霊感による翻訳だと言いたいのである。律法の翻訳がBC3C中ごろで、そのあと百年ほどかけて訳されたという。なぜ72人訳と言わないかは不明。

 

 70人訳には旧新約聖書を一貫した神学として形成する上で意義があった。新約聖書のほとんどの著者は70人訳を聖書として引用した。古代キリスト教徒たちが教会で用いる用語の多くは70人訳に由来している。70人訳は旧約聖書の用語と新約聖書の用語のブリッジをなしている。たとえば、ヘブル語のメシアが、ギリシア語のクリストスにあたり、ヘブル語のツァドク、ツァデクはギリシア語のディカイオー(パウロの「義と認める」は「義と判決をくだす」という意味)にあたる(申命記25:1、箴言17:5、イザヤ5:23)

 

 

3.パウロの世界宣教

 パウロ小アジアのキリキアの主都タルソで生まれた。誕生の年は不明であるが、ステパノが殉教の死を遂げたとき、「青年」であった(使徒7:58)という記事と、紀元60年頃に書いた手紙に「すでに老人となり」(ピレモン1:9)と書いている所から想像して、イエスより少し遅く紀元5年頃の誕生ではないかと考えられる。家族とともに彼もタルソ市民であるばかりでなく、ローマ市民権も持っていたため彼は二つの名前があり、家族やユダヤ人たちはサウロと呼び、ラテン式には、それと似た響きでパウロと言われていた。

 

 タルソでは両親のもとで天幕作りの職業教育を受けながら、ディアスポラ(Diaspora)ではあったがパリサイ派の保守的な信仰を受け継ぎ、成長してからはエルサレムに赴き、有名な律法学者ガマリエルの門下に入りユダヤ教の教えを受けているが(使徒22:3)、そのときイエスが十字架を背負いゴルゴタの丘に引かれていった痛ましい姿を見たのではないだろうか。

 

 熱心なパリサイ派パウロにとって、ユダヤの律法の形式にとらわれないキリスト教徒は当然追放されなければならなかった。前節に記したステパノの殉教とそれに続く教会に対する迫害に際して指導的立場に立っていたであろうパウロは「家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた」〈使徒8:3)のである。そのパウロが突如キリスト教徒に変身した。それはキリスト教徒迫害のためダマスコへの途上で天から光がさしてイエスの声を聞いた瞬間である。そのとき彼は、今も生きておられるイエスに出会い、一切の過去をかなぐり捨てたのである。(使徒9:1~9、22:6~11)

 

 このときの回心の経験がどのようなものであったのか、知る由もないが、パウロにとってそれは自分の意思によるものではなく、すべては神の選びの恩寵であることを確信し、そこに彼の信仰思想の基調があった。パウロは「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」(ローマ1:1)という意味の言葉を常に手紙の冒頭に書くことを忘れなかった。

 

 キリスト教徒となったパウロは、一時アラビアに赴いたあと、ダマスコに戻って伝道したが、ユダヤ人の反抗に遭遇して密かに逃れてエルサレム使徒たちを訪問し、15日間滞在して伝道したが、ここでもユダヤ人に追われて、故郷のタルソに逃れた。その後バルナバに迎えられてアンティオキアに赴き、この地を活動の本拠地として大規模な伝道旅行が行われることとなった。前述したようにアンティオキア教会がギリシア人の改宗者を含む教会であったことはパウロの宣教活動と方針に大きな影響を与えた可能性がある。

 

パウロの伝道旅行は以下のとおり

①第1回伝道旅行(使徒13:1~14:28)47年頃から48年ごろまで。

②第2回伝道旅行(使徒15:36~18:22)50年頃から52年ごろ。

③第3回伝道旅行(使徒18:23~21:26)使徒52年頃から56年頃まで。

 

 第一回伝道旅行はバルナバとマルコと共にセレウキアにくだり、船でキプロス島を経て小アジアに渡り、ピシデアのアンティオキア、ルカオニアのイコニオム、更にルステラ、デルベの各都市を訪ねてアンテオケに帰った。この旅行で多くの外国人がキリスト教徒となったが、外国人の改宗者も「割礼」を受けて形式的に「ユダヤ人」にならなければいけないものかどうかが問題となりバルナバパウロは49年頃にエルサレムに上り使徒たちに会い、会議を開いて討議をした。エルサレムの保守的な指導者たちは割礼の必要性を主張したが、結局パウロの意見が承認されて割礼は不要であるということになった。しかし、この会議でペテロはユダヤ人に、パウロは外国人に伝道するという方針がとられた。

 

 このエルサレム会議を見るならば、すでに当時の初代キリスト教会にあって、一地域教会にすべての教会政治上の権威が属するという単立主義的な教会運営は取られていなかった。地域教会の上に上級会議が存在していたことがわかる。

 第二回伝道旅行はシラスとテモテの二人を伴ってガラテア地方を通って小アジアの西北端のトロアスから船に乗り、はじめてギリシアマケドニアに渡り、ピリピ、テサロニケを訪れ、更にベレアを経てアテネ、コリントに伝道を行った。コリントに1年半あまり滞在した(使徒18:2)ということは、いかにこの商業都市パウロを歓迎したかを物語っている。「テサロニケ人への手紙第一、第二」はここに滞在中に書いたものであろう。その後エペソに立ち寄り、海路カイザリアに上陸し、エルサレム使徒たちを訪ねてからアンティオキアに戻った。

 

 第三回伝道旅行はまずガラテヤに立ち寄って教会を激励してからエペソに赴き、三年の長い間滞在した(使徒20:31)。エペソでのパウロの活動は、かなり困難な情況のもとにあったらしい。パウロも「もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。」(Ⅰコリント15:32)と書いている。実際に「獣と戦った」という表現はエペソでの活動の苦しさを象徴していると言われなければならない。「ガラテヤ人の手紙」と「コリント人への手紙第一」はエペソ滞在中に書かれたらしい。

 

三年間困難な伝道のあとエペソを逃れてトロアスからマケドニアを経てコリントに行き、三ヶ月滞在して同じ道をトロアスに戻りアソスでツロに直行する船を見つけて帰路についた。ツロで一週間滞在したあと船でカイザリアに渡り、エルサレムに急いだ。この旅行の終わり頃、マケドニアで「コリント人への手紙第二」を、またコリント滞在中に「ローマ人への手紙」を書いたと考えられる。

 この旅行の途次、諸教会から寄付金を集め(ローマ15:26)エルサレム教会の貧しい人々を助けようとして急いでエルサレムに上ったのである。それはユダヤ人教会と異邦人教会の間の親善を計るためでもあったらしい。

 

 その後パウロは、パウロの外国伝道を快く思っていないユダヤ人たちの扇動のため計画は挫折し、パウロは官憲に捕らえられ鎖につながれてしまった(使徒21:33)。こうして第三回伝道旅行はある意味悲しい結末をもって終わったように見えた。

 パウロは鎖に繋がれたままカイザリアに送られて総督ペリクスの審問を受けてからあと二年余り禁固されたままであったので、ローマ市民権を持つパウロローマ皇帝に上訴し、そのため遠くローマに移送されることになり、航海の途中、暴風雨に遭いながらも翌年無事にローマに到着した(使徒28:14)。

 

 ローマでは看守の兵士のもとで、比較的自由に生活ができたようで、満二年の間「少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(使徒28:31)のである。なお、「ピリピ人への手紙」「エペソ人への手紙」「コロサイ人への手紙」「ピレモンへの手紙」はローマから送られたもので、一般に「獄中書簡」と呼ばれる。

 一世紀の終わり頃に書かれた「クレメンスの手紙第一」によるとパウロはローマでの殉教の死を遂げたといわれるが、ネロ帝の迫害によるとすればパウロの死は64年頃と推定される。しかし、正確な記録はない。

 なお、ペテロもネロの迫害によって捕えられ、パウロと前後して殉教の死を遂げたと言われている。

 

 

4.古代キリスト教会を取り巻く宗教

 次に初代キリスト教会が直面した宗教的問題についてまとめる。

 

(1)ユダヤ教

①外からの迫害

 キリスト教は当初、ローマ帝国からはユダヤ教の一派であると見なされていたので、ローマ帝国から迫害を受けることはなかった。当時、ユダヤ教はローマにおける公認宗教の一つとされていて、ユダヤ教徒にはエルサレム神殿への献金の自由、集会の自由、兵役免除など特権が与えられ保護されていた。70年にユダヤ戦争でエルサレムが破壊されるまで、こうした状況は続いた。

 この初代教会時代にキリスト教会を迫害したのは、ローマ帝国政府ではなくユダヤ当局である。使徒の働きには、ユダヤ当局から執拗な迫害を受ける使徒たちの姿が記されている。新約の教会で最初の殉教者ステパノは、ユダヤ教徒によって迫害されたのであって、ローマ帝国によるものではない。パウロユダヤ人たちに殺されかかっている。

 

「ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。」(使徒14:19)

 

②内憂としてのユダヤ主義の異端

 一つはユダヤ主義の問題である。ガラテヤ書、使徒15章のエルサレム会議に取り上げられている。ユダヤ主義的キリスト教というのは、異邦人キリスト者も諸々の儀式律法を行わなければならないというものだった。ガラテヤ教会の信徒たちは、ユダヤ教的律法主義に惑わされてしまった。

 

(2) 異教(混合宗教 シンクレティズム
 もう一つはヘレニズム世界におけるシンクレティズムである。これは当時の流行であった。ローマのパンテオン神殿つまりすべての神々の神殿には、諸国の多くの神々が加えられていた。ローマ当局は帝国支配下にある各民族の神々が異なった名前をしていても究極は同じ神々であると信じさせようとした。本地垂迹説である。

 

 たとえばコリントのアクロポリスに祭られていたのはギリシアの恋愛の女神アフロディテであったが、その礼拝の形態は、シリヤの女神アシュタロテつまり旧約聖書のアシュタロテ礼拝のヘレニズム化したかたちであった。その上、コリントのアフロディテには連れ合いがいて、それは海の神メリケルテスである。メリケルテスとは、ツロの町の主神バアルつまりメルカルトの名をギリシア風に発音したにすぎない。バアル礼拝はBC9Cにイゼベルがイスラエルに持ち込んだものである。

 エジプトのイシスやオシリスの神話、インド、イランからはミトラ神礼拝、また、セム系の大地母神礼拝も流行していた。また、ギリシアからは古代からアテネ周辺で行われていた密儀宗教がはやっていた。これらの宗教は混交されていて区別ができない。

 

(3)皇帝礼拝

  古代教会が直面しなければならなかったもう一つの宗教は、皇帝礼拝である。ヘレニズム諸国で行われていた君主礼拝の影響がローマ帝国に取り入れられ利用されたものであるので、これも一種のシンクレティズムといえよう。「支配者(王)は神なりという東方思想と、ギリシアの人間神化の思想とが、アレクサンドロス礼拝において結合し、これらがローマに至って皇帝礼拝の形をとった」(大辞林

 初代皇帝アウグストゥスは生前すでに東方属州では神的礼拝の対象とされたが、共和制の伝統あるローマの西方では受け入れられない。しかし、その死後、元老院がその神格化を宣言し、西方にもアウグストゥス礼拝が広がる。以後、皇帝はみな神格化される。

 この問題は、教会と国家にかかわることであり、コンスタンティヌス帝の回心に至るまで延々と続くテーマである。

 

 

 

悟ることがなければ

"人は栄華のうちにあっても悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。"
詩篇 49篇20節

 詩篇49篇には、ソロモンの伝道者の書に流れる同じテーマがある。神を恐れない者の末路は滅びであり、それが「愚か者の道」(13)であると。

 

 この地上でどんなに栄華を誇っても、それは神の永遠性から見れば一瞬のことであり、人はその「栄華のうちにはとどまれない」のである。

 この地上で神を恐れる者がわざわいに会うことがある。それは時に、私たちに悪意をもって取り囲み、私たちの心を挫こうとする。彼らはその財産により頼み、豊かな富を誇るが自分のたましいの贖い代を神に支払うことはできない。

 そのくらい、人間の罪は重く深い。本来であれば諦めなくてはならないほど、解決の道がないのだ。

 

 しかし、詩篇49篇20節のみことばは、どのようにすれば神による贖いに与ることができるのかを逆説的に示している。

 それは「悟る」ことである。これはらこの詩篇の文脈から読み取れば、あきらかに、自分の財産などに依存するのではなく、神の存在を認め、神に対する信頼を置くことであり、その神の招きに応えて生きることである。

 「しかし神は私のたましいを贖い出し、よみの手から私を奪い返してくださる」(15)

 物事がうまくいっていても、人々が私たちをほめたたえても、そのたましいの行き先は死であり、誰もが神の前に立たされる。そのとき、もはや持っていた財産も人々からの賞賛という勲章も役に立たない。

 生きているうちに、神との和解が終わっているか。その神への信頼により生かされていたのかが問われる。

 それがなければ、いくら金持ちでも高学歴でも、自分に誇れる能力や知識があったとしても「悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい」のである。

 たとえられる獣に失礼なのかも知れない。獣は被造物として人の罪の呪いを受け、救いを待ち望んでいる被害者だからだ。

 

 あらためて、今、今日、現在、神なる主を崇め、このお方が与えてくださった救いを受け取っていきたい。その悟りをもって今日も歩ませていただこう。

びっくりした

2024年4月19日夕方5時30分頃の薄暮時、某教会を訪問したが不在のため、教会の右横を通り右折して、S建設の前の通りへ出ようとした際、左側から来たIさん運転のトヨタヤリスと接触。自車のフロント全面から左部を損壊。先方は右後部破損。しかしながら両方とも走行可能。ただし自車はフロントナンバープレートごとフロントグリルが損壊しているため法的に走行不可。先方は事故処理後、帰社(札幌市東区)。双方に怪我はなし。こういう場合、やはり自分自身の不信仰や罪について思い巡らす。神様が何かを教えようとされていると考える。また、一見禍いに思うことを通して、自分の生き方の本質的な気づきがあるのではないかとも思い巡らす。はっきりわからないので祈る。真実なお方に。警察には17時36分に連絡していたようだ。その後、18時50分頃にレッカーが来て車を移動。4月20日には北海道三菱自動車石狩店へ搬送する予定。損保ジャパンに電話をするも音声ガイダンスに3〜4回チャレンジするもなかなかうまく進まなかったが、結果的オペレーターが出て状況を伝えた。実際の事故手続きは週明けにLINEで行うことになった。

 

この事故を自己分析すると、薄暮時で車のライトをつけている車とつけていない車の混在する状況で、先方の車はライトをつけていなかったと思われる。おそらくこのあとのドライブレコーダーでの分析で検証されると思われる。

やはりライトをつけている車が目に入り、私も右折するため何度か左右をキョロキョロ確認するも、交通量が多くなっている時間帯もあって、優先道路に出て行くタイミングで緊張していたのだと思う。おそらく、普段の運転の中でもこのようなことはいつもあり、そこにたまたま車が来ていなかったので事故にならなかっただけで、本来ならいつ事故を起こしてもおかしくないことがあるのだと思う。

 

今回、この薄暮時での運転の怖さを知らされ、このことを教訓にしなければならないと思う。同時にこれまでが守られていたのだとすると、それは神様の守りであり、今回の事故は、その支配される神様の許しがあって起こったとも思える。そのとき、その理由を知りたくなるのは当然だと思う。そのことを神様に祈り、私に与えられたイベント記録として覚えていきたい。

 

それだけに、聖書を開きみことばからその答えを教えていただきたいと願っている。

北海道開拓の歴史を学ぶこと

北海道が北海道という名がつけられて開拓が始まったのは、明治の開始とほぼ同じ時期です。

 

北海道開拓の父と呼ばれる松浦武四郎が、その名付け親と言われていますが、1868年に北海道という名が公式に始まったのでした。

 

しかし、北海道はそもそも蝦夷地と呼ばれ、徳川幕府や明治政府が支配する以前から、アイヌの土地でした。アイヌの土地でしたと言うと語弊があります。アイヌは国を持たないので、北海道全域がアイヌ王国ではなかったので、そこを正式に行政府を置いたのが日本だった。だからそもそもアイヌの土地ではないという見方もあるからです。

 

しかしアイヌのコタンがいくつも点在していたわけですから、そのコタンを集約するアイヌとしての行政府がなかったとはいえ、そのような形態のアイヌの国であったとも言えるのではないでしょうか。国という定義を私たちの常識で決めつけて、自分を正当化するのは乱暴です。そのことは、アメリカやオーストラリアの開拓等にも言えるでしょう。

 

そのようなアイヌのことを無視して北海道開拓はないのです。だから、北海道開拓の歴史を学ぶ時、開拓者たちの偉業を讃えたい気持ちはわかりますが、元々暮らしていたアイヌを虐げ駆逐したことを無視して開拓のみをそのまま賞賛することはできません。

 

開拓者たちの業績は業績として評価しますが、それによってそこに元々暮らしていた人たちが住処を失うことになったとしたら、その開拓は侵略とも言えることを弁えるべきです。

 

自分は開拓民の子孫だとか、先祖は屯田兵だったという方にとって、ご先祖様は誇りでしょう。でも、その影に泣いていた人々がいたことを抜きにして、自分たちの歴史を賞賛だけで終わらせてはならないのです。

 

あらためて、北海道開拓の歴史にある、蓋をしてはいけない事実を事実として学び、そこから未来に繋がる同じ人間としての平和的なあり方を模索しつつ、ともに神が与えてくださった救いの希望を受け取っていきたいものです。

いよいよ

2月末にメノナイト白石キリスト教会を辞任して、3月はほぼ引越しの片付けや、新居における整理、また新任地である恵庭福音キリスト教会での準備に追われる一ヶ月でした。3月31日のイースターに説教奉仕があったものの、4月7日の牧師就任式が終わるまでは何となく落ち着かなかったのです。

 

その就任式が無事に終わり、いよいよ恵庭福音キリスト教会の正式な主任牧師としての日々が始まったわけです。やはり、次週の礼拝説教の準備が大切ですが、次週は同時に聖餐式や役員、教会学校教師任命式もあり盛りだくさん。礼拝後には主任牧師になって初めての役員会もあります。その議案書づくりも必要でしょうね。

 

まだ、なかなか新任地における波に乗り切れていない感がありつつ、本日、水曜日の祈り会があります。

 

この緊張感をワクワク感に変えて、一つひとつを楽しんでみましょう。

 

使徒パウロは復活の主イエスに会い、使徒として歩み始めるときに、まずアラビアへ赴いたことを思い出す。それは、恐らく、アラビアの砂漠で神と交わり、神からの啓示を受けていたのだと思います。そのように神の業に向かう時に、やはり神との時間を持つことの大切さを学びます。

 

そしてペテロと過ごす時間もとったように、先輩牧師からの教育期間も必要でしょう。

 

私も前任者がいる状況での赴任なので、この一ヶ月はそのような時間もとることはできました。

 

いよいよ、主にあって牧師としての責任感をもって一歩前に出る気持ちです。これまでは就任前でもあったので、いくら内定していたとしても前任者がいる場では大いに譲って来ましたが、これからは勇気をもって大胆にまいりましょう。全ては神様への愛と献身が大切です。

 

私が不十分でも、必ず主は御霊により助けて、このような者であってもご自身の業を行わせてくださると信じます。

 

"それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。"
ヨハネ福音書 14章31節
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