日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

「イエス・キリストの系図」マタイの福音書1章1~17節

f:id:kinokunizaka66:20181208001540j:image

 

序論
 今日の系図は「イエス・キリスト系図」と書いてあります。  

  この系図というもとの言葉は歴史とか経緯と言う意味もありますので、イエス・キリストの歴史と読んでも良いわけです。すると、つまり新約聖書の一番最初にあるマタイの福音書から「イエス・キリストの歴史」が始まっているということ。ここから今に至るまでずっとイエス・キリストの歴史が続いているとも言えるのです。西暦はまさにそのとおりですね。紀元前、紀元後とはイエス・キリストの誕生を中心にして歴史が区切られています。
 アドヴェント第二週を迎えた今朝は、私たちの主イエス様が人間の歴史の中に来られたことがどういう意味かを、この系図を通してみことばに聴いていきたいと思います。

 

1. ユダの系図
 1~6節まで読みましょう。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。」
 まずこの1節には、この系図の言おうとしている目的を見ることができます。その一つはイエス・キリストという言葉の説明であるということです。それは16節と繋がっています。16節を読みます。
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」
 ここで「キリストと呼ばれるイエス」とあえてキリストと言う言葉がイエスという人の称号であることを分かりやすいように示しています。それは、そもそもイエス・キリストという呼び方は、このマタイの福音書が書かれた頃には、一般化していなかったと言えるからです。
 私は、子どもの頃、小学校の2~3年生のときだと思います。イエス様の伝記の本を読むのが好きでした。ポプラ社という出版社の本を何度も読んでいたことを思い出しますが、その頃はキリストという名前は苗字かと思っていました。だから、ヨセフの正式名称はヨセフ・キリスト、マリヤは、マリヤ・キリストだと思っていました。どうしてかと言うと、当時の伝記の本にはキリストと書かれていて、当然それが名前だと子どもなら思うでしょう。母に聞いてみたら、当時は母まだクリスチャンではないので「違うんじゃないの」と言われたことを覚えていますが、母もよく知らないということがわかりました。
 ではみなさん。キリストとはどういう意味かわかりますか。・・・そうです。「救い主」という意味です。直訳的には「油注がれた者」です。油注がれた者とは、イスラエルの言葉であるヘブル語で「メシア」と言います。これはもともと、イスラエルの王様の称号であったのです。ですから、固有名詞ではないのです。
ですから、このマタイの福音書を読むユダヤ人にとっては、ダビデ王家であるというインパクトが強いわけです。それは、旧約聖書の歴史をずっと教えられてきたユダヤ人には、自分たち神の選びの民を回復させて、国家として独立させる王様を期待してきたので、注目点はそこにあるからです。
 それは、この系図にはダビデに対する神様の契約の成就が証明されているからです。かつて神様はダビデ王にこう仰いました。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」 Ⅱサムエル7:12~13
 この契約のことばは、ダビデ王家が永遠に確立するという預言です。その預言がダビデ王の子孫であるイエス様によって成し遂げられた。それが、このマタイの福音書に書かれている系図の意味です。
 だから、アブラハム、イサク、ヤコブのあと12人の息子の中からユダ族が選ばれ、その末裔であるダビデ王にスポットが当たる系図になっています。そして、ダビデ以降はエコニヤまで全部ユダ王国の王様ですが、ダビデにだけ「王」がついています。
 ですから、ユダヤ人にとっては由緒正しい王家の出身の輝かしいメシア、キリスト、油注がれた者という、そういう気高い血統として、この系図は始まっているのです。
 だから、初めてイエス様に出会ったユダヤ人たちは、ある意味、わくわくしたと思います。待ちに待ったメシア、キリストがまさにダビデ王の子孫として来られた。これでイスラエル国家は独立して、もう一度国を再建できる。
 イエス様のエルサレム入城の場面を思い出してください。多くのユダヤ人たちが、自分たちの王様としてイエス様をお迎えしました。ホサナ、ホサナと棕櫚の葉を敷いて、ロバの子にまたがって来られるイエス様を、ダビデのように力強く治める王として歓迎したのです。
 ですから私たちも、純粋な気持ちで、このクリスマスにイエス様を私たちの本当の王様としてお迎えするのです。先程皆さんでお読みした今週のみことば。実は続きがあります。イザヤ書9章7節をお読みします。
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 」
 この預言をユダヤ人は知っていました。ですから、このマタイの書いた系図にはまずはユダヤ人の期待に応える意味が込められている。そのことを受け取りたいと思います。
イスラエルの真の支配者ヤハウェなる神の権威を持ったお方。それが私たちの本当の王様、支配者であるということ。それはキリストと呼ばれるイエスである。そのことを受け入れますか。これが、この系図にあるまず一つ目の問いです。

 

2.罪の歴史
 しかし、一見華々しく見える王家の系図ですが、これを書いたマタイは実に正直です。というのも、たいてい王様の系図には、恥ずかしい部分、残念な部分と言うのは省きます。それは、その王様の権威を貶めることになるからです。かえって、ありもしないことを盛り込んで、さも立派な家系だといわんばかりに、権威付けをするものです。
 たとえば、源平合戦の源氏と平氏は有名ですが、その両方とも元々は天皇から始まっています。それは事実だと思います。しかし、多くの系図を見ると途中は結構省かれています。源氏で有名なのは源頼朝義経ですが、この兄弟は全部で九人います。その末っ子が九郎義経なんです。では長男は誰でしょう。頼朝と言いたいですが、そうではなく義平という人です。でも有名ではないし、あまり系図にも出てきません。それはどうしてかと言うと、義平さんは遊女の子だったからです。
 このように系図に載せる場合は、勇ましく権威を落とさないように記すのが世の常ですが、マタイはせっかくユダヤ人が喜ぶような、ユダヤ人が期待するような系図を書き出しながら、段々とその気持ちにブレーキをかけるような内容を、しかもあえて分かりやすく強調しているのです。
 それは、女性の存在です。それは系図に女性がいることがそうだという意味ではありません。イスラエル系図に女性の名前が出ていることは、そんなに珍しいことではありません。そうではなく、その女性「によって」という歴史に意味があるということです。
 今日の系図に何人の女性が出ているでしょうか。最後のマリヤを含めたら5人の女の人が登場しています。その女性の名前を書かなくても系図としては成立するのに、わざわざ書いているのがわかるでしょうか。
 まず一人目。それは3節です。
「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」
 「ユダにパレスとザラが生まれ」で良いのに、あえて「タマルによって」と書くことで、旧約聖書を知っている人ならどういうことなのかわかるわけです。簡単に説明しますが、このタマルというのはユダにとって息子の妻です。詳しくはここでは述べませんが、舅と嫁の関係でパレスとザラが生まれたという残念な歴史が明らかにされています。次に5節。
「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、」
 ここには二人の女性の名前が書いてあります。それはラハブとルツです。この二人に共通することは何でしょうか。それは二人とも外国人だったということです。しかも、ラハブはあのカナン人です。創世記9章でノアが呪ったカナンの子孫で、仕事は遊女でした。ヨシュア記でエリコの城壁を陥落させたときに、イスラエルのスパイを助けたことで救われてイスラエル人の中に入れられた女性でした。ルツもモアブの女でしたが、姑のナオミの息子の嫁になって、夫が死んでもナオミについていくことを選んでイスラエル人の中に入れられた女性でした。
 イスラエル人にとって外国人と結婚することは基本的にタブーでした。それは外国人には必ず土着の偶像の神々がいて、そこでの悪習慣がイスラエルに入ってくることを警戒していたからです。また、そういう背景にある文化で汚れることを恐れたからです。
 では4人目はだれでしょうか。それは6節です。
「エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」
 ここでは名前は出てきませんが、旧約聖書を知っている人なら誰でも知っている女性です。だれですか。そうバテシェバですね。ここでも、あえて名前を伏せて、逆に「ウリヤの妻によって」と他の男性の妻と関係をもったことが強調されているのです。しかも、ユダヤ人たちが期待しているダビデ王の子孫という肩書きの中で、ダビデ本人の失態を強調しているのです。
 ダビデ王は今から3千年前に実在した統一イスラエル王国の王様です。若い頃は先頭に立って戦いに出ていましたが、国が安定したときには全部部下に任せて、自分は王宮の屋上でボーっとしていました。するとその屋上から美しい女性が水浴びをしているのが目に入って、ダビデは釘付けになりその女性を呼びつけて男女の関係をもってしまいました。しかも、その女性が妊娠するとそれをもみ消すために、その女性の夫を戦地から呼び戻して、その妊娠の偽装を計ろうとしたのです。ところが、夫ウリヤは王に忠実だったので、皆が戦っているときに自分だけ家に帰って妻と寝ることはできないと言って、妻とは会わずに戦地に戻ってしまいました。それでダビデは最後の手段。その夫ウリヤを最前線に配置し、戦死させたのです。そして未亡人になってしまったその妻バテシェバを自分の妻としたのです。つまり、ダビデ王には姦淫と殺人の罪があって、そこからソロモン王が生まれました。そのあと王国は南北に分かれてしまい、最後にはバビロニア帝国が攻めてきて王国は滅び、バビロン捕囚という屈辱をイスラエルは味わうのです。
 こういう苦々しい思いを、この系図を読んだユダヤ人たちは思ったでしょう。決して華々しくない。むしろ罪に汚れたところにキリストと呼ばれるイエスが誕生したということが鮮明にされているのです。
 この4人の女性たち登場の背景には、それぞれにイスラエルダビデ王家として恥ずかしい歴史があり、残念な過去が浮き彫りにされる事実があるのです。
 しかし、この罪の中に、この残念な人間の歴史の中にキリストは来られたのです。
すると、こんな罪人の中から生まれたイエスもやはり罪人じゃないのか。また失敗するんじゃないのか。そもそも王様として大丈夫なのかと心配になるでしょう。決してきれいとは言えない血統です。
 ところが5人目の女性の存在で、そういう不安は払拭されます。16節を読みます。
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」
 5人目の女性はマリヤでした。このマリヤの存在の何が不安を取り除くのでしょうか。もちろん、彼女は外国人ではありません。聖書を調べるならマリヤもダビデ王家の血筋です。しかし、それだけなら、罪の解決にはなりません。大切なことは何でしょうか。その答えは18節に書いてあります。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」
 ここに「聖霊によって」と書かれています。これまでの、この系図を見ると全て「タマルによって」「ラハブによって」「ルツによって」「ウリヤの妻によって」と、別な言い方をすると全部「罪を持った人によって」次の子孫が生まれたと書いてありますが、最後のマリヤでは「マリヤによって」ではなく「マリヤから生まれた」としか書かれていません。それはキリストと呼ばれるイエスは罪人によってではなく、聖霊によって処女マリヤから生まれるところに、マタイのポイントがあるからなのです。
 
結論
 今から約2700年前、イザヤという預言者を通して神様は、こう語りました。イザヤ書9:6~7
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
 この預言のことばは、本当の王様、真のメシア、キリストであるイエス様の存在についてこう語っています。
『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。
 ただの王様ではない。単なる支配者ではない。不思議な助言者(カウンセラー)、しかも力ある神(エロヒーム)、永遠の父、平和をもたらす王様。それは明らかに人間ではなく、神であるお方。だから、それは聖霊によって生まれなければなりませんでした。それは罪の性質を持っていない、造り立てのアダムのようでなければならなかったからです。ここに、メシアの大きな二つの役割が見えてきます。
 一つは、メシアは預言どおりダビデ王家の末裔として、真のイスラエル王国、神の王国を建て上げるために来た王様だということです。二つ目には、そのメシアは神の民をその罪から救う救い主だということです。キリストという言葉はその両方の意味を持っているのです。そこに神の国と神の義が立てられるからです。
 マタイ1:21には、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と書いてあるとおりです。真の王であるキリストは神であると同時に、完全な人間。罪のない姿で完全に律法を守り、悪魔の誘惑に勝利し、罪のない姿で十字架で身代わりになるところにメシアとしての使命があるからです。死刑囚の身代わりを死刑囚はできません。罪のない者が身代わりになるところに贖いの意味があるのです。

 もし、今、イエスを追い出してしまっている兄弟姉妹がいるなら、今日、もう一度主をお迎えしましょう。そして、主によって始まったキリストの王国の国民とされた喜びをもって歩みましょう。また、まだイエス様を信じていない方がいるなら、あなたの身代わりとして死ぬために来られた王であるイエス様をお迎えしようではありませんか。イエス様はあなたを神の王国に招き入れるために罪の真っ只中に来てくださった真のイスラエルの王キリストだからです。それはあなたの歴史が主イエス・キリストの歴史に繋がって、この罪に満ちた世にあって神の国の祝福で満たされるためだからです。

祈り 愛する主よ。あなたは神でありながら私たち人間の歴史の中に確かに来てくださったことを感謝します。真のイスラエルの王として、またあなたの民となった私たちを罪から救うために来てくださり感謝します。どうぞ、今日、あなたを真の王として私たちの心の王座にお迎えします。主よどうぞお入りください。主の御名によって。(川﨑憲久)

◎ 「キリストに贖われて」白石教会 川﨑 憲久

 

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」ペテロの手紙第一2章24節(新改訳2017)

 

  私は幼い頃から、キリストという人が十字架にかけられたのが私のためだったという意味が知りたくて、小学校の図書室からキリストの伝記を借りてきてよく読んでいました。
 しかし、その意味がわかったのは中学生のときに教会に行ってからでした。教会では、聖書の話を聴くことを繰り返すうちに、イエス・キリストは神であるのに人となって、この世界に来てくださり、私が受けるべき神のさばきをその身に負ってくださった。その「打ち傷の傷のゆえに」私は癒されたということがリアルに心に響いてきたのです。
 私は、神が旧約聖書からずっと貫いてきた罪の贖いをイエスによって完成されたという、その救いの計画のスケールの大きさに驚かされ、次第にこの救いを他の人にも伝えたいという思いが、私の内側に起こされてきました。
 私が洗礼を受けたのは高校3年のときですが、その後就職し結婚をして、北海道伝道会議に参加する機会が与えられた26歳のときに、Ⅰペテロ5章2~6節のみことばから献身の思いが与えられました。ところが実際に神学校に入学したのは49歳になってからでした。神の召しは変わりませんが、実際に進み出すタイミングが神の時ではなかったのです。その間、引き続きNTTの電話工事技術者として約30年勤め、様々な社会勉強をさせられました。特に、神学校に入るために蓄えたものが様々な事件によって何も残らず、結局すべて教会からのサポートだけで神学校へ行き、学びと訓練が支えられたことは、大きな学びとなりました。私が自分の力を誇らないために、神はすべて神ご自身にだけに依り頼むようにされたのです。
 それは教会に仕える働きは絶対に人間の力で出来るものではないからです。神は、とことん私が神のことばに信頼するように、予め体験を通して教えてくださったのです。
 今、図らずも白石教会の牧師として召されたことは、まさに神が教えてくださったことの実践であると信じています。それは神にのみ信頼することこそ、主の群れにとって必要な信仰だからです。それは即ち神のことばである聖書に聴くことを大切にするということです。それが罪を離れ、義のために生きることだからです。それは主イエスのように歩むということでもあります。
 これからも主イエスの十字架の贖いを信じて、聖霊に導かれながら、聖書によって矯正される教会、神の国の建て上げを再び主が来られる日まで続けていきたいと願っています。

◎ レポート:「キリストの名」

f:id:kinokunizaka66:20181203100517j:image


序論:

  私たちにとって名前とは、大勢の中にある個を指定する、または判別する役割があります。また、名前はその個の存在や働きを表わす場合にも有効です。特に人間における名前は、その個々人の固有名詞としての名ばかりか、称号であったり階級であったりする場合もあります。そのような一般論としての「名前」を念頭に「キリストの名」を考え、聖書と言う眼鏡を通してキリストご自身の輪郭、実体に近づきたいと思います。

 

Ⅰ. この世におけるキリストの名とは
  この世界において、キリストという名前は多くの人々に知られています。もともとは、ヘブル語で「油注がれた者」を指すמָשִׁיחַメシアのギリシャ語訳Χριστὸςクリストスという一般名詞です。しかし、今や「キリスト」という名は、世界的な規模でナザレのイエスの称号であり、ほぼ固有名詞として用いられています。
   日本においては、1549年にポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教ローマ・カトリック)が伝えられました。その際、ラテン語聖書のDeusデウスを「大日」と訳し、その後「大日」では密教における大日如来と混同されてしまうため、ラテン語の音読みのデウスと変更しましたが、「イエス」についてはザビエルが属する托鉢修道会イエズス会の名にもなっている「イエズス」が神の御子の名として使われるようになりました。そのキリスト教集団は日本人から切支丹と呼ばれ、九州から東北まで広まりましたが、豊臣秀吉によって伴天連追放令が出され、その後の徳川幕府においても切支丹禁止令によって、その名は邪宗門の代名詞のように扱われるようになりました。
  近代日本において、キリストという名はキリスト教の開祖として知られるのが一般的であり、釈迦やマホメットと並んで世界三大宗教の一つとして教育されています。多くの日本人はキリストと言う名を聞いても、そのような理解の域を出ないでしょう。しかし、この世での名前の用い方においても共通している名前の権威にまず注目したいと思います。

   権威は他を従わせることのできる力であり、その権威によって治められるものがあることを示しています。たとえば、建設工事等で申請すると許可が出る「道路使用許可」等は、その道路を所轄する警察署長名で許可されます。それは、一介の巡査の肩書では用を成さないからです。また競馬で目にする天皇賞も、その名に権威があるからこそ価値があります。ここで共通しているのは、何れの場合もそれぞれ本名を用いずに、その肩書や称号、役職名が先行している点です。それは、個人の名は個人が退任するか、死亡することにより、その権威はその個人から継承した個人に移行するからです。
  キリストの名には前述したように「油注がれた者」という、イスラエルの王を示す意味があります。それは預言書によれば、後に来る世界を治める支配者メシアとしての権威をも表わしています。新約聖書においては、悪霊を従わせる力、病を癒す力、罪を赦す力があることがわかります。主イエスの弟子たちはほとんどがガリラヤの漁師でありましたが、キリストの名によって上記の業を行いました。それは弟子たちに、癒しの業や悪霊追い出しのスキルがあったからではなく、あくまでキリストの名にある権威であります。マタイの福音書における大宣教命令(マタイ28:18~20)において、主イエスは「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と仰せられました。そしてあらゆる国の人々を弟子として「父、子、聖霊の名によって」バプテスマを授けなさいと命ぜられました。まさにキリストの名における神の権威がそこにあるということです。
  ゆえに、いまやキリストの名にある権威は、イエスというお方にのみ使用される称号であり、他の者に移行することのない神の御名であることがわかります。


II. ἐγώ εἰμι
 聖書に見る「キリスト」の名は直接的な意味としては、福音書記者が記しているようにイエスの職制、権威、資格です。ルカの福音書4:16~30に記されている主イエスイザヤ書61章を朗読し、そこに預言されている「油注がれた」者がご自分であることを宣言されました。
   その「油注がれた」お方のお言葉から、「キリストの名」にある豊かさを見ることができます。その言葉はἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)です。ἐγώ εἰμιはイエスの神性を表わす語として良く知られているように、かつてシナイ山にてモーセが聞いた神の聖名「わたしはある」(出エジプト3:14)のことであると言われていますが、ここでは特にヨハネ福音書におけるいくつかのἐγώ εἰμιに注目します。
①「わたしがいのちのパンです」(6:35)
②「わたし世の光です」(8:12、9:5)
③「わたしは羊の門です」(10:7)
④「わたしは良い牧者です」(10:11)
⑤「わたしは、よみがえりです。いのちです」(11:25)
⑥「わたしは、道でり真理でありいのちです。」(14:6)
⑦「わたしはまことのぶどうの木」(15:1)
●「わたしがそれ(キリストと呼ばれるメシア)です」(4:25~26、18:5)
上記8つのキリストの名には、イエス・キリストがどのようなお方かを表す意味が含まれています。このすべてが私たち人間のだれもが必要とするかけがえのないものであります。つまり、今やナザレのイエスの称号として固有名詞化したキリストの御名には、私たちの人生においての大切な答えが集結していることがわかるのです。
   これは、何れも他に例を見ないキリストの卓越性に気付かせられます。

  「真理」を例に挙げると、他の宗教者であるならそのほとんどが、それぞれの開祖が探究し発見した「真理」を指し示すものではないでしょうか。しかし、キリストは「ご自身」と「真理」をイコールとされたのです。それは「道・いのち」においても「羊の門」においても「いのちのパン」「世の光」「まことのぶどうの木」「よみがえり」そして「メシア」においても同様です。それは、それぞれがキリストご自身であるという意味だからです。だから、キリストがこの地上に来られたということは、「真理」が受肉したということであり、また「道」が、「いのち」が人の姿をとって来られたということでなのです。
  これはかつてシナイ山において「わたしはある」と言われたお方の具体的なお姿であり、私たち人間との関わりの中で、私たちにとってなくてはならないお方であることを表わしています。主はその存在を福音書においてもはっきりと示し、私たちがそのキリストを通して父なる神を体験的に知るように顕わされたのです。
  主イエスヨハネ17章のいわゆる「大祭司の祈り」の中でこう祈っています。
「わたしは、あなたが世から取り出してわたしにくださった人々に、あなたの御名を明らかにしました。・・・わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。・・・そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
 主イエスは、父の御名を私たちに明らかにし、父が御子に与えられた御名の中に私たちを保ち、知らせ、またこれからも知らせ続けるのは、父の御子に対する愛が私たちの中にあり、御子ご自身が私たちの中にいるためだと言われています。

 

Ⅲ.わたしもその中にいる
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
マタイ18:20
 それが、キリストの名によって集まるところにキリストご自身が臨在されるということです。これもまた、他に例を見ない事実です。私たちの名前を考えた場合、名前が語られたからと言って、そこに私たちの存在があるとは必ずしも言えません。その名前における権威は人間でもあり得る使われ方でありますが、名前とともに実体の臨在を一致させることはできません。しかし、キリストはその名によって集まるところにともにいると約束されたのです。それは信じる者すべてに与えられた主の御霊において日々体験し、その臨在を覚えることができるということです。
 そのインマヌエルの主は、こうも言われました。
「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:14)
 私たちは、キリストの名によって祈ります。それは、第一にキリストがそこに臨在されることを求めるからです。私たちともともにいてくださる主を私たちは慕い求めます。この混沌とした世界にあって、キリストの臨在の中集まる我らに主の知恵、主の愛、主のきよさを私たちは必要としています。
  第二には、私たちの祈りを天の父に届けるためです。それは、御子が、神と私たちを執成す唯一の大祭司であり、仲介者だからです。私たちはキリストの血による贖いのゆえに救われました。その血潮は今もなお、私たちのこの地上を歩む上で汚れてしまう足を洗いきよめ続けるのです。

 

結論:「キリストの名」・・・それは、神の御子、メシア、王、預言者、大祭司、犠牲の小羊、しもべ、完全な人間としての使命を帯びています。そして天においても地においても、あらゆる被造物を従わせることができる権威が、この「キリストの名」にあります。そして、「わたしはある」という名をモーセに示されたお方は様々なἐγώ εἰμιのお姿で私たちの「道・真理・いのち、門、いのちのパン、よみがえり、メシア」として、信じる者とともにあります。それは「キリストの名」が、私たち人間にとってなくてはならない、かけがえのない存在であることを表わしているからです。それが、キリストの名によって祈ることの必要をも教えてくれています。それは、その名を呼び求め、その名で集まり、その名で語りあうそのとき、キリストの権威・キリストの卓越した神性に触れることができるからです。それは、私たちの想像力や思い込みでキリストをイメージしているのではなく、まさしく今も生きて働かれているキリストご自身の臨在がそこにあり、まさに「わたしを見たものは父を見たのです。(ヨハネ14:9)」 とあるように、キリストの名によって集められた私たちは、キリストの臨在を通して、天まします我らの父を知ることができるのです。

  それは、キリストに連なる我々キリスト者は「父、子、聖霊の御名によって」、キリストとバプテストされたという聖霊の恵みの中に取り込まれているからです。

 

(文責:川﨑憲久)

◎アドヴェント特別聖書研究「闇に輝く大きな光」イザヤ書9章1、2節〜マタイ4章15、16節

f:id:kinokunizaka66:20181202004026j:image

 

"しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。"
イザヤ書 9章1〜2節

 

"「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」"
マタイの福音書 4章15~16節

 

 

 この節の中心テーマは闇に光が輝くという希望です。その理由は、闇の中で見る大きな光、死の陰の地の上に輝く光に現わされる神の恵みによる救いが比喩的に示されているからです。ゆえにこのイザヤ書における9:2の役割としては、9章前半自体がそうであるように、イザヤを通して語られる他のさばきの預言の中にあって、読者に希望を与えていることがわかります。特に、1~2節には、3~7節の具体的なメシア預言を効果的に照らす役割があると言うことができます。

   ヘブル語聖書では、9章2節から9章が始まります。そして、ここからまた詩文体になります。この部分が8章19節から9章1節と密接な関係を持つことは、この2節のテーマである「光と闇」の対比から明らかにされます。ここで言われている「闇」とは何か。また「光」とは何か。その二つのキーワードに注目しつつ、この2節から広がるイザヤの預言に聴いてみましょう。
 
1.闇の中を歩んでいた民~死の陰の地に住んでいた者たち
 まず闇についての部分。「闇の中を歩んでいた民~死の陰の地に住んでいた者たち」という表現です。ここでは闇の中ということばと死の陰の地が対応しており、歩んでいた民と住んでいた者たちがそれぞれ対応しています。
 この「闇」と「死の陰」は、BC734年~732年にアッシリアのティグラセ・ピレセルが侵入して、占領した後の悲惨な状況のことだと言われています。
 ここでは同じような意味でありながら、後半のことばによって、より具体的に救いが表されていることが分かります。それは、同義的並行法によって互いの意味を補い合っているからです。そこに「死の陰の地」と言われることで、当時の文脈としては、その闇というのは、民が受ける圧制であったり、苦難であったり、苦しみを表す暗黒であることがわかります。闇の中でも死の陰の地においても、そんなところを歩まなければならない苦しみがあり、そんなところなのに住まなければならない辛さがあることがわかります。その闇の中、死の陰の地で苦しむ民にとって必要なことは何でしょうか。そのような自分ではどうすることもできない状況で、彼らにとって必要なのはメシアです。そのメシアへの希望。メシア自身が光として来臨する希望です。8章や9章8~10章4節に悲痛さが示されているのは、この預言が語られた時代での闇の状況であり、それによって、闇をも滅ぼすことができる光であるメシアへの渇望を表わしています。

 

2.大きな光を見た(る)~光が照った(光り輝く )
 次にその光について語られている部分をみます。「大きな光を見た~光が照った」という表現です。ここでは大きな光を見たことと光が照ったという言葉が対応しています。
 それぞれの行の主動詞「見た」と「照った」は完了形であり、イザヤの目には、暗黒の闇の中に差し込む大きな光がはっきりと見えていたことがわかります。異邦人のガリラヤはまさに神の光栄を受けることが宣言されたのです。
 ここでも一見同じようなことを言っているようでありながら、民が見た「大きな光」がただ偶然そこにあったというよりも「照った(輝く )」という、光の出現の必然性を見ることができます。しかも、その光は暗闇の中にいる民の遠くにいて光っているのではなく、死を覚悟し、いのちを失いかけている民の真上に輝いているという救いであることがここに示されているのです。
 それが救いの光であり、神がもたらすメシアによる救いの預言でした。それは、神がイザヤを通してユダの民への救いの希望を与えるためであり、これから起こる背教への神のさばきとしての苦しみがあるが、必ずそこには救いの希望があることを予め示したものです。この希望はそれから約700年後にイエスによって成就しました。

 

3.マタイ4章15~16節への引用
①文脈:イエスの宣教第一年開始のとき、バプテスマのヨハネガリラヤの国主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられたことを聞いて、イエスガリラヤに立ち退かれて、その宣教はガリラヤから始めることになりました。そのことをマタイは「預言者イザヤを通して言われたことが、成就するためであった」として、イザヤ9章1~2節を引用しました。
②歴史的関係性:イザヤの預言どおり、ガリラヤ地方はBC8世紀にアッシリアによって侵略され、イスラエル人は捕虜としてアッシリアに連行され、アッシリア人が植民地として移住しました。そのためガリラヤに残留したイスラエル人には異邦人の血が混じって、イエスの時代には、ユダヤ地方の人たちからは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ蔑まれていました。
③イザヤ9:2とマタイ4:16との比較
Is.「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
Matt.「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、
死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。
 日本語訳での大きな違いは「歩いていた…住んでいた」が何れも「すわっていた」となっている点です。これはヘブル語では「住んでいた」יֹשְׁבֵי֙ yō·šə·ḇê に含まれる別意ですが、何れもギリシャ語で「すわっていた」καθημένοις(基本形κάθημαι =座る)と訳することで、歩くこともできず、虐げられてうずくまって身動き取れなくなっている状態を表わしていると考えることができます。マタイにおいて民の状態が窮状化しているのは、イザヤが預言したときから比較して、その時期が極まったことを表わしていると推察できます。
④メシアであるイエスは世の光としてこの世に来られた 。その救いの光であるイエスは、「異邦人のガリラヤ」に代表されるように、罪の暗闇で虐げられている人々、罪の報酬である死の地、死の陰で、立つこともできずに、ただ滅びを待っている悲惨な者を救うために来られたのです。つまりメシアは政治的な支配者としてではなく、人類全体のための罪からの解放者として表わされているのです。
ヨハネが捕らえられたことは、光であるイエスが来られた世界がいっそう「暗やみ」、「死の地と死の陰」であることを証明していると考えられます。

 

4.まとめ
 イザヤ9:1~2の預言は、表現としては婉曲的ながら、イザヤ9:6~7の預言との連続性の中で、マタイ4:15~16でその成就が明確に証しされているように直接的成就だと考えられます。バビロン捕囚以降、クロス王による解放を見ても、このガリラヤの地でイエスの出現以外、他に類を見ることができないからです。

  主イエスは、真のメシア(キリスト)として、この世に来られました。あのベツレヘムの羊飼いたちの上に、東方の博士たちの上に、そして、私たち一人ひとりの上にです。この神の光を受けるものとして、ガリラヤが誉を受けたのです。それは後に主ご自身が「ナザレのイエス」と呼ばれたように、主はガリラヤ出身と呼ばれることをよしとされ、全ての蔑まれた者の友となり、メシアとなられたのでした。

   このメシアであるイエスをあなたの心を照らす真の光として受け入れてみませんか。そうすれば、今あなたがどのようなどん底にあっても、どんな暗闇にいても、神のいのちの光に照らされ、真に生きる希望に溢れることができるからです。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12

◎「セムからアブラハムへ」創世記11章10~26節

f:id:kinokunizaka66:20181118061454j:image

 

2018年11月18日 白石教会礼拝   説教題 「セムからアブラハムへ」
聖書箇所 創世記11章10~26節

 

序論
  天地創造から始まった人類の歴史は、神様のことばに逆らってから、呪いが始まりました。その呪いによって人間は死ぬようになり、被造物もその影響を受けて人間に逆らうものとなっていきました。また病気や災害が起るようになりました。その後まもなく人間は堕落しました。そこに大洪水という災害を通して神様のさばきがあったことを見てきました。しかし洪水後は新しい世界としてノアの息子たちセム、ハム、ヤペテから祝福が広がっていくことが神様の御心だった。そのことを知りました。
 そのような、これまでの聖書の流れの中で、系図はどういう意味を持っていたのでしょうか。
  これまで創世記では、アダムの歴史、ノアの歴史、セム、ハム、ヤペテの歴史と区分されてきました。今日は更に、その中でもセムの歴史に絞ってお話が進む箇所です。この系図は、ある意味特別な系図になっています。それは、これまでのアダムの系図とは少しずつ変更があるということです。たとえば寿命が短くなってきていること。また、もう一つは「こうして彼は死んだ」という言葉がないことです。その理由は何か。この系図は何を私たちに語っているのか。その問いをもって聴いていきたいと思います。
  それで今日も二つに区切ります。一つは10~19節「セムからペレグ」、二つ目は20~26節「レウからハラン」です。またもカタカナばかりで集中しにくいかも知れませんが、ここも神のことばですので、しっかりと漏らさないように御心に聴いていきたいと思います。

 

1.セムからペレグ(10~18節)
 まず10~18節を読みます。
「これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。 ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。」
 なぜここで分けたのかわかるでしょうか。それは、前々回のセム、ハム、ヤペテ系図のときに、既に出て来た名前だからです。
10章の22~25節をお読みします。
セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。アラムの子孫はウツ、フル、ゲテル、マシュ。アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。」
 今日の箇所は「セムの歴史である」と始まっていますが、10章の系図を見るとセムには5人の子どもがいたことがわかります。しかし、その中でもアルパクシャデの系統だけが今日の箇所でセムの歴史と言われているのです。なぜアルパクシャデの系統に絞られているかお分かりでしょうか。その答えは一つ。この系図の最後を見ると分かります。26節を読みましょう。
「テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。」
 最後はアブラムとナホルとハランの兄弟です。つまり言いたいことは、アブラムに繋がるための系図だということです。アブラムはこのあとで神様によってアブラハムと名前が変わりますが、このアブラハムに到達するために、このセムの歴史が書かれているということです。そして、このアブラハムからイサクが生まれ、イサクからエサウヤコブが生まれ、ヤコブから12人の息子たちが生まれました。その12人の息子たちからイスラエル民族が生まれました。
 このアブラハムへの神様の祝福を受け継いだセムの歴史だということです。つまりアブラハムを中心に、祝福が過去にまで遡り、逆に未来にも広がっていくのです。そして実際にここに書かれている人々がどんな生き方をしたのかはこの系図だけでは見えてきません。しかし、ここまでの系図を振り返って読んでみると、ここで伝えようとしていることは何かを知ることができます。
 まず注目できることは、冒頭でも言いましたが、寿命が徐々に短くなってきていることです。
  もともと罪を犯してから死が入ってきましたが、寿命は900歳くらいでした。アダムも930歳まで生きたと5章のアダムの歴史を見ると書いています。しかし、今日の箇所を見ると、セムが602歳、アルパクシャデが438歳・・・・そしてテラが205歳です。アブラハムが175歳(創世記25:7)です。どうして寿命が短くなってきたのでしょうか。このことを裏付ける聖書のことばが今までの創世記の学びの中で出てきましたが、どこか覚えていますか。
 それは6章3節にありました。お読みします。
「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。」
 神様は人間の堕落ぶりをご覧になって寿命を120年にしようと仰せられました。そのときから寿命が短くなっていったと考えられます。しかし、ノアの大洪水があって一旦人口が8人になったので、急に120歳にすることはなさらなかったようです。そうでないと人間が世界中に広がる前に絶滅するかも知れません。
 現代は120年という寿命は納得できます。現代は医学の発展で病気になりにくいかたちで本来の寿命がはっきりしてきました。100歳以上の高齢者は日本では、昭和38年では153人しかいなかったのに現在は6万9千人以上いるそうです。
 それでもだいたいが120歳くらいで亡くなるのは、神様がそのようにお決めになったことが果されているということではないでしょうか。もう誰も900歳まで生きることができなくなりました。ですからセムの子孫の系図を見るときに、祝福を受け継いだ一族だと言いつつも、罪の呪いである死とその影響は等しく受けているということです。
 このことは、現代のセムの子孫とも言える私たちクリスチャンにも適用できます。
  私たちはイエス様を信じて罪が赦されて神の子どもにされました。しかし、必ず肉体の死は訪れます。それが、全員が老衰で死ぬわけではありません。事故や病気で亡くなる方や、時には誰かから殺されて亡くなる場合もあります。つまり、まだ信仰を持っていない方と何も変わらない。ある意味、みんな様々なかたちで等しく死ぬのです。
  では何が祝福なのでしょうか。何が恵みなのでしょうか。この地上において、神の民は苦しいだけなのでしょうか。正直者が馬鹿を見るということなのでしょうか。
そうではありません。次を見ましょう。

 

2.レウからハラン(19~26)
 続いて19~26節を読みます。
「ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。」
 さてセム系図の後半からですが、前半との違いは何かわかるでしょうか。前半は、10章で既に名前が出て来た人たちでした。ですから、後半でまず言えることは、知らない人ばっかりだということです。つまりある意味だれからも知られていないということです。最後のアブラムは有名人ですが、他の人たちはよく知りません。実は、前半に出て来た人たちすら誰なのかはわかりません。
 しかし、聖書に名前が記されているのです。どういう人か、どういう生き方をしていたのか全くわかりません。しかし、わかることは、この人たち一人ひとりが確かに、この地上に生きていたということです。そして、この祝福のセムの一族の中にいたという事実であります。
 それは神のことばとして何を伝えようとしているのでしょうか。それは、主は、私たち一人ひとりの名前を呼び、一人ひとりを大切にしているよ。その存在だけで尊いよ。たとえ親があなたを捨てても、友達があなたのことをないがしろにしても、あなたの天の父であるわたしはあなたを忘れず、あなたを祝福するよ。
 それがここにある主のメッセージではないでしょうか。今週のみことばは、まさに神様のあなたに対する愛のメッセージです。イザヤ49:15
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」
 お母さんは赤ちゃんを自分以上に大事にします。お腹にいるときから、産んでからも心を注いで愛します。しかし、仮にあなたにとって守ってくれる、愛してくれる存在があなたを忘れても、見捨てても、「このわたし」主はあなたを忘れない。絶対に覚えていると。一人ぼっちにしないよ。あなたを愛している。祝福しているよと言ってくださるのです。
 今日の系図はアダムの系図のときとは少し違うとメッセージの冒頭で言いました。その一つは寿命が短くなっているということでした。その理由は先程言ったとおり、罪の呪いである死が更に人間の堕落のせいで、神様によって短くされたからだと学びました。

そして、もう一つの違いは何でしょうか。それは「こうして彼は死んだ」というフレーズが消えていることです。これは何を意味しているのでしょうか。
 全部は読みませんが、アダムの系図がある5章5節を読みましょう。
「アダムは全部で930年生きた。こうして彼は死んだ」
 この「こうして彼は死んだ」という言葉が実は、9章29節のノアまで全部「こうして彼は死んだ」と繰り返されているのです。
 セム一族も確かに罪の性質を持った人間であり、義人でも善人でもありません。だから、他の人間と同様に同じように死んでいきます。しかし、今日のセム系図では、あえて「こうして彼は死んだ」ということを言わずに、名の知れない人たちの名簿が残っているのです。ここに、このセム一族から起る救いに大きな希望を抱かせます。「こうして死んだ」とは言わないということは、逆に「生きて・・・生んだ」ということばが残るということです。それは言い換えると、いのちに繋がることばが浮き出るということです。つまり、罪の呪いで死ぬ者ではなく、むしろ、そこに罪人を生かそうとする神の御心が透けて見えるのです。今日の11章11~26節を原語(ヘブル語)で読むと、冒頭の言葉が全部「そして生きた」と書いてあるのです。
 アダムの系図は「こうして彼は死んだ」と罪の呪いを受けた現実を訴えています。しかし、それに対してセム系図は「そして、生きた」という、いのちの始まりを賛美しているのです。

 

結論
 神様は人間の救いのためにセムの一族を祝福し、その子孫から出るアブラハムに焦点を絞ってここまで、この創世記の学びを導いてくださいました。その節目となる今日、神様はこのセム系図を通して、私たちに何をお語りになったでしょうか。
 それは、第一に、私たちのような名の知れない者をも忘れないという神様の憐れみがここにあるということです。この系図にある人たちは日本人である私たちにとっては益々知らない人たちの名簿です。しかし、この名簿は私たちの名簿でもあるのです。名の知れない東の国の日本と言う小さな島国の北海道という更に小さな島の住民である私を、そしてあなたを神様は忘れない。あなたの親があなたを捨てても主はあなたを愛し祝福しようと、この系図にあなたの名前も刻まれているのです。
 第二には、そういう名の知れない私たちを神様は、死ぬものから生きるものへと変えてくださるということです。アダムの子孫はみんな「こうして彼は死んだ」と呪いを受けなければなりませんでした。しかし、今や、このセムの子孫として生まれてくださった主イエス・キリストによって、このイエス様を信じる私たちはこのセム系図に入れられたのです。「そして生きた」と新しいいのちを受け継ぐものとして召してくださったのです。
 イエス様は言われました。(ヨハネ5:24)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
 今週もセムの祝福の系図に招かれている恵みを味わい、呪いを受けて死ぬものではく「生きるもの」として歩みたいと思います。そして更に自分が生きるだけでなく、あなたの隣人を「生かすもの」として歩んでまいりましょう。聖書は繰り返し強調します。「そして生きた」「生きて、生んだ」と。


祈り みことばを感謝いたします。創世記から約8ヶ月あなたのみことばに聞いてまいりました。今、私たちは主イエスのゆえに祝福の系図に連なるものとして招き入れられている恵みを感謝します。どうぞ、あなたのいのちに生かされて、さらに多くの人々をも生かす歩みができるように導いてください。今日、ともに礼拝できなかった方々の上にもあなたの祝福がありますように。主の御名によって祈ります。

 

(牧師:川﨑憲久)

◎レポート「余は如何にしてキリスト信徒となりしか」内村鑑三著

f:id:kinokunizaka66:20181112102731j:image

序)
  私は、「余はいかにしてキリスト信徒になりしか」について、以前「余は如何にして基督信徒になりし乎」という題の古本を読みかけたことがあったが、文語体で訳されていたため、途中で断念した経緯がある。
  内村鑑三という日本人の著書でありながら、原書は“HOW I BECAME A CHRISTIAN : Out of my Diary”というタイトルの英文で出版された。この本の最初の注目点は、内村鑑三自身が冒頭で「いかにして」キリスト者になったかであって、「なぜ」ではないと切り出しているところである。これは、本書にとって大変重要なテーマだと言える。もし、「なぜ」であったら、話が線ではなく点に留まり、このような豊かな体験談にはならなかったであろう。しかし、「いかにして」は、内村鑑三キリスト者になった経緯についてであり、彼のクリスチャンになるまでと、そのあとの生きた信仰の歩みが証しされる。私は、内村鑑三の歩みに起こったキリスト教との出会いと、キリスト教との出会いから始まった新たな苦悩から、彼自身の真剣に神に向かう姿勢と信仰に惹かれるようになった。

 

1.異教からの目覚め
  内村は、江戸・小石川で高崎藩士の家に生まれた。父親は根っからの武士であり、甲冑が欲に合う男であり、儒教信奉者であった。そこで「生きることは戦うこと」して育てられたが、彼の母親は箴言31章に登場するような気高く、力強い女性で「生きることは働くこと」であるという生き方をしていた。内村自身もその母親について、キリスト教における最高の女性像と比較しても遜色ないと言っている。
  この両親の間で内村は育てられ、儒教の心得を学び、大人になっていくが、それと同時に、日本の迷信的神々をかなり真剣に信じていたようである。ポストモダンと言われる今日の日本では、日本古来の信仰は慣習化しており、神社の神を心の拠り所にすることも、信仰というかたちをあらわして日々生活する人も少ないと思われるが、内村鑑三八百万の神々を心から信じていた。確かに信仰の対象は漠然としているが、彼なりに何かを恐れて生きてきたのである。
  内村は自分では捉え切れていないが、目に見えない大きな存在を恐れ、宗教行為を忘れずに行う、信心深い人物であったことは間違いない。
  さて、東京外国語学校から札幌農学校の二期生として入学してから、彼の人生が大きく変化していく。既にクリスチャンになっている上級生に強引に回心を迫られることは、明治維新で文明開化が進み、欧米文化が積極的に取り入れられた時代にとって、ある意味自然の出来事なのかも知れない。その強引な伝道(?)により、内村の友人たちが次々と先輩たちの手に落ちていくのを内村は恐れ、真剣に神社参りをして、学校内の宗教熱を消すように祈っている。その姿は、戦前までの日本人にもよくあった姿であるように思う。確かに偶像礼拝であるが、対象は誤っていても、本物を知らず、それを捉え切れていないだけで、神をも恐れない、個人主義が蔓延している現代よりも、はるかに尊い姿だと思えるからである。内村はこのように一人だけ偶像崇拝者として貫こうと努力した。しかし、学校内の世論が実に強硬で「わたしの力をもってしてはそれに逆らいきれなかった」と内村は告白しているとおり、16歳の彼はとうとう「イエスを信ずる者の誓約」に署名させられてしまった。その署名は30名を超え、内村はその名簿の終わりから2~3番目であったという。この時点で彼は誓約書に署名はしたものの、まだ信仰を持っていたわけではないが、これまでの偶像への信心深さは、唯一絶対の神へ移行させるのにさほど時間はかからなかったようである。
  この札幌農学校時代の記述が非常に面白い。見方によっては、初々しいキリスト者集団の「教会ごっこ」のようにも映る。彼らの中で信者になったものに勝手にクリスチャンネームをつけて呼び合い、それぞれの人物の特徴を記している。そこに「OT」という学生が登場する。彼はパウロというクリスチャンネームであり、後の新渡戸稲造だということがわかると、また面白さも一塩である。ちなみに内村鑑三ヨナタンであった。学年ごとに定期的に持つ祈り会や礼拝、また学年合同での集会、聖書研究会。そして、日曜礼拝の当番で代わる議長は、牧師であり、司祭であり、教師であり、しもべであった。すべてが民主的に行われ、それを聖書と使徒の教えに即していると自負していた。あるとき、学内農場で肉体労働があったとき、外作業で疲れてしまい、その日の夜の祈祷会で牧師当番だった学生が、講壇で祈りの最中に居眠りをしてしまい、内村が代わりに集会をリードしたことが記されていた。その居眠りについて、内村は、自分も含めて皆が眠かったのだから無理もないと優しく弁護しているのが印象深い。しかし、その彼らの学生仲間との自由な信仰生活が、その後の独立教会設立まで繋がり、無教会主義の基礎となっていったことは十分に推察することができる。とにかく、この異教からキリスト教へと変わっていく体験が、内村鑑三が「いかにして」キリスト信徒になったかという第一のポイントである。


2.キリスト者であり日本人であること
  ところが、異教からキリスト教への回心は、彼自身の心の中に内村家という家との関係、そして日本という国との関係において、自己を徐々に見失っていくことに繋がっていく。クリスチャンになることは、内村家を捨てるのか。それ以上に日本を捨てることになるのか。いったい自分は何なのか。その渦中で、内村家においては、家族への伝道によって家族を救いに導いたことで解消できたが、日本という国との関係においては、彼にとって大きな課題であった。特に彼は、もともと信心深かっただけに、神社へのお参りにおいては日本の風習文化と合致しており、それ自体で自分自身が日本人として保たれていたが、キリスト者になってから日本社会とキリスト教との折り合いをどうつけていくのか。内村鑑三キリスト教を、内村自身の日本人としての人格の中で、どのように位置づけていたのかということが、二つ目のポイントとして重要である。
  渡米前も宣教師など多くの欧米人との接触があった内村だが、渡米後は、その欧米人と日本人である自分との、ある違いに強く揺さ振られた。それは知識と信仰をどのように折り合わせているかという部分である。当時の欧米はすでに、世俗化が進み信仰を持たない人々が増えていた。だから、信仰がなくても普通に高い知識をもって、医者や弁護士、また技術者になっている人がたくさんいた。しかし、そうではあっても彼らの知識文化の土台になっているのはやはりキリスト教である。
  内村の時代は明治であるが、多くの日本の知識人は儒教の古典を読み、家を重んじていた。同時に欧米の新しい文化を吸収し、大日本帝国という国の繁栄に帰依し、西欧社会と渡り合うためには、富国強兵とともに西欧文化の専門知識や基礎知識は不可欠となる。それは、その西欧文化にとっての規範となっているキリスト教を置いている土台に、国家神道を据えた新しい日本の歩みである。だから、文明開化において、日本は国家神道という箱の中にその新しい文明を取り入れた。そうなると、これまでの日本社会の倫理や行動基準とどう折り合わせていくかという問題が起こる。
  果たして、日本の政治家・知識人らは、キリスト教信仰を抜きにして、本当に欧米の文明を都合よく取り入れられるのか。それとも、信仰の土台をも新しくして、知識人がキリスト教徒になることで、何の差しさわりもなく日本社会を生きることができるのか。西欧社会にある知識人は、政治・経済・社会・文化に対して、ほぼ自動的に、何の妨げもなくキリスト教を基準とした理解の基に旗を振る。しかし、これまで異教精神に基づいた文化と思想・倫理観で培われた日本人がキリスト教徒になったとしても、政治や文化だけを欧米から取り入れた国家の中で、折り合っていけるのか。
  内村は楕円を描き、そこに二つの「J」を置く。一つは「Jesus」であり、もう一つは「Japan」である。内村にとって、イエスを信じたことで日本人である自分を失うことはなかった。そして、日本人であり続けることで、イエスを失うこともなかった。独立キリスト教会の設立は、そんな彼の、外国ミッションに連なり外国の影響下に置かれることをよしとせず、とにかく独立したいという、仲間との共通了解があって実現した。それは、外国ミッションの統制を嫌った日本人クリスチャンの「独立土着教会」である。それは、欧米人には理解できない、異教からの回心者の受け皿となるべく生まれた教会である。


3.教派との出会いと無教会主義
  内村鑑三の「いかにして…」の第3のポイントは、多くの教派との出会いである。キリスト教国にある人にとっては、カトリックがありプロテスタントがあるのは当然であり、その歴史と共にいつもキリスト教会があった。そして、1517年ルターの95カ条提題に代表する宗教改革によって、多くのプロテスタント諸教派が生まれた。内村鑑三札幌農学校で、外国人教師から農学を学んだが、その教師とはメソジストの宣教師であり、内村ら学生をキリスト信仰に導いた。アメリカに渡った内村鑑三は、ニューイングランドを中心に、プロテスタントの影響下で思索を深めた。内村が綴った言葉からは、当時のアメリカ社会を初めて見た極東アジア人の若者の視点が実に生き生きと描かれている。そこには、憧れと共に、失望に近い幻滅を感じることができる。そのアメリカにおいても、内村は主にメソジストの影響下にあった。その他に長老派、聖公会の人々とも交流を持っている。しかし、アメリカのプロテスタントが様々な教派に分裂し、対立・競合し合う中で、そのどれにコミットするかを決めるのは、異教国日本で異教から回心した内村にとって、至難の技であった。彼はのちに神学校に進むがノイローゼになってしまう。そういう中にあって、ユニテリアン、スウェデンボルグ、クウェーカ等と出会い、翻弄され途方に暮れる。結局は、様々な宗派・教会の差異や教義について嫌悪し、独自の無教会主義というキリスト教を唱えていくことになる。

 

感想
  私が、この書の中で内村鑑三としてのキリスト教の捉え方を学んだのは、内村鑑三自身が、札幌農学校での異教からの回心、独立キリスト教会設立、アメリカ留学での様々な体験を通して得た彼の結論である。
  それによると、本来、キリスト教は純粋で単純であるが、神学教授らによって装飾され教義化されたものとは区別するとある。同時に、内村の、異教についての考えに、いささか相対的な態度を垣間見る。異教にも様々な欠点があるのは内村も認めるが、その欠点が、一方的にキリスト教が優れている理由にはならないという。それはキリスト教も、先に述べた神学教授らの装飾たる、キリスト教国に見られる自己満足という欠点があるからである。それでも、キリスト教こそが、異教が探し求めていた究極の真理であると内村が断言するのは、イエスを通して与えられた純粋な信仰と、キリスト教国が生み出したキリスト教とを分けて考えているからである。この頑固とも、一見へそ曲がりともとれる内村の足跡は、祖国日本を愛してやまない一人のキリスト者の孤独を感じさせる。その孤独な歩みは、塚本虎二、矢内原忠雄らによって引き継がれた。その功績は非常に大きいと言わねばならないが、晩年、その塚本と無教会主義について対立し分離させてしまった。それも内村鑑三らしい出来事なのかも知れない。
  その後、第二次世界大戦時、無教会派は日本基督教団には加盟せずに、ホーリネス派やブレザレン派とともに弾圧される道を選び、その後も無教会を貫いている。そして、さらに多くの聖書研究者、教育者を輩出し日本のキリスト教教育・宣教に大きな役割を果たした。
  こうして、ここまで、彼の遺してきたものが尊ばれ、今もなおその影響を受けた人々が生まれ続けることを、内村鑑三自身はどれほど感じていたのだろうか。ジャーナリストとして、一人のクリスチャンとして、そして日本人として、内村鑑三の歩んできた道のりは決して色褪せない。今もなお、現代のキリスト教会に一石を投じ続けている。

                                                   (文責:川﨑憲久)

◎「全地に散らされる恵み」創世記11章1~9節

f:id:kinokunizaka66:20181111183852j:image

 

序論
 先週は、人々が世界に広がったのは、ノアの祝福が広がるためだったということをお話しました。今日のお話は、それがどういうきっかけで広がることになったのかということについてです。
  ですから10章のノアの祝福の広がりと思わせて、実はこんなことが理由でしたということを知らせる大切な役割を果している箇所です。つまり、神様は祝福を広げるために「うめよ。ふえよ」と命じたけど、実際は順風満帆にはいかなかったことを知らせています。
  それで今日のメッセージでは、二つに区切ってみことばに聞いていきたいと思います。一つ目は1~4節「人間が集まる理由」というお話をします。二つ目は5~9節「そこで神は人間を散らされる。」ということをお話します。

 

1.人間が集まる理由(1~4節)
 1~2節を読みます。
「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」
 セム、ハム、ヤペテの三兄弟は、それぞれ子孫を増やしていったことは先週見ました。しかし、まだ一緒に同じ地域に暮らしていたようです。
 彼らが使っていた言語は一つでした。1節の「全地は一つのことば、一つの話しことばであった」とは、彼らの言語が共通した一つの言葉であったということです。それがヘブル語なのか英語なのかはわかりません。彼らは会話に不自由することなく暮らしやすいように平地を探してそこに定住しました。これは現在のイラクのあたりのことです。
  先週、ハムの孫のニムロデがシヌアルという地に住んでいたので、今日のバベルの塔を建てたときの権力者ではないかという話があります。でも、もしそうなら今日の場面でそのニムロデという名前が出てきても良いはずです。しかも4節を見ると決して一人の権力者のために建てているのではないことがわかります。3~4節を読みます。
「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』」
 まず「互いに言った」とあります。直訳では「友達に向かって言った」と訳せます。その表現を「互いに」という意味で使うのがヘブル語のニュアンスなのです。彼らは一人の権力者ではなく集団でレンガを開発し、粘土ではなくアスファルトを利用してレンガを積み上げる技術力を得たのです。それで神様に感謝するのではなく「われわれは・・・名をあげよう」と言っています。一人の権力者ではなく、群れとして同じ方向に向かおうとした。これがセム、ハム、ヤペテの子孫たちが一つになって、群れとなって行き着いたときの言葉でした。
 この言葉に彼らの罪の性質がにじみ出ていることがわかるでしょうか。聖書は決して人間が集まることを禁じてはいません。人が群れになることを禁じてはいません。しかし、人間が集まるときにどんなことが起きてしまうか。
 彼らは町と塔を建てると言いました。その目的が「名をあげる」ためだったということが人間の罪の性質を表しています。その象徴が「頂が天に届く塔」でした。彼らは「名をあげよう」と自分たちの力を誇ることに価値を置き、すっかり神様へのまっすぐな信仰を見失っていたようです。
  この「頂が天に届く塔」とは、いったい何を意味しているのでしょう。それは、自分たちの力で天に昇る。つまり自分たちで救いを手に入れられるという思い上がり、高慢がここにあったということです。自分たちの力で天国に手が届くと思ったのです。
  このことは現代でも同じです。この自分勝手な思い上がりの延長上に、様々な偶像があると思います。多くの宗教の創始者は、ここに救いの道があると指し示します。その道を歩めば救いがあると言います。しかし、聖書は何と言っているでしょうか。イエス様は何と仰ったでしょうか。
「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6
 神様に近づく道は、あそこだここだとは言わず、イエス様は、ご自分がその道だと主は言われました。このように明確に救いを示すのはイエス様だけです。このイエス以外に救いの道はありません。
 しかし、究極的に人間は本当の意味で神を求めていません。その原因は高慢です。その高慢は、神のことばよりも自分の業で勝ち取ることに魅力を持っています。また、その業を称賛されて益々思い上がります。だから、逆に聖書のように人間にとって都合の悪いことばかり書いてあると、耳が痛いので避けようとします。罪を指摘されるからです。
  しかし、このことは、既にイエス様を信じている私たちも注意が必要です。なぜなら、救いは神のことばであるイエス様の恵みなのに、何か自分ががんばってることに価値を置いてしまいやすいからです。毎週礼拝に出ていること、献金すること、奉仕すること、人に仕えること。様々な信仰の歩みが、ときどき自分の業になることはないでしょうか。私がこんなに頑張っていることで信仰深いと錯覚するなら、それは天に届く塔を建てているということです。また、私なんか礼拝もあまり行けない。献金でいない。奉仕もできない。だからクリスチャンとして価値がないと思っているなら、それもまた自分の力で天国に行く価値を求めているということです。どちらも共通することは、高慢です。
  大切なことは神のことばに聴くことです。ノアは神様からお言葉をいただいて箱舟を造りました。彼らも主に伺うべきでした。しかし、彼らの建てる目的が主のためではなく、自分の名をあげるためだった。教会も人間中心になって神のことばに聴かなくなったら終わりです。

 

2. 「そこで神は人間を散らされる。」5~9節
5~7節を読みます。
「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
 ここで神様はどうされたでしょうか。それは「降りて来られた」と書いてあります。人間が「天に届く塔を建てる」と息巻いて、上に上にと高く上ろうとすることを皮肉るように、神様は降りて来られる。その理由は「人間の建てた町と塔をご覧になるため」でした。ここを直訳すると「ヤハウェ【主】はアダムの子達が建てた町と塔を見るため」となります。ノアの子達ではなく、アダムの子達。まさに罪の性質をだれから受け継いだのか。そのことにも聖書はしっかりと触れています。ここに、神に近づくことが人間には到底無理であるという現実が鮮明にされています。人間がいくら努力しても神様には近づけない。それが現実です。どんなに良いことを積んで立派な人になろうとしても、その立派さは自分の満足になってしまうという現実です。
 しかし、神様は近づいてくださるのです。降りて来てくださるのです。ただ、このとき神様は彼らの思いあがり、高慢がはびこらないように、人間たちに混乱を与えて散らされることをお決めになりました。
 それが言語を混乱させるということです。ここから、その言語が通じる者たち同士で移動するようになり、世界に広がり、民族や国が形成されていきました。 
当初、ノアの祝福が世界に広がる喜びであったはずだったのに、蓋を開けてみると、人間の罪のゆえに神様が介入されて、ようやく広がったのでした。8~9節を読みます。
「こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」
 彼らは「その町を建てるのをやめた」と書いてあります。神様の介入によって、ようやく彼らは世界に広がっていった。先週、祝福が広がるためだったと学んだはずなのに、そう上手くはいかなかった。それがここから読み取れます。
 こうして、人間は世界に広がりました。そもそもは祝福を受けた人たちが神に感謝をもって広がることを目的としていました。しかし、現実はどうでしょうか。祝福は広がっているでしょうか。
 先日、11月3日に「ハンガーゼロ・日本国際飢餓対策機構の世界食料デーのための札幌大会が、北星学園女子中学校でありました。札幌市内の各教会の牧師や教会員、関係者が集まり、私も行って来ました。そこで聴いたお話で私の心に残ったことが二つあります。一つは日本で食べられるはずのものを捨ててゴミになった量です。食品ロスと言いますが、年間どのくらいだと思いますか。何と650万トンです。これは日本人が一人当たりご飯茶碗一杯分を一年間捨てているのと同じだということです。
 それでは、世界で貧しくて食べるものがないために死んでいる子どもは、どのくらいだと思いますか。これはクイズにしましょう。①4時間に一人②4分に1人③4秒に1人。正解は③4秒に1人です。
 世界に祝福が広がるように神様は人間を置いてくださいましたが、そうなっていない現実を見るとき、私たちは愕然とします。そして、恐らく多くの人は神様がいるなら何故こんなことが起るのかと神様のせいにするのではないでしょうか。
 しかし、聖書は何と言っているか。それはもう一度、5節を読みましょう。
「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。」
 聖書は、それは「人間が建てた町と塔」と言っています。つまり、今の現実は神ではない。人間が起こしたことだと証言しているのです。その中で、不平等、貧富の差、過剰な経済競争、そして戦争が起っているのです。しかも、それは実は言葉が通じないから、言語が違うからという理由ではありません。確かに民族間、宗教間での紛争が起っていますが、それは実は表面的にそう見えるだけで、根本は違います。
 それは4節にあるように「名をあげよう」という、利己的な罪が集まってせめぎ合って生まれている現実なのです。その「名をあげよう」も突き詰めれば、不安から起るものです。自分が一番に、自分がスタンダードになれば安心できるからです。その発端はアダムから来ていることは、この創世記から始まる聖書で繰り返されている事実です。それは神の言葉よりも自分のことばを優先するところから始まっています。ですから、実は同じ言語を使っていても、私たち人間は必ずしも仲良しになれるわけではありません。
 社会の最小単位である夫婦を見れば一目瞭然です。同じ日本語を話していても、話がかみ合わないことを経験しないでしょうか。夫婦でも。その会話が成り立たない悲しみを味わったことはないでしょうか。

 

結論
 大切なことは、何でしょうか。それは神のことばによって一つとなることなのです。そのために、神様は私たちに聖書を与えてくださいました。昔は、単に自然を通して被造物を通して語られました。その後、罪が入って来たので、神様は預言者を送ってみことばを語られました。そして、最後に神のことばとしてイエス・キリストをお送りになって、そのお方を通して語られました。そして今は、そのキリストが建てられた教会を通して語られています。その教会は聖霊によって聖書から語っています。そして、今日も、聖書のことばから神の御心を聴いています。
 ここに、神様があえて人間を世界に散らされた意味が見えてきます。散らされたからこそ、一つとされる喜びがあります。散り散りにされたからこそ、そこから主を求める心が起こされます。頼るべきお方が唯一の主であることに気づかされるのです。
 私たちはみんな生まれた場所や育った家庭環境が違うもの同士です。本来なら一緒にいられません。しかし、このように一つ心になっているのはどうしてでしょうか。それは、神のことばによって一つとされているからです。だから夫婦もそうです。日本語で話しているのに話が通じなくても、神のことばに信頼するなら、そこに平和が訪れます。
 教会が生まれたペンテコステのときもそうです。弟子たちが集まっていると聖霊が下って、弟子たちは様々な言語で神のことばを語ったのです。大事なのは同じ言語よりも、神のことばに聴くかどうかです。
 私が学んだ北海道聖書学院では多くのキリスト教団体の人たちが集まります。日本同盟基督教団、福音バプテスト宣教団、インマヌエル綜合伝道団、福音自由教会日本福音キリスト教会連合など。どうして同じ神学校で学べるのでしょうか。キリスト教会という看板を掲げているからでしょうか。気が合うからでしょうか。そうではありません。神のことばである聖書に同じ価値をもって、そこから神の言葉を聞いて従おうとするからです。教会といえども、神のことばに聴かずに人間の思いを優先するなら上手くいきません。大事なことは神のことばで心が一つとなることなのです。
 今、私たちは会堂をどうするかという話し合いをしています。その目的がもし自分たちの「名をあげるため」つまり人間的な都合を優先させていたら神様によって散らされます。それは目に見えない内なる教会としてもそうです。教会を人間的な楽しみの場、単なる仲良しクラブにしようとするなら散らされるでしょう。しかし、神の言葉である聖書に聞いていくなら、むしろもっと仲間が集められるでしょう。
 そうです。主は、主のことばを聞かない者は散らされ、主のことばに聴き従う者たちを集められるのです。そして、今度こそ、主のことばの恵みを携えた者が、家庭に、職場に、学校に、世界に、それぞれの宣教の場へと遣わされるのです。その宣教の現場にだれが行くのでしょうか。

  それは、あなたです。神の御心は、神のことばを携えたノアの子孫が増え広がることだからです。

 

祈り
 恵み深い天の父なる神様。あなたはかつて私たち人間が同じ場所にいると良くないと思われて世界に散り散りにされました。しかし、今、あなたは私たちを集めて一つとしてくださっている恵みを感謝します。それはただ御子イエス様が罪を贖ってくださり、そのいのちに与るものとして集めてくださったからです。どうか新しいいのちに生かされている私たちが、いのちのことばである聖書にいつも聴いていくことができるように導いてください。聖書のことばを人間の都合に合わせて読むことがないようにも導いてください。
アーメン。