日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2023年2月5日 白石教会礼拝説教

説教題 「何をしてほしいのですか」
聖書箇所 マタイの福音書20章29節~34節
 
 

 使徒ペテロは、第一の手紙の中でこう言っています。
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」
 私たちも、実際に肉眼でイエス・キリストというお方を見てはいません。でも、愛しています。そして、信じています。さらに、この方を想い、この方のことを思い巡らすだけで、踊り上がるほどに喜びが湧いてきます。ペテロは、その喜びのことを「栄えに満ちた喜び」と表現しています。その喜びこそ「信仰の結果であるたましいの救いを得ている」証しだからです。
 
 この喜びをもって生きていることが、キリストを信じて救われている証拠。裏を返せば、喜びがないならば、救われていないということになります。救いと言うのは、救われた喜びが神への感謝となって溢れる状態であり、その感謝に押し出されて、私たちはキリストが歩まれた道を喜んで歩むのです。
 ところが、イエス様を信じて救われて喜んでいたはずなのに、元気を失い、喜び踊るどころか、失望感に襲われて、がっかりするときがあるのも事実です。そんなとき、喜んでいるふりをするならば、益々、その病状は悪化するでしょう。では、そういうことが起こるということは、それで救いを失うということなのでしょうか。ペテロが言っているような喜び踊るなんて、とても今の自分にはない。そんなとき、救いを失っているのでしょうか。
 
 私もこれまでの40年の信仰生活の中で、何度も「何の喜びもない」という時がありました。皆さんは、いかがでしょうか。今、イエス様に救われて本当に喜んでいるでしょうか。信仰の結果であるたましいの救いを得ているでしょうか。栄えに満ちた喜びを保っているでしょうか。
 今日の聖書箇所は、二人の盲人にスポットが当てられます。彼らのイエス様との出会いは、まさに救いを得て、どのように生きるのかという大切なことを教えています。
 
 
1.道端に座って
 29節、30節をお読みします。
「さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、『主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください』と叫んだ。」
 イエス様と弟子たちは、エリコという町を出た、とあります。これはすなわち、まさに次の町であるイスラエルの都エルサレムへ向かったということです。そこで、何が待っているのかは、前回の説教で触れましたが、18節、19節で言われていたことです。
「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
 
 イエス様の思いは、ひたすら十字架に向かっていた。そこに、その深い御心も理解できていない弟子たちと、違った意味でメシアとして期待して付いて来る群衆がいたのです。それは、客観的に見ると、一人の有力な男が現在の支配者に成り代わって王となるために、大勢の人々を引き連れて都エルサレムへ入ろうとする姿でしょう。
 長年、ローマ帝国の支配にあって、その主権を失っていたユダヤ人にしてみれば、またとないチャンスです。どの時代も、為政者に対する不満を抱えた人はいます。それで、現代であれば選挙で、政治的リーダーとして候補者を擁立し、これまで抱いていた不満が少しでも解消できるようにします。
 
 この時にイエス様について行った大勢の群衆も、そのような思惑があったと考えられます。そのことについては、次回21章に入ってからのことです。今日、注目したいのは、そのような社会的な動向や、社会の枠組みに入れないでいる人たちです。今日の箇所には、「目の見えない二人の人」が登場しています。彼らはどのように、その社会に存在していたのか。それは、「道端に座っていた」という言葉が、彼らの存在と生き様を表しています。
 多勢の群衆、つまり、ほとんどの人がイエス様について行く中で、そのことから取り残された人がいたということです。ザアカイの話では、イエス様を見ようとイチジク桑の木に上ったとありますが、彼らにはそんなことはできません。しかも、ザアカイのようにお金持ちでもなく、道端にいるしかない、手も足も出ない状態であったということです。
 
 しかし、彼らは、自分にできる精一杯のことをしました。それは、「叫ぶ」ということです。確かに目は見えない。しかし、声は出る。では、その声をどのように使うのか。それは、自分の窮状を主にお伝えするということです。しかも、彼らは、このときは、まだ「目を開けてください」とは、言わず「あわれんでください」と叫ぶだけでした。
 「あわれんでください」とは、「助けてください」とか、「同情してください」という意味がある言葉です。つまり、その心だけでも自分に向けてくださるならば、「助かります。救われます」という、現在の状況からの救いを求める積極的な叫びでした。
恐らく、目が見えるようになれば良いに違いない。しかし、これまで、長年道端にいて、そんな希望すら失っていたのでしょう。だから、きっと、イエス様が来られるまでは、目が見えないだけでなく、ものごいと同じように、食べ物やお金を求めるために、道端にいて施しを受けるだけでした。自分には何もないとがっかりした人生だったでしょう。
 
しかし、今、彼らはイエス様に「あわれんでください」と叫ぶために、その声を用いることができたのです。何もないのではない。声があった。口があった。しかも、群衆はそういう彼らを、黙らせようとたしなめますが、この二人の盲人は叫び続けるのです。特に、彼らのイエス様への呼びかけの言葉は信仰告白です。
「主よ、ダビデの子よ。」
 これは、イエス様のことを「メシア(救い主)」ですと大胆に、大声で告白しているのと同じです。これまで手も足も出ない人生であった人たちが、そこで、今できる最善の方法を、主を告白するために用いたことは、私たちの信仰の原点を教えています。
 
 私たちも失望の中でも出来ることがある。それは、その道端にすわったまま主に叫ぶことであり、主を自分の救い主として呼び求めることです。ここは、信仰者の原点です。何もない自分、道端に座っているしかない自分を認め、直ぐな心で、かっこつけないで、ありのままの心のうちを、神様に投げかけるのです。訴えるのです。
「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と。
彼らは、もう、自分の中でどうなることが良いのかもわからないほど、辛い日々が続いていたと推察できます。だから「あわれんでください」としか言えなかった。でも、「あわれんでください」という祈りは、究極的な願いではないでしょうか。もう、こんなにも惨めな気持ちで、ああしてほしい、こうしてほしいなんて言葉は出て来ない、そういう極限は人生には起こって来ます。そのときこそ、ただ主に「あわれんでください」と祈りたいと思います。
 
 
2.主は深く憐れんで
 するとどのようになっていったか。それが32節です。
「イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。『わたしに何をしてほしいのですか。』」
 ここでイエス様は、立ち止まって、その盲人たちを呼びました。ここで、イエス様と盲人たちの間の距離が気になります。それを解決するには、並行記事のあるマルコの福音書を見ると良いと思います。こう書いてあります。
「イエスは立ち止まって、『あの人を読んで来なさい』と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる』と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」
マルコ10:49、50
 
 マルコ福音書を見るとこのプロセスが詳しく書かれています。この目の見えない人たちの内の一人がバルティマイという名であることがわかります。イエス様が呼んだとは、その中継に、おそらく弟子がいて、弟子を介して、この目の見えない人たちがイエス様の所に来たということです。しかも、それは尋常ではない立ちあがり方、駆け付け方でした。それは「躍り上がって」です。
 彼らは、まさか、その叫びが聞かれるなんて、夢のような思いで立ち上がって、目は見えないけれども、もう道端に座りっきりではない、立ち上がって、今度は、その足をイエス様に近づくために使うのです。声だけではなかった。足も使えるのです。イエス様に会うために、です。
 
 そして、ここでイエス様らしいことを言われます。
「わたしに何をしてほしいのですか。」
 これは、もう何度も説教の中で言って来たことですが、イエス様は、わからなくて尋ねているのではありません。でも、あえて「何をしてほしいのですか」と質問をされます。それは、彼らが自分の口から、もっとその奥底にあることを聞きたいからです。また、あらためて、自分のことばで言うことで、彼らの思いが彼ら自身の中で整理され、感情だけで支配された言葉ではなく、本心を語るようにされるからです。
 
 北海道聖書学院の私の授業で、必ず、授業の最後で、神学生の皆さんに一言ずつその日の授業で受けた感想を述べてもらうようにしています。それは、その日学んだことを、他の人に伝えることによって、その人の中で整理され、その人の中にある学んだポイントを自覚するようにできるからです。100分の授業を1分くらいで語るのですから、心にある中心的なことが出てきます。
 イエス様も、目が見えず、大勢の群衆から外れていた彼らのその悩み苦しみ、道端に座っているしかなかった、これまでの人生で悩み、彼らの心の奥にしまってあった本音を、イエス様は本人の口から聴きたかったのです。そうすることで、彼ら自身が自分の問題点に気が付き、そこをイエス様に触れていただくことができるからです。
 
 彼らは、イエス様の質問に素直に答えました。あらためて、イエス様の顔を見るようにして出てきた願いは33節。
「主よ、目を開けていただきたいのです。」
 目が見えない人ですから、これは当たり前の願いにも聞こえます。しかし、あわれんでくださいという願いから、彼らの必要が具体的にされたのは確かです。今迄、どれだけ、目が見えないことで苦しんで来たでしょう。29節にあった大勢の人たちと同じことができない悲しみ。声を上げても黙らされるし、相手にしてもらえない苦しさ。しかし、今、ここに彼らは人生の分岐点に立たされたのです。
 
 今、暗やみの人生に光が照らされる、その時を彼らは迎えた。それは素晴らしい瞬間です。ここで、私たちも、やはり彼らの姿から、信仰というものを見つめ直したいと思うのです。どんなときでも、主に思いをぶつけても良いという自由があるのです。その声を主に対する祈りとして用いることができます。そこから、今度は立ち上がって、主のもとに行くというところまで導かれていきます。
 
 道端が自分の居場所ではなかった。まさに呼んでくださったイエス様の御許こそ、私の居場所、あなたの居場所です。 そういう私たちをイエス様はどうなさいますか。
34節。「イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」
 
 ここにイエス様が深くあわれんで、彼らの目に触れてくださったとあります。マタイの福音書では、実は、この目の見えない方々の信仰についてはあまり触れていません。並行記事のあるマルコやルカには、ここでイエス様の「あなたの信仰があなたを救いました」というおことばがあって、彼らはいやされています。彼らの信仰が彼らを救った。つまり、これまで見て来たように声をあげて、「主よ、ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と食い下がって叫んだ信仰、イエス様の御許に躍り上がって近づく信仰が、彼らを救ったというふうに読めます。
 
 しかし、マタイでは、そのことにはまったく触れておらず、マタイだけにしかないことが書かれて、この場面が終わっているのです。それが34節です。それは、どういうことでしょうか。つまり、マタイがこの二人の盲人の癒しに見る救いをどのように伝えているかというと、それは、やはり救いとは主イエスの深いあわれみによるのだということではないでしょうか。
 しかも、彼らが食い下がって叫び続けた「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」という願い通りに、主は「深くあわれんで」くださった。実は、この「深くあわれんで」という言葉は、原語(ギリシア語)では30節の「あわれんでください」と同じ言葉ではありません。目の見えない人たちが叫んだ言葉は、言い換えれば助けてくださいという意味です。それは、誰かの助けを得たいという意味です。
 
 しかし、「イエスは深く憐れんで」という方の「あわれむ」という単語は、内臓、はらわたを意味する言葉が使われていて、それは、単に助けようと思ったとか、一般的な「かわいそう」という同情を超えた、自分の身に、彼らの痛みを引き受けて内臓が揺り動かされるほど痛みを負ったという憐みです。その「あわれみ」の違いをこの聖書の訳では「深く」という形容詞をつけて違いを表しています。だからイエス様は、本当はことばだけで癒せるのに、その深いあわれみをもって、自らにその傷みを負って彼らの目に触れて下さって癒されるのです。
 
 
結び
 ここに、今、エルサレムに向かう本当の意味が見えて来ます。イエス様がエルサレムに向かうのは、私たちの罪の身代わりとなって殺されるためです。私が、そして、あなたが受けるべきさばきの苦しみ、そして、この世で味わう苦痛のすべてを、ご自分に引き受けて十字架にかかられるためです。この盲人の癒しに見る主の深いあわれみは、単に肉眼が見えるようになっただけではなく、もっと深い、たましいの救いにまで及んでいるのです。
 
 それは、彼らが躍り上がって主の許に来たところに既に始まっていました。そして、実際に癒されて、彼らはどうしたのか。それは、イエスについて行ったのです。なぜついて行ったのでしょうか。希望通り目が見えるようになったのだから、あとはそのまま家に帰っても良いはずです。しかし、彼らは、それでは済まなかったのです。彼らの、躍り上がって主の許に来て、主の深いあわれみのしるしとして、直接目に触れていただいた、その愛に、彼らはついて行かずにはおられなかったのです。つまり、彼らは肉眼だけではなく、霊の目も開かれたということです。
 
 これが、主に救われた人の姿ではないでしょうか。それは、もちろん、主イエスを信じる信仰は大切です。でも、日々、信じた私たちを養うのは、自分が信じた事実だけにとどまるのではなく、その救いのためにご自分の身を裂かれた主の深いあわれみを知り続け、問い続けることこそ重要なのです。それが信仰の結果であるたましいの救いにある歓びを得ることになるからです。
 道端に座っていた二人の目の見えない人たちは、その道端からイエス様に叫び、結果、霊の目が明けられて、喜んでイエス様について行きました。この34節の「イエスについて行った」は、29節の群衆が「イエスについて行った」と同じ言葉が使われていますが、その意味は全く違います。
 かたや、利己的理由で救い主として担ぎあげようとしてついて行っている人たち、しかし、もう一方は、イエス様に叫びその深い憐みを受け取って、ついて行く人たちです。私たちはどちらでしょうか。
 
 私たちがいつも、救われた喜びを保っていくために大切なことは、ただ、ひたすら、自分がどこにいて、どこから、どのように救われたのかを思い起こし、そのような自分に神様がどれほどの深いあわれみをもって、どんなことをしてくださったかを覚え続けることです。
 
 それがイエス・キリストの福音です。神様がご自分の内臓がゆり動かされるほどに、深く憐れんでくださり、罪深く、地獄に向かっていた私たちを、愛する御子イエス様に私たちの罪すべてを負わせて死に追いやった。身代わりの罰を与えた。ここに罪人を神の子どもにつくり変える本物の愛、深いあわれみがあるからです。

2023年1月29日 白石教会礼拝説教(教理説教)

説教題 「キリストのからだに建て上げられる主の教会」
聖書箇所 使徒の働き2章40章47節
 
 
序 
●白石キリスト教信仰告白【教会】
「教会は、イエス・キリストを信じる信仰を通して、神が与えてくださる救いを
受け入れた者の集まりであり、聖霊によって確立され、維持される新しい共同体です。
 教会は、礼拝、奉仕、証し、互いの愛といたわりにおいて、キリストのからだに建てられます。」
白石教会の信仰告白に基づく教理説教は今日で8回目になります。この説教は、私たちが告白している、その信仰告白が単に暗記すべきものではなく、「このように信じています」ということをみんなで一緒に確認するために行っています。自分が何を信じてクリスチャンなのか。何を信じて白石教会の教会員なのか。「このように信じています」と自分の口で言える。それがクリスチャンであることの証しだからです。
 
 そのように、これまで7回、信仰告白を確認してきて、今日は「教会」について学びます。14まで項目がありますので、今日で、折り返しとなります。この「教会」についての学びは、この地上に置かれているクリスチャンにとって、非常に重要な学びです。というのも、この地上は実に色々な教会で満ちているからです。この「教会」ということを、きちんとわきまえていないと、あれもこれもごちゃごちゃになって、聖書が教えている教会ではなくなってしまうからです。
 
 今日の説教題は、そのことを意識してつけましたが、いつもよりも随分長くなってしまいました。
「キリストのからだに建て上げられる主の教会」
「キリスト」という言葉と「主」という言葉は同義語なので、少々くどいと思います。でも、くどいと思うくらい、ここにこだわる必要があるからです。それは、主の教会、キリストの教会と言いながら、キリストではなく、それ以外のものを大切にしたり、人間的なものをプライドにしたりすることが起こってくるからです。
 
「教会」というテーマの説教は、まさに、そこにメスを入れる手術です。その「教会」を、私たちは既に2020年から信仰告白の中で告白している。それが、私の中に、皆さんの中に沁み込んでいるか。根づいているか。手術ですので、少々痛かったり、堪えながら、という部分があるかも知れませんが、今日は、そのことをご一緒に味わいたいと思います。
 
 
1.キリストを信じる共同体として
 白石教会の信仰告白は、聖書に基づいて作られています。その中から、今朝は使徒の働き2章40節以降のみことばに聴いてまいります。ここから、教会が教会であるために大切なことは何か。そして、何のために教会があるのか。そのことを中心にお話をしたいと思います。
さて、皆さんは教会が教会であるために、何が大切だと考えているでしょうか。会堂を持っていることでしょうか。十字架がついていることでしょうか。いつもイベントをやっていることでしょうか。宗教法人格を持っていることでしょうか。
 
 今朝、開いた聖書箇所は、使徒の働きと言って、イエス様が天に帰られてからの弟子たちの様子が物語形式で書かれている書です。ですから、ここには律法の書のように、命題的に、こうしなさいというふうには書かれていません。それよりも、イエス様に救われ、罪が赦されて、本当の自由を得た者として、このようになりたいと思う様に書かれています。
 かつて16世紀に宗教改革がありました。この白石教会の名前の冠になっているメノナイト派の始まりとなったメノ・シモンズは宗教改革者と呼ばれます。ルターやカルヴァン宗教改革者と呼ばれます。その人たちが目指したものはなんでしょうか。それは、ルーテル教会やメノナイト教会をつくることではなく、初代教会のあり方に戻ることです。聖書に記されている主の弟子たちの群れ、その生き方に戻ることです。
 
 ここを見失うと、それぞれの宗教改革者たちの思いとはかけ離れてしまい、その教派の伝統を守るように変化してしまいます。彼らの改革は素晴らしいと思います。しかしそのすべてが良いわけではありません。彼らの改革も、当時の文脈では良かったことも、結果的に足りなかったり、やりすぎであったりしたことを含んでいます。それは宗教改革者たちも欠けのある人間ですから当然です。だから、大切なことは、彼らを伝統としてそのグループをつくるのではなく、彼らが目指した聖書に聴くことが大事なのです。そこで今朝も、彼らが目指した聖書から主の教会の姿を学ぶのです。
 
 41節を見ると「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた」とあります。彼のことばというのは、14節から40節までに語られている使徒ペテロの説教です。その中心的な内容は、36節からのことです。
かいつまんで言いますと「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。…それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」となります。つまり、これが信じるべき福音の内容ということになります。
そこにいた人たちは、このペテロを通して語られた福音を受け入れた。そしてバプテスマを受けたのです。
 
 だから、自分がイエス様を十字架につけてしまった罪人であることを認め、悔い改めてイエス・キリストの救いを受け入れる人がバプテスマ(洗礼)を受けることができます。これが、教会のメンバーになるために必要なプロセスです。私たちは大丈夫でしょうか。特に、メノナイトはアナ・バプテスト派とも言われますので、幼児洗礼ではなく成人洗礼を早くから唱えて来た歴史があります。
 
 それは、当時のカトリック教会だけでなく、その後に生まれたルター派カルヴァン派の教会も幼児洗礼は続けていたからです。しかし、そのような主張は、その後、多くの教会に受け入れられ、現在では、メノナイトに限らず、この聖書に書かれているように、福音を信じた人が洗礼を受けて教会に加えられるようになっています。だから、メノナイト派が唱えて来たことは、諸教会にとって益となったと言えます。しかし、それは聖書に書いてあることに立ち戻ることを大切にしたからであって、自分たちのグループの足跡を誇るためのものではありません。そのことを踏まえて私たちも、主の教会に連なるキリストの教会として告白しているのです。
 
「教会は、イエス・キリストを信じる信仰を通して、神が与えてくださる救いを受け入れた者の集まりであり、聖霊によって確立され、維持される新しい共同体です。」
 
 
2.宣教において必要なこと
 次に42節以降ですが、ここから、主の教会が教会として「いつも」行っていたことを見てまいりましょう。
42節から47節までを読みます。
「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」
 
 42節に「いつも」とあります。これは、別な訳では「ひたすら」となっていましたが、他にも「たゆまず」とか「専念する」「辛抱強く」など、「強い」という意味が込められた「いつも」なのです。
 
 ですから、そのあとに続く「使徒たちの教え」を守ること、交わりを持つこと、パンを裂くこと、祈りをすることに、その「いつも」がかかっているとすると、それぞれのことがどれほど教会にとって重要かがわかってきます。ひたすら、使徒たちの教えを守る。それは、ここの文脈では使徒ペテロが語った説教というふうに捉えることができます。その福音をしっかりと自分のこととして守って行くこと。そこに専念するというふうにも解釈できます。
 
 そして、そのようにクリスチャンになった者は、一人ではなく、信仰の兄弟姉妹との「いつも」「交わり」を持つことによって互いに励まし合うことが大切です。それは、教会とは主にある交わりが重要なことだからです。次にある「パンを裂くこと」は、現在、聖餐式となって少々儀式化していますが今も守られています。しかし、この順序からわかるように、福音を受け入れて洗礼を受けた者が、使徒たちの教えを守り、交わりの中で聖餐があるということです。私たちも、そこを目指しています。私たちも信じて洗礼を受けた者がたゆまずパンを裂くことを目指しつつ、今は2か月に一回かも知れませんが、更に、たゆまず続けたいと思います。
 
 そして、「祈る」こと。これは、この文脈で見るならば、個人の祈りではなく、教会としての祈りの大切さを示していると思います。祈りも「いつも、たゆみなく」です。白石教会では「祈り会」としては昨年から再開しましたが、「いつも」ですから、この礼拝式のあとも、せっかく集まっているのですから、全員でなくても、それぞれに、信仰の交わりとともに、一緒に祈るときがお膳立てなしで、あちこちであると素晴らしいなと思います。
 
 ここに書いてあることは、こうしなければ律法違反だというものではありません。むしろ、このようにありたいと願い目指すものです。そのことを、私たちも信仰告白でこのように言い表しています。
教会は、礼拝、奉仕、証し、互いの愛といたわりにおいて、キリストのからだに建てられます。」
これが、キリストのからだに建て上げられるキリスト教会の姿だからです。
 
 私たちも、そこを目指しているはずです。いや、目指しているからこそ、このような信仰告白を掲げているのではないでしょうか。当時の教会は、会堂もない、キリスト教会という看板もなく、また看板を出さなくても間違いなくキリスト教会でした。しかし、現代はどうでしょうか。今は「キリスト教会」という建物や看板があっても、果たして、本当に主の教会でしょうか。現代は、キリスト教会という看板があって、きれいな会堂を持っていても、本当に主の教会かどうかがわからない時代になっています。私たちはどうでしょうか。だから、私たちは、わかりやすいように、こう信じていますという信仰告白を求め、与えられたのです。
 
 しかし、それを持っていても、本当にそのように信じていなければ、それは、やはり看板に「キリスト教会」と書いてあるだけの偽物教会となってしまいます。でも、そうはなりたくありません。それで、あらためて、今日、私たちが告白している告白が聖書に基づくものであり、そこにいつも、たゆまず聴いていくことが真の教会であることを学びました。その一つひとつのことを一個の言葉に集約するならば、それは礼拝を大切にすることだと言えます。礼拝式には、このすべての要素が詰まっています。
 
 それは、礼拝式に出席することだけを言っているのではなく、この礼拝式を通して、教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈る私たちが、主の聖徒として整えられて、その生き方すべてが礼拝となり、そこに救いが起こってくるからです。その結果どうなると、みことばは証ししているでしょうか。それが46節、47節です。
 
「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」
 
 ここで、人々が救われたのが、彼らの熱心な伝道方法やイベントと書いていないことに注目したいです。あくまで救いをもたらすお方は主であり、私たちは、ただひたすら、この方を礼拝し、互いに交わりを持ち、喜んで食事をともにし、神を賛美する中で、神様はそういう教会に好意をもつ方々を起こして、救いに導いてくださるのです。
 
 
結び
 キリスト教会2000年の歴史と言いますが、これまで実に色々な教派、教会が生まれて来ている現実があります。それぞれ、歴史がありますから、それぞれの教派の歴史をすべて無視することはできないでしょう。しかし、それぞれが、「キリストのからだ」に建てられることを目標にしているはずなのに、その中に余計なものを挟んでいるとしたら、それは本当に主の教会でしょうか。
 
 その「キリストのからだ」をお城に譬えることができます。お城の石垣には、アウグスチティヌスやルターやカルヴァン、ウェスレーやメノ・シモンズなどという正当な信仰を言い表して来た人たちの石が積まれているでしょう。それは確かでしょう。しかし、それはキリストという建物の一部であり、部品に過ぎません。それぞれの尊い働きがあったとしても、ほめたたえるべきは神です。その石垣の一部だけ磨いたり、大きくすれば、そのお城は「キリストのからだ」としてふさわしくありません。お城ではなく、一個の石垣を強調して、その歴史と伝統を誇るようなプライドが生まれてしまうならば、そのような石垣は、ない方がましです。
 
 だから、本来、教会に人の名前はいらないのです。もし歴史的にやむを得ず、教会に人の名前を冠にしてしまっているなら、なおさら、その立ち方が問われます。それは、その名前以上にキリストが中心になければ、主の教会としては滅ぶからです。
 
 しかし、今日の聖書のみことばにあるように、私たちが主の教会として、福音を聞き、その教えを守り、「キリストのからだ」として建て上げられることをいつも、ひたすら、たゆみなく続けていくならば、この地域に住む、多くの人びとの救いに繫がっていくのです。


 そうであるならば、私たちも、初代教会の信徒たちのように、また、それを目指した宗教改革者たちのように純粋に、ひたすら聖書に聴きたいと思います。そして使徒の教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈り、主の業を現し、愛し合い賛美する、完成した教会、「キリストのからだ」へと建て上げられていきたいと思います。