のりさん牧師のブログ

恵庭福音キリスト教会の牧師をしています。おもに日常で気がついたことや、聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

主のみわざを思い起こす

 

 私たちは日々、さまざまな出来事に心を奪われて生きています。嬉しいこともあれば、心が折れそうになることもあります。心配や不安で夜も眠れない日もあるでしょう。しかし、詩篇77篇11~12節は、そんな私たちに大切なことを教えています。

 

「私は主のみわざを思い起こします。昔からのあなたの奇しいみわざを思い起こします。」

 

 ここで詩篇の作者は、自分の目の前の現実だけを見るのではなく、神が過去にどのように働かれたのかを思い起こしています。イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出されたこと、荒野を導かれたこと、数々の奇跡と約束の成就、

神のみわざを振り返るとき、信仰が再び息を吹き返すのです。

 

「私はあなたのなさったすべてのことを思い巡らし、あなたのみわざを静かに考えます。」

 

 騒がしい日常の中で、立ち止まり、主がどのように共にいてくださったかを思い巡らす時間を持つこと。私たちもまた、これまでの人生を振り返ると、小さなことの中に大きな主のみわざがあったことに気づかされます。思いがけない助け、祈りへの応え、慰めと励まし。それらはすべて神の愛のしるしです。

 

 今日、あなたの心を静め、主のみわざを思い起こし、感謝をささげてください。過去の神の忠実さを思い起こすとき、これからも変わらず私たちを導いてくださる主への信頼が新たにされます。

 

【祈り】

 愛する天の父なる神さま、
今日、あなたのみわざを思い起こす時を与えてくださり、感謝します。
 これまでの人生の中で、見えないところで私を支え、導き、守ってくださったあなたの御手を思い返します。
 どうかこれからも、どんなときにもあなたの奇しいみわざを思い起こし、
感謝と信頼の心を持ち続けることができますように助けてください。
 私の心を静め、あなたの御業を深く思い巡らすことができますように。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

主の御名を呼び求め、みわざを伝えよう

「主に感謝し御名を呼び求めよ。そのみわざを諸国の民の間に知らせよ。
主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざを語れ。」
詩篇105篇1~2節/新改訳2017)

 

 私たちが神に感謝するとき、それは単なる言葉だけの感謝ではなく、心の深いところから湧き上がる賛美と告白です。この詩篇の冒頭は、感謝と賛美、そして神のすばらしいみわざを人々に告げ知らせるようにと、私たちを招いています。

 

 神は私たちの人生に、数え切れないほどの奇しいみわざを行ってくださいました。大きな奇跡だけでなく、日々の小さな恵みもまた、神のあわれみと力のあらわれです。その一つひとつを思い起こし、心から主に感謝を捧げましょう。

 

 しかし、ここで詩人は「諸国の民の間に知らせよ」と語ります。感謝と賛美は私たちの中だけにとどまるものではなく、外へ向かって広がっていくべきものです。私たちが神のなさったことを語るとき、私たちの証しを通して人々も神を知るきっかけが与えられます。

 

 どうか今日、あなたの口から賛美があふれ出ますように。家族に、友人に、職場の人に、小さなことでも神の恵みを語りましょう。それが誰かの心を励まし、希望をもたらす一歩となるはずです。

 

祈り

 愛する天の父よ。あなたの御名を呼び求めます。
 あなたが私の人生にしてくださったすべての奇しいみわざを思い起こし、心から感謝をささげます。
 どうか、私の口を用いて、あなたのすばらしさを人々に伝えることができますように。
 私の賛美と証しが、まだあなたを知らない人々にあなたの愛と恵みを届けるものとなりますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【歴史神学を学ぶ意義】

「歴史神学(Historical Theology)」を学ぶ意義は、単なる過去の出来事の知識にとどまらず、私たちの信仰理解と教会の歩みを豊かにし、誤りから守り、現在と未来の教会のあり方を整える点にあります。

 

1.信仰の遺産を知り、継承するため

 歴史神学は、教父時代、中世、宗教改革、近代など、教会が聖書の真理をどのように理解し、告白してきたかを学びます。
 信仰告白・教理・礼拝の形態などは、先人たちの問いと祈りと格闘の結果です。
 これを知ることで、私たちは信仰を自己流に陥らせず、使徒たちから連なる「信仰の流れ」に立つことができます。

 

2.異端と正統を見分ける力を養うため  

 教会史には多くの異端や誤った教えが現れました。アリウス派グノーシス主義、ペラギウス主義など。
 これらとの論争を通じて、三位一体論、キリスト論、救済論などの核心教理が明確化されました。
 現代の新興宗教や自己流の聖書解釈に対しても、歴史神学を知っていると、何が聖書的で何が逸脱かを見分ける助けになります。

 

3.神の摂理と教会の歩みを学ぶため  

 教会史を学ぶことは、歴史を通じて神がどのように御自身の教会を導き、守り、整えてこられたかを知ることです。
迫害の時代、分裂の時代、宗教改革リバイバル…。
 失敗も栄光も含めて、私たちは「歴史において働かれる神」を学びます。

 

4.現代の教会の課題に応答する知恵を得るため
 歴史は繰り返される部分があります。
たとえば、教会と国家の関係、信仰と理性の問題、宣教の方法などは過去にも多く議論されてきました。
 歴史神学を学ぶと、現代の教会が同じ過ちを繰り返さず、歴史の中で培われた知恵を活かして今日の課題に応答できます。

 

結論
 歴史神学は「古いことを学ぶ学問」ではなく、「信仰の現在と未来を形作る学問」です。私たちは孤立した個人ではなく、「聖徒の交わり(communion of saints)」の一員として、歴史の中の教会に連なっています。

公正と義を絶え間なく流す

「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」

アモス書 5章24節)

 


 このアモスの言葉は、当時のイスラエルの人々にとって、耳の痛いものでした。彼らは形だけの礼拝や祭儀に熱心でしたが、社会には不正や搾取がはびこり、弱い立場の人々が踏みにじられていました。神は、いくら盛大な礼拝を捧げても、そこで公正と義がないなら、それは意味をなさないと告げたのです。

 


「水のように」「絶えず流れる谷川のように」という表現が示すのは、公正と義が一時的ではなく、日常において絶え間なく流れ続けなければならないということです。干上がった谷川ではなく、雨季だけの一時的な水流でもなく、常に人々の間に公正さと義が行き渡り、潤し続ける社会。それが神の願いです。

 


 私たちの時代も、礼拝や祈り、信仰の言葉は豊かにあっても、隣人への思いやりや、弱い立場の人の声に耳を傾ける姿勢が置き去りにされがちです。神が求めるのは、ただの宗教的な形式ではなく、具体的な行動としての公正と義です。

 


 私たちの家庭で、職場で、地域社会で、小さなことでも「公正」と「義」を流し続ける者でありたいと願います。たとえ一滴の水のように小さくても、それが集まれば谷川となり、乾いた地を潤します。

 


 今日、あなたのまわりに「公正を水のように」「義を谷川のように」流せる小さな行いは何でしょうか。神の願いに応えて歩んでいきましょう。

 

 


祈り

恵み深い天の父なる神さま。

あなたが正義と公正を愛されるお方であることを感謝します。

どうか私の心を探り、私の内にある不公正や自己中心を取り除いてください。

私の言葉と行いを通して、あなたの義と公正が水のように流れ、

絶えず周りの人々を潤すものとならせてください。

 

小さなことに忠実に、公正を選び取り、

弱い立場の人を思いやり、

正しいことを選ぶ勇気をお与えください。

 

私の家庭に、職場に、地域に、

あなたの義と公正が絶えず流れますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

聞くことに早く、怒ることに遅く

聖書箇所:ヤコブの手紙 1章19~21節(新改訳2017)
「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。
人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。
人の怒りは神の義を実現しないのです。
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。
みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」

 

 私たちは毎日、言葉を通して人と関わっています。
 でも、ときにその言葉が、人を励ますどころか傷つけてしまうことがあるのではないでしょうか。

 ヤコブはまず、「聞くのに早く」と勧めています。
 相手の言葉を最後まで聞くことは、相手を尊重する愛の行為です。

 

 話を途中で遮ったり、言い負かしたりするのではなく、相手の心の奥まで耳を傾けるとき、そこで初めて真の理解が生まれます。

 

 そして、「語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」
 感情のままに吐き出した言葉は、取り返しのつかない傷を残します。人の怒りは、神が望まれる義を実現することができないのです。

 だからこそ、私たちは汚れや悪を捨て、心にみことばを植える必要があります。
 神のことばは私たちの心を整え、語るべき言葉を選び、怒りを制御する力を与えてくれます。

 

❇︎今日のチャレンジ
 今日は誰かの話をよく聞いてみましょう。語る前に、一呼吸おいて、神の前に心を整えましょう。
 そして、あなたの口から愛に満ちた言葉が溢れますように。

 

祈り
愛する天のお父さま。
 今日、私の耳を開いて、相手の話とあなたのみことばをよく聞く者としてください。
 私の口を制し、怒りに遅く、愛をもって語る者としてください。
 私の心にあなたのみことばを深く植え、私の魂を生かしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖なる方を知る

"主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。"
箴言 9章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 この世で生きるためには多くのことを知る必要があります。それは、この世には多くの危険が隣り合わせで、それらに巻き込まれないために、また巻き込まれてしまったときには、なるべく被害を最小限に抑えて生き抜くためです。

 

 しかし、聖書は何よりも肝心なのは神を恐れることであると言います。この神とは、日本における神ではなく、聖書が証ししている唯一、絶対の創造主なる真の神のことを指しています。

 

 この神を恐れる。ここに、私たち人間にとって、どんな知識にも優る、真の知識があるとです。使徒パウロは言います。

 

"自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。
しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。"
コリント人への手紙 第一 8章2~3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 ここに、多くのことを知っていたとしても、それはこれから知るべきことをまだ知っていないのだと言い、その知るということに、神を愛することにより、神に知られていることへと導きます。

 

 ここには、神を恐れることが必然的に神を愛することへとなり、自分が多くのことを知る以上に神から知られていることを知る者となるという、驚くべき素晴らしい恵みが語られています。

 

 その時、私たちは神を単に神という一般名詞ではなく「聖なる方」、そして、「主」(ヤハウェ)と固有名詞、すなわち、その聖なる御名で意識してお呼びする関係へと引き上げられるのです。

 

 そこから、更にそのお方を知る者とされていきます。旧約聖書における「知る」とは、ヘブル語で「ヤーダー」と言います。この言葉は、「人(アダム)はその妻を知った」(創世記4:1)とあるように、夫婦の関係でも使われているように、単に知識だけで知るというのみならず、体験的に知るという意味を含んでいます。

 

 「ヤーダー」は、「ヤード」(手)を含んでいる言葉ですので。ヘブル語で「知る」とは手で触れることによる体験を伴うことと関係があるかも知れません。

 

 つまり、神、主、聖なる方を知るとは、神であり主であり聖であるお方との触れ合うほどの深い交わりをも意味しており、そこには神との深い愛の関係があるということなのだという真理を深めることができるのではないでしょうか。

 

 いずれにしても、神を恐れるならば、そこから神との関係が育まれ、神と深く交わる愛の関係が構築されていく。そこに人にとって欠かせない真の平安があるのだ。真の祝福があるのだ。そのことを今朝のみことばは告げているのです。

 

 ぜひ、今日も神を恐れ、聖なる方を知ってまいりましょう。するとますます、神に知られている恵み、まず主から私たちに深く関わってくださっておられる現実に心が打たれます。

 

 そのくらい、神に知られているということの恵みの深さに驚かされるからです。

 

"わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。"
イザヤ書 43章4節a
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 

ライフライン・世の光のつどい

今日は礼拝後、通称世の光ラリーと呼ばれるライフライン・世の光のつどいに行きました。

 

おそらく5〜6年ぶりだと思います。

 

確か2018年、私が牧師になりたてのときに一度、お手伝いで関わらせていただきました。その時も汗だくで奉仕したことを思い出します。

 

今日は、一地方の一牧師として、お客さんの立場で客席に座りました。

 

それにしても福音歌手の森祐理さんの歌ととメッセンジャー原田憲夫先生の福音メッセージが久しぶりに私の心に響きました。

 

この集会は基本的に伝道集会ですから、未信者向けだと思いますが、クリスチャンにとっても大事なメッセージを聞けるなと思いました。

 

主日礼拝の説教では、福音メッセージは当然語りますが、それは時には、聖書テキストによって、メッセージの途中で触れたり、毎回ど真ん中にイエス・キリストの十字架と復活の救いを置いているわけではありません。

 

時にはチャレンジを促すメッセージだったり、時にはさばきなどの厳しいメッセージになったりしますから、毎回よく集中していないと、語られている福音を聞き逃してしまいます。しかし、ライフラインのつどいは、真っ直ぐに福音を伝えてくれます。

 

そこが、クリスチャンであったとしても実は遠い過去に忘れて来ているかも知れないことなのです。

 

いずれにしても、ぜひ皆さんも次回には、このライフライン・世の光のつどいにお越しください。

 

きっと、あなたに真の生きる希望と真理の光を与えてくれるでしょう。

 

あなたのお越しを心からお祈りいたじす。

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