「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18~20)
キリスト教宣教の中核をなす「教育」において、その原点はやはりイエスの大宣教命令にあると考えることができる。イエスご自身が「すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」[1]ように、弟子たちにもそのようにせよと仰せられたのである。
この「教える」つまり教育というテーマは、この一般社会でも重視されていることは誰も否定しないだろう。しかし、何に基づいて何を教えるかを考えることは大切なことである。そもそも、私たち人間社会の歴史を遡っても、その原点はキリスト教会にあると言っても過言ではない。なぜなら、現代教育学において、その思想や哲学も教会を中心に形作られていったからである。しかし、今日、ポストモダンの時代に突入し、神を抜きにした教育がはびこり、人間の理性や合理的な解釈が先行して、教育本来の意義を失っていると言わざるを得ない。だからこそ、教育の本領を取り戻すためにも、キリスト教教育について再度みことばから確認し、教会におけるぶれない教育の実践に繋げていくためにも、この考察は大変意義深いことである。
1.キリストの模範と教育
教会において、教育の任にあたる者はキリストの権威によってそれを為す。それは、その教える者が、自分の力や知恵や能力に頼んで行うことではなく、キリストご自身の力、知恵によって行うべきであることを言っている。それがキリストの権威によって教えるということである。だから教える者はキリストによって教えられなければならず、教えを受ける者も、その教えにはキリストを知ることが第一の目的であることを忘れてはならない。
それは、キリストご自身がこの地上において歩まれたその歩みは、まさに神を愛し隣人を愛する歩みであったからである。それは、神の律法を全うした歩みであり、すべての人に神が求めている生き方だからである。だからこそ、キリストはその歩みを通して、この世をどう生きるか。神に造られた者として何のために生きるかという模範になられたのである。
私たちはその足跡を辿りつつ、キリストご自身に似たものとなることを願い、教えられ、教える歩みを身に着けていきたい。ロイスE・ルバーは言う。
「神のひとり子を、それぞれの特殊な形でその身に表すために、私たちは偉大な造り主によって形造られたのです。」[2]
ここに教育の基本があると考えられる。キリストはその全人格を表わすために、私たち一人ひとりを必要としておられる。だからこそ、自分自身の欠点や弱点がキリストに取り扱われて、新しくされることを願うのである。それによって、教える者も、教えられる者も相互に、神の真理によって次第に内面生活が統制されていくのである。
2.福音伝道と教育
しかし、私たちがキリストに似せられていくということは、すなわちキリストが罪のないお方であったように、私たちは罪の問題を解決する必要がある。そのためには、福 音伝道との連続性にある教育が不可欠である。
近代において、日曜学校教育が進み、欧米ではキリスト教家庭を土台にした教会教育が確立されていった。それが日本にも輸入されたが、異教文化の中にある日本では同じカリキュラムは馴染まなかった。それで、常に福音伝道との連続性、または融合の中で教会教育がなされてきた歴史がある。異教社会に住む私たち日本人は、神の概念がGodとは異なる。つまり救いに至るまでの、まず唯一絶対の真の神について学ぶことが必至である。
これまでの「カミ」から聖書が示す神を知ってようやく、人間とは何かが見えてくる。神の聖なる光に照らされて、私たちは自分の罪が明らかにされていくのである。それまでは、見つからなければ、また考えるだけなら、罪に対して特に後ろめたいこともなかった人が、神を正しく捉えることで、アダムとエバがイチジクの葉で腰に覆いを作ったように、自分の存在そのものに恥を覚え、神の光に痛みを覚えるのである。しかし、聖書を学ぶことによって、その痛みをキリストが十字架の上で負ってくださった事実に向き合わされ、痛みを覚えた神の光にある真の安らぎを味わう者とされていく。
つまり救いに与るのである。日本の教会教育においてこのプロセスを通ることは重要である。それは、現代においてもしかりであり、むしろ実際のキリスト教人口が減少している欧米において、これまで日本で培われてきた教会教育が必要とされる時期に来ているのかも知れない。
3.実践と教育
上記のことを踏まえて、教会教育は、教課計画を形式主義的な型どおりに行っているようなことを排除して、創造的な観点でみことばを生活に実践的に結び付けていく必要があると考えられる。
そのために私たちは、自分自身に心を奪われず、主にある自由を生きることが重要である。そうでなければ、だれかにキリストを知らせることはできない。なぜなら、私たちは自分自身でキリストと生き生きとした交わりを持ち、みことばと御霊に満たされなければ、ほかの人に教えることなどできないからである[3]。
教会教育は、聖霊の業であるということである。だからこそ、キリストの十字架と復活によって贖われた私たちは、その霊に満たされることを願い、御霊に導かれて日々歩む訓練を続けるべきだと考える。その訓練にみことばは欠かせない。アンドリュー・マーレーはこう言っている。
「重要なのは、神のもとから来られた御霊なのです。キリストがもたらそうとされた御霊、私たちのいのちとなり、みことばを受け取り、それを生活の中に溶け込ませる御霊が、みことばを私たちのうちにあって、真理と力のあるものとされるのです。」[4]
教育の実践こそ、私たちは自分たちの武器を置き、神の武具によって再武装することが必要なのである。御霊の与える剣であるみことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるからである。
[1] マタイ9:35
[2] ロイスE・ルバー「キリスト教の教育」多井一雄訳(いのちのことば社, 1982)p.169
[3] ロイスE・ルバー前掲書p.235
[4] ロイスE・ルバー前掲書p.289