のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年6月5日 ペンテコステ礼拝

説教題 「聖霊に満たされる主の教会」
聖書箇所 使徒の働き2章1~13節

序論

 今日はペンテコステです。今から約2000年前に、聖霊なる神様が降って、教会が誕生したことを記念する教会の行事です。クリスマスやイースターと比較すると、あまり有名ではないようです。でも、聖霊が来てくださらなければ今の私たち、キリスト教会は続かなかったでしょう。聖霊が与えられなければ、私たちの信仰生活は続けられなかったでしょう。
 聖霊と教会、聖霊とクリスチャン生活は必ずセットです。私たちは自分の頑張りで信仰を維持しているのでもなく、自分の力で福音を伝えているのでもありません。それは全て、神ご自身である聖霊が私たちに働いて、神様の御心を達成できるように助けてくださっているからです。ですから聖霊のことを「助け主」とも言います。イエス様は言われました。今日の招きの詞のみことばをご覧ください。
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」とあります。
 
 「助け主」まさに、この助けなしには私たちの信仰はあり得ず、私たちの宣教もないと言い切れるほど、大切なお方だということです。かつてイエス様の弟子たちは、約3年半の間、人となられた神であるイエス様とともに旅をしながら、その教えを聞き、業を見て、実際に触れて弟子の訓練をしました。しかし、イエス様が天に帰られてからは、そのイエス様を肉眼で見ることができず、その弟子たちのように、実際にそのお方に触れることができません。
 ところが、イエス様は、天の父なる神様のもとから聖霊を遣わして、その聖霊を通してイエス様を知り、イエス様が今も一緒にいて旅をするように、肉眼で見えなくても、私たちを心の目を開いて、心の目でキリストを捉え、心の耳を開いて、心の耳で主の御声を聞けるようにしてくださったのです。それが、聖霊が与えられている、現代を生きる私たちキリスト教会の特権です。
 
 皆さんは、今、その聖霊の恵みを味わっているでしょうか。この聖霊を通してあかしされるイエス様との交わりを楽しんでいるでしょうか。主は、この聖霊によって、全世界のクリスチャンたちと同時に、いっしょにいてくださっている、その壮大な神の業を味わっているでしょうか。
 今朝は、その聖霊の恵みを使徒の働き2章1節~13節を通して、ご一緒に味わってまいりたいと思います。特に今朝注目したいのは、まず「天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った」ということ。つまり、聖霊が彼ら(主の弟子たち)がいた「家全体に」来られたということです。そして、もう一つは、聖霊が弟子たちの舌(口)に働かれて、御霊が話させてくださるとおりの「ことば」を話したということです。
 
 
1.激しい風が吹いて来るような響き
 あらためて1節、2節を読みます。
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。」
「五旬節」とはユダヤの祭りである過越しの祭りから50日目という意味です。これを新約聖書が書かれた原語であるギリシア語でペンテコステと言うので、その日に聖霊が与えられたことを記念して、この日曜日行われる礼拝をペンテコステ礼拝と呼んでいます。ですから、この聖書箇所の出来事が起こった時には、まだユダヤ教の行事として、五旬節、または七週の祭りと呼ばれていました。
 
 5節以降で、このエルサレムにあらゆる国からのユダヤ人たちが集まっていたのは、神の都エリサレムに巡礼して、この七週の祭りを祝うためであったのです。七週の祭りは律法によって定められており、レビ記23章16節以降に、契約の民であるイスラエル人は新しい穀物の捧げもの(小麦の初穂によるパン)を主にささげなければならないと書いてあります。
 
 そのような旧約聖書の律法においても、もともと意味のある日が今はキリスト教においても意味のある日となっています。ユダヤ教にとって種なしパンの祭りとも言われる過越の祭りの時期が、キリスト教にとっては、キリストの十字架と復活を覚える受難週とイースターになり、ユダヤ人にとって小麦の初穂をささげる七週の祭りが、キリスト教では聖霊降臨日として覚えられています。このことは偶然ではなく、やはり神様の救いの計画にある摂理であると言えます。
 
 しかし、この聖書時代ではまだユダヤ教の慣習の中で、多くのユダヤ人たちもイエス様の弟子であるユダヤ人たちも、このエルサレムに集まっていたのです。弟子たちは、恐らく弟子の一人であるマルコの家にいたと思われます。そこは、最後の晩餐を行った場所で、二階に広間がある大きな家であったと考えられています。また、弟子たちは、イエス様が天に帰られてからは、「いつも宮にいて神をほめたたえていた」と言われていますので、格別、この五旬節の日は、特別な思いをもって、集まっていたことでしょう。
 
 2節「すると突然、天から」。これは、今日の招きの詞を借りて説明するならば、「天に帰られたイエスさまによって父なる神様のもとから」という意味の「天から」だと言えます。弟子たちは、以前からイエス様によって確かに聖霊が与えられるというお話は聞いていましたが、はっきりとした日にちや時間は聞いていませんでした。だから、この出来事は弟子たちにとっては、やはり突然の出来事であったのです。しかし、この突然の出来事、聖霊の降臨という大切な体験が、この家全体で経験できたことは、とても重要です。使徒のリーダー格であったペテロだけでなく、家にいた弟子たち全員で聖霊を受けたことの意味は、現代を生きる私たちにとっても大切なことを受けとることができます。
 
 それは、聖霊と言うお方は、大勢いる個性的な私たち、教会という群れを一つにすることができるということです。言い換えると、聖霊の臨在によって教会とされているということです。それは、主の教会は個人プレーの集団ではなく、個々の個性が生かされながら、神の教会と言う家全体に響き渡って、どのようなことも一緒に経験させられる群れであるということです。
 
 それは、良いことも、悲しいことも、ともに味わうということです。誰かだけが苦しんでいたり、誰かだけが喜んでいるのではなく、いつもどのような響きをも、この聖霊にあって、ともに一つとなるということです。しかし、神様は私たちをロボットのように操ることはなさいません。だから、聖霊が与えられているからと言って、自動的に一致ができるのではありません。今日も交読でともにお読みしたように、既に与えられている御霊の一致を保つことを意識していく必要があります。
 
 パウロは、「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」と言っているのは、そのことを心掛ける責任が教会にあるということです。このことが疎かになってしまうと、いくら平和や愛を掲げても口先だけのキリスト教会になります。平和教会が聞いてあきれるようになったら、悲しむのはイエス様です。せっかくご自分のいのちをささげて私たちを買い戻してくださったのに、その主の流された血潮を空しくするようなことが教会で起こるならば、それは実に悲しいです。あらためて、パウロがエペソ人への手紙で教えている教会が一致することを、私たちも求めていきたいと思います。
 
 
2.御霊が話させてくださる
 初めの教会の兄弟姉妹たちは、一緒に一つとなって聖霊が降られた奇蹟を味わい、益々、一つの神の家族とされていきました。すると、さらに不思議な出来事が起こります。3節、4節
「また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した。」
 聖霊は、激しい風が吹いて来るような響きとともに、今度は炎のような分かれた舌が現れました。さっきは激しい風のような響き。今度は炎のような舌。要は、聖霊は大きな響きと分かれた舌を通して、何かを伝えているということでしょう。単に、不思議なことによって驚かせるだけではないと思います。
 
 それは、響きの方は「家全体に」とあり、分かれた舌は「ひとりひとりの上に」とあるように、聖霊の働きが教会にとってどのように働き、また教会を形成するクリスチャンひとりひとりにとってどのようなお方なのか、ということを現わしているということではないでしょうか。ですから、この分かれた舌が家全体として、つまり教会全体として一つの分かれた舌ではなく、ひとりひとりにあった。そして、このあとの出来事を見ていくならば、その舌の意味が見えてきます。
 それは、一人ひとりが、他国のことばを自由に話すと言う奇蹟が起こり、エルサレムに来ていた全ての人がわかるように、御霊が話させてくださった言葉をそのまま語ったのです。当時のエルサレムには五旬節(七週の祭り、初穂の祭り)ということで、離散していたユダヤ人たち、そして、もともと外国人であったが、真の神様を信じて割礼を受けてユダヤ教信者になった人もいましたので、9節にあるように、様々な地域から、様々な民族の人たちが巡礼にきていた中で、その国々に応じて、弟子たちは今まで話したことのない言語を操って語ることが出来たのです。
 
 では、聖霊に満たされた弟子たちが語ったこと、その内容は何だったでしょうか。それは11節にあります。
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビア人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国のことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
 これはどういうことでしょうか。弟子たちが色々な国のことばで語ってはいましたが、語っている内容は一致していたということです。それは「神の大きなみわざ」というメッセージだったということです。
 
 ここに、聖霊が一人ひとりの上に分かれた舌を与えたというのは、弟子たちそれぞれに語ることを許しておられ、しかも、語るべきことは、自分の自慢話や、苦情や、人の悪口ではなく、ただ一つのこと。それは「神の大きなみわざ」であったということです。では、その「神の大きなみわざ」とは何のことを言っているのでしょうか。
 それが、あらためて今日の招きの詞に注目したいと思います。それは、「その御霊がわたしについてあかしします」とあるように、私たちにとって、最も偉大な神の御業、それは主イエス・キリストご自身のことです。まさにキリストの福音です。14節以降で、ペテロが語ったそのメッセージがその内容でしょう。彼は旧約聖書を引用して、最後に36節の言葉を結論とし、エルサレムに集まっている人々に迫ります。
「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
 
 すると、その言葉を聞いた人たちはどうなりましたか。37節以降「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」
 彼らは与えられた聖霊の恵みによって、それぞれに「神の大きなみわざ」である主イエス・キリストを大胆に証しする者とされていったのでした。
 
 このようにキリスト教会は誕生し、聖霊によって一つとされ、一人ひとりが一つの福音、主イエス・キリストをあかしし、宣べ伝える者とされました。私たちが、それぞれ、個性があり、多くの違いがあっても、同じ福音を信じ、同じ福音を宣べ伝えていくところに、神は更に多くの人たちを増し加えてくださって、その人たちにも聖霊を与え、益々、主イエス・キリストがあかしされていくのです。
 
 
結び
 私たち、白石キリスト教会という家全体にも聖霊が注がれ、このときの弟子たちのように、聖霊が話させてくださるみことばが備えられていると信じます。それは、まだキリストを信じていない方々に届けるためです。そのためにも、既に与えられている御霊の一致を熱心に保つ必要があります。でも、そのヒントは今日のみことばにあるとおりです。弟子たちがあきらめないで「みな一つに集まって」礼拝をささげ続けるところに聖霊が激しく臨んでくださるからです。
 
 その礼拝の中で、パウロがエペソ教会の兄弟姉妹に、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれ」と語っているように、互いに主の前にとるに足らない者であることを認め、へりくだって主と教会に仕えていくことです。それは、今日の使徒の働き2章36節でペテロが指摘したように、「このイエスを」十字架につけたのは他でもなく、私であり、あなただからです。私たちもあらためて、ペテロから言われるでしょう。「悔い改めなさい」と。
 
 いつも、自分の至らなさに気づかされ、悔い改めていくときに、教会は成長します。そのようにして最初の教会は、悔い改めた人たちによって、謙遜と柔和の限りを尽くして一つに集まっていたときに、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださったのです。誰もが互いに従い、仕え合う仲間。主の弟子。キリストの同労者です。誰が上だとか下だとかではありません。常にキリストの下にみな一つに集まる。それがキリスト教会です。
 聖霊なる神は、今日も、この家全体=白石教会にも臨んでおられ、多くの方々をここに送ろうとしておられます。そのことを覚えて、今週も、置かれたところで、私たち一人ひとり、御霊が話させてくださるとおりのみことば「神の大きなみわざ」イエス・キリストを大胆にあかししてまいろうではありませんか。