のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

イースター礼拝メッセージ

説教題 「信じていのちを得る主イエスの復活」
聖書箇所 ヨハネ福音書20章24節~31節
 
 

 時々、イエス様のことは信じているのだけど、復活が信じられないというお話をお聴きします。でも、今日の聖書の箇所を見ると、これを書いたヨハネは、31節で「これらのことが書かれたのは」と言っていて、これはヨハネ1章1節の「初めにことばがあった」から、このイエス様の復活の場面までのすべての業、教えの中で、と言うことです。復活だけ省いて、ではなく、復活まで含めて、主イエスを信じることが大事だと言っているのです。すなわち、イエスが神の子であり、キリストであることが、天地の初め以前から、これまでの業、教え、最後に復活によって明らかであるという事です。
 
 もし復活がなかったら、イエス様のことを神の子キリストとして信じられない。そのくらい、復活が欠けるとイエス様のこれまでの業、教えも良い教え、道徳にしかならないでしょう。しかし、聖書の目的はそこ止まりではありません。イエスを信じていのちを得るところまで、たどり着かなければ、聖書の書かれた目的は果たされないのです。皆さんは、イエスの御名を信じていのちを持っているでしょうか。その復活のいのちを生きているでしょうか。
 
 今朝はイースター礼拝です。主の復活によってもたらされている恵みがどれほど素晴らしいかを、短い時間ではありますが、ともに味わってまいりましょう。
 
 
1.そこにいなかったトマス~彼らの中に立たれる主
 イエス様がよみがえられたのは、日曜日の明け方でした。子ども賛美歌に「夜明けの空の明らむころに、主イエス墓より、よみがえりたもう」という歌があります。今日の出来事は、その同じ日の夕方です。 そのことが19節に記録されています。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった」
ユダヤの一日の数え歌方は、日没から日没までですので、週の初めの日の夕方というのは、もうすぐ日没なので、一日が終わる時間帯ということです。
 
 そのとき弟子たちは、「ユダヤ人たちを恐れて戸がしめてあった」とあるように隠れていました。それは、イエス様が復活されたという他の弟子たちの証言を聞いても、信じられずにいたということです。だから、死刑になった犯罪人イエスの手下と見られ捕まることを恐れていたのです。
 しかし、そこにイエス様が来られました。まさに「彼らの中に立って」、ご自分の場所である弟子たちの真ん中に立って、「シャローム」と語られるのです。ここで、弟子たちみんなが復活されたイエス様にお会いしました。それが23節までの出来事です。
 
 ところが、せっかくイエス様が来られたのに、たった一人だけ、その現場にいなかった弟子がいました。それが、トマスです。このトマスだけが、このとき席を外していた。このことが、今日のお話の前提になっています。自分だけがイエス様に会っていない。復活のイエス様を経験していない。自分だけが、取り残された感じ。
 
 トマスの事をよく「疑い深いトマス」と言いますが、疑い深いというよりも、自分だけがそこにいなかったことの寂しさが、彼の心を狭くしていたのではないかと思います。何よりも、以前、イエス様がユダヤ地方に戻ろうとするときに、トマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と殉教するまで主に従うと公言していた人です。しかし、実際には、イエス様が逮捕されるときに、トマスは、他の弟子たちと同じように逃げていました。だから、そのような大口を叩いた人が、ここで、一人だけイエス様に会えなかったということは、もしかしたら、あんな大口をたたいたにも関わらず逃げてしまったので、もし本当にイエス様が復活して来られたとしたら、イエス様はきっと自分を避けて、自分がいないときに来られたのかも知れない、という想いもよぎったはずです。
 
 ここに、信仰者のありがちなテーマがあります。誰かと比べて、寂しい気持ち。取り残された気持ち。自分だけが知らないという悲しさ。24節を読むとその寂しさが伝わってきます。
「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。」
 
 私が小学校1年生のとき、運動会の練習で、給食後に、教室ではなくて、外の運動場に集まるときがありました。でも、その頃の私は先生の話をよく聞いていない子どもだったので、給食を食べて、トイレに行ってから教室に戻ってみるとだれもいなくてびっくりしたことがあります。みんなどこへ行ったのだろうかと、半泣きになって探しまくって、30分くらいかかり、ようやく運動場に着いた時の嫌な気持ち。30分も遅れて、先生からも「どこ行ってたんだお前」ときつい言葉で言われて、さらに泣きそうになりました。
 
 このときのトマスを見ていると、そのときの自分を思い出します。自分以外のみんなはちゃんと知っているのに、なんで自分だけ、運動場に集まることを知らなかったのだろう。自分が聞き逃していたなどとは思っていなかったので、取り残されたような寂しい気持ちになりました。そうすると、そのあと、いくら友達に慰められたとしても、どうして教えてくれなかったのかと、慰めてくれる友達にすら責める思いが出て来て、すっかり心が狭くなっていた自分を思い出します。
 
 だから、そんな寂しい気持ちのトマスから出た言葉には棘を感じます。25節です。
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
 
 他の弟子たちは口々に「私たちは主を見た」と言いました。おそらく興奮気味で言ったと思います。死んだと思っていたイエス様がよみがえったのですから。だからトマスが弟子たちのいる部屋に戻ったときの雰囲気自体、トマスを、益々取り残された思いにしたでしょう。
 
 だから、すっかりトマスの心は、その他の弟子達とは違う方向を向いてしまっています。このときのトマスには、ひとりだけ、その喜びを共有できていない寂しさがありました。だから、もし、イエス様に会ったとしても、その釘の傷跡をしっかり見て、そこに自分の指を差し入れないと信じない。脇の傷にも手を差し入れないと信じないと、あまりにも恐ろしいことをトマスは信じる条件にするのです。
 
 私たちも、寂しい気持ちがあるとき、注意が必要です。寂しさに駆られて、孤独感に襲われて、教会にいても、ちっとも嬉しくない。そういうことが起こって来ます。弟子たちの集まり、教会において、人間を意識しすぎると必ず躓きます。教会の中で人間に期待すると必ず躓きます。私たちは、神の国の完成まで、赦された罪人の集まりですから、キリスト教会とは言え、不完全です。だから不完全な人間に依存した教会生活は長続きしません。必ず競争心や、落ちこぼれ感、劣等感、相手への嫉妬、恨み、憎しみ、苦々しさなど、様々な思いに支配されて、信仰が元気を失うのです。教会が楽しくなくなります。
 
 だから、イエス様は、どうなさっておられるでしょうか。
26節後半「イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように』と言われた。」
 これは前回マタイ18章でも触れました。弟子たちの真ん中はイエス様の場所だと。
もとの言葉で見ると、マタイの福音書18章で読んだ、小さな子どもを立たせた弟子たちの真ん中とは違う書き方をしているので、このヨハネ福音書では「彼らの中」と訳していますが、意味合い的には同じです。イエス様は、「来て、彼らの中に立って」とある。このイエス様の立たれる場所が大切です。だから、19節でもまったく同じようにされています。
 
 イエス様は、戸が閉まってある部屋の入り口付近に立ったのではありません。弟子たちの中、ただ中に立ってシャロームを言われる。この状態が、キリスト教会の基本です。私たちは、イエス様をいつも真ん中に置いているか。牧師やその他の人間たちが真ん中にいないか、自分が真ん中に立っていないか、吟味が必要です。もし、礼拝に来ていても、イエス様ではなく人間に心を向けているならば、修正が必要です。その人のことが好きでも嫌いでも、イエス様以上に心に浮かんでくるならば、そこに本当の喜びは生まれません。
 
 しかし、イエス様をいつも私たちの教会の中心に来ていただき、イエス様を中心するならば、嫉妬も、寂しい気持ちも、劣等感も、競争心も起こりません。それは、イエス様が中心にいてくだされば、いつもイエス様を通して相手を見ることになるからです。まず、イエス様を中心におき、主との交わり、礼拝を大切にする教会。礼拝を楽しみにする信仰生活。これが教会に必要なイエス様の位置であり、私たちの立つべき場所です。そのとき、私たち個々においても、その心の中心にイエス様がおられることが実感できます。
 
 だから、へそを曲げて不信仰になっているトマスのために、イエス様は、19節のときと同じように、もう一度、弟子たちの中に立ってくださり、主の平安に満たされるように(シャローム)と挨拶をされたのでした。
 
 
2.わたしの手、わきを見、手を差し入れよ~私の主、私の神
そして、すかさず、イエス様は言われます。27節
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」
 
 ここで、「トマスよ。あなたはわたしの復活を疑った。不信仰だから弟子失格だ」とは言われませんでした。どうぞ、あなたの言ったように、その指をわたしの手の釘が刺さっていた穴に入れてごらん。脇の槍の傷に手を差し入れてごらんと言われるのです。そしてトマスに欠けている不信仰をきちんと指摘するのです。
「信じない者にならないで信じる者になりなさい。」
 
 ここで、トマスは崩れます。彼の抱いていた寂しい気持ち、そして、何よりも「主といっしょに死のうではないか」と言いながら、主を裏切ってしまい、逃げてしまい、今、ここにどんな面を下げて立ったら良いのか、非常に複雑な思いでいたでしょう。しかも、さっき自分で言った酷い条件をイエス様は聞いておられて、その通りやっていいよと言っておられる。「それであなたが信じられるなら、どうぞやってごらんなさい」と。
ここでトマス・・・
 
「私の主、私の神」
 もう他に言葉が出て来なかったのでしょう。彼としてはこのとき初めて、イエス様が単なる教師(ラビ)ではなく、それ以上のお方、まさに私の主(ヤハウェ)、私の神と、礼拝する対象であるという確信に導かれました。それが彼の信仰告白になったのです。 
 それは、復活されて目の前に立つイエス様に聖なる神の御子としてのお姿を見たからではないでしょうか。だからそのきよさの前に自分の醜さ、罪深さ、不信仰に気づかされ、しかし、そのような自分を見捨てずに現れてくださり、十字架で受けた傷ついたままのお姿、その傷跡を間近に示されて、それが自分のためであったことを悟ったのです。
 
 肉体に傷を持ったままのイエス様が、今、目の前に来てくださって。しかも、弟子たちのただ中に来てくださって傷を示される。そこに指を入れなさいと言われる。でも、このとき、トマスが実際にイエス様の傷跡に指を入れたとは書かれていません。そもそも、トマスだって、そんなことをリアルにしたかったわけではなかったはずです。3年間、いっしょに旅をして教えを聞き、多くの業、その生き様を見させられて、ずっとついて来た弟子が、愛する主の痛々しい様を見るだけでなく、その傷に指を入れる、触れたいなどとは、本気で思うわけがありません。
 
 決して、実際に傷に手を差し入れるなんて本気で思っていなかったはずです。しかし、本当にイエス様は復活され、一人で寂しくなっているトマスにご自身を現わしてくださったのです。そして、本当に目の前で、イエス様にお会いし、その傷を示されたトマスの心は、ただ、ひれ伏すのみです。まさにイエス様を主として、神として、崇めるしかありません。
 この瞬間が、トマスにとって、とても大切な瞬間でした。それは自分とイエス様の関係を知るということ。ただの子弟関係ではない。「私の主、私の神」と一対一で向き合うことの大切さがここにあります。この確信、この理解に導かれることがとても大切です。イエス様が確かに私たちの主、私たちの神です。しかし、さらに、それが私の主だと、私の神だと、自分自身にとって、個人的にもかけがえのないお方だと気付いたときに、そこで出る言葉は、このトマスの信仰告白です。
 
 私たちも、このトマスの告白を我が告白としているでしょうか。イエス様は、あなたにとってだれですか。あなたにとって、何ですか。2020年に白石教会は信仰告白を採択しました。その告白の主語は「私たち」です。でも、それは同時に「私」の告白でもあり、皆さんお一人お一人の告白でもあるはずです。そのことをあらためて学ぶために、4月から月一回は、白石教会の信仰告白による教理説教を始めようと思っています。
 それは、せっかく与えられた信仰告白が単なるお題目にならず、私たち一人ひとりにとって、個人的にも主を愛して、主の前に、また教会の中で心から告白できるようになるためです。
 
 最後の29節でイエス様は、見ずに信じることの幸いをお語りになります。それは、自分で見なければ信じないと、へそを曲げていたトマスへの、イエス様の憐みに満ちた注意のことばです。そして同時に、現代を生きる私たちへの励ましのことばでもあります。それは、私たちを含め、このトマス以降の時代の主の弟子たちは、誰も実際に肉眼で復活のイエス様を見ていないにも関わらず信じているからです。これは、見て信じたトマスよりも私たちの方が信仰深いとか優れているという話をしているのではありません。今の私たちは、見なくても信じられるように、聖霊によって導かれているだけだからです。
 
 現代は、神様が残してくださった聖書を通して、主イエスを知り、主イエスにお会いし、主イエスを信じます。それは、見ないで信じた私の功績ではありません。生ける神のことばが、今も聖霊を通して生きていて、よみがえりの主に出会わせてくださるという、聖霊の恵みです。その恵みの中で、今、私たちは、このトマスのように実際にイエス様を目の当たりにしなくても、みことばと聖霊によって、毎日、イエス様とお会いし、今もなお、この教会の真ん中に立っておられると心から信じることができるのです。そして、このトマスの体験をも自分の体験として悟ることができるのです。
 
 
結び
 最後に、今日の箇所を通して、私が気付かされたことをお分かちして、説教を終わりたいと思います。
 今回、25節のへそを曲げたトマスの言葉を読んでいて、確かにイエス様逮捕の場面で逃げてしまったトマスですが、イエス様の十字架にかけられる場面を、彼はよく見ていたのだなと思わされました。トマスはイエス様の手に釘の跡を見、わきにも傷があることを知っていました。手の釘の跡は、十字架刑という処刑方法を知っていれば、そこに傷跡ができることは見なくてもわかります。でも、脇の傷は、その場面を見ていなければわからない情報です。他の二人の強盗たちは長く生きていたので、すねを折られて息の根を止められましたが、イエス様は早い時間に死なれたのです。だから、すねは折られなかった。けれども、兵士の一人が勝手に槍でイエス様の脇を刺したことが20章34節に書かれています。つまり、トマスは見ていたのです。主の十字架の場面、そのお姿を。釘で打たれる姿も。槍で刺されるところも。だから、尚更、その無残な姿を目撃していたので、そのお方が生き返るなんてあろうはずがない。自然死ならば蘇生するかも知れない。しかし、痛々しく死なれた傷だらけのイエス様を目撃していたのです。
 
 だから、彼は25節でぐずった子どものようなことを言いながら、その心のうちには、目の前で苦しんで死なれたイエス様の姿が思い出されて、心が苦しくなっていたのかなと推察します。イエス様の手の釘の跡、わきの傷に手を入れなければ信じないと言いながら、彼の心は十字架で死なれたお方の様子がよみがえってきて苦しかったはずです。私も苦しくなりました。そして、それが誰のためでそうなられたのか。そう思う時、あらためてイエス様が、私にも語っておられると悟らされました。
 
 そこにイエス様が来てくださった。そして、まさか、その傷跡を示されて、指を入れなさいと言われたら、本当に、出て来る言葉は、「私の主、私の神」だなと、そのトマスの思いが私の思いとなって、溢れてきました。私は実際に肉眼でイエス様は見ていませんが、この聖書のことばを通して、聖霊に導かれて、主の十字架の目撃者となり、確かに復活されたイエス様が私にも来てくださった。そして今も私に「信じない者にならないで信じる者になりなさい」と言われていることを悟ったのです。
 
 だから主は今も、生きておられ、その御傷を持ったまま、その傷を示しておられると私は確信をもって今日も告白できます。そして、そのことを今朝、私が聖書を通して、その復活の出来事を目撃した者として証ししているのは、あなたが、「イエスが神の子キリストであることを信じて、いのちを得るため」です。私たちも今朝、あらためて復活されて、この真ん中に立っておられる主の傷跡に触れていきたいと思います。霊の目を開き、その傷がなぜ、だれのためにできたのか。なぜ主はそれをよしとされたのか。そのことを、まだ主に出会っていない愛する方々にお知らせし、主の救いがもたらされるように、証ししてまいりましょう。

 


墓の中にいと低く葬られたり、ああわが主。よみより帰り、死と悪魔に勝ちし。
君こそ勝利の主なれ。君こそ、まことの主なれ。ほめよイエスを。我らの神を。