のりさん牧師のブログ

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2023年5月7日 白石教会礼拝

説教題 「主の晩餐、新しい契約に生きる」
聖書箇所 コリント人への手紙11章23節~26節
 
 

 皆さんにとって聖餐とは何でしょうか。本当に必要なものでしょうか。なくても平気なものでしょうか。私たちの教会は、聖餐をどのように告白しているでしょうか。
【主の晩餐】
「主の晩餐は、イエス・キリストが贖いの死によって定められた新しい契約を、教会が感謝して思い起こすしるしです。救われた者は、この聖餐において一つのからだとして、共にキリストのいのちにあずかります。」
 
 白石キリスト教信仰告白では、あえて「主の晩餐」と言っています。それは、聖餐式の出発点が最後の晩餐にあり、いつも、その原点に帰る必要があるからです。そもそも、聖書では「パンを裂くために」とあるだけで、それを形式的な儀式の名前では書かれていないからでもあると思います。あくまで、出発点は主の晩餐です。それは、イエス様ご自身が、12人の弟子たちを前に語られた、その場面に私たちも参加する。今も、生ける主が、この中心におられて、主の晩餐に私たちを招いておられる。そのことをまず思うのです。
 
 この礼拝を含めて、聖餐も、主催者はイエス様です。だから、この信仰告白でも、「イエス・キリストが…定められた」となっています。まさに「主の晩餐」です。イエス様ご自身が、定め、招いておられる食卓。イエス様ご自身が、弟子である私たちを招待してくださっている祝宴です。なんと光栄なことではないでしょうか。その光栄な主の晩餐について、あらためて、みことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.あなたがたのためのからだ
 今朝の聖書箇所のみことばから、まず注目したいのは、24節と25節にある「わたしを覚えて」ということばです。これは、イエス様が最後の晩餐で言われたことばです。二回「わたしを覚えて」と言っているのは、パンを食べるときにも、杯に与るときにも、ということです。パンにおいても、ぶどう酒においても、必ず命じられているのは、「わたしを覚えて、これを行いなさい」ということです。イエス・キリストを覚える。白石教会の信仰告白でも「思い起こすしるし」であると言っています。そういうことです。それは、私たちが、イエス様を信じているとはいえ、忘れっぽい者であるからです。
 
 イエス様が復活されてエマオという村へ向かっている二人の弟子と歩かれるという場面がルカの福音書にあります。しかし、その二人の弟子たちは、目の前にイエス様がいらっしゃるのに気づきません。それは、イエス様がよみがえったことを信じていなかったし、すっかり霊の目が曇ってしまって、不信仰が目の前のイエス様を隠していたからです。私たちも、同じようにイエス様を信じているクリスチャンと公言していますが、いつも主を見失い、目の前に起こることに翻弄され、不信仰に陥る者ではないでしょうか。一週間で起こる様々な出来事に傷つき、失望し、肩を落として日曜日を迎えることの多い者です。
 
 日曜日の礼拝が始まっても、礼拝に集中できず、聖書のみことばもチンプンカンプン。説教も眠くて聞いていられない。そういうときでも、イエス様は、そのような私たちを、この主の晩餐に招いているのです。そして、このパンを裂き、ぶどう酒をいただくことによって「わたしを覚えなさい」と、祝福の入口に連れて行ってくださいます。そのとき、私たちは、いくら霊の目が曇っていても、主は私たちの五感すべてに呼びかけて、ご自身をパンとぶどう酒に現れてくださって、味わわせてくださるのです。
 
 主を味わうために礼拝説教がありますが、それはおもに耳で聴きます。しかし、それだけでなく、全身を用いて主を味わうように招いてくださっているのです。その視覚、嗅覚、触覚、味覚から目を覚ますように導いておられるのです。だから、エマオ途上の二人の弟子たちも、イエス様がパンを裂いたときに、目の前の人がイエス様であることがようやくわかったのでした。
 
 白石教会の礼拝で、説教のあとに聖餐を行うのは、このためです。弟子たちも実は、霊的に鈍感になっているときも、みことばは、私たちの心に働きかけます。そこにパン裂きがあることによって、私たちの霊の覚醒が起こり、イエス様をしっかりと霊の目を開けて見るようにされるのです。ここに、私たちの霊の目が開かれる礼拝の大切なプロセスがあるのです。
 
 ですから、私たちもパンをいただくときに、ぶどう酒をいただくときに、ここにイエス様がご自身をお示しになっておられることを、しっかり覚えたいと思います。しかも、この聖餐は、イエス・キリストが贖いの死によって定めてくださったことです。それは、神の御子でありながら、罪人とされて十字架の苦しみに向かわれた、そのお姿であります。そのお姿を記憶する。覚える。思い起こすのです。 
 
 これが主の晩餐でイエス様ご自身が命じられた聖餐の第一の意味です。だから、私たちも、みことばと合わせて、このパンとぶどう酒をいただくときに、ようやく目が開かれ、信仰が燃やされていく者とされるのです。
 
 ですから新約時代にある私たちの礼拝自体が、まず、そのように主イエス様を覚えるべき集会であると言って良いと思います。それは、私たちの礼拝は、実は旧約聖書の時代の礼拝とは内容が異なるからです。それは、ここでも「わたしの血による新しい契約です」とあるように、礼拝そのものが、この新しい血による契約を思い起こすことがその中心であるということだからです。
それで私たちも、「イエス・キリストが贖いの死によって定められた新しい契約」であると、新しい意味があることを告白しているのです。
 
 
2.主の血による新しい契約
そのように、聖餐は「イエス様の血による新しい契約」として覚えることが大切であるということになります。そして、更に、このことが、どういう人が、この聖餐に与るのかという基準に繋がっています。
 
 今日、読みませんでしたが、27節と29節にそれぞれ「ふさわしくないままで」…「みからだをわきまえない」とあります。この「ふさわしくない」「みからだをわきまえない」というのは、どういう人か。それは一義的には、これまで見て確認してきたように、その意味を信じておらず洗礼を受けていない人のことであると考えて良いでしょう。
 
 このことは、結婚とよく似ています。男女が一つとなり一緒に結婚生活を始めるためには結婚しなければ夫婦とはなりません。それと同じように、聖餐に与りたい者は、主を愛して、主と一つとなる決心をして洗礼を受けなければ、聖なるものを汚すことになり、罪を犯すことになります。しかも、そのさばきが教会にもたらされると言うのです。パウロは、そのことを、30節以降では警告しています。とても厳粛なことです。洗礼は主と一つとなることを決断し出発するしるしであり、聖餐は主と一つとされていることを繰り返し覚えるしるしだからです。
 
 それから、もう一つ、罪を犯したクリスチャンが聖餐に与ることができないという理解もあります。しかし、聖書は、28節を読んでわかるように、やはり自分を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさいと言っていて、もし罪があるならばきちんと悔い改めてから、食べなさい。飲みなさいと勧めているということです。
 
 だから聖餐の中でも、式辞の中で罪の悔い改めの勧めをするのは、クリスチャンである皆さん全員がこの聖餐の恵みに与れるようにするためです。もしかしたら、日曜日の朝、急いで教会に行こうとして、それまでの罪の悔い改めの祈りを慌てていて忘れて来ている人がいるかも知れない。
 
 でも、全員で悔い改める時間があれば、そこで私たちがそれぞれ自分を吟味して、そこで悔い改めて、その上で、出席している全ての兄弟姉妹が聖餐の恵みに与れるようになるからです。聖書は、同じ信仰を告白するすべてのクリスチャンにこの恵みに与ることを勧めているのであって、禁止するためにパウロが語っているのではないことをあらためて覚えたいと思います。神様は、すべての人が救われて真理を知る様になることを望んでおられます。聖書自体も私たち全員がイエス様を信じて、洗礼を受けてこの天国の祝宴に参加するように招いているのです。そして、パウロもそうなのです。
  
 そしてパウロが、この聖餐を受けるべき理由の結論として、さらにこう言っています。26節にあります。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
 
 それは、この聖餐を伴う礼拝を通して「主の死が告げ知らせる」。これは、主イエスの十字架の死の意味を考え、それが誰のためだったか。何のためだったのかを、この業を通しても、私たちは伝えているということです。つまり、形式的な儀式をしているのではなく、聖餐の恵みを受けているからこそ、私たちが、この聖餐にあるキリストの十字架の死にある福音を伝えているということです。神様が良くしてくださった、もっとも大きな恵みであるキリストが、この世の一人ひとりの罪を背負って死んでくださった、その十字架の死にある人間の罪と苦しみ。それが、私たちが救われるための死であったことを伝えることになるのだ。福音宣教なのだ。その積極的使命があるのだ。そう言っているのです。
 
 
結び
 主の晩餐。それは、聖餐式とも言います。でも今、あえて「聖餐」と言って「式」を抜いて呼んでいるのは、形式的になりたくないからです。説教も主を覚える恵みを受ける手段です。でも説教式とは言いません。同じように、聖餐においても、形式ではなく、心から恵みとして受け取りたいのです。なぜなら、聖餐は、洗礼と並んで単なるかたちだけの儀式ではなく、この業を通してもなお、私たちはキリストのいのちに与っているからです。
 
 もちろん、そこに信仰がなければ意味がありません。しかし、この聖餐のパンであるキリストの肉を食べ、杯であるキリストの血を飲むならば、それはキリストと一つにされる祝福を受けるのです。その愛する主との一体感を味わうのです。
 
 私たちも信仰告白でこう言っています。
「教会が感謝して思い起こすしるしです。救われた者は、この聖餐において一つのからだとして、共にキリストのいのちにあずかります。」と聖餐において、キリストのいのちにあずかることを告白しています。それが新しい契約に生きることだからです。
 
 ともにキリストに贖われ、ともに罪が赦され、ともに神の子どもとされ、ともにキリストのいのちに生きる私たちが、たとえ、それぞれに多くの違いがあり、性格の不一致がもしあったとしても、主が命じられた、この聖餐式を通して、一つ家族とされ、共にその主の死を味わい続けるならば、それこそが、主の群れとして、この世に主の死を告げ知らせる証し、それが宣教になり、そのことを通して、主の救いにあずかる方々が起こされていくのです。それが、新しい契約に生きるということです。それは、天の御国での祝宴の前味だからです。
 
 今日は、このあと聖餐があります。どうか、主の死が自分のためであったと信じ、告白し洗礼を受けているすべてのクリスチャンは、主の家族として、ぜひ今語られた聖書のみことばと合わせて、パンと杯に与り、新しい契約に生きている者として、その契約をまず神様のために表してください。そして、まだ洗礼を受けていない方は、一日も早く、信仰を告白して洗礼を受けて、その上で、この素晴らしい主の晩餐で一つとされることを切に願います。