のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年8月21日 白石教会礼拝説教

説教題 「主が見張りをされる証拠」
聖書箇所 創世記31章43節~55節
 
 

 聖書では、目に見えないものを見えるかたちで表すとき、それを「しるし」と言います。例えば、洗礼や聖餐式は「しるし」です。イエス・キリストを信じて聖霊バプテスマを私たちは受けますが、それは目で見ることができません。でも、実際に起こったことなので、それを目に見えるかたちで表すのが水を使って行う水のバプテスマ(洗礼)です。また、その神様との新しい契約のしるしであり、十字架で裂かれたキリストの肉体と流された血潮の象徴として、目で見て、手で触って、においを嗅いで、舌で味わって、呑み込んで、キリストと一つとされていること、そのキリストのいのちに預かっていることを聖餐式において「しるし」として体験します。この洗礼と聖餐式という「しるし」は教会で最も大切にされている聖礼典という「しるし」です。
 
 その他にも「しるし」になっているものがまだあると思います。今日、このあと墓前礼拝を行いますが、お墓も、ある意味、一つの「しるし」です。亡くなった方々の遺骨を埋めただけでは、どこに埋めたのかを見失ってしまいますので、そこに石を置いて目印にしています。また、単に場所を見つけやすくするためだけでもありません。そこに行くと人はみんな死と言う現実に向き合わされます。それは死について考えさせられる「しるし」でもあります。
 
 だから、そのような「しるし」は私たちの生活の全てに大きく関わっていることがわかります。もし「しるし」をやめてしまうと、きっと曖昧になってしまうことが増えると思います。約束しても口約束だけだとどうでしょう。おそらく、どっちかが忘れてしまうと大変です。約束した証拠がないと、非常に不確かなことが蔓延する世界になるでしょう。それは、私たちは互いに不確かな者同士だからです。互いに欠けがあるので、約束ごとを決めたら、必ず互いに申し合わせた方法で記録することが大切です。それもまた「しるし」です。
 
 でも、そうしたとしても、確かではありません。よく起こるのは、国同士の約束である条約が反故にされるということです。私が思いつくのは「日ソ不可侵条約」とか「日韓戦後処理における基本条約ですが、きちんと申し合わせて、書類に調印という代表者のサインがあっても、相手によって勝手に破られたり、内容を変更されたり、そこまでしても不確かな私たちです。では、私たち人間同士には、確実な約束は結べないのでしょうか。そんなことはありません。そこに神様が立ってくださったなら、その約束は確かなものとなります。
 
 今日の箇所には、これまで欺かれ続けてきたヤコブと、その伯父さんのラバンが出てきます。この二人は先週までのところで、互いの意見をぶつけ合って、もしかしたら殺し合いになるかも、というところで、神様の介入により、戦わずに済みました。怒りに燃えていたはずのヤコブも、「神がついておられなかったなら」と、一見、不幸に思えるような20年に中にも幸いを与えてくださった神様の恵みに気づかされました。
 
 今日は、そのヤコブに対するラバンの応答からです。ここには、石の柱、石塚を立てて食事をし、礼拝をしてそれぞれ帰って行くという場面が描かれています。ヤコブにすれば、逃げるのではなく、ようやくここで家に帰る目的だけで出発できます。それは自分の故郷である懐かしのカナンの地への帰還の始まりです。
 
 
1. 契約の証拠
 ラバンはヤコブによって、真の神様に心を向けることになり、応答します。それが43節、44節です。
「ラバンは答えてヤコブに言った『娘たちは私の娘、子どもたちは私の子ども、群れは私の群れ、すべてあなたが見るものは私のもの。この私の娘たちのために、または娘たちが産んだ子どもたちのために、きょう、私は何ができよう。さあ、今、私とあなたと契約を結び、それを私とあなたとの間の契約としよう。』」
 
 もうラバンは、あの「私はあなたに害を加える力を持っている」などと脅すようなことを言う伯父さんではありません。ヤコブが大切にしている家族たちを「私のもの」と言って、自分にとっても家族であり、愛する存在であると言っています。それで、もうこれまでのような争い、脅し合うような関係ではなく、きちんと約束しよう。とくに契約を結ぼうと、より確かな方法をラバンはヤコブに提案します。
 
 そこでヤコブは、即座に石を取って、それを立てて石の柱にしました。石碑ですね。そして、それだけでなく、家族に「石を集めなさい」と言って、石塚をつくります。これは、どういう意味でしょうか。どうして石の柱だけではダメなのでしょうか。それは、恐らく、そのような石の柱のようなものは、結構誰でも作れるので、当時の習慣であったとしても、他の人が立てたものと見分けがつきません。それで、家族で集めた多くの石を使って石塚もすぐそばにつくれば、それは間違いなく自分たちの契約のしるしであると明確になるはずです。
 
 当時は契約書が作れませんから、このように、当時では半永久的に近い状態の物質である石で、その契約を結んだのでした。特に、ヤコブが一族に石を集めさせたことは重要でしょう。自分だけの契約ではなく「一族の契約」として、たとえ契約者であるヤコブとラバンが死んだとしても、その一族の約束として、契約は守られるでしょう。ですから、その石の柱、石塚の前で一緒に食事をすることは、その契約成立の確認であり、そこに「平和がつくられたこと」の象徴的な光景です。
 
 主イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子と呼ばれる」と言われました。平和と言うものは、黙っていて自然にできるものではありません。争っていた者たちが、同じ唯一の神の存在を認め、そのお方がおられるからこそ、多くの恵みが与えられて生かされている。そこに気が付き、「私に何ができよう」と、平和のためにできることを考え、それをつくるために向かって行く努力が必要です。そのためのこの二人の平和をつくる者としての努力が今日のところに三つあります。
 
 一つ目は、44節にあるように「契約を結ぶ」こと。これが平和への第一歩です。そして二つ目は、45節~48節にあるように、口だけの約束にしないで石を使って、つまり「しるし」をきちんと作って、忘れないように、また忘れかかっても、それを見たら思い出すように努力する歩み寄りが重要です。ラバンもヤコブも、それぞれが歩み寄って、成り立っています。ラバンの提案をヤコブが聞き、ヤコブの石の柱と石塚をラバンが認め、互いにそれを「あかしの塚」(47節)と呼んだ。その言葉はそれぞれの国の言語(ヘブル語とアラム語)ですが、同じ価値感に立って、その石に込められた意味を間違えないように、歩み寄って、そう決めたということです。だから晩餐会を開き、そのことを食事の交わりによって確かなものとしているのです。この食事もそういう意味での「しるし」でしょう。
 
 
2.主が見張り
 そして三つ目は、49節です。その契約の間に、人間ではなく、最も確かな神、主がおられることを確認していることです。これまでテラフィムという偶像も拝んでいたラバンの口から、「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主(ヤハウェ)が私とあなたとの間の見張りをされるように」と言ったと書いてあります。これは明らかに主への祈りになっていることばです。
 
 主が見張りをされるようにという願い。ここはもうテラフィムではない。また他の偶像の神でもなく、ヤハウェなる神、唯一の神、アブラハムの神、主の事です。それは、まず夢における主との出会いがあって、みことばが与えられたこと。そしてヤコブの怒りを込めた「神がついておられなかったなら」という証し。その一連の体験は、偶像崇拝者ラバンの石のような心を柔らかくしました。そして、おそらく、ヤコブが来てからの20年間ずっと、この主が私たちを見張っておられたのだ。そこに気づかされたからこそ、ヤコブが立てた石の柱、石塚を前に、主が見張っていてほしい、これからもそうあってほしいと祈ったのではないでしょうか。
 
 ここに、やはり伝道の必要を覚えさせられます。それは互いに同じ神を中心に歩み寄り、この神のご支配を願うところに平和がつくられるからです。聖書でいう平和「シャローム」とは、単に何も争いがない状態という意味ではありません。聖書が言う平和とは、神が天と地を創造されたときのことを聖書が証言している「それは非常によかった」ことを意味しています。それは創造主なる神の栄光がすべての被造物を照らし、そこに調和があり、神に愛され、神を愛する世界です。
 
 ですから、いくら人間だけで平和を作ろうとしても限界があります。しかも、真の神を無視して本当のシャロームはつくることができません。ユダヤ人のあいさつは「シャローム」です。それは直訳すると「あなたに平和があるように」です。その平和とは第一義的に「神との平和、神とのシャロームな関係でありますように」という、非常に厳かな意味なのです。
 
 それは、この世界は、真の神に反逆する世界になってしまっているからです。今日こんにち、人間が平和を壊しているのは、主のことを無視して、神との平和、神との和解抜きに、人間たちだけで平和を作ろうとするからです。聖書においては、創世記の1章、2章、そして最後にあるヨハネの黙示録21章、22章に真の平和の姿が描かれています。つまり、聖書は真の平和と真の平和のサンドウィッチになっています。
 
 その平和の間に挟まっている部分。つまり人間の堕落が始まり、その罪の歴史が繰り返されている内容が綴られている聖書の中味。これはどういう意味なのでしょうか。なぜ、聖書は平和と平和で人間の罪の歴史を挟んでいるのでしょうか。それは、最初のシャロームは人間の堕落によって失われたけれども、この挟まっている部分、つまり、闇の中に来られた「しるし」、そこに立てられている「しるし」を知ることによって、後ろのシャロームに与れるということです。
 
 その私たちにとっての「しるし」とは何のことですか。それがイエス・キリストなのです。今日、ヤコブが立てた石の柱、この石塚はまさに、イエス・キリストです。ヤコブが立てた石は、ある意味、古い自分、ラバンと過ごしたハラン、つまり、その苦しみの世界から、憧れの自分の故郷へ向かうためのしるしです。それは、この罪の世と、神の国の間に立っておられるキリストを彷彿させます。だから、ヤコブは、ハランで過ごした20年の中で神と出会い、その中で神を信ずる信仰者として整えられました。それで、今、故郷へと旅立つ姿は、この世を生きる私たちの模範です。
 
 私たちも、この世と言う、罪の世界、争いの絶えない苦しい世におかれています。しかし、石が立てられて、信じたヤコブが故郷へ向かうように、私たちも、この世の旅路において、神と出会い、イエス・キリストという救いの石を私たちの心に立てなければなりません。そのキリストを我が救い主として、受け入れるならば、憧れの天の故郷に向かって希望をもって歩むことができるのです。
 
 
結び
 あなたは、天の故郷に帰る準備はできているでしょうか。今日、交読でお読みした伝道者の書には、「ちりはもとあった地に帰り、霊は、これをくださった神に帰る」とありました。すべての人は必ず死にます。その行き先を知っているか。知らないでいるかで、その人生に大きな違いがあります。電車に乗るときに、行き先を知らないで乗るでしょうか。皆さんは、どこへ行く切符を買って人生という旅をしていますか。聖書には、はっきりと、この肉体は朽ちていき土に帰り、霊は神に帰るとある。
 
 それは、帰ったその先で、神様に問われる場面があるということです。しかし、きよい神様のさばきから逃れられる人はいません。すべての人が罪人だからです。ところが、ヤコブが石を立てて故郷へ帰って行くように、今、この世に命を受けているときに、あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよと聖書は勧めているのです。真の神に立ち返るならば、旅の終わりに待っているのは、私たちが憧れていた天の故郷なのです。だから、この地上にいるうちから、その行き先を知り、希望をもって、しかも喜びをもって、この地上を歩むことができます。それは神様があなたの味方になるからです。主があなたの人生を見張っていてくださるからです。その救いの「しるし」がイエス・キリストなのです。
 
 ヤコブはラバンと、ずっと争いをもたらす危険な緊張関係にありましたが、ここに神を信じることによる一致と、石の柱、石塚という「しるし」を間に立てて、神を中心に置いた平和づくりのために歩み寄る努力をする者へと変えられていきました。そして故郷へ帰って行きます。私たちも、あらためて、真の平和づくりには、まず一人ひとりの神様との関係が回復されなければ、人間同士の平和もないことを覚えたいと思います。そこに主イエスが立っておられます。
 
 天の故郷の入口にキリストが立っておられます。このキリストを通って入るならば、私たちも神の子どもとされます。平和をつくる者が幸いなのは、その人は神の子どもと呼ばれるからです。
 
 どうか、今日、私たちのための「しるし」である十字架にかかられたキリストをあなたの心に立てて、受けいれましょう。そして「主イエスこそ我が望み、わが憧れ、我が歌」と、ともに賛美しつつ、感謝と喜びをもって、天の故郷を目指す幸いな歩みを続けていこうではありませんか。