のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2021年8月15日 礼拝

説教題 「剣によって生きる人」
聖書箇所 創世記27章41節~46節

 

"41 エサウは、父がヤコブを祝福した祝福のことで、ヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」
42 上の息子エサウの言ったことがリベカに伝えられると、彼女は人を送り、下の息子ヤコブを呼び寄せて言った。「兄さんのエサウが、あなたを殺して鬱憤を晴らそうとしています。
43 さあ今、子よ、私の言うことをよく聞きなさい。すぐに立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。
44 兄さんの憤りが収まるまで、おじラバンのところにしばらくとどまっていなさい。
45 兄さんの怒りが収まって、あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れたとき、私は人を送って、あなたをそこから呼び戻しましょう。あなたたち二人を一日のうちに失うことなど、どうして私にできるでしょう。」
46 リベカはイサクに言った。「私はヒッタイト人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました。もしヤコブが、この地の娘たちのうちで、このようなヒッタイト人の娘たちのうちから妻を迎えるとしたら、私は何のために生きることになるのでしょう。」"

 
序論
 1945年8月15日の正午に、天皇の言葉がラジオから一斉に流れました。
 この天皇のことばによって、多くの日本人がその人生に様々な影響を受けたと言っても良いでしょう。戦争が終結して良かったと喜ぶ人もいたでしょうが、日本は絶対に戦争に負けないと信じ込んでいた人たちにとっては、絶望の淵に落とされた瞬間でもありました。 
小説家の三浦綾子さんは、当時、軍国教師で、何の疑いもなく、子どもたちに、お国のためにいのちをささげるように教育してきました。しかしその玉音放送によって迎えた敗戦、終戦を通って、失望と強い罪責観に襲われたことを、三浦綾子さんは言い残しています。
 
 戦時中の教育は、すべて日本が正義で、アメリカやイギリスは鬼畜だと教えられていました。それは、強い憎しみを植えつけて、子どもたちの心に敵国への強い憎悪が生まれるように教育したということです。「鬼畜」(鬼、畜生)という相手を侮蔑する言葉を使って、その気持ちに間違った正義感を植えつけて、日本がやっている戦争は正しくて、敵は悪だと思いこませ、「悪い奴はやっつけるのは当たり前」という常識で、なんのためらいもなく人を殺せる国民をつくっていったのです。
 だから、日本が降伏をすることなんて考えていなかった。最後の一人になっても戦うつもりだった人にとっては、もう自殺するしかない。実際に切腹などで自殺した人もいました。自殺しないまでも、自分が、これから何のために生きていくべきかわからなくなった人が大勢いたのです。
 
 今日の聖書箇所でも、リベカが46節に「私は何のために生きることになるのでしょう」と嘆いている言葉が記されています。この言葉が、今日の説教題と繋がっている言葉です。今日の説教題は「剣によって生きる人」ですが、それは前回のイサクからエサウへの祝福の言葉の中で言われていた40節「おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる」から借りました。そのイサクの言葉は、エサウの未来を預言しているとも先週お話しました。それはエサウが、このあと「おのれの剣」によって生きる者とされる。しかし「おのれの剣」を置いて、ヤコブに仕えることをへりくだって受け入れるならば、ヤコブを通してエサウも祝福されると言うことです。
 
しかし、そこで「おのれの剣」を取るならば、そういう「おのれの剣」によって生きるという選択肢もある。しかし、その生き方がもたらすものが「私は何のために生きることになるのでしょう」という、人間にとって大切な生きる意味を見失わせていくということです。
 
 今、私たちは何のために生きているか答えらえるでしょうか。まさかお国のためではないと思います。もしクリスチャンならば神のため、キリストのためであると答えたいところです。使徒パウロは「生きることはキリスト。死ぬことも益です」と言っています。私たちもそのようでありたい。
でもいくら洗礼を受けてクリスチャンになったとしても、自分がいったい何のために生きているのか見失うことがないでしょうか。生きていても、意味がないと思ってしまう。人生、いのち、生活すべてに何の意味も目的も見えてこない。そういうときはないでしょうか。
今朝は、その答えを「剣によって生きる人」エサウとリベカを探りつつ、みことばに聴いていきたいと思います。
 
 
1.エサウの方向性(おのれの剣によって生きる人)
 父イサクの言葉を聞いたエサウは、その言葉を聞くや否や「おのれの剣」を振りかざすことになります。その剣とは41節での言葉を使えば「恨み」です。
 聖書では「剣」という言葉は400回以上も使われています。もちろん武器としての剣という意味でも使用されていますが、象徴的な意味で、武器や武力全般、苦痛、戦争、争いを表す言葉としても用いられます。ですから、この箇所でも、文字通りの剣、刃物に限定しないで、文脈から見る必要があります。
 
 たとえば、イエス様が言われた「剣を取る者はみな剣によって滅びる」というみことばを、文字通りの「剣」だけに限定して解釈すると、「剣以外の武器なら取っても良いのだ」ということになってしまいます。でもイエス様はそんなことは言っておられない。
ですから、文脈で判断することが大切です。今日の箇所の場合も、ここでの文脈で捉えると、イサクが40節で語った「おのれの剣」とは、やはり、先ず41節の「恨み」という剣であることが分かってきます。この「恨み」は、「憎しみ、非常に嫌う」という強い言葉です。そして、それが、リベカが言った「兄さん」の感情を表す二つの「おのれの剣」を引き起こすものであることがわかります。
 
 その一つは44節にある「憤り」、二つ目は45節にある「怒り」です。これは、日本語では訳し分けられていますが、原語的には「燃えるような怒り」という強い言葉であり、限度を超えた爆発した怒りであったということです。ですから、今日のみことばでは、エサウヤコブに対して振りかざした「おのれの剣」とは、エサウの恨みであり、その恨みから増幅された憤りであり怒りであるということです。この感情が、弟ヤコブに対して向けられたエサウの「おのれ剣」なのです。この「恨み、憤り、怒り」という「おのれの剣」によって生きようとするとき、彼は与えられた人生の中で生きる意味、目的を失うのです。まさに軍国少年たちがそうだったように、です。
 
 皆さんは怒りが収まらないとか、極限を超えた怒りと言うものをもったことがあるでしょうか。それは相手を赦すことができないくらいの憤りです。その原動力は何だったでしょうか。やはり相手への憎しみ、憎悪、恨みではないでしょうか。この人を憎む、恨むという感情が実は厄介なのです。
 
 誰でも怒るものです。この中で怒ったことのない人はいないと思います。しかし、聖書はこう言います。
「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」エペソ4:26,27
 これは使徒パウロの言葉です。パウロは、怒りはだれでも起こるものだが、憤ったままではならないと勧めます。憤ったままだと罪を犯すことになると警告しています。それは、そこに憎しみや恨みという力が働いているからです。だから、エサウで言うならば、ヤコブに対する強い憎しみ、恨みがエサウの心を支配し、益々、神のみことばが聞けなくなるということです。それは、その恨み、憎しみがその人の神になっているということです。それがエサウの心を支配していて、神様が、せっかく神様の平安を与えようとしても締め出してしまうのです。
 
 このことは、私たちも同じです。私たちも心の王座にイエス様ではなく、「恨み・憎しみ」という偶像が住んでいるならば、神様が与えようとしている祝福を受けることができません。それは、その恨み、憎しみがあなたの神になっているからです。そこに悪魔が入り込んで、もっと難しい状況に置かれます。箴言にも「怒りっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから」とあります。
 
 これが「おのれの剣によって生きる人」です。そこから脱出できなければ、本当に生きる意味を見出せない、希望のない人生に陥ってしまうのです。では、そういう人を立ち直らせて、生きる希望に満たされた人生に向かわせることはもう無理なのでしょうか。 
 
 
2.リベカの方向性(主の剣によって生きる人)
いいえ。そうではありません。それは、もう一つの「剣によって生きる人」の姿から学ぶことができます。それがリベカです。 42節、43節を読みます。
「兄エサウの言ったことがリベカに伝えられると、彼女は使いをやり、弟ヤコブを呼び寄せて言った。『よく聞きなさい。兄さんのエサウはあなたを殺してうっぷんを晴らそうとしています。だからわが子よ。今、私の言うことを聞いて、すぐ立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。』」
 
 リベカは、エサウがものすごい怒りに満ちていることを知って、急いでヤコブを逃がそうとします。それも自分の兄弟が住んでいるハランです。かつてアブラハムが住んでいた場所であり、リベカの出身地です。そこに、ヤコブを匿うのです。
 このように、ヤコブを生かすように行動することは主の御心でした。ヤコブアブラハム、イサクの後継者になることが神様の計画だったからです。それは、現代的な視点で見るならば、ここから2000年後のイエス・キリストによる人類救済をも護ることに繋がっているからです。逆にヤコブを殺そうとするエサウの背後には、神様による人類救済を邪魔しようとする悪魔の力が働いていると言っても良いでしょう。
 
 ただし、一つ言わなければならないことがあります。それは、エサウとイサクを欺いたヤコブのことはどうなんだ。エサウの方が騙されっぱなしで、扱いが酷いではないかと思う方がおられるかも知れません。それはそのとおりだと思います。
 しかし、神様は侮られる方ではありません。人は、自分が蒔いた種を刈り取るときが必ずあります。ここまでで、ヤコブについてはほとんど触れてきませんでしたが、このあとたっぷり出てきますので大丈夫です。ヤコブは兄エサウを自分のやり方で騙して長子の権利を奪ったり、父イサクを欺いてエサウへの祝福を奪った、そのやり口、そういう性格、罪深さを神様が見過ごすはずがありません。
 
 このあとヤコブは、気が短いエサウではおそらく耐えられないような試練を通らされます。その試練を通して、その思い上がり、罪深い性格が清められていくのです。川上から転がってきた岩が川下に行くにしたがって角が削られ、小さな丸い小石になるように、ヤコブもただでは済まされないのです。しかし、このリベカも含めて、彼らが通らされる苦難が苦難では終わらずに主の訓練となって、のちに祝福へと繋がっていくのです。
 
 リベカも、ヤコブの方を愛する偏愛という意味では欠けのある信仰者でしたが、主のみことばの実現のために何とかしたいという信仰がありました。その方法がイサクを騙すということには問題がありますが、主のみことばを生きようとするものを主はないがしろにしません。その方法に問題があれば、主は必ず修正してくださるのです。
 
 私も、38年のクリスチャン人生で、自分の罪や選択ミス、失敗が原因で多くの苦しい道を通って来ました。でも、振り返って、あのことも、このことも、「今となっては良い経験となった」と言えるのは、神様がそのように修正してくださったからであり、私自身の知恵とか力、家柄、学歴は一切関係ありません。むしろ、そのようなものはまったく役に立ちません。
 
 今、振り返ると、警察官採用試験に落ちて、電話工事の仕事をしたこと。20歳で妻と結婚したこと。故郷である滝川を離れて札幌に住み、東栄福音キリスト教会へ転会したこと。その後、あのこともこのこともあり、49歳で北海道聖書学院で3年学び、卒業するときに、遠藤牧師、阿部牧師と一緒に祈って、進路をどうするか決めるときも、今、この白石教会の講壇に立って言えることは、このために、今までがあったのだという確信です。そして、そのように、本当は罪だらけ、失敗だらけの人生なのに、神様が介入されて、その罪深い泥沼のような道を神様の真実の中に招き入れてくださって、「今」という祝福に預からせてくださっているということです。
 
 リベカもヤコブもそうだったのです。今日のところでは、リベカが主人公です。彼女は、主のみことばの実現のために用いられて、しかも、母親として、とても大切な言葉を私たちに残しています。それは45節の最後の言葉です。
「一日のうちに、あなたがたふたりを失うことなど、どうして私にできましょう」
 
 つまり、リベカは、息子たち、二人とも愛していたということではないでしょうか。ヤコブだけ生き残れば良いとは言わず、二人とも失うことが悲しいことだと言っている。それは、ヤコブだけでなくエサウだってかわいい息子だということです。でも、そこにいくらかの愛の重さの歪みが生じていた。でも、それは、リベカに限らず、私もそうだなと思います。息子三人いましたが、全員に同じように愛していると思いたいですが、時によって、そのバランスがよく崩れていました。皆さんはいかがでしょうか。
 リベカもそうだったに過ぎない、よくある親の一面が聖書に記録されているので、私たちは、「さばく目」で見てしまいますが、彼女なりに主の信じて歩んでいるのです。 
むしろ、彼女は、主のみことばによって生きていると言って良いのではないでしょうか。
 
 最後、46節ではリベカはイサクに提案をします。それはヤコブをハランへ住まわせるということです。しかしエサウに狙われているからだとは言わずに、もう一つの理由だけを告げます。それは、エサウの考え方、価値観の中にヘテ人の妻たちによってもたらされた異教の影響を見たからだと私は推察します。それが、さらにヤコブにももたらされたとしたら、ヤコブにとって決して良くないからです。それは、これからもアブラハムのように、主なる神だけを礼拝し、主のみことばに聴いていく民を形成することが、その家督を受け継ぐヤコブの務めだからです。
 
 リベカが、46節で「私はヘテ人の娘たちのことで、生きているのがいやになりました」と言ったのは、エサウとその妻たちが、主のみことばをないがしろにする「おのれの剣によって」生きる姿に心から嫌気がさしていたからでしょう。
 それは、もはや恨みや憎しみだけではなく、主のみことばを無視した、自分の力、自分の知恵、この世の権力、価値観などに支配されて生きるということ、そこに生きる希望を失わせる闇の力があるということです。
 だからリベカは益々、「おのれの剣によって」ではなく、もう一つの「剣によって生きる」方をヤコブに望んだ。だから少しでも主のみことばを大切にできる場所ハランにヤコブを住まわせようとしたのです。
 
 
結び
 そうです。「剣によって生きる人」とは二種類あります。ひとつはこれまで見てきたエサウに見る「おのれの剣によって生きる人」。そしてもう一つの剣とは、なんでしょうか。それが主の剣です。すなわちパウロがエペソ人への手紙で「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」と言っているように、主のみことばのことです。神のことばがもう一つの剣なのです。
 
前々回の説教では「みことばを生きた人」という表現を使いましたが、ここでは40節の「剣によって生きる」とあるように、主の剣である「みことばによって生きる人」とあえて呼びたいと思います。
 それは、あらためて主のみことばを生きるためにも、まずはみことばの前に静まり、みことばに聴き、みことばによって生かされなければならないからです。主の剣であるみことばは、神に造られた私たちを、本来の神のかたちである御子のかたちに造り変える力があります。その主のみことばという剣こそ、私たちを罪からきよめ、また悪魔の誘惑、攻撃からも守ることができる最高の武器です。
 
だからこそ、もし今「おのれの剣」を持っている人がいるならば、それは下ろさなければなりません。あなたを愛し身代わりに十字架に釘付けになったキリストの前に、その重荷を下ろしましょう。確かに「おのれの剣」の方が手っ取り早く問題を解決できるように錯覚します。しかし、そこには本当の解決(祝福、救い、神の国)はありません。
 
 しかし、いかなるときも、主を愛し主のみことばに聴いていく生き方こそアブラハムの子孫、真のイスラエル人、主のみことばによって生きる神の子どもです。そのみことばの光に照らされるならば、「私は生きているのがいやになりました。…何のために生きているのか」という人生は終わります。キリストこそが、私のすべてであり、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」と断言できるほどに、神のことばは、あなたを、そしてあなたの人生をつくり変え、闇から光へ解放するからです。 
 
 今週も、「おのれの剣」ではなく、「御霊が与える剣である神のことば」を、心から喜んで受取り、みことばに堅く立ってまいりましょう。
 
祈り