のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

白く塗った墓よ

使徒の働き 23章1~11節

 

"パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。

 

「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」


すると、大祭司アナニアは、パウロのそばに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。
そこで、パウロはアナニアに向かって言った。

 

「白く塗った壁よ、神があなたを打たれる。あなたは、律法にしたがって私をさばく座に着いていながら、律法に背いて私を打てと命じるのか。」


すると、そばに立っていた者たちが「あなたは神の大祭司をののしるのか」と言ったので、パウロは答えた。

 

「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはならない』と書かれています。」


パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見てとって、最高法院の中でこう叫んだ。

 

「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」


パウロがこう言うと、パリサイ人とサドカイ人の間に論争が起こり、最高法院は二つに割れた。
サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めているからである。


騒ぎは大きくなった。そして、パリサイ派の律法学者たちが何人か立ち上がって、激しく論じ、「この人には何の悪い点も見られない。もしかしたら、霊か御使いが彼に語りかけたのかもしれない」と言った。


論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと恐れた。それで兵士たちに、降りて行ってパウロを彼らの中から引っ張り出し、兵営に連れて行くように命じた。


その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。"

 「白く塗った墓よ」というパウロの言葉は、以前主イエスご自身がパリサイ人や律法学者たちに対して使った表現です。

 

"わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。
同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。"マタイの福音書 23章27~28節


 外側は良い行いというペンキで誤魔化しているが、その内側は墓のように、腐った死体のように汚れているということです。

 それに対して、大祭司をはじめユダヤ人たちは、大祭司への冒涜だと反論して、権威に対する反逆を唱えるのです。神に委ねられた権威を正しく使わないで目の前に立つ神のしもべを亡き者にしようとする。

 この場面は、悪代官と悪徳商人が水戸光圀の前でごろつく様子にそっくりです。目の前にいるパウロという真の神の権威によって福音を宣べ伝えているキリストの使徒の権威を知らないで、自分たちの権威におごってパウロを断罪する姿は非常に滑稽でもあります。

 

 しかし、これが罪深い人間の姿です。また、神の大祭司という要職にありながら、やはり主イエスを十字架につける裁判でもそうでしたが、その権威を正しく用いることができず、罪ある自分たちに気づかないで、罪なきものを罪に定めようとする人間の愚かさを露呈しているのです。

 しかし、パウロは彼らの中にある矛盾を突いて、彼らの中に混乱を起こさせて、最高法院の裁判が成立できなくなりました。

 

 そして千人隊長が機転をきかせて、パウロをその場から連れ出すのです。やはり、その一連の出来事に主の守りがあったと見るべきでしょう。

 それは、主自らがパウロに現れてみことばによって励ましてくださったことで明らかです。そして、エルサレムの最高法院でそのように勇ましく語ったようにローマでも語れと、パウロが望んでいたローマ行きを命じるのです。

 ここに、パウロもローマでへの渡航が単に自分だけの思いではなく主の御心として後押しされ、主の御心ならば実現することを確信できたことでしょう。

 確かに囚人という立場でのローマ行きですが、自分の計画ではなく、そこに主の計画があり、囚人として向かう意味を、これから味わうでしょう。

 事実、このあとパウロは囚人としての立場によってローマ兵への宣教が可能になりました。

 ローマ兵は遠征で、全ての道はローマに通ずると言われるくらいに整備された道を通って世界各地へ行きます。つまり、福音を聞いたローマ兵たちによって世界宣教が一気に進むのです。

 これが神に与えられた権威の正しい用い方でしょう。人間の権力者のように、その権威に胡座をかくのではなく、むしろその権威を帯びて囚人となって、へりくだって仕えるときに、主ご自身が全てを働かせて、ご自身の宣教を成し遂げてくださるのです。

 私たちも今日、主の権威を帯びているキリストのしもべですが、みことばを携えて、白く塗った墓ではなく、まさに囚人のように心も低くされて、へりくだって福音を宣べ伝えてまいりたいと思います。

 

"ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。"
ペテロの手紙 第一 5章6節