日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

「おまえは、キリストなのか」マルコの福音書14章53~72節

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1. 大祭司の尋問

Mark 14:53 人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。


Mark 14:55 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
Mark 14:56 多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。
Mark 14:57 すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。
Mark 14:58 「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」
Mark 14:59 しかし、この点でも、証言は一致しなかった。
Mark 14:60 そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」
Mark 14:61 しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」
Mark 14:62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
Mark 14:63 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。
Mark 14:64 あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。
Mark 14:65 そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。

 

 推論のための論理は、二通りの方法に集約されます。それは演繹法帰納法です。演繹法というのは、大前提を見定めて結論を導き出す思考の経路で、前提が適切であれば非常に分かりやすく、説得しやすい方法です。しかし、前提が誤っていると結論に至るすべての議論が虚しくなります。また帰納法というのは、多くの観察で得た事実から、類似した事柄を集約して結論を導き出す方法で、確かな事実の積み重ねによって立証するので、人に納得させる効果があり、もし仮に事実が誤っていても、修正しながら結論に至らせることができます。しかし、論法としては、結論が最後までわからないので、聴く者の意欲を維持させることが難しいです。ドラマで説明するなら、刑事コロンボや警部補古畑任三郎演繹法的ドラマです。それは初めから犯人を視聴者に分からせた上で進めていく脚本だからです。しかし、アガサクリスティなどは、最後の最後まで犯人がわかりません。エンディングまで様々な証拠を積み上げて、最後に名探偵エルキュール・ポアロが犯人を特定するという筋書きです。これが帰納的ドラマ展開です。 

 今日の箇所は大祭司による尋問です。これは「最高法院全体は」(55節)とありますから前任のアンナスではなくカヤパによる裁判であると言えます。この大祭司を議長とする最高法院はイエスの尋問を行ないました。しかし、この裁判はいくつか問題点がありました。それはまず、死刑判決を下す裁判は日中に行うべきことが決められていましたが、この裁判は夜中でした。そして、もう一つは、初めから被疑者を死刑にする目的で開かれていたことです。55節。

 

Mark 14:55 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。

 

 ここに「イエスを死刑にするため」と書いてあります。つまり、イエスを死刑にすることを大前提として裁判が行われた。それは演繹的な裁判だったということです。これは、大変重大な過ちをユダヤの最高法院サンヘドリンは犯してしまったということです。

 これは一般的にもよくある過ちです。警察の捜査で、先に犯人に目星をつけて、その犯人の状況証拠を積み上げて立証しようとすると、最初に目星をつけた人が犯人でなかったときに、冤罪を生むことが多々あります。最初に犯人だと言ってしまったプライドを傷つけたくないために、警察の威信にかけてという思いも相まって、証拠すら捻じ曲げて犯人にでっち上げるのです。刑事の感で、何となくというあいまいな理由で、またこの人を犯人にしたいという誤った理由で大前提を決めてしまうなら、そこに大きなリスクがあることをわきまえておかなければなりません。

 ですから、このイエスの裁判も最高法院全体で既に死刑にすると決めているところに、大問題があると言わざるを得ません。しかも、56節には「多くの者たちがイエスに不利な偽証をした」と書いてあり、この裁判の異常さを伝えています。しかし、イエスを死刑に出来るような証言は得られませんでした。それは、この裁判は罪人の思惑によってイエスが十字架に架けられることは事実ですが、その背後には神の救いの計画があり、その御心を遂行すべくイエスがここに立っているとも言えるのです。すなわち、イエスが義人のまま、何も罪を犯さない完全な人として、贖いの神の子羊として、御子キリスト自ら十字架に向かっている。そのためには、偽証ではない、自ら真の証言をして、そのゆえにゴルゴタに引かれていくのです。かつてイエスはこう言われました。

 

「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 ヨハネ10:18 

 

 ですから、イエスはご自分でご自分のことを証言しました。それは大祭司の質問に対して誠実に答えるかたちで行われました。

 

Mark 14:62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

 

 イエスは他のことには無言でしたが、御自身のことを証言するこのとき、そして、一応大祭司からされた質問に誠実に答える意味でも、はっきりとお答えになりました。

しかし、この証言は事実ですが、信じない者にとっては偽証であり、神を冒涜しているとしか受け取られませんでした。それで彼らはイエスを「全員で、イエスは死に値すると決めた」のです。

 さて、この裁判の主導権は誰が握っていたでしょう。それは、本当の大祭司であるイエスです。実はカヤパがさも偉そうにこの最高法院を司っているように振舞っていますが、最初から最後まで、本当の審判者であるイエスが裁いていたのです。

 私たちも、常にこの事実を認めていく必要があります。私たちの人生の主導権、私たちの思考の主導権、私たちの教会の主導権など、すべての主導権は私たちの真の大祭司、真の審判者であるイエスにあることをわきまえなければなりません。そして、その真の大祭司イエスご自身が自ら贖いの子羊として犠牲となられたことを覚えることが大切です。

 

「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」ヘブル7:27  

 

2. 泣き崩れるペテロ

 この一部始終を見ていた弟子がいました。それがペテロです。なぜ彼は逃げずに、ここに潜んでいたのか。ある意味、大変危険な行動でもあります。

Mark 14:54 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。

 

Mark 14:66 ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。
Mark 14:67 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」
Mark 14:68 ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。
Mark 14:69 召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」
Mark 14:70 すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」
Mark 14:71 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。
Mark 14:72 するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。

 

 ペテロは、このあとイエスのことを知らないと三度否定して激しく泣く場面がきますが、最後までイエスのことを見届けようと思ったのか、もしかしたら、これまで目の当たりにしてきた奇蹟の業によって、敵を蹴散らすことも期待していたかも知れません。

 どちらにしても、ペテロの行動はペテロなりの、そのとき出来る限りのイエスを愛する行動だったのかも知れません。そうでなければ、もっと安全な場所にいて、今後の対策を考えるはずです。しかし、彼はイエスがどうなるか、どうされるか見ようとした。いや、そうしてしまったのかも知れません。一人剣を振るって戦おうとしたペテロは、ここで決して簡単に責められるべき弟子ではないと思います。おそらく、各福音書に記されている大祭司の尋問から十字架刑までは、ペテロの証言を得て著されていることでしょう。それが今、私たちがこの裁判の事実も、彼がここでイエスを知らないと言ってしまったことも知ることが許されています。きっと初代教会においても、ペテロ本人の残念な体験として語られ、多くの弟子たちに慰めを与えたことでしょう。

 

 今日の箇所で、イエスは死刑に値するという大前提で裁判をし、最終的には神の摂理のうちにはありましたが、彼らの悪巧みをごり押しするかたちで判決が出ました。それは大祭司や最高法院は演繹的に、イエスは殺すという大前提を掲げて、人間としてはあってはならない判決をくだしたことがわかりました。

 一方、ペテロはずっとイエスを遠巻きに見続けて、イエスがどんな方か、これまでのイエスとの時間を思い起こしながら、更にどんな方か探り求めながら、裁判におけるイエスを見続けました。それは結論はまだ出さず、しかし、これまでのイエスのことば、行動、態度、すべての事実を繋ぎ合わせて、まとめていたことでしょう。それは帰納法的な姿勢でした。おそらくペンテコステ聖霊が下るまで、ペテロは他の弟子たちとともに、イエスはだれか。イエスはどんな方かを祈り、願い、求め、探り続けたことでしょう。

 しかし、そのペテロもある意味、大前提を持っていたことも事実です。それは、イエスから直接、あなたはわたしをだれだと思うかという問いに答えた、その答えがペテロのイエスに対する大前提であったからです。

 

するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」マルコ8:29  

 

 ペテロの大前提は、イエスはキリストであるということだったのです。つまり、演繹か帰納かという話ではありませんが、ペテロは正しい大前提のもと、イエスを愛し、その証拠を繋ぎ合わせるために、イエスの姿を追い続けたのです。

 私たちも、今日、このペテロの前提に立ちたいと思います。まずイエスはキリストです。(マタイ16:16:イエスは生ける神の子キリストです)その告白を前提に、今日も、このお方を求め、探り続けたいと思います。イエスを更に求め、知ることこそ、弟子である私たちの大きな喜びであるからです。

 

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」ピリピ3:12

神と私たちの主エス知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。 」Ⅱペテロ1:2