のりさん牧師のブログ

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「イエスを見捨てて」マルコの福音書14章43~52節

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「ユダの接吻」ジョット・ディ・ボンドーネ作

 

◎マルコの福音書14章43~52節(新改訳2017版)

43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。
44 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。
45 ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。
46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
47 そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
49 わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」
50 皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。
51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。

 

1. ユダの口づけ

 マルコの福音書記者は「そしてすぐ」とこれまでの記事と同様に、イエスの忙しさ、間髪入れず様々な出来事が押し寄せるように記録しています。

 ゲツセマネでの祈りが終わり、すっかり寝込んでいる弟子たちに「立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くにきています。」と告げるや否や、弟子の一人であるユダが現れました。ユダがイエスや弟子たちの中にいなかったのは、イエスを引き渡すために祭司長たちのところに行っていたからでした。(10節)ユダは「その機会をうかがっていた」(11節)と記されています。おそらく、イエスがこのゲツセマネで祈っている間もユダは遠巻きにころあいを見計らっていたのでしょう。イエス祈り終え、立ち上がったところに何と、祭司長や律法学者たちだけでなく、「剣や棒を手にした群衆も一緒」に来たのです。48節でイエスが「強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか」と言われたように、たった12人の男たちを捕らえるために、彼らがとった行動は、イエスと弟子たちがローマへの反逆集団であるように、あえて装ったとも言えます。それはローマへの反逆罪であれば、イエスを死刑にすることができるからです。

 それでユダが取った第一の行動は、イエスに口づけをすることでした。口づけは愛を表し、その親しさを表す行為です。その愛を表す口づけをユダは、この男がイエスであることを祭司長たちに知らせるために用いたということです。しかも「先生」と言って、イエスとの信頼関係、師弟関係を明らかにする呼び方で、ユダはイエスを裏切ったのです。そして、ここにその打ち合わせでイエスを裏切る者、すなわちイスカリオテ・ユダが言ったとされる言葉が明らかにされているのは興味深く、また心痛を覚えさせられます。44節。

 

44 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。

 

 これまで、他の弟子たちとともに神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病を癒す権威が与えられて、その業を行わせていただき、3年半の間、寝食をともにしてきたユダが、イエスへの扱いとして「しっかりと引いて行くのだ」(命令形)と言ったことは、もはやイエスのことを神の御子であることも、神からの預言者であることも否定しているということではないでしょうか。イエスを裏切ることは、神を裏切ることです。イエスに対して、もし神の御子としての恐れがあるなら、「しっかり引いていけ」ということは言えないと思います。しかも、それを人々に命じていたということが、ユダの裏切りの残酷な面として伝わってきます。

 そして、予定どおりユダは、イエスに口づけし、人々は打ち合わせどおりイエスを逮捕したのです。

 

2. 強盗にでも向かうように

 そこに一人の弟子が、持っていた剣を抜いて祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落としてしまいました。この弟子はマルコの福音書では明らかにしていませんが、シモン・ペテロのことです(ヨハネ18:10)。また、剣が2ふりあり、事前にイエスが「それでよい」と言って持たせたものでした。また、耳を切られた人はイエスによって癒されたことも他の福音書記者は証言しています。しかし、マルコはこの人物が誰かなど詳しい情報には触れずに、出来事のみを記しています。そして、そこでイエスが語った言葉を一つだけ書き残しています。48節。

 

48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。

 

 著者マルコは、ユダをはじめとするイエスを逮捕しようとして集まって来た人たちに対して、「まるで強盗にでも向かうように」と仰いました。それは先にも触れたように、たった12人の男たち、いやイエス1人を逮捕するために、彼らは武装してきたということです。それは本来、同じような武力をもって抵抗する勢力に対する装備です。それは強盗に対しての装備だということです。

 イエスが、また弟子たちがいつどこで強盗を行なったでしょうか。いつも、人々に神の国について教えていただけです。49節。

 

49 わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」

 

 イエスの行動も発言も一貫しており、その教えに、また行動に対して異論を唱え、捕らえたければいつでもできたはずです。でも彼らはしなかった。それは今回の逮捕も、逮捕する理由が特別あったわけではなかったからです。だから、このあとの大祭司カヤパによる尋問も、あえてイエスを陥れるような偽りの証言をする者を備えなければならなかったのです。しかし、その背景には神の摂理があったことを聖書は証言しています。神の視点から見れば、この一連の出来事は聖書の成就のためだったということです。しかし、それは人間の立場から見れば、人間の罪によって御子キリストが憎まれ、妬まれ、捕らえられたと言えます。そこに働く人間の罪の責任は問われるのです。

 さて「強盗」であるかのように逮捕されたイエス。この出来事自体は、これまでイエスご自身も予告していたことでした。しかし、ユダは自分の意思で裏切り、口づけを合図にイエスのことをしっかり引いていけと命じました。他の弟子たちは、どうだったでしょうか。剣や棒を持って捕らえに来た人々に対して、弟子の一人が抵抗を試みましたが、それは大祭司のしもべの耳を切り落としたに過ぎず、その抵抗の虚しさしか残りませんでした。そして、そういう弟子たちもまたイエスに従い続けることができずに逃げてしまったのです。時間的に見れば、ついさっき、死んでもついて行くと言っていた弟子たちは、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまいました。50節。

 

50 皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 

 ユダは裏切り者です。その罪は重いでしょう。しかし、死んでもついて行くと言っていた他の弟子たちも、イエスを見捨てたと聖書には記されています。他の詳しい情報はさておき、マルコは、弟子たち「皆」が「イエスを見捨てて逃げてしまった」と強調して証言しているのです。

 それは結果的に、だれもが最後までつき従った者がいなかった事実を伝えているとともに、誰もが等しく神の前に弱く、また罪人であり、その全ての人の贖いとなるために、まさにイエスが無抵抗で逮捕され、十字架に向かっていることを指し示しているのではないでしょうか。ですから、「強盗にでも向かうように」というイエスの言葉は、イエスご自身がまさに、イエスを捕らえに来たユダや他の人々だけでなく、またイエスを見捨てて逃げた弟子たちにだけでもなく、そこにいた全ての強盗と化してしまった人々の罪を負い、すべてを父なる神にお任せになったメシアとしてのイエスご自身のことを示唆しているのかも知れません。

  また、マルコにしかない記録として、ある青年のことが記されています。

 

51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。

 

  これは著者マルコ本人と言われている記事です。マルコ自身も逃げてしまった一人として、しかも「裸でにげた」と、恥ずかしい者であることを明らかにしています。ここに、裏切り、イエスを見捨てたことを他人事にせず、自分のこととして受け止める。それが私たちの姿であることを示しているのです。

 

3. イエスの弟子として

 この出来事の目撃者であり、剣を振るった本人であるペテロはこう言います。

 

「キリストは自ら十字架の上で、 キリストは自ら十字架の上で、  私たちの罪をその身に負われた。  それは、私たちが罪を離れ、  義のために生きるため。  その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」Ⅰペテロ2:24

 

 また、このことは弟子たちに対するイエスの生き方を指し示しているとも言えます。今、現実的には全員がイエスを見捨てて逃げてしまいました。しかし、このあと十字架刑の後にイエスは復活され、天に帰られて後、約束どおり聖霊が降ります。そのとき、弟子たちはその聖霊を受けて、イエスが歩んだように、イエスが生きたように生き、また死に、そして復活するという歩みに変えられます。

 そのとき、今はできないこと。今はわかっていてもできないことも、聖霊によってできるようになる。イエスのように神を愛し隣人を愛する神の国の国民としての生き方に変えられるのです。

 私たちも、今日、古い自分に囚われて、希望が見えないかも知れません。古い自分が覆っていて、神への希望がわからなくなっているかも知れません。しかし、キリストはあえて無抵抗の状態で逮捕され、弟子全員から見捨てられていく中で、そこに私のため、そしてあなたのために十字架の苦しみ、神のさばきを通られました。それは、イエス様に従いたいと願ってもそうできない、従えない、罪を犯してしまう私たちの身代わりだったのです。そして、そのイエスの贖いを信じるときに、いのちを捨ててイエスに従う者として、聖霊によってつくり変えられるのです。

 イエスは、あなたのためにいのにをお捨てになりました。それによって神の愛がわかりました。今日も、その愛に真心から応えるものとされたいと思います。

 

「21  このためにこそ、あなたがたは召されました。  キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、  その足跡に従うようにと、  あなたがたに模範を残された。22  キリストは罪を犯したことがなく、  その口には欺きもなかった。23  ののしられても、ののしり返さず、  苦しめられても、脅すことをせず、  正しくさばかれる方にお任せになった。」Ⅰペテロ2:21~23