のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2023年3月5日 白石教会礼拝説教

説教題 「わたしの家は祈りの家」
聖書箇所 マタイの福音書21章12節~17節
 
 

 「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」マタイ5:5
 
 イエス様は、山上の教えの中でこのように言われました。そして、その柔和な者とは、こういう者であるとご自分でそのように生き抜かれたお方です。今日は前回のエルサレム入城の続きのところからですが、前回までのことを覚えておられるでしょうか。注目したいのは、イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入られたということ。つまり、それこそ、イエス様が柔和な方であるという証しであったからです。
 
 先日、北海道ケズイック・コンベンションがルーテルホールで行われました。イアン・コフィ先生というバプテスト教会の引退した元牧師が講師で、ちょうど、このマタイ5章からのメッセージで「柔和」についてお話されていました。柔和という言葉はギリシャ語で(プラウスπραύς)と言いますが、実はふさわしい英語に訳することが難しいそうです。日本語の柔和も、聖書以外ではあまり使わない言葉です。では、聖書ではどのような場面で使われているのかというと、ある個所では「寛容、優しい、友好的な」という意味でも使われています。
 
 そのコフィ先生によると、柔和というのは弱々しいというよりも「従順」であるというニュアンスだと言っておりました。それは自分ではなく神様にコントロールされている生き方だということです。私の思いではなく神様の御心を願う生き方。つまり、イエス様の存在、生き方、姿勢そのものが「柔和」という意味だということです。
 
 だから、強い軍事力を表す馬ではなく、柔和なことを証しするロバに乗って来られたイエス様。
 
 ところが、今日の聖書箇所でイエス様は何をなさったでしょうか。それは、神殿に入って、人を追い出し、台や椅子を倒したのです。これを書いたマタイは、「柔和な方で、ろばに乗って」と聖書の預言まで引用しながら、その直後にこの場面です。皆さんは、このイエス様を見て、どう感じたでしょうか。あの優しいイエス様が、あの非暴力のイエス様が、これは暴力ではないのかと、驚くかも知れません。しかも、この事件は4人の福音書記者全員がきちんと記録しています。
 
 イエス様が神殿から人を追い出すってどういうことか。そのことを考えさせる場面です。福音書記者全員が、イエス様のこの様子をそのまま書いている。平和、非暴力を訴えるキリスト教会としては、ここは、本当は伏せておきたいところではないでしょうか。でも、4人の弟子全員がはっきりと記録しているのです。
 
 ですから、そのくらい大切な箇所であるということです。普段、怒らない人が怒る。それを、弟子全員が証言している。その意味を、ここで語られている大切な意味を今朝ともに見てまいりましょう。
 
 
1.柔和なお方イエスの行動と御心-1
 エルサレムに入城したイエス様は、まずどこへ向かったでしょうか。それは神殿です。12節を見ると「イエスは宮に入って」と書いてあります。実は、このとき初めて神殿に来たのではありませんでした。昨年のクリスマスで読んだように、まず生まれてすぐに割礼を受けるために来たことがあります。また12歳のときにも、ヨセフとマリアと一緒に神殿に来て、帰りに行方不明になったことがありました。
 
 ですから、この時が初めてではありませんでした。しかし、その目的は明らかに違っていました。今回のエルサレム入城は、聖書で預言されていた真の救い主、王様として公にするという宣言であり、この週のうちにすべての人の罪の贖いとなることでした。その十字架に向かう道で、まずイエス様がなさりたかったことは、父の家で祈るためであったからだと、私は推測します。イエス様は、子どもの頃から言っておられましたが、エルサレムの神殿が「父の家」であると。だから、いよいよ、その父なる神に導かれ、父なる神のご計画の中で、神の小羊としてご自分をささげるという、緊迫した場面で、父との時間を父の家で過ごす。そんな意味があったはずです。神の家ですから。それができるはずです。
 
 しかし、イエス様が神殿に入って見ると、何と、そこでは商売をしている人たちがいて、お金を神殿用の通貨に両替したり、犠牲としてささげる動物を売っていたりしていたのでした。それを見るなり、イエス様は、「その中で売り買いしている人たちをみな追い出し」たとあります。売っている人だけでなく、買っている人。すなわち礼拝をささげに来ている人も追い出したのです。そして、台をひっくり返し、腰掛を倒して、商売ができないようにされたのです。ここが、これまでの柔和なイエス様とは違う、もう一つの姿なのです。
 
 ある資料によると、当時の神殿の中では、多くの不正が行われていて、神殿で神様に仕えるはずの祭司たちが堕落し、お金儲けに神殿を利用していたそうです。でも、聖書を見る限りにおいて、そのような不正があったのかどうかはわかりません。ただ、わかることは、いつもと違って柔和なイエス様が憤られているという事実です。
 
 それは、よっぽどのことであったということです。ここは、このように行動せざるを得ないことがあって、イエス様は人々を追い出したのです。ここで、きちんと整理したいのは、この商売していた人も、礼拝に来て犠牲の動物を買っていた人も、ユダヤ人であり、契約の民であったということです。つまり、教会の中でクリスチャンを追い出しているのと同じです。神様を信じているはずの人を追い出すって、なかなかできないことです。むしろ平和を求めて黙っていた方が楽だと思うのではないでしょうか。イエス様だってきっとそうです。柔和な方ですから、このような礼拝の場が騒然となるようなことはしたくなかったでしょう。
 
 でも、見かけだけの平和よりも、神の家が神の家であるために、イエス様はその柔和なご性質を打ち破って、神の国と神の義をそこに求めたのです。
 
エス様は、本来は穏便にすべきだけれども、そうならないことが、教会の中に起こってくることを教えているのだと思います。
 
 
2.柔和なお方イエスの行動と御心-2
 では、イエス様はこの神殿にいた人たちにどんな問題を見て、このような行動に出たのでしょうか。そのヒントになるのが、今日、招きの詞で選んだイザヤ書のみことばです。イザヤ書を書いた預言者イザヤは、ダビデ王の末裔であるユダ王国預言者でした。そのユダ王国に対して語られていることばをご紹介します。
 
 イザヤ書1:11~17
「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。 ──主は言われる── わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。 雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集── わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、それを担うのに疲れ果てた。あなたがたが手を伸べ広げて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを多くしても聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身を清めよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。 悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごを正しくさばき、やもめを弁護せよ。」
 
 ここで、神様は全焼の生贄などの動物犠牲を喜ばないと言っておられます。むなしいと言われます。そんな集会に耐えられない。憎む、重荷だと言われます。どうして、このように言われているのでしょうか。きちんと規定通りに動物を犠牲にして礼拝しているのに。そういう彼らに、「どんなに祈りを多くしても聞くことはない」と突き放すのです。それは礼拝として認めていないということです。それは、当時のユダ王国の礼拝が形骸化して、そこに主に対する愛も信仰も希望もなかったからです。かたちだけの礼拝。義務化した礼拝。それは、見た目は礼拝しているようでも、神様にはすべてわかっています。そこに信仰がないことを。だから「むなしい捧ものを携えて来るな」と強く批難しているのです。
 
 この神様の怒りこそ、このときのイエス様の怒りと同じでしょう。せっかくエルサレムの神殿に来たのに、、そこは「父の家」神の家なのに、その現実はどうか。ダビデ詩篇122篇でこう言っています。「『さあ 主の家に行こう』人々が私にそう言ったとき私は喜んだ」
 
 それが礼拝する者の本来の気持ちではないでしょうか。イエス様も、そのようなお気持ちで神殿に来られたと思います。しかし、その父の家で繰り広げられていたのは、悪臭を放つ不信仰な、形骸化した礼拝者の姿だったのです。イエス様にとって、そのような姿が鼻持ちならなかった。だから、これはよっぽどのことです。それほど、イエス様の御心はそのくらい傷ついたということです。
 
 私たちも、新約時代に生かされている信仰者として、この礼拝は主に喜ばれるものでしょうか。本当に、喜んで自分自身を主にささげに来ているでしょうか。私自身、問われます。形式的な礼拝になっていないか。この後の聖餐においても、かたちだけのパン食い、ブドウジュース飲みになっていないか、本当に吟味させられます。かたちだけの礼拝をどれほどイエス様はお嫌いか。人を追い出すほどに、強いお気持ちで、主は、礼拝を支配するお方として、そのことを私たちに問うているのです。
 柔和なお方がそうでなくなる。その意味をあらためて覚えたいと思うのです。
 
 
3.祈りの家になるために
 このように、私たちは、礼拝をささげに来た人を追い出すイエス様。教会に来ている人を追い出すことがありえると思わされる場面に出くわしています。イエス様は本当に人を追い出し、切り捨てることをなさるのか。「神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでいる」とパウロが言っているけれども、例外があるということでしょうか。
 
 イエス様は、このエルサレムの神殿で人々を追い出し、こう言われました。
「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある」とイザヤの預言を引用して、神殿のことを「祈りの家」であると言うのです。それが「わたしの家」であると、です。それなのに「強盗の巣」にしていると言われています。ここから、やはり不正なことがあったとも考えられますが、14節から16節のところを読むと、彼らの礼拝がどのような礼拝であったのか。その有様を垣間見ることができます。
 
 また、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒やされた。ところが祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさったいろいろな驚くべきことを見て、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのを見て腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞いていますか。」イエスは言われた。「聞いています。 『幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました』とあるのを、あなたがたは読んだことがないのですか。」
 
 ここでイエス様は、目の見えない人たち、足の不自由な人たち、子どもたちという、社会で低く見られていた人たちに寄り添っておられます。そして祭司長たちの態度。つまり、このエルサレム神殿で行われていた礼拝が、このような人たちを相手にしていなかったということを物語っています。だから、突然、このような情報をマタイはここに挟んで、いくら立派なエルサレムの神殿で礼拝をしていても、規定通りの動物犠牲を行っていても、そこにいのちがないではないか。神を愛し隣人を愛する、神の御心がなおざりになっているではないか。動物をそこで購入して礼拝をささげても、それは空しいのだと言うことです。むしろ、神様は、そのような小さな、弱い人、小さな子どもこそが集い、主を賛美し、主の栄光を現わすことを告げているのです。
 
 その子どもたちの賛美なのに、祭司長たちや律法学者たちという聖書に精通しているはずの人たちは、その賛美を見て腹を立てる。もはや、信仰者ぶってはいるが、神の御心を知ろうとせず、霊的な目が失われ、目の前の救い主を殺そうとすることに益々突き進んでいきます。
 
 ではイエス様は、先ほどの神殿で売り買いしている人たちも、この祭司長や律法学者たちも、神の国から本当に排除して、それで神の国を建てようとしているのでしょうか。そうではありません。なぜなら、イエス・キリストは失われた者を捜して救うために来られた真のメシアだからです。そのために、今、もう、その心は十字架に向かっています。その十字架の上で、神殿で売り買いしていた人たちの罪、そして子供の賛美で腹を立ててイエス様に殺意をいだいている祭司長たちの罪も、そして、主によって癒された目の見えない人、足の不自由な人の罪も、すべて背負って死ぬためです。
 
 なぜなら、先ほどお読みしたイザヤ書1章の続きを見ますと、こう書いてあるからです。
「さあ、来たれ。論じ合おう。主は言われる。たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。あなたがたは、もし喜んで聞こうとするなら、この地の良い物を食べることができる。」
 
 神様は、「むなしい捧げものを携えて来るな」と追い出してせいせいするお方ではありません。きちんと私たちと修復を願い、招いておられるお方です。神殿で売り買いしていた人たちも、祭司長や律法学者たちをも、イエス様は追い出すだけで終わらず、洗い清めて雪のように白くしようと招いておられるのです。きちんと帰って来られるように、待っておられます。そのために、動物を買わなくても良い方法を取ってくださいました。それが、ご自分が神の小羊となって犠牲になることです。
 
 
結び
 だから、このイエス様を私の救い主ですと信じ受け入れるなら、私たちに住んでくださる聖霊なる主によってきよめられていきます。信仰生活は、日々、主の宮とされた自分という神殿が祈りの家にされていくことです。その一人ひとりが祈りの家となって集まるとき、そこに教会という本当の「祈りの家」が建てられるのです。そのとき、イエス様は言われるでしょう。この白石教会は「わたしの家」だ、「祈りの家」だと。
 
 この地上にあるうちは、色々な課題はあるでしょう。しかし、その都度、主は私たちのうちにある余分なものを追い出し、きよめてくださるお方です。主は、私たちのうちにある汚れ、この世的な価値観、高ぶりなど、神様との交わりを妨げるすべてのものを追い出されます。そのとき強い人は弱くされ。できる人はできない人にされ、富む者は貧しい者にされます。人間的な知恵や技能や能力、この世的なテクニックではなく100%神様に信頼する者とされるということです。だからあの人、この人ではなく、まず自分自身が悔い改める必要がある。そういう一人ひとりが「祈りの家」にされ、その群れである教会も祈りの家として成長できるのです。