日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

「御心が行われるように」マルコの福音書14章26〜42節

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マルコの福音書 14章26~42節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

1. みな、つまずきます

"26そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。
27イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。
28しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
29すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
30イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
31ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。

 

  イエスと弟子たちは、賛美をもって最後の晩餐を終えてオリーブ山へでかけました。ルカは「いつものように」(ルカ22:39)と言っているくらい、この場所はある意味、イエスの弟子たちにとって特別な場所だったのかも知れません。

  しかし、そこでイエスが語られたのは、27節。

「あなたがたはみな、つまずきます。」

  このことばにまず反応したのはペテロでした。その言い草は、自分だけは最後まで主について行きますという自信に満ちた答えでした。それを31節では更に強く「死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と宣言しました。それに続いて、他の弟子たちも同じことを口にしたと聖書は証言しています。

  信仰生活は私たちの気力や気合いで続けるものではありません。誰一人として、「わたしは大丈夫」とは言えません。それは、信仰生活の主導権は私たちにはないからです。そこを履き違えると、信仰生活は続きません。常に神の主権を認めて、私たちの弱さにこそ主が働かれることを信じるなら、その信仰生活は祝福されます。ペテロも他の弟子たちも、まだそのことは理解できていませんでした。だからイエスはこの状況の中で、神の教会が始まる前に弟子たちにつまずきを経験させて、主イエスなしには何もできない者であることを教えたのです

 

2.  ゲツセマネの園

32さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
33そして、ペテロ、ヤコブヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
34彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
35それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
36そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
37イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
38誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
39イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
40そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
41イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
42立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」"

  ゲツセマネというところに来てからは、弟子三名を連れて祈りに入られました。ところが、連れて来た三人に対しては、「ここで座っていなさい」でした。特に一緒に祈るわけでもなく、イエスご自身は祈るが、弟子たちには、少し離れたところで「座っていなさい」とは、いったいどういうことでしょう。

  これもまたイエスの弟子たちに対する教育だったのではないかと推察できます。つまり、師であるイエスが神のさばきを目の前にして、どう祈るのか。いのちの危険だけではない、何よりも天のお父様から断絶されることの悲しみです。そのことをイエスはこう仰せられます。

 

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」

 

 これが、天地創造の初めから一緒のおられた父なる神と子なる神、また唯一絶対の神と完全な人としての義人イエスにおける、あり得ない出来事に対する悲しみです。

  本来ならば三位一体の神の中で、そこから御子がちぎられて陰府に落とされる。それは、もはや御子だけの痛みではない、父なる神も聖霊も痛みを覚えるのです。そこにイエスは深い悲しみを覚え、悶え苦しむのです。そして、こう祈ります。

 

「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 

  父なる神の全能性に訴えて、「あなたは何でもおできになります」と告白し、そうであるなら、これから起こる苦しみの出来事を中止にしてくださいと祈ります。しかし、大切なことは、あの山上の教えでイエスご自身が仰ったように、「御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈ることです。

  自分の考え、自分の計画、自分の予定ではなく、神の御心、神の計画、神の予定なのです。

 

「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 

  私たちは、神の御心は絶対に良いことばかりに決まっていると思っていないでしょうか?

  ところが、イエスに下された十字架刑は、神の御心ではありましたが、決して嬉しいことではありませんでした。それは、避けたいことの一つです。

  これは、イエスだけのことではなく、イエスを信じる私たちについても言えることではないでしょうか。それは、この地上にあって、御心がそのまま全て嬉しいことや幸せなことばかりではないということです。

  しかし、御心がなるようにという祈りは続けていくのです。それは、その先にある神の栄光がどれほど美しく、どれほど価値のあることかを体験するためだからです。

 

  一時的な痛みや苦しみは、ある意味通らなければなりません。しかし、神の御心にあっては、その悲しみや苦しみがそれで終わらないことも忘れてはいけません。 

  主イエスは、ご自分の究極の祈りの中で、御心を求めることを実践して、弟子たちに見せようとしたのでした。ところが、弟子たちは眠りこけてしまい、その様子をきちんと見ているものはいませんでした。

 

 しかし、今日も主は私たちが、御心を求めるように働き、そう祈るよう私たちに教えています。たとえそれが、どんなに辛くてもです。そこには、神に約束された栄光の義の冠が待っているからです。だから、日々主を愛し、聖霊によって日々新しく造り替えられて、栄光から栄光へと主と同じ姿に造り替えていただこうではありませんか。

 

"神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、
一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、
神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。
神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。"
テサロニケ人への手紙 第一 4章3~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会