のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「もしその人が」

レビ記
5章
1,人が罪に陥ったとき、すなわち、その人自身が見ていたり知っていたりする証人であるのに、証言しなければのろわれるという声を聞きながらも、それをしない場合、その人は咎を負わなければならない。
2,あるいは、汚れた生き物の死骸であれ、汚れた家畜の死骸であれ、汚れた群がるものの死骸であれ、何か汚れたものに触れて汚れていたのに、そのことが彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合、
3,または、いかなるものであれ、触れれば汚れると言われる人間の汚れに触れ、そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合、
4,また、害になることであれ益になることであれ、誓ったことが何であれ、人が軽々しく口で誓った場合、そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になってその一つについて責めを覚える場合──
5,これらの一つについて責めを覚える場合には、自分が陥っていた罪を告白し、
6,自分が陥っていた罪のために償いとして、羊の群れの子羊であれ、やぎであれ、雌一匹を主のもとに連れて行き、罪のきよめのささげ物とする。祭司は彼のために、罪を除いて宥めを行う。
7,しかし、もしその人に羊を買う余裕がなければ、自分が陥っていた罪の償いとして、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って行く。一羽は罪のきよめのささげ物、もう一羽は全焼のささげ物とする。
8,彼はこれらを祭司のところに持って行き、祭司はまず、罪のきよめのささげ物となるものを献げる。彼はその頭の首のところをひねる。しかし、それを切り離してはならない。
9,それから罪のきよめのささげ物の血を祭壇の側面にかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出す。これは罪のきよめのささげ物である。
10,祭司はもう一羽のほうも、定めにしたがって全焼のささげ物とする。こうして祭司はその人のために、陥っていた罪を除いて宥めを行う。そして彼は赦される。
11,もしその人が、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができないのなら、自分の罪のために、ささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として持って行く。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のきよめのささげ物であるから。
12,その人はそれを祭司のところに持って行く。祭司は、その中からひとつかみを覚えの分として取り、祭壇の上で、主への食物のささげ物とともに焼いて煙にする。これは罪のきよめのささげ物である。
13,こうして、祭司は彼のために、陥っていたこれらの罪の一つのゆえに宥めを行う。そして彼は赦される。その残りは、穀物のささげ物と同様に祭司のものとなる。」
14,主はモーセにこう告げられた。
15,「人が信頼を裏切ることをしたとき、すなわち、主の聖なるものに関して気づかずに罪に陥ってしまった場合、羊の群れから傷のない雄羊、それも、聖所のシェケルで数シェケルの償いの銀に相当すると評価される雄羊一匹を、代償のささげ物として主のもとに連れて行く。
16,その人は、その聖なるものに関して罪に陥っていたことの償いをする。それにその五分の一を加えて、祭司に渡す。祭司は、その代償のささげ物の雄羊をもって彼のために宥めを行い、彼は赦される。
17,また、もし人が罪に陥っていて、主がしてはならないと命じたすべてのうち一つでも行いながら自覚がなく、後になって責めを覚えるなら、その人はその咎を負う。
18,その人は羊の群れから、代償として評価された、傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れて行く。祭司は彼のために、彼が自覚せずに、また気づかずに犯した過失のゆえに宥めを行う。そして彼は赦される。
19,これは代償のささげ物である。彼は確かに主の前に償いの責めを負っていた。」

 

 主イエスがお生まれになったとき、ヨセフとマリアはエルサレムの神殿に行き、産後の汚れをきよめるためのささげものをしました。そのとき、ささげたのは鳩だったことは、よく知られています。それは、彼らの貧しさを表していると言うことです。

 

"そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。
それは、主の律法に「最初に胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる」と書いてあるとおり、幼子を主に献げるためであった。
また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。"
ルカの福音書 2章22~24節

神の律法は、神の義を表しており、罪汚れに対しては、非常に厳しい取り決めがあって、必ず動物に自分の罪を転嫁して血を流し犠牲としなければなりませんでした。

 

これらの儀式について、レビ記は詳しく、丁寧にそのことを伝えています。血生臭そうで、繰り返されるその言葉に、読んでいてくどさを覚える人も多いと思います。

 しかし、それは神が聖なるお方であるにも関わらず私たち罪人と関わろうとしてくださる愛の印でもあるのです。

 神は聖できよいお方ですから、罪あるものは滅ぼされても仕方のないことです。しかし、神はそうはなさらず、忍耐をもって私たちと関わり、どのようにしたら交われるのか、その可能性を考え、神に近づく道をつくってくださったのです。それが、この動物を犠牲にするという方法だったのです。

 

 しかし、更に、今日の箇所には神の大きな憐みを覚えます。それは、私たちの経済状況をよくご存じで、その貧富によってささげものを変更しても良いということです。本来、きよいものとされるのですから、一通りのものでなければならないはずです。それは、あくまで私たちの罪汚れをきよめるためであり、その汚れの大きさは、貧富の差によって違いがあるはずがないからです。

 

 しかし、神はそのようにお決めになったのです。だから、「もしその人が」羊を用意する余裕がない場合に鳩を、鳩すら用意できない場合は、小麦粉でも良かったのです。

 ここに神の義にして、また聖にして、同時に完全な愛のお方であることも知ることができます。

 よく旧約の神は恐ろしくて、新約の神は優しいと聞くことがあります。私自身もそう思っていたことがあります。しかし、それは大きな誤りであることを、この箇所からでも知らされるのです。

 神がこれらの、一見面倒くさそうな儀式を与えて、ここまでしなければならないのかというような血生臭いことを示すのは、私たちへの罪の自覚の促しであり、それは本来、それ自体が汚れを清める働きをしているのではないのです。あくまで、神というお方のきよさを知り、同時に私たちが本来ならば、交わることのできない汚れた存在であるという自覚のもとに、にもかかわらず神は交わりたいと願って、食い下がるように、このような方法を示されている。そこに、神の愛をも教えようとしているからです。

 

しかし、この方法は、前述したように本来の方法ではなかったのです。それは、後に神ご自身が、そのきよい身を裂かれて、この羊のように私たちの犠牲となられたからです。

 

 ここに、神の完全なきよさと義があらわされたのです。神の完全な怒りが表され、御子がその呪いを受けられたのです。新約において神が優しいなんて言うのは、罪の上に下された神の怒りを、私たちではなく、御子が負ってくださったので、その恐ろしさがわからないのです。しかし、同時に今日の箇所を読んだとき、私たちは、ただ一方的な神の憐みを受けたに過ぎないものであることに気づかされるのです。

 

神は私たちの懐状態さえも配慮してくださり、交わろうとする。その完全な愛もまた、御子の十字架の死で示されました。

 

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節


私たちには、実は罪に対する償いなんてできないのです。本来は羊すら間に合わないのです。私たちの罪というのは、本来、神の御子のいのちを要求するほど、私たちには賄うことができない大きな借金なのです。主の祈りで、「私たちの負いめをお赦しください」と祈りますが、その赦しの影には御子の犠牲があることを忘れてはいけません。

 

今日のみことばは、旧約の律法であり、一見難しく、分かりづらさを覚えるかも知れませんが、それはたった一度、主イエスのいのちと引き換えに、私たちにとっては最も簡単に、信じるだけで赦されるという方法にされました。その恵みを覚えたいと思います。

 

神のきよさの中にある完全な愛と恵みは、今、あなたの上に注がれ、あなたを神の子どもの地位に引き上げているからです。だから、御国が来ますようにと祈りなさいと主は言われるのです。それは、既に御国があなたのものであり、その天の御国を憧れて生きる聖なる国民とされているからです。