のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●今日のみことば「苦しみによって従順を学んだ主」

f:id:kinokunizaka66:20190930095056j:image

ヘブル人への手紙
5章
1,大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。
2,大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。
3,また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。
4,また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。
5,同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と語りかけた方が、それをお与えになったのです。
6,別の箇所でも、「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」と言っておられるとおりです。
7,キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
8,キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、
9,完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、
10,メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。
11,このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。
12,あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。
13,乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
14,固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

 

 今日のみことばから、注目したいことは「従順」です。

 それを主ご自身の「従順」から学ぶというところに、今日の中心的なテーマがあります。

 私たちは神の御子と聞くと、神なのだから何でもできて当たり前だと思いがちではないでしょうか。また、神なのだから、何でも知っていて当たり前だと思います。しかし聖書は、大祭司となる栄誉も主が自分で得たのではないと言います。それは、父なる神が、御子の従順を見て与えられたのだと証言しているのです。

 主は御子であるのに、ご自身に与えられた大祭司としての歩みの中で従順を学んだということは、驚くべき事実です。私などは、主は神の御子なのに、まだ学ぶべきことがあったのかと驚くのですが、それはどういうことなのでしょうか。

 それは、主は御子であると同時に、完全な人間でもあるということです。私たちは罪のゆえに歪んでしまって、不完全な人間でしかありません。言い換えれば、神のかたちを損なっているのですが、御子は、そのような私たちに、完全な人間として、そのお姿を、また生き様を指し示す役目もお持ちであるということです。

 その役目こそ、信仰者としての歩み、生き方、姿勢であり、私たちが目指すべき信仰者の姿なのです。そこで、私たちも、そのように生きることを願い求める。それが、私たちがこの地上で信仰をもって歩むときの基準となります。

 主はキリスト(救い主)として、神の子羊として贖いを成し遂げると同時に、その贖いによって神のものとされた私たちが、どのように歩み、何を目指すのかを指し示してくださったお方だからです。

 ですから、完全な人間であるという部分では、神ではないというお立場において不完全であり、そこには、肉体を通らなければ経験できない(もしくは経験しなければ知り得ないとお決めになって)、私たち人類すべての悩みを体験を持って通ることで共有されたということです。だから、赤ちゃんとして生まれ出る必要があったし、ヨセフの子として労働も学ぶことを通られたのです。

 同様に、信仰者として神を愛し、隣人を自分と同じように愛する生き方を学ぶこともそのミッションの内にあったのです。

 そこで、御子であるお方があえて人間として従順を学ばれ、そのゆえに神に受け入れられるという確かさを私たちに示されたのです。それは、正しく歩めない私たちが、その事実を受け入れつつ、しかし、キリストを信じて与えられた聖霊の助けによって、神のかたちに回復できるために、キリストが模範者となられたことを意味しています。

 だからこそ、私たちもできない自分で終わることなく、へりくだって、主から従順を学び、聖霊によって従順な主のお姿になることができるよう祈らなければなりません。また、聖霊によるのであれば、この私も主と同じ姿になることができるのだと確信をもって力強く歩むことができるのです。

 今日も、このキリストを信じているのなら、あなたは確実に聖霊をいただいており、既にあなたは聖霊の宮として、主の栄光を放っているのです。そうであるならば、そのいただいた聖霊の力に委ねて、今日もキリストが経験された従順を我がものとして実践してまいりましょう。

 

 

"こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。"
ピリピ人への手紙 2章12~14節