のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

もし罪が…

"もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。"
ヨハネの手紙 第一 1章6~10節

 使徒ヨハネば、この第一の手紙の冒頭で、この手紙を書いた目的とその内容を端的に述べています。

 

"これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。
私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。"
ヨハネの手紙 第一 1章4~5節

 目的は、この手紙の書き手であるヨハネと受け取り手の人々の「喜びが満ち溢れるため」であり、その内容を、神には闇がなく、光そのものであるということです。

 その神の光としてのご性質、存在を知ることにより、既に救われた私たちクリスチャンが喜びを取り戻し、しかも溢れるほどその喜びに満たされるということです。

 ヨハネがこのような手紙を書いた背景には、当時のクリスチャンたちが、恐らく当時に起こっていた迫害により、救いの喜びを見失い、迫り来る恐ろしい迫害の魔の手に翻弄されていたからに他ならないでしょう。

 

 そのような上記の中で、今日のみことばも書かれていると思う時、「もし○○」という構文に、私たちの喜びを失わせている中心的テーマと、そこから脱却するための信仰と行動が見えてきます。

 もし私たちが自分の罪の問題を考えずにいるならば、それは神との関係を壊すことになる。そこに神の光はなく、そこに神の赦しもない。

 なぜなら、私たちが救われるために神の御子が尊い血を流されたからです。そして、今もなお救われていても、私たちは古い人を持ちつつ、新しい人であるキリストを着せていただいているゆえに、神の前に罪を認め告白していくことで、これから犯す罪も赦されるのです。

 

 ですから、私たちがいただいているきよさとは、御子の贖いの血によるものであり、聖霊の内住によるものです。私たち自身から出たものではないのです。あくまで主からいただいいるゆえのきよさなのです、そして、これから栄光から栄光へと変えられていくことを望みつつ過ごすのです。

 

 あなたは、神様との和解は済んでいるでしょうか。神様に罪をきちんと告白しているでしょうか.私たちが自分の罪をきちんと認め、それを告白するならば、既に私たちのために十字架にかかり死なれたイエス様の血潮により、許され、それだけで神様との関係は修復されます。しかし、思い上がって自分には罪がないと言ったり、罪を犯したことがないというならば。私たちのうちに真理はなく、神様を嘘つき呼ばわりすることだとヨハネは言います。

 

 そうであってはいけません。私たちは救われましたが、今もなお古い人が残っていて、その病魔は救われた後にもその影響を私たちに与えます。しかし、それで終わってはならないのです。どんな罪も、昨日も一昨日も犯してしまった罪も、恥ずかしがらず、諦めず、きちんと告白しましょう。そして、そこでいただく許しの恵みにの高さ、長さ、深さを覚えましょう。

 その恵みに生きる時、私たちは新しく生まれた者としての歩みが始まります。主の祈りでも、私たちの負い目をお赦しくださいと祈るのは、罪の問題は日々祈るべき課題だからです。しかし、その罪の問題を放っておかず、向き合って神に告白すれば、それで愛する神様と子どもとされたあなたの関係は揺るがなくなっていくでしょう。

 

 どうか、その恵みを忘れずに、日々告白しましょう。それゆえに日々、悔い改めましょう。そこに、神様の私たちに対する愛が鮮明にされるからです。

 

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節