説教題「この方こそ主キリスト」
聖書 ルカ2:8~15
序
今、新型コロナウィルスが世界に蔓延して丸2年が過ぎようとしています。そして、3年目はどうなるのか、だれにもわからない状況で、仕事のめどが立たず路頭に迷っている人も大勢います。そこで迎えたクリスマスですが、神様はこのクリスマスを通して、世界中の人たちに問いかけていると思います。それは、あなたにとってクリスマスとは何か。言い換えると、このクリスマスの主役であるイエス・キリストはあなたにとってどんな方かです。
それは、この問いに答えていくところに、このように先が見えない状況にあっても、しっかりと地に足をつけて、まことの平安の中を歩んでいく道があるからです。そして、不安の中にある方々に本当の安心と喜びを届けることができるのです。
1.あなたがたのための救い主
ベツレヘムという村の近くで野宿をして羊たちを守っている羊飼いたちがいました。
その羊飼いたちの職業は、この当時、もっとも低く見られていた仕事でした。動物が相手なので、安息日の掟を守れず、神様の祝福からもっとも離れている人たちだと思われていました。おそらく彼らもそのように認識していたと思います。みんなから蔑まれている。嫌われて過ごすなんて、とても辛いですね。
そこに何と天使が現れて言った言葉。それが11節です。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
今日の問いは、イエス様は私にとってどんな方か。あなたにとってどんな方かでした。その答えが、この11節にあります。このみことばから2つの大切なメッセージを今日受け取りたいと思います。
それは、まず第一に「あなたがたのために、救い主が」です。これは、イエス様と言うお方は私のために、あなたのために生まれてくださった救い主だと言うことです。それぞれが「私のため」であることを受け止めることが大事です。
私は、子どもの頃、初めてイエス様が十字架に架けられている絵を見たときに、これはなに?とその絵の持ち主だった叔父に質問しました。すると叔父は「その人はキリストと言って全世界の人のために死んだんだよ」と答えてくれました。さらにこうも言ったのです。「その世界の人の中にお前もいるんだよ」
その言葉がその後の私の人生の問いになりました。「このキリストという人がぼくのために死んだとはどういうことか」この問いが、ある意味、私の人生が滅びに向かうのか、それとも救いに向かうのかという選びへの入口であり、今、考えると神様を礼拝する救いの人生への導入となったのです。つまり、その出来事は神様からの招きだった。
どうして、この絵の人がぼくのために死んだのか。その答えが分かったのは中学生の時に教会に行ってからでした。それは、ぼくには罪があり、その罪のためにキリストというお方が身代わりになったという事実でした。私は自分では良い子だと思っていた。その自分のどこが罪人なのか。そういう問いが心にありました。しかし、聖書を通して、神様を知らずに神様から離れていることが罪だと知らされて、私はまったくその通りだと、私が神様の前に罪人であることがわかったのです。でも、そこから自分の罪を悔い改めて、方向転換を決断して、イエス様がぼくのために死なれた意味をしっかりと知ることができたのです。
このことは私だけでなく、皆さんもそうです。イエス様はあなたのために来てくださった救い主なのです。
2.この方こそ主キリスト
だから、さらに天使は続けます。11節後半。
「この方こそ主キリストです。」
これが2つ目のメッセージです。これはどういう意味でしょうか。それは、この方だけが主キリストであるということです。それは、このイエス様こそ、旧約聖書で言われてきた太字の主。つまりヤハウェであるいう意味です。すなわち、このイエス様こそ、ヤハウェなる真の神である真の救い主だと言うことです。このお方以外に神はなく、この方以外に本当の救いはないということです。
このことをイエス様の弟子たちも証言しています。まず、このイエス様こそ真の神であるということをヨハネいう人が証言しています。
「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
この「ことば」と言うのはイエス様のことです。そのイエス様が世界の初めからおられたお方だと言うのです。そのイエス様は神様とともにおられたお方であり、そのイエス様こそ神様だと証ししたのです。
また、この方だけが救い主であるということは、イエス様の弟子のリーダーあるペテロがはっきり言っています。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」使徒4:12
この地上には、多くの救いがあります。また多くの救い主がいます。というのも、私たち人間にとって病気が治ることも救いかもしれません。また貧しい生活からお金持ちになることも救いだという人もいるでしょう。今日、登場した羊飼いたちのような貧しい人たちが大金持ちになったら、それはある意味、救われたというかも知れません。
そして、そうなるために、お金を寄付してくれる人がいたらその人は救い主だと呼ばれるかも知れません。病気を治す腕の良い医者がいたら、その人がある意味救い主かも知れません。このコロナ禍から社会を守り経済対策も合わせて成功させる政治家がいたら、その人を救世主と呼ぶかも知れません。
しかしイエス様は、こう言われました。
「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」
私たちは病気の時にその病気が直ったら幸せになったと思うかも知れません。借金まみれの貧しい生活から宝くじが当たって大金持ちになったら、幸せになったと思うでしょう。でも、死んだら、その健康もお金も、地位も名誉も、何の役にも立ちません。それは、すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。罪から来る報酬は死だからです。その死とは永遠の滅びのことを言っています。
そのとき、生前、いくら健康でも、どんな大金持ちでも、権力者でも、真の神様から離れていたら、その罪の解決、死に対する備えがなされていなかったら、すべて滅ぶ者となってしまうと聖書は言います。しかし、だからこそ、そうならないために神様は、かけがえのない御子キリストを与えてくださったと今日、このクリスマスの聖書のみことばによって招いているのです。
それは、今、その救い主が与えられている、このときに、神様から招かれているこのときに、神様が差し出している御子イエス様こそ私の主キリストだと信じるならば、罪が赦され、神の子どもにしていただけるからです。そのために、この主キリストが、この世界で初めのクリスマスから約30年後に、私たちの罪をすべて負って、私たちが受けるべき神様の罰を十字架の上で受けてくださったのです。そこには私たちの努力や功績はいっさいありません。ただ、神様からのプレゼントです。
結び
「この方こそ主キリストである」と天使から聞かされた羊飼いたちは、そのことを信じました。そして、飼葉おけに寝ておられるイエス様を礼拝するために、一緒に礼拝に行こうと、互いに励まし合ったのです。ここから、彼らの人生が変わりました。
闇夜に野宿して、ただ貧しい生活を続けているしかなかった羊飼いたちは、このとき世界中のだれも経験したことのない礼拝に招かれた。その招きに応えて、天使からの言葉を信じ、今度は神を賛美する生き方、命に溢れる感謝の人生に変えられたのです。それが、この方こそ主キリストだと信じる者に与えられた神様からのプレゼントだからです。
私たちはどうでしょうか。あなたにとってイエスとはどんな方でしょうか。今日、このクリスマスに、あらためて主イエスこそ我が神、我が救い主、あなたしかおりませんと、告白していこうではありませんか。そして、この礼拝から遣わされて、新しい2022年も、この羊飼いたちのように賛美で溢れる喜びの道をまっすぐに歩んでまいろうではありませんか。