のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2021年12月12日 礼拝

説教題 「マリアの讃歌」
聖書箇所 ルカの福音書1章46~55節
 
 

 私は天気の良い朝にときどき近所を散歩します。その散歩コースは大体、白石本通墓地の中を歩きます。そこにはカトリックの墓地があって、その真ん中にマリア像があります。カトリックの方々は、そのマリアを聖母マリアと言って崇敬しています。そのくらいマリアを特別な存在として捉えているのです。私たちはマリア像も造らないし、崇敬するという言葉を使いませんが、それでも特別な存在であることは認めていると思います。
 
 なぜならば、救い主の母となった人だからです。このマリアを特別に扱うことは、古代の教会で早くから始まっていました。マリアは「神の母」か「キリストの母」か、ということで論争になったこともありました。そのうち、聖書から離れて、偽典とか外典と呼ばれる伝承から、マリアの無原罪説や被昇天説などが生まれるようになります。でも、そのくらいマリアはキリスト教会にとって尊敬の対象になっているということです。その理由の一つに、この「マリアの讃歌」を歌った信仰、その姿があります。マリアが語ったこの言葉には、主への賛美と預言があり、救い主を身ごもることになった人の信仰をそこに見るからです。そこに、私たちキリスト教会がこの世において立つべき模範が示されているからです。
 
 
1.わがたましいは主をあがめ
救い主を身ごもり、産むことになったマリアはナザレという片田舎に住む若い女性です。このときは14歳~15歳くらいだったと言われています。それは、当時の女性が結婚していた平均年齢であったからです。現代ではまだ中学生か高校生ですが、その年齢の女性が、突然妊娠をするという体験をすることになった。まだ結婚もしていないのに…。マリアも34節で、「私はまだ男の人を知りませんのに」と証言しています。
 
 マタイの福音書の方には、婚約者であるヨセフの側からのお話がありますが、ルカは、マリア側からのキリスト降誕を伝えます。ヨセフは御使いによって夢で知らされ、マリアは直接御使いが現れて伝えます。35節。
聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」
 これがマリアに告げられた神様からのメッセージでした。14~15歳の女の子が、突然背負わされるこの出来事は、果たして喜ぶべきか、悲しむべきか。その問いを、ここを読む私たちに与えていると思います。
 
 婚約中に妊娠することに当時の社会は決して寛容ではありません。現代では「できちゃった婚」という軽い言い方がありますが、それ自体はこのマリアの時代ばかりでなく聖書の教えから見て、現代でも神様が悲しまれることです。当時のユダヤ社会であるなら尚更、不品行の罪として断罪され、石打ちの刑になる可能性があります。
 
 しかしマリアはそのような、通常であれば恐れて家に閉じこもってしまうような中で「マリアの讃歌」と言われる、この言葉を語るのです。ここは46節から50節までと、51節から55節までに分けることができます。それでまず前半部分ですが、46節、47節を読みます。
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」
 マリアは自分の魂と霊、言い換えるならば、私のいのちも心も主なる神様を褒め讃えているという、最大限の賛美の言葉をもって崇めているのです。この「マリアの讃歌」がラテン語でマグニフィカートと呼ばれるのは、この「あがめる」という言葉から来ています。
 
 マリアは親戚のおばさんであるエリサベツのところに来ていましたが、この直前にはそのエリサベツのお腹の赤ちゃんも踊ったとあります。それは、その賛美にとって重要なのは、やはり聖霊の満たしがあったと見ることができます。エリサベツにもマリアにも聖霊が臨んで、そこに聖霊の交わりがあったということです。35節ではマリアに聖霊が臨むことが御使いガブリエルによって告げられています。またエリサベツも41節で聖霊に満たされたとあります。賛美は聖霊の交わりの証しだということです。
 
 私たちもいつも祝祷で祈ります。「聖霊の交わりがあるように」と。それは、クリスチャンの交わりとはこの世的な趣味や、娯楽によって繋がっている間柄ではなく、主から頂いている聖霊による交わりこそ、互いに徳を建て上げるまことの交わりだからです。ですから、まずマリアの賛美は教会の賛美の原形であり、クリスチャン一人ひとりとしても目指すべき信仰の姿と言えるでしょう。だから、今日も私たちは、この礼拝においてまず聖霊の交わりがあることを切に願い、そのことを意識してここに聖霊なる神様が満ちるように祈って集まってきているはずです。そして白石教会の信仰告白でも「聖霊は教会に力を与え」と告白し、「教会は…聖霊によって確立され維持される」と告白して、このマリアの讃歌に連なる主の群れとして証ししているのです。
 
 私たちが讃美歌を歌うとき、それは単にプログラムに書いてあるから歌を歌っているのではありません。私たちの互いの御霊の交わりが賛美となって、本来はそうせずにはいられないから讃美歌をもって主を賛美しているのです。そして、同時にこの世に、この地域に、聖霊なる主の栄光を証ししているのです。
 マリアもエリサベツおばさんとの交わりの中で聖霊に満たされて喜びが溢れた。本当は色々な不安があったかも知れません。恐れがあったかも知れません。でも、あらゆる不安も恐れも主を信じる者に与えられる聖霊の助けによって、強くされていくのです。マリアも普通の女の子に過ぎませんでしたが、主を信じる信仰によって与えられた聖霊によって、心の暗闇が消し去られ、主の光が満ちたのでした。
 
 
2.主が目を留めてくださった
 ですからマリアは、更に大切な告白に導かれています。それが46節から50節です。
「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」
 マリアは神様の事を「わが救い主なる神を喜びたたえます」とほめたたえました。この心からの賛美の原動力が喜びだと告白しつつ賛美しました。その喜びはどこからくると言っているでしょうか。その理由はどういうことだと言っているでしょうか。それは、「主が目を留めてくださった」ということです。全知全能なる偉大な神様、唯一絶対の聖なるお方が、私のような者に目を留めてくださった。
 
 ここでマリアは、「この卑しいはしため」と自分のことを認めています。これは、神様の前にある自分がよくわかっている人の言葉です。ペテロも、イエス様のきよさに触れたときに「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言いました。また預言者イザヤが神殿で主とお会いしたときに、「私はもうだめだ」と言って、聖なる主の前に滅ぶべき者であることを自覚しました。きっとマリアも聖霊に満たされて、主がお腹の中に宿る中で、同じ思いにさせられたのではないでしょうか。
 
 でも、そのような者を主は見捨てずに目を留めてくださった。ただそれだけで、マリアはこの上もない喜びに満たされて、主を賛美したということです。大切なことは、このマリアのへりくだりであり、主の前には本来滅ぶべきものであったという自覚であり、しかし、そのような者なのに愛されているという霊的な感動です。さきほど紹介した預言者イザヤも、もう駄目な自分に気付かされて死ぬと思いましたが、そこに主は祭壇から生贄を焼いた炭をとってイザヤの唇に触れて、その罪を贖いました。その主の憐れみを受けた時、イザヤはどうしたか。それは、主の預言者として「私を遣わしてください」と献身したのでした。
 
 マリアもそうです。マリアはただ神様の前に自分の小ささ、貧しさを知り、主を恐れかしこむ者としてひれ伏しているのです。だからこそ、神様の事を一層力ある方であることがわかります。そこに一方的な主の恵みを知らされます。だから、今度は賛美だけでなく、そのへりくだったマリアは主のことばを取り次ぐ預言者として用いられるのです。それもマリア自身が宿す救い主イエス様に付いての預言でした。51節~53節
 
 
3.みことばを語る者として
「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力のある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
 ここではマリアは、まさにイエス様が山上の説教で語られたような内容のことを預言しています。それは、この世の常識では人々の目標、理想である権力や裕福なことではなく、低い者、飢えた貧しい者にこそ祝福がもたらされるという内容です。この世の価値観は権力を持つこと、お金をたくさん持つことにこそ幸福があると教えます。だから、人よりも僅かに上の生活、上の学校、上の地位を目指すものです。
 
 しかし、主は違うのです。今日の「マリアの讃歌」で「主は」と3回使われていますが、これは旧約聖書であればヤハウェ、太字で主と表していることと同じ意味で使われています。この主の前に心高ぶることなくへりくだっている者こそ主の招きと選びの中に置かれていると言うことです。だから、このあと世界で初めのクリスマスに招かれるのは、貧しい名もなき羊飼いたちでした。
 そして、何よりも、このマリアから生まれる救い主イエス様こそ、王の王、主の主でありながら、家畜小屋で生まれ、貧しい大工の子として育てられ、田舎者の弟子たち数人を連れて旅をして最後は、何も罪を犯していないにも関わらず逮捕され、罪がないと裁判官である総督ピラトが認めてもなお十字架にひかれていき、釘づけにされ処刑されたのでした。まさに、この世の基準、価値観で見るならば、最も負け組になった男です。
 
 しかし、それはマリアがこの讃歌で語ったように、そこにこそ低い者を高く上げられる姿、飢えた者を良いもので満ち足らせる身代わりの姿があったのです。救い主は武力ではなく、暴力でもなく、人間の目から見れば敗北に見える方法で勝利を得られたのです。それは、私のような卑しいはしため、低いもの、飢えた者をその勝利に与らせるためだったのです。
 
 マリアは、主の臨在の前に自らの貧しさを知らされつつも、そのような者に目を留めてくださった主の憐みを味わい、聖霊に満たされて主を賛美せずにはいられなくなり、そこから主のみことばを語らずにはいられなくなりました。それは、まさに私たちキリストを信じる者のあるべき姿ではないでしょうか。
 
 
結び
 私たちもあらためて、このような者に目を留めて下さった主をあがめて、主のみことばを語る者でありたいと思います。特に、このマリアから今日、学ぶことは、私たちキリスト教会にとって大切な模範と言えます。私たちは、崇敬という言葉は使わないかも知れませんが、マリアを通して信仰者としての姿、キリスト教会としてのあり方を学びたいと思います。
 
 最後にもう一つマリアから学ぶことがあります。実は、この「マリアの讃歌」は、マリアの創作の歌ではありません。旧約聖書詩篇などから引用したみことばです。つまり、それはどういうことか。それは、彼女が日々聖書のみことばに触れて生活しているということではないでしょうか。マリアが日ごろ聞いて良く知っている聖書のことばが、聖霊に満たされたときに、丁度良いタイミング、丁度良いスタイルでそれが賛美の歌として用いられ、預言の言葉としても用いられるのです。無教会の塚本虎二先生はこの「マリアの讃歌」のことをこのように称賛しています。


「しかしてこの讃美歌マグニフィカットは、いわゆる創作ではない。旧約聖書詩篇その他より摘み取りし花束である。マリヤが幼き時より、記憶しおりし句が、いま聖霊に満たされて、知らず識らず綴り合わされしものだろう。しかし、既に新約の曙の光にひたされしものであるがゆえに、その着ている衣は古くあれども、既にそれは新しいいのちに輝いている。創作でなくして、創作以上の創作である。旧約であって、しかも新約である。」
 
 だから、日ごろから聖書に親しむ素晴らしさと意味もマリアから教えられます。主を信じ愛する者として、主に仕える者として、やはりここは大事です。マリアは最後3つ目の「主は」と語り、この賛美と預言の言葉を語り終えます。それが54節と55節です。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで」いてくださるお方であると告白し、世界で初めのアドヴェントのときに、アブラハムに約束されたみことばが、ここに実現したのだと宣言しているのです。
 
 私たちも、今年のクリスマス、やはり主が、あなたに対するそのあわれみを忘れないで、私たちを助けてくださった。救ってくださった、目を留めてくださったことを、まだイエス様を信じていない人たちに伝えていきたいと思います。マリアのように、聖霊に満たされて、賛美して、喜びつつ、聖書に書かれている通りのことが今起こっている。救い主が今、神様の約束の通りに来ているのだから、この救いを信じましょうと、クリスマスの主を宣べ伝えてまいろうではありませんか。