日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2022年6月26日 白石教会礼拝説教

説教題 「世の救い主イエス・キリスト
聖書箇所 イザヤ書53章
 
 

白石キリスト教信仰告白

イエス・キリスト
イエス・キリストは人となられた神のことば、神のひとり子、世の救い主であり、十字架の死とよみがえりによって、私たちを罪の支配から解放し、神と和解させてくださいました。御子イエスは天に上げられ、父なる神の右にあって今も私たちをとりなし、栄光のうちに再び来られます。」
 
 白石教会の信仰告白に基づく教理説教は、今日で3回目になります。今日の教理説教のテーマは「イエス・キリスト」です。このテーマこそ、私たち白石教会だけでなく、すべてのキリスト教会における中心的な信仰の告白であると言って良いと思います。それは、このお方をどのように信じ告白するかということは、教派に関係なく、教会にとってのいのちであると言っても過言ではないからです。
 5月から再開された聖書研究会ではエペソ人への手紙から学んでいますが、その1章から、その手紙を書いた使徒パウロは、私たちがいただいている救いについて、ある言葉を繰り返し用いていました。それは「キリストにあって」、「彼にあって」、「この方にあって」など、必ずイエス・キリストにあって、この救いがあり、このキリストにあって、私たちが選ばれ、神の子どもとされ、天国を受け継ぐ者となっているからです。つまり、このお方なしには、救いはありえないということです。このお方なしには、罪人が神の子どもにされるなんて出来事は不可能であったということです。
 
 そのように、聖書全体を見ても、聖書そのものがすべてイエス・キリストにあって書かれていることがわかります。聖書66巻を貫いているテーマは「イエス・キリスト」です。旧約聖書にはキリストご自身の名は書かれていませんが、そのストーリーの中から、教えの中から、預言の中から、イエス・キリストのシルエットを見ることができます。ですから、旧約聖書においてキリストは映し出され、新約聖書において実体が明らかにされているということなのです。
 だから、いつもの礼拝説教も実はその中心はイエス・キリストです。イエス・キリスト抜きの説教はあり得ません。キリストのお名前が出て来なくても、必ず、そこにキリストの業、その使命にかかわる内容を含んでおり、まさに、いつも「この方にあって」神様に礼拝をおささげしている。そのことを今日も覚えたいと思います。
 
  限られた時間ですので、信仰告白の細かい解説というよりも、告白文を二つのポイントに分けて、そこから浮かび上がってくる主イエス・キリストを味わっていきたいと願っています。まず、ポイントの一つ目として「人となられた神のことば」であるということです。それは、本来、目に見えない神ご自身でありながら、私たち人間に語り掛けてくださる、そのことばとが、人間になられた。それはどうしてか。そのことに注目したいのです。
 
 そして、二つ目のポイントとしては、このお方が神様と私たちを和解させてくださった仲介者であるということです。それは、私たち罪人の弁護者であり、今もなお、天の父なる神の右におられて、執り成しておられるお方である。そのことをあらためて見ていくということです。

 


1.人となられた神のことば…キリスト
 ではまず、「神のことばが肉体をとる」とはどういうことか考えてみましょう。色々な切り口があると思いますが、「ことば」についてまず考えてみましょう。「ことば」というのは、人間関係の中で考えるとき、互いの意志を表現するときに口から発する音であったり、書いた文字や文章だったりします。つまり、相手がいて、その相手に意志を伝達するものです。
 
 聖書には「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)と書いてあります。この聖書でいう「ことば」と訳されているもとのことばは「ロゴス」と言います。それはギリシア語ですが、辞書を引いてみると、単に「ことば」というよりも、もっと広い範囲の意味を持っていることがわかります。確かに言葉に関する意味ではありますが「話、言語、言明、質問、風評、弁明、教えを説くこと、叫び」などです。それが、聖書で使われる場合には、直訳することが困難な場合があるくらいです。
 
 だから「初めにことばがあった」という日本語の訳も、普通に「ことば」と訳していますが、これを最初に「ことば」と訳したのは宗教改革者のルターだと言われています。彼は、ローマ・カトリック教会から破門され、初めてドイツ語の聖書を翻訳するときに、このロゴスを、ドイツ語でいう「ことば」という単語に訳した。そこから、各国の言葉で訳するときには、それぞれの国の原語でいう「ことば」にしたということです。
 
 でも聖書を旧約聖書からずっと見ていくと、確かにイエス様が神のことばであることがわかってきます。たとえば、旧約聖書ではもともと、神様から人間に言葉が語られるときには、目に見えない状態の神様から声があって、そのことばが語られていたと考えられます。アブラハムにことばがあったというとき、そのとき、アブラハムの目の前には肉眼ではその声の主は見えないのです。
 
 しかし、イエス様が来られてからは、イエス様ご自身が、その肉体をもった状態で声を発せられ、みことばをお語りになりました。まさに、以前は空間の中からの声でしかなかったのに、目に見えるかたちで、そのからだを通して、人間の発声方法を使ってお語りになった。それは、神のことばが肉体をもって来られたということではないでしょうか。
 また、今日聖書朗読でお読みしたイザヤ書53章は、イエス様が降誕される700年くらい前に書かれたもので、その時から、救い主の姿が預言されていたものです。いかがでしょうか。とてもリアルに、700年後に来られるメシアの姿を現しています。しかし、この預言をしたときイザヤは、先ず預言者として、神様から与えられたことを、声に出して語ったはずです。預言者ですから。そして、そのことばを文字にして記録しました。
 
 つまり、この預言がされたときには、このイザヤ書53章に描かれている救い主はことばに過ぎない訳です。しかし、それから約700年後に肉体をとってイエスという方がお生まれになって、イザヤが預言したことばのとおりに歩まれた。イザヤの預言の通りに生きられ、死なれた。それは、ことばが「人となって、私たちの間に住まわれた。」まさに受肉した神のことばであったということです。
 
 しかし、神のことばが人となられたというのは、そのように旧約聖書を成就するためだけではありませんでした。それは、どういうことでしょうか。それは、人の肉体を持つことによって、私たち肉体を持つ者の痛みや悲しみや苦しみさえもその身に負って味わってくださるためでもあったのです。それまで、天上においては、神として、他のいかなる被造物にも依存せず、皮膚も骨もない霊の存在として、ご自身だけで成立していたお方です。しかし、人間となられたことで、鼻と口を塞げば苦しいし、蚊に刺されば痒くなる。ラーメンを食べ過ぎたらお腹を壊す。殴られ、鞭を打たれ、釘をさされたら痛いのです。
 
 新約聖書のヘブル人への手紙4:15には、こう書いてあります。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
 
 イエス様は、「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」とあります。それは、そのことも経験するために、肉体をとって来られたということでもあります。そうでなければならなかったのです。それは、私たち罪人の苦しみ、この世という罪の世界を限界のある肉体をもって生きることの辛さ、悲しさ、苦しさを知るためです。
 
  私たちの肉体は、弱いです。その弱さすら主は身をもって体験するため、肉体をとった神のことばとして来てくださいました。だから、この方のことばが益々信実であり、信頼できるみことばとなるのです。神様は口先だけのお方ではない。自らこの生きづらい罪の世界で生きなければならない辛さ。理不尽さなど、すべての点で同じところを通ってくださった。だから、このお方を通して語られ、実行された神のことばが益々、真実で信頼できる唯一のいのちのパンとして私たちを生かすのです。だから、そのお方の霊である聖霊によって霊感された聖書のことばは、まさに私たちを生かす神のことばとなるのです。
 
 
2.神との和解…仲介者キリスト
 しかし、このお方を正しく告白するためには、それだけならば片手落ちです。なぜならば、イエス・キリスト神と人との間に横たわっている罪を取り除く世の救い主、神と和解させ、今もとりなす真の仲介者として、私の中に、皆さんの中にとどまっていなければ、その信仰は足りないからです。
 
 白石教会の信仰告白では、「…世の救い主であり、十字架とよみがえりによって、私たちを罪の支配から解放し、神と和解させてくださいました」とあります。この部分が非常に大切であり、救いがかかっている、重要な教理になっています。この救いの原理こそ、聖書が書かれ、残されている理由だと言えます。いくら、イエスという立派な方を尊敬し、そのようになりたいと思っても、このキリストというお方が、何からの救い主なのか。どこから救ってくださるお方なのかということを知らなければ、救われることはできません。
 
 それが罪からの救いです。それを信仰告白では「罪の支配からの解放」と言っています。それは、罪というものは、病のように、私たちの肉体も精神も蝕み支配する、自分ではどうすることもできない死に至る病のようなものだからです。罪については、またあらためて6回目の教理説教で取り上げますが、アダムとエバが神様のみことばを軽んじ、自分たちが神のようになれるという誘惑に負けて犯してしまった堕落から始まっている、神との断絶の関係をもたらしているものです。嘘をつくとか、人の物を盗むとか、人を傷つけるなどは、罪の結果であって、罪そのものではありません。人間が神を信じないで、神から離れてしまっている状態が罪なのです。
 
 罪から来る報酬は死ですとみことばは言います。それは、神を信じないで、神から離れることを自ら選んだ結果、死んだあとも神様から離れた状態のままで、滅びである死に至るのだと言うことです。そもそも、滅びというのは悪魔のためにもうけられた場所です。世の終わりが来て、人々を惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれることが聖書に記されています。そして、続いてこうも書いてあります。「そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」
 
 つまり、信仰告白で言っている「罪の支配からの解放」とは、今、この地上における罪の支配からの解放だけでなく、やがて訪れる滅びからの解放でもあることを、しっかりと覚えていきたいと思います。その解放が、このイエス・キリストを信じることによって行われる。それは、私たちが支払うべき、神様への借金をイエス様が支払ってくださったからです。そのことが、今日、お読みしたイザヤ書でもきちんと預言されていました。
 
5節と6節
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
 「彼」というのは、イエス様のことです。イエス様は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。イエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、イエス様の打ち傷によって、私たちはいやされたと読み直すことができます。
 
 この箇所を、どうしてイエス様のことだと断定して読んで良いのか。それは、新約聖書において、そのように解釈しているからです。使徒の働き8章では、エチオピアの宦官がエルサレム巡礼の帰り道に、まさにこのイザヤ書53章を読んでいて意味がわからなったという場面が出てきます。しかし、そこにピリポという弟子が現れて、ピリポはこのイザヤ書の聖句から始めてイエスのことを彼に宣べ伝えたと書いてあります。また、使徒ペテロも、第一の手紙の中でこのイザヤ書を引用しています。


  Ⅰペテロ2:22~24「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」
 
 「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」とイザヤ書53章5節のみことばの「彼」をペテロは、「キリスト」に置き換えて引用しています。
 聖書が聖書の真実性を証言しているのです。
 
結び
 このように、イエス・キリストは世の救い主として、罪人である私たちの身代わりとなって神様からの懲らしめを受けてくださった。それゆえに、私たちは罪という不治の病から癒されたのです。だから、神様は、そのことを信じた私たちのことを罪人ではなく、義人として扱ってくださっています。
 
「えっ?でも、まだ罪を犯してしまうのに!」と思われる方がいるかも知れません。でも、大丈夫です。神様によって救われるとは、私たちの行いではなく信仰によるので、今の状態を心配しなくて良いのです。イエス様を信じるということは、神の子であるイエス様と言う新しい衣を着るということです。それは、神様から見るとイエス様のように見てくださるということです。でも、中身がこのままで良いのかと言う質問があるかも知れません。それは、大丈夫です。
 
 イエス様を信じて、イエス様と言う義の衣を着た時から、聖霊が与えられますから、着せていただいたイエス様という衣にふさわしく、中身も変えられていくからです。そして、まだ完全に中身が変わっていなくて、日々犯してしまう罪のことも、今はイエス様が天の父なる神様の右にいて、執り成していてくださっているのです。それは真の仲介者として、真の弁護人として、不完全な私たちの弱さのせいで滅びることがないように、弁護してくださっている。すなわち、それができるのは、弁護してくださるイエス様ご自身が、真の仲介者として、私たち人間の弱さをすべて知っておられるからです。
 
  これが、私たちが信じ告白するイエス・キリストです。まさに、「イエス・キリストは人となられた神のことば、神のひとり子、世の救い主であり、十字架の死とよみがえりによって、私たちを罪の支配から解放し、神と和解させてくださいました。御子イエスは天に上げられ、父なる神の右にあって今も私たちをとりなし、栄光のうちに再び来られます。」
 
  このお方は、信じる私たちをやがて迎えに来ます。その時まで、ぜひ、ともに励まし合いながら、このイエス・キリストを大胆に告白し、宣べ伝えてまいりましょう。