のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

受難節 第六主日 礼拝説教

説教題 「我らの王、ろばの子に乗って」
聖書箇所 ヨハネ福音書12章12節~19節
 
 

 今日から受難週に入ります。受難週に入る最初の日曜日を「棕櫚の主日」と呼ぶのは、今日、お読みしたヨハネ福音書に由来しています。今日の聖書箇所は一般に「エルサレム入城」と呼ばれる場面です。イエス様が、十字架にかけられた金曜日がある「週の初めの日」に、イエス様は弟子たちとともに、イスラエル人の都エルサレムに入られたことは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に記録されています。実は、これまで続けて読んでいたマタイの福音書にも、この「エルサレム入城」の場面があるのですが、今日はヨハネからにしました。それは、今日はヨハネ福音書ならではの視点、角度に注目したいからです。
 
 その一つが、今、お話したように、イエス様のエルサレム入城で群衆が持っていた枝が「棕櫚の木の枝」であったことが明らかにされていることです。そして、二つ目が、13節で「イスラエルの王に」と言う言葉を使ってイエス様を迎えていること。そして、三つ目は、イエス様がお乗りになった「ろばの子」について、他の福音書では、その経緯が詳しく書かれていますが、このヨハネではイエス様が見つけて乗られたとだけ書かれているだけです。しかも、他の福音書では、イエス様がエルサレムに入城される前に記されていますが、このヨハネ福音書では、出迎えた出来事の後に書かれています。これは、どういうことでしょうか。どうして、ヨハネは、他の福音書記者たちと違う記録の仕方をしているのでしょうか。今日は、その違いに注目しながらみことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.みことばが祈りになる
 エルサレムと言う町は昔から、城壁をもっていましたので、エルサレムに入ることを「入城」と言います。今でもエルサレムの旧市街地に行こうとすると、小高い山の上に立派な城壁を伴った、その町の姿を見ることができます。その町は、そもそもイエス様の祖先であるダビデ王が都を築き、ダビデ王家の町としても知られていました。イエス様が歩まれた時代には、ユダヤ人ではなくエドム人ヘロデ一族が王となって王宮にいました。しかし、あくまでローマの傀儡政権としてヘロデ王がいたのです。
 
 ですから、イスラエルとしてはローマの属国で、ローマの法律で、ローマに税金を納め、ローマの支配下になったのです。だから、アブラハムの子孫としての誇りがあったユダヤ人たちにとっては、そのような異邦人に支配されていることは屈辱でした。取税人が嫌われていたのは、そのくらいローマ帝国に対する苦々しい思いが人々の心にあった証しです。しかし、ローマ帝国も賢くて、その属国であったイスラエルを単にローマ帝国の権威だけによって押さえつけようとせずに、地元民からローマの言いなりになる王を立てて、直接火の粉がローマ帝国に飛ばないようにしていた。それが植民地なのに王がいる理由です。ヘロデ一族もユダヤ教に改宗してユダヤ人になって、一応ユダヤ人としてエルサレムに君臨しているのです。
 
 そのような植民地政策の下、イスラエルには最後の預言者マラキ以降、400年間も預言者が現れず、神のことばが語られることはありませんでした。そのかわり、それまで語られてきたことを文書にして集め、残し、その文書から神のことばを聞くというかたちが定着してきていました。その文書を聖書と言います。ユダヤ人たちは預言者が現れなかった闇の時代に、聖書を通して希望を持ち続けていくのです。聖書的歴史観で見るならば、神様がそのように導いて来られたということです。
 
 だから、多くのユダヤ人たちは、この聖書、つまり旧約聖書(律法と預言者)をよく読んで育てられました。だから、13歳になるとバルミツパ(律法の子)と呼ばれる成人式があって、そのときまでに聖書を暗唱できるように、その家の父親は自分の子に聖書教育をしていました。
 
 今日の場面で、このエルサレムの人びとが叫んでいるのは、詩篇118篇のみことばです。聖書を学んでいると、生活の中に聖書のみことばが出て来るようになります。最近、教会図書で購入した「聖書の祈りが私の祈りになる」という本はお薦めです。祈り方がわからないとか、祈れないと言う方は、ぜひ、祈りのことばすら聖書のみことばから出てくるようになります。日常生活の中にみことばが出てきます。このユダヤ人たちもそうなのです。
 
 
2.棕櫚の枝をとって
 彼らは、詩篇118篇25節と26節のみことばを使って、イエス様を迎えました。詩篇118:25,26をまず読んでみましょう。
「ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。「主」の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」
実際にエルサレムの人たちが叫んだ内容と比較すると違う点に気付かされます。エルサレムの人びとが叫んだのはこうでした。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」
 
 ホサナという言葉は、「救ってください」という意味のヘブル語ですので、詩篇の方の「主よ。救ってください」という部分が「ホサナ」であるということです。おそらく、「栄えさせてください」も同じような意味なので、ホサナに集約されていると思われます。そして、「主の御名によって来られる方に」は同じ意味です。その主というのは、詩篇を見ると太字の「主」ヤハウェという神様のお名前ですから、それはイエス様のことを全知全能の唯一、真の神である主のお名前によって来られているということを信じて叫んでいると言って良いと思います。そして、最後のフレーズ。これが、ヨハネ福音書としての特徴、ヨハネが聞き逃さなかった言葉です。それは「イスラエルの王に」
 
 どうしてエルサレムの人びとは、ここで詩篇118篇にはない「イスラエルの王に」という言葉を用いてイエス様に叫んだのか。
 
 それは、13節冒頭にある「棕櫚の木の枝」と繋がっていることです。これは、エルサレムの人びとが、イエス様をイスラエル民族解放のメシアとして持ち上げ、彼らのイエス様への期待が込められているということです。この棕櫚の枝を用いることは、ユダヤの歴史書であり、カトリック教会で旧約聖書の続編になっているマカベヤ書に記録されています。かつてギリシア帝国時代にエルサレムを守った英雄シモンによってエルサレムが奪還されたときに、当時のユダヤ人たちは、棕櫚の枝を振って賛美しながらエルサレムに入って来る様子が描かれています。それは、ユダヤ民族としての誇りを表わす象徴的行為であったのです。棕櫚の枝という植物の種類をきちんと書き、「イスラエルの王に」と叫んだその言葉も書いて、出迎えた彼らの本意がどこにあるのかを伝えていたのです。
 
17節以降を見ると、どうしてエルサレムの人びとが、ここまでイエス様を持ち上げ、期待し、迎えていたのか、その理由が記されています。それは、このエルサレムに入る前にいたベタニヤで、ラザロのよみがえりがあって、その奇蹟を聞いていたからであると書かれています。(17,18節)エルサレムの人びとは、大喜びでイエス様をお迎えしたのは事実です。そのイエス様が、聖書で預言されていた救い主であることを信じていたので、ホサナと叫んでお迎えしたのです。しかし、ユダヤ人たちの期待していたのは、政治的にイスラエル民族を解放、独立させるためのメシア王なのです。彼らは、イエス様の奇蹟を行う力があれば、ローマ帝国を倒してイスラエル王国の再建に利用できると考えたのです。
 
 
3.ろばの子に乗って
 その事実をヨハネは、あえて書き残しました。それは、その大きな期待を裏切るようなことを、そのすぐ後に記録し、人々の求めるメシア像と、実際に神様が与えようとしている救い主の違いを引き立たせるためであったからです。14節と15節を読みましょう。
「イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。『恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って』」
 
 このように福音書を書いたヨハネは、ユダヤ人たちが叫ぶイエス様への期待である「イスラエルの王に」のすぐあとに、ろばの子に乗られるイエス様の映像を見せます。そして、そのことを預言していたゼカリヤの預言を引用します。この預言もまた、ヨハネが意図したように、「あなたの王が来られる」と王様の姿をイメージさせて、そのあとに「ろば」という動物の映像を見させようとしているのがわかります。どの日本語の聖書も、ここは、きちんと倒置法を使って、「ろばの子」をクローズアップしている原文に忠実に訳しています。
 
 これは、明らかに人々が期待していたメシア像とは違う姿としてのイエス様を表わしています。それは、政治的な王様ではない、軍事力ではない、人間的な権力でもない。その弱々しいお姿にある、真のキリストのお姿を映しているのです。真の救い主は、ロシアのように軍隊を必要としません。聖書にはよく軍隊とか武力の象徴として「馬」がたとえられます。今日、交読でいっしょに読んだ詩篇147篇には、
「神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」とありました。
 
 神様の常識、神様の価値観は、暴力、軍事力、兵力ではないのです。今日のエルサレム入城でイエス様が白馬に跨って颯爽と登場したら、きっと、エルサレムの人たちは益々、その雄姿に魅せられ、熱狂的にイエス様をイスラエルの王様にしようと担ぎあげたでしょう。しかし、イエス様は、あえて「ろばの子を見つけて、それに乗られた」のです。
 
 これは、人々のイメージを裏切る出来事になりました。でも、このときの弟子たちでさえ、この出来事の霊的な意味を知るには時間がかかりました。これらの聖書の預言と、この時、ろばの子に乗ったイエス様が人々に迎えられたことは結びつきませんでした。きっと、弟子たちも、どうしてイエス様は、馬ではなくロバなのだろうと思ったでしょう。しかも、このロバは子どものロバです。これを書いたヨハネ自身、この場面ではそう思っていたでしょう。でも、それがわかったのが、イエス様が栄光を受けてからでした。その栄光とは十字架と復活のことです。
 この場面は、競輪選手が三輪車で登場するようなものです。もし暴れん坊将軍が、あのオープニングで白い馬ではなく、ろばの子に乗ってきたらどうでしょうか。きっと大笑いされるでしょう。そのくらい、この場面でイエス様が子ロバに乗るというのは、別な意味でインパクトがあります。
 
 しかし、人々からがっかりされるお姿、人々から笑われるようなお姿こそ、そもそも聖書で預言されていた救い主の姿でした。旧約聖書イザヤ書53章2節にはこのように書かれています。
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」
 
 どうしてイエス様は、このようなお姿で来られたのでしょうか。それは、イエス様が建てられる神の国というものが、この世の常識、価値観にある人間的魅力や、財力、政治力、軍事力によってもたらされるものではなく、むしろ、人々が蔑む一見弱々しく見える世界にこそ建てられるものだからです。このあと、イエス様は逮捕されます。そのときイエス様を守ろうとしたペテロが剣を抜きますが、イエス様はそれを鞘に納めるように命じられます。そして、ご自分は、敵の剣に身を任せて連れて行かれるのです。
 
 その姿は誰が見ても負けた人の姿です。そして、鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられ、手には葦の棒を持たされて馬鹿にされ、最後は荒削りの十字架の上に釘付けにされた敗北者の姿です。しかし、これらのことは、予め、弟子たちには予告していたことでした。それは、これまでマタイの福音書を読んで来たとおりです。これは、イエス様が自ら、その王座としての十字架に向かわれていたということです。つまり、その恐ろしい十字架に挙げられた姿こそ、真の王としてのキリストのお姿であったということです。
 
 茨と言う王冠をかぶり、十字架と言う玉座につかれたキリストは、イスラエルだけでなく、全人類の王であったのです。それは、そのようにして、罪人達によって殺されることによって、救いをもたらしたのです。これは人間の価値観では考えつかないことです。そのイエス様の十字架刑が自分たち人間を救うための神様によるさばきであったなどとは、いったい誰が考えつくでしょう。ここに、神の知恵があります。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力なのです。
 
 
結び
 私たちの王であるイエス・キリストが、ご自分でロバを見つけ、乗られたということは、まさに、私たちの常識を超えた、神の深い御心のうちにある救いのご計画の中で、罪に対しても、悪魔に対しても完全に勝利されるということを象徴しているのです。このお姿にこそ、私たちは目を留めなければなりません。
 
 エルサレムの人びと、そして弟子たちも、思い違いをしていました。彼らは自分の物差し、自分の常識で勝手なメシア像を思い描き、それをある意味、利用して、自分達が考える方法で革命が起こって、ローマから自由になれると思っていました。そのために神の御子を利用しようとしていたのです。棕櫚の枝を取って、「イスラエルの王」と担ぎあげて、自分達の思いを果たすための道具としたのです。だから、この四日後に、彼らは、同じ口で「強盗のバラバを釈放して、イエスを十字架につけろ」と叫ぶのです。自分のイメージに合わなかったら、いとも簡単に捨てます。主(ヤハウェ)の御名によって来られている方を。
 
 でも、それが私たちの姿です。私たちは、自分の考え、人間的な理想という色眼鏡で聖書を読み、自分の価値観の中で神のかたちを決め、主イエスの働きも存在も、自分に都合よく利用するものです。
 
 そういう私たちは今朝、今日の聖書の中で、どのポジションに自分を置きたいでしょうか。今日登場した、誰になること求めていますか。言い換えると、イエス様は、今日の中で誰になることを望んでいると思いますか。エルサレムの群衆でしょうか。それとも、弟子達でしょうか。これを書いたヨハネでしょうか。そうではありません。それは、ろばの子です。ここに、「イエスは、ろばの子を見つけて」と書かれています。主が見つけてくださったと言われています。見つけてくださったとは、それはイエス様が捜してくださっていたということです。
 
 そうです。イエス様がろばの子に乗ったのは、そこに真のメシアとしての姿があったからであると同時に、そのような無力な私たちを探し出して見つけてくださるお方であるからです。先週のマタイの福音書にも書いてありました。「人の子は失われた者を救うために来た」とです。
 今日も、そのイエス様の使命は変わりません。このろばの子は、イエス様に見いだされ乗っていただくことで、どんな軍馬にも優る神の御子のきよさと愛に溢れる歩みになったのです。イエス様は、このろばの子に乗ることを、喜んで望んでくださった。ろばの子に乗る、その弱々しく見えるところに神の国が来ている。金ぴかの王冠ではなく荊でできた冠の中に、煌びやかな宝石が埋め込まれた王座ではなく、荒削りの十字架の中に、真の神の王国があり、それこそ私たちの王であるイエス様のお姿だったのです。
 
 私たちも、どんなに自分が愚かに見えたとしても、また、誰かから蔑まれていたとしても、また、今までどんな罪深い歩みをしていたとしても、イエス様の前には関係ありません。むしろ、そういう人ほど、天の御国にふさわしいと招いています。イエス様に見つけられて、用いられるとき、私たちの人生は180度変わります。
 
 見よ。そのあなたの王が、あなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ロバに乗られる。それこそ、私たちの愛するお方。真の救い主です。今週は特に、受難週です。私たちのために、低くなって、弱々しくなって来られたイエス様を、私たちの王、メシア、愛する主として、お迎えしようではありませんか。
 
「見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って」