"その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」"
ヨハネの福音書 12章12~13節
受難節第6主日は歴史的に「棕櫚の主日」と言われています。棕櫚とは、今日の聖書のことばにあるように「なつめ椰子」のことであり、日本でもデーツと呼ばれ、ドライフルーツとして市販されています。
さて、この日はイエス・キリストが復活された日の一週間前なので、毎年イースターの日から数えて設定されているようです。クリスマスのように、定まった日ではなく、毎年日付が違います。
今年の棕櫚の主日、あなたはどのように過ごしているでしょうか。クリスチャンであれば、もちろん教会で礼拝しますと答えるかも知れません。そして、キリストが残り一週間のうちに十字架にかけられて死なれることを覚え、いつも以上に心を熱くしていくでしょう。
イスラエルの王としてエルサレムに入られたイエス様は、ロバの子に乗っておられました。白馬に跨ったのでしたら様になったと思いますが、ロバであり、更には子ロバでした。ホサナと叫ばれて、棕櫚の葉を道に敷かれながら入るそのシチュエーションは、まさに王としての扱いでしたが、その子ロバに乗っている姿はやはり滑稽に映ったのではないでしょうか。
群衆の熱はありました。イエスというお方を王として迎えるその熱意はありました。感情が盛り上がりました。しかし、その熱心さは長続きはしなかったのです。おそらく、このエルサレム入城の場面から少しずつその冷め方は始まっていたと考えられます。
この週の木曜の夜、すなわちイスラエルの暦では木曜の日没があって、金曜になった夜にイエス様はゲッセマネの園で祈り、そこで逮捕されます。そして、裁判にかけられ、鞭打たれ、金曜日の朝にはドロローサの道を群衆からの罵声を浴びながら歩まれるのです。
そのとき、罵声を浴びせる群衆とは、まさにこのエルサレム入城のときに、ホサナと叫んでイエスを歓迎した者たちでした。イエスという人に働く群衆心理はある時にイエスを王(メシア)として持ち上げ、しかし、自分たちの理想に合わなければ、いとも簡単に捨てるのです。
ここに人の罪深さが炙り出されます。イエス様を信じている、イエス様に従っていますという事実が今あったとしても、実は明日にはそれを捨てる可能性を持っている私たちであるということに気がつかなければなりません。
今イエスは主であると明言していても、明日は呪っているかも知れない。この群衆の姿とはまさに、私たちの可能性を指し示しているのです。
そのくらい、私たちは自分の感情すらコントロールできない弱い存在であることをよく知らなければなりません。その罪深さに気づかなければ、私たちは本当の意味でイエス様の恵みを知ることはできません。
その罪深さに気がついた時、はじめてイエス様の十字架の恵み、そして、子ロバに乗って来られた意味を心から受け入れることができるのです。
それは自分の罪深さを知るところから、悔い改めが生まれ、イエス様が負ってくださった私たちの罪とさばきへの感謝が溢れるからです。
今日もその恵みに近づくためにも、自らの罪深さを知り、そのために来られたイエス様を心にお迎えしてまいりましょう。