"さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。
そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。
「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」
そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。
祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」
そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。
このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。
そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。
主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」"
マタイの福音書 27章1~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イスカリオテのユダはイエスを裏切った男として有名です。しかし、今朝のみことばにあるように、彼は自分のしたことを後悔していたようです。このような姿を見ると、決して他人事ではない、そこに私たち自身の姿も見えるのではないでしょうか。
私もいつも後悔して生きていると言っても過言ではありません。それは自分の言ったことやしたことがあまりにも罪深かったり、だらしないことが多いからです。そして、そのことが神様の御心を悲しませていることに気づかされるからです。
ユダもまた、イエスというお方を裏切ったのが、決して金のためではなく、彼の中でイエスというお方に希望を持てなくなったらだと言えるでしょう。それは、自分という殻が邪魔をして、目の前に本物の神がおられるにも関わらず、見えなくしていたからです。
イエス様ご自身はいつも変わらずきよく、いつも愛に満ちており、出会う人々に平安を与えることができるお方です。にも関わらず、3年半もともに旅をして、四六時中一緒にいながら、そのことを見失うのです。それは、現代においてもイエス様を信じていると言って洗礼を受けクリスチャンとして歩んでいる私たちも起こりうることなのです。
イエスというお方を信じてクリスチャンになった。でも、その最初の恵みの喜びを忘れ、また共に主がいてくださる恵みに感謝できなくなっているときに、私たちも目の前にいながら主に希望を持てなくなったユダなのです。
そういうユダに対して主イエスは、最後の晩餐の席でも彼が裏切ることを実行しないように諭し待っていてくださいました。しかし、ユダが自分からその招きを拒み、闇の中へ出て行ってしまったのです。その選択、自由意志を神様は悲しみながらも強制的に止めません。それが天地創造のときから神様が人間をお造りになった原則でした。
神様は人間をご自分の思い通りになるロボットとして造ったのではなく、あくまで自由な意思で自分から神と喜んで交わろうとすることを望んで、人間をそのように造られたのです。
今朝、ユダが裏切りを後悔してもそれが報われなかった場面を見てまいりましたが、やはりここで、ユダは主イエスとともにいた恵みの期間を振り返って、裏切ることを実行しないように、またもし実行してしまったとしても、イエスご自身という光の中に悔い改めて戻ってくるべきであったと思わされます。
私たちも今朝、イエス様のこのことばを思い出して、自分の中にいるユダの可能性を覚えつつ、あらためて主の前に悔い改めて、ともに今日の受難週第三日を歩ませていただきましょう。
"そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。
自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。"
ヨハネの福音書 12章35~36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
光あるうちに、悔い改めのチャンスがあるうちに、主に立ち返ろうではありませんか。