のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

主のことばを曲げてはならない

エレミヤ書 23章25~40節

"わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言うのを、わたしは聞いた。
いつまで、あの預言者たちの心に偽りの預言があるのか。心の偽りごとを語る預言者たちのうちに。
彼らの先祖がバアルのゆえにわたしの名を忘れたように、彼らはそれぞれ自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、企んでいるのか。
夢を見た預言者は夢を語るがよい。しかし、わたしのことばを受けた者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦は藁と何の関わりがあるだろうか。──主のことば──
わたしのことばは火のようではないか──主のことば──。岩を砕く金槌のようではないか。
それゆえ、見よ──主のことば──。わたしは、互いにわたしのことばを盗み合う預言者たちの敵となる。
見よ。わたしは──主のことば──自分の舌を操って、これがみことばだ、と言う預言者たちの敵となる。
見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる──主のことば──。彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らは、この民にとって何の役にも立たない──主のことば。
この民、あるいは預言者か祭司が、『主の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに言え。『あなたが、宣告とは何かと言うので、わたしはあなたがたを捨てる──主のことば。』
預言者でも、祭司でも、民でも、主の宣告と言う者があれば、わたしはその者とその家を罰する。」
あなたがたは互いに「主はどう答えられたか。主はどう語られたか」と言うがよい。
しかし、主の宣告ということを二度と述べてはならない。その宣告自体がそれを言う人自身のことばであり、あなたがたが、生ける神、万軍の主、私たちの神のことばを曲げることになるからだ。
「あの預言者たちにこう言え。『主はどう答えられたか。主はどう語られたか。
もし、あなたがたが主の宣告と言うなら、それに対して、主はこう言われる。わたしはあなたがたに、主の宣告と言うなと言い送ったのに、あなたがたは主の宣告というこのことばを使っている。
それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたとあなたがたの先祖に与えたこの都を、あなたがたとともに、わたしの前から捨てて、
永遠の恥辱、忘れられることのない永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」"

  主の御心はみことばによって表されます。かつて、アダム、ノア、アブラハムなどの先人たちには、神は直接みことばを語られました。その後、モーセのような指導者、予見者や預言者を起こし、ご自身のみことばを特別な人を通して人々に語られました。今日の聖書箇所は預言者エレミヤによって語られ残されています。

 その後、バプテスマのヨハネを最後に旧約時代の預言者は終わり、いよいよ長らく預言者たちによって指し示されていたメシアであるイエスが、まさに神のことばが人の姿をとって来られたのです。神ご自身のことばとして、この地上を歩まれ、モーセの律法をキリストの律法に更新して新しい恵みの時代の幕開けとなりました。このイエスには、そのように神のことばとしてこの地上を歩まれるだけでなく、完全な人間として神を信頼して生き抜くことと、その義人のままで神のさばきを受けることがその任務でありました。それは、神と人間との間に横たわっている罪を取り除き、神と人間との和解の道を開き、神に赦され、罪を贖われた者たちが神の国の国民としてきよく正しく愛をもって、まさにイエスのように生き抜くためです。

 そのイエスは十字架で死なれ三日目に、初穂として死者の中からよみがえられて、私たちにもよみがえりの希望を与えてくださり天に帰られました。では、その後、神はどのようにみことばを私たちに与えているのでしょうか。

 それは、イエスがかつて言われていたもうひとりの助け主聖霊です。しかし、その聖霊のことばをどのように聞くのか。それが聖書なのです。聖書はイエスの時代には旧約聖書しかありませんでしたが、イエスの弟子たちによって恵みの時代、キリストの律法としてまとめられたのが新約聖書です。今はこの新約聖書旧約聖書を合わせて完成した聖書が神のことばとして与えられ、この聖書の言葉によって聖霊が語られるのです。

 エレミヤの時代にも、もう既に偽預言者がおりました。彼らは自分たちこそ真の預言者だと言って、人々の好む言葉を語り、人々の称賛を得ていました。、しかし、真の主の預言者であるエレミヤは神のことばを真っ直ぐに語るため、またその内容が罪の指摘、悔い改めの迫り、異国による侵略を受け入れることであったため嫌われ、孤独でした。

 しかし、このエレミヤの姿は現代を生きるキリスト者の姿でもあります。特に現代では、聖書が軽んじられ神のことばであるというよりは、神の言葉を伝えるための単なる道具であるとし、神の御心を聖書から聞くというよりは、自分の価値観や常識に引き寄せて読む人が増えているため、聖書を誤りなき神の言葉であると言う人は、ファンダメンタリストという言葉にひとまとめにされています。

 でも、今日のみことばにあるように、主の宣告のことばは、私のものでもなく、だれかのものでもなく主のものです。その言葉を聖霊により、聖書を通して聞き取れる人たちが、今主が語られる宣告のことばを語っていると思います。

 私たちも、その主のことばを聖霊の助けの中で聖書からしっかりと聞き取りたいと思います。今は神のことばが軽んじられ、曲げられる時代です。

 今日、みことばを通して警告されているように、私たちが主のみことばを曲げることがないように、益々、主のことばである聖書に聞き続けていきたいと思います。