日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2020年9月18日(金)きょうのみことば「わたしのことばを与えた」

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エレミヤ書
1章
1,ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤのことば。
2,このエレミヤに主のことばがあった。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことである。
3,それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代にもあり、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚まで続いた。
4,次のような主のことばが私にあった。
5,「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
6,私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」
7,主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。
8,彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」
9,そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。
10,見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
11,主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」
12,すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」
13,再び主のことばが私にあった。「あなたは何を見ているのか。」私は言った。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています。」
14,すると主は私に言われた。「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。
15,今わたしは、北のすべての王国の民に呼びかけている。──主のことば──彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダのすべての町に向かいそれぞれ王座を設ける。
16,わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。
17,さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。
18,見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。
19,彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救い出すからだ。」

 

 エレミヤはユダ王国のヨシヤ王から王国の滅亡、バビロン捕囚まで活躍した預言者です。活躍したと言っても、その歩みは大変苦しく辛いものでした。

 この第一章は、そのエレミヤが神の預言者として召し出される場面となっています。

 ここに有名な「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ」という主の言葉があります。それは、エレミヤが、自分はまだ若くて何を語って良いのかわからないと、主からの召しに尻込みしていたからでした。

 ここのくだりで、恐らく多くの牧師など伝道者として召された人が励まされ、中には、ここのみことばからその働きに召された人もいるのではないでしょうか。

 私は、このみことば自体が私の召命のことばではありませんが、まだ牧師になる前、教会学校の教師をしていたとき、また信徒説教者として立たされるときに、このみことばによって何度も励まされたものです。

 特に、今回、あらためて励まされたのは9節のみことばです。

「9,そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。『見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。』」

 

 現在、私は牧師として立たされております。それで毎週講壇から聖書のみことばを語っています。そして、今週も今度の主日礼拝の説教の備えをしています。その備えとは、たとえ語る箇所が決まっていたとしても、そこから、どんなことを語るかは、毎回、自分からは出て来ません。ですから、毎回、ただ主の前にひれ伏して祈りながら、主題を考え、アウトラインを考え、中心的なテーマ、それに対する肉付などをしていきますが、貧相な私からは、本当に何も生まれないのです。それで苦しみさえも覚えるのです。

 今回もその産みの苦しみを味わっているさなか、神様は聖書通読のこのエレミヤ書1章9節のみことばから、励ましてくださったのです。

 それは、礼拝で語るのは、私のことばではない。主のことばだということです。それは、当たり前だとおっしゃる方がおられるかも知れませんが、説教者もそう願いながらも、主のことばをきちんと聴き取れずに、自分のことばを話してしまいやすいものなのです。主からの語り掛けを待ちきれずに、自分のことばを語ってしまい失敗するものなのです。

 しかし、今朝あらためて、そうではなく、主が与えてくださっている主のことばを語るのだ。そう教えられ、諭されたのです。

 しかも、神様はエレミヤに「わたしのことばを与えた」と完了形で言われていることが、何よりも嬉しく、力づけられることばではないでしょうか。もう与えてくださっているのだ。そう知らされるとき、さっきまで焦り、苦しんでいた心に平安が訪れたのです。

 このことは、私だけのことではありません。あなたにも、この主のことばが今朝も与えられたのです。もし、それがどんなみことばなのかがわからなくても、もうあなたの中に神のことばが置かれているという事実は変わらないのです。何という恵み、何という祝福でしょう。

 それは、神のことばが既に置かれているあなたは、もう既に、神の手紙とされているということだからです。

 あなたは、今日も神様の手紙として用いられるために、その存在で価値があり、あなたを通して、神ご自身があなたと出会う人たちに、神ご自身の御心をお語りになるのです。

 今日、そのことを覚えたいと思います。私もあなたも、神の手紙とされている。もう、そこには神のことばが記され刻まれている。そして、その手紙を配達してくださるのは主ご自身です。それを用いるのは、そのことばを与えた主ご自身です。そのことを覚えて、今日も神に感謝しつつ歩んでいこうではありませんか。

 

"あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。"コリント人への手紙 第二 3章3節