のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「主は陶器師、我は土くれ」

エレミヤ書
18章
1,主からエレミヤに、このようなことばがあった。
2,「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」
3,私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。
4,陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。
5,それから、私に次のような主のことばがあった。
6,「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──主のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。
7,わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、
8,もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。
9,わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると言ったそのとき、
10,もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。
11,さあ今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう言われる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え出し、策をめぐらしている。さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。』
12,しかし、彼らは言う。『いや。私たちは自分の計画にしたがって歩み、それぞれ、頑なで悪い心のままに行います。』」
13,それゆえ、主はこう言われる。「さあ、国々の中で尋ねてみよ。だれか、こんなことを聞いたことがあるだろうか。おとめイスラエルは、実におぞましいことを行った。
14,レバノンの雪は、野の岩から消え去るだろうか。ほかの国から流れて来る冷たい水は、涸れることがあるだろうか。
15,それなのに、わたしの民はわたしを忘れ、空しいものに犠牲を供える。それらは、わたしの民をその道、いにしえの道でつまずかせ、小道に、まだ整えられていない道に行かせ、
16,彼らの地を恐怖のもととし、永久に嘲りの的とする。そこを通り過ぎる者はみな、呆気にとられて頭を振る。
17,東風のように、わたしは彼らを敵の前で散らす。彼らの災難の日に、わたしは彼らに背を向け、顔を向けない。」
18,彼らは言った。「さあ、私たちは策をめぐらしてエレミヤを倒そう。祭司から律法が、知恵のある者から助言が、預言者からことばが滅び失せることはないはずだから。さあ、舌で彼を打ち、彼のすべてのことばに耳を傾けることがないようにしよう。」
19,「主よ、私に耳を傾け、私と争う者の声を聞いてください。
20,善に悪をもって報いてよいでしょうか。まことに彼らは、私のいのちを取ろうとして穴を掘りました。私が御前に立って、彼らへのあなたの憤りをやめていただくために、彼らについて良いことを語ったことを、思い起こしてください。
21,それゆえ、彼らの子らを飢饉に渡し、彼らを剣で殺してください。妻たちは子を失い、また、やもめになり、夫たちは虐殺されて死に、若い男たちは戦いで剣に殺されますように。
22,突然、あなたが略奪隊に彼らを襲わせるとき、彼らの家から悲鳴が聞こえます。彼らは私を捕らえようとして穴を掘り、私の足もとに罠を設けたからです。
23,主よ、あなたはみなご存じです。私を殺そうとする彼らのはかりごとを。どうか彼らの咎を赦さず、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らを御前で打ち倒し、御怒りの時に、彼らに報いてください。」

 このような賛美歌があります。

「主は陶器師」

主の御手でつくりかえ 

エスの姿となしたまえ
主は陶器師 われは土くれ 

エスのごとくなしたまえ

 まさに、今日のみことばと重なる部分がある賛美歌です。神様は陶器師としてイスラエルをつくり、建て上げ、神様ご自身の栄光を現し、世界中の国々が主を知り、主の祝福を受けるために、そのイスラエル民族は用いられるはずでした。

 しかし、イスラエルは主の目の前に悪を行い続け、悔い改めず、何よりも自らが罪深いことを認めなくなっていたのです。そこで主は預言者エレミヤを遣わして、みことばを語ります。

7,わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、
8,もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。
9,わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると言ったそのとき、
10,もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。

 ここで主は二つの「思い直す」を告げます。一つはイスラエルの民が悔い改めるならば、さばきを思い直すということ。もう一つは、そのように憐れみの言葉を聴いても悔い改めることをしなければ、思い直すことを思い直すということです。つまり、憐れむことを思い直すということ。それは、さばきを下すという意味です。

 そのことを主は陶器師のように、自分の作品を壊す権威において、そうすることを、冒頭のところで言われたのです。陶器師が仕上がりの悪い自分の作品を破壊して何が悪いか。陶器師にはその権限があることは、誰もが認めるところ。だから、イスラエルに気が付いてほしいのです。主にはそのようにする権威があるということを。

 でも、そのことを認めないくらいに、当時のイスラエルの民の心は荒廃し、堕落し、神を恐れず、侮るものとなっていたのでした。

 このイスラエルに対する神の態度は、現代のキリスト教会に対する神の態度にもなるということが言えると思います。現代のキリスト教界には、神のことばを神のことばとしない思想がはびこっておます。神の和解の福音を認めず、人間の価値観によって異質なものへと変えてしまい、罪の赦しへの悔い改めもなく、そのためのキリストの十字架の贖いをも反古しようとするのは、このエレミヤの時代のイスラエルと変わらない態度です。

 キリストの生き方に倣うことは大切なことです。でも、その前に、私たちがどれほど罪深く、陶器師である神によって破壊されなければならない存在かを認め、聖なる神の前に悔い改めることが必要なのです。そこに、神によって用意されたキリストの十字架と復活がある。その十字架こそ、陶器師である神が私たちを破壊した身代わりのしるしであり、復活こそ私たちが、新しく造り替えられ生まれ変わったしるしとなるからです。

 今、神はこのキリストにあって、まず私たちキリスト教会に悔い改めを求めておられるのではないでしょうか。もう一度、私たちもそもそもが罪深いものなのに御子の血潮によって贖われたことを認め、その神の一方的な恵みによって救われたことに感謝したいと思うのです。

 主は陶器師、我は土くれ。もう一度、神に新しく造り替えてください。あなたの前に悔い改めますと進み出ようではありませんか。

 

"しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。"
イザヤ書 64章8節

"ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。"
コリント人への手紙 第二 5章17~19節