のりさん牧師のブログ

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2020年9月19日(土)きょうのみことば「だから、知り、見極めよ。」

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エレミヤ書 

2章

1~19節

"次のような主のことばが私にあった。
「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。
イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罰を受け、わざわいを被った。──主のことば──
ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。
主はこう言われる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけたというのか。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまうとは。
彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」
わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものにした。
祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行った。
それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う。──主のことば──また、あなたがたの子孫と争う。
キティムの島々に渡って、よく見よ。ケダルに人を遣わして見極めよ。このようなことがあったかどうか、確かめよ。
かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。
天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。──主のことば──
わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。
イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。
若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。
メンフィスとタフパンヘスの子らも、あなたの頭の頂を剃り上げる。
あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。
今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリアへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。
あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに悪く苦いことかを。──万軍の神、主のことば。"

  主なる神は、イスラエルを妻にたとえて新婚時代を懐かしみます。

「わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。」

 これは「荒野での」と言われていることからエジプトを脱出して荒野の旅をしている頃のことだと思われます。

 イスラエル民族としてエジプトで増え広がってから、イスラエルは苦役を強いられ、その叫びを主は聞かれてエジプトからの脱出をモーセに命じられました。

 しかし、イスラエルの人たちが荒野へと旅立ってから、主に対して従順であったことはありません彼らはうなじのこわい民であり、事あるごとにエジプトの生活を懐かしんでいました。

 それでも、その頃の方が良かったと主は言われているのです。そのくらい、預言者エレミヤが語ったときのイスラエルの状態は悪かった。主への反逆は荒野での40年の比ではなかったということです。

 このとき、既に北王国イスラエルアッシリア帝国によって滅ぼされていました。だから、それを見ていた南王国ユダは、そのことを反面教師として学び、主に立ち返らなければならなかったのです。しかし、ユダの人たちは主を侮り、自分たちは大丈夫だと思っていた。神が自分たちを見捨てるはずがないと自負していた。ここに傲慢があり、主に対する恐れがないだけでなく、主の前にへりくだり、みことばを聞こうとする謙虚さ、信仰が失われていたのです。

 そこに、主はエレミヤを立てて、警告しているのでした。この箇所できょう注目したいのは、19節です。

"あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに悪く苦いことかを。──万軍の神、主のことば。"
エレミヤ書 2章19節


 それも特に「知り、見極めよ」です。それは、神を恐れず、神を捨てていることがどれほど悪であり、それが苦々しいことであるかを体験しなさい。そしてそこから学びなさいということです。

 それは、神はあえて、彼らをバビロンに渡し、懲らしめを与えるこということです。そこを通らされることは本来あってはならないことでした。しかし、エジプト脱出のあの荒野での40年間を懐かしむほどに落ちぶれたイスラエルを立ち直らせるのは、一度捨てられることしか解決の道がなかったということなのです。

 私たちも、神に信頼して守られると確信するならば、それは大切なことです。しかし、自分は選ばれているのだからと、選ばれていることにあぐらをかいて、そこに表されている主の憐みを忘れているならば、悔い改めて主に立ち返らなければなりません。

 そのためにも、今、自分に起こっている様々な出来事にも主の御手があることを知り、そこに主の御業が行われることを見極めることが大切です。

 今は恵みの時代です。イエス・キリストの贖いを信じて救われる救いのときです。しかし、その恵みを侮り蔑ろにしているならば、いずれこの恵みの時代が終わる頃には、このイスラエルのように、神の恵みにあぐらをかいているようになってしまうのです。

 そうならないためにも、日々、主の愛ときよさを知り、いつもあなたの中に、あなたの外にも主の恵みが豊かである事実を見極めなければならないのです。

 恵みは、毎日続いているので、私たちには当たり前になり、気づかなくなります。そこには感謝もなくなるでしょう。しかし、今、もう一度信仰の目を開いて、今日与えられている神の恵みを覚えましょう。

 今朝、また命が与えられていること。自分の意思に関わらず心臓が動いて、身体中に血液を送り酸素を供給している恵み。今日も地球の大気が守られ、酸素だけでなく、窒素、水素もうまく調合されて呼吸ができていること。水も、今、この日本では自由に水道の蛇口から飲めること。まだまだ数えてみても、数えきれないほどの恵みがあなたを覆っていることに気づかされるはずです。それが見極めることでないでしょうか。

 どうか、今日も一緒にあなたを愛して支えておられる主なる神に感謝と賛美をささげていこうではありませんか。

 

"主はすべての肉なる者に食物を与える方。主の恵みはとこしえまで。
天の神に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。"詩篇 136篇25~26節