"あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。"
エレミヤ書 29章12節
「祈ることしかできない」と言うことはないでしょうか。しかし、祈りとは能動的であり積極的であり、行動的です。
主は「来て、わたしに祈るなら」と言われました。単に「わたしに祈るなら」でも良いはずですが、ここで主は、あえて「来て」と言われます。
それは、このみことばがバビロン捕囚からの帰還についてのみことばだからです。バビロンによって捕えられていくユダの民に対して主は預言者エレミヤを通して励ましました。
"まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。"
エレミヤ書 29章10~11節
つまり、「来て」と言うのは、直接的にはユダの民に対して、まずはバビロン捕囚になることが御旨であるが、その70年後には帰還できるので、再び約束の地カナンに「来て」という意味の「来て」であり、エルサレムに「来て」でもあります。
いずれにしても、主に祈るために行動を起こす「来て」なのです。
今、コロナ禍を通して在宅礼拝が増えて来たと思います。しかし、できる限り、主が言われた「来て」を生かしたいと思うのです。教会に行けないならば、オンラインで、オンラインでいいやと思っているならば、教会へ出かけて、主を礼拝しましょう。
私たちには一見敗北に見えることを通らされることがあります。失敗に思える道に置かれることがあります。しかし、主に従う者を主は見捨てず、見離しません。最後まで助け、支え、導いてくださいます。
だから、この主に私たちも最善を尽くして、時間、力、今、自分にできる最高のものをもって主を愛し、その愛を行動で表すのです。
今日は主の日です。ぜひ、あなたの全てを愛して御子を与えてくださった神様に、全身全霊をもって祈りを、そして礼拝をおささげしましょう。