日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

悪の道から立ち返るかもしれない

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エレミヤ書 36章1~4節

"ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、主からエレミヤに次のようなことばがあった。
「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。
ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」
それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた主のことばを、ことごとく巻物に書き記した。"
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 主はユダの民に悪から立ち返ってほしかった。でも、彼らは何年も変わらず悪を犯し続けていました。主の御心は、彼らに罰を与えることではなく、彼らを赦したい。ただ、それだけです。それでは、神は愛なのだから赦せば良いと思うかもしれません。しかし、神は愛であると同時に義なる方でもあります。罪を放置して赦すことはできません。

 私たち人間は、罪を放置したまま赦そうとすることがあります。罪を見ないふりして、きれいごとだけではやっていけないと、悪を見過ごしてことを荒立たせずに平穏に済まそうとすることがあります。それで平和だと思います。

 しかし、それは本当の平和ではないし、本当の解決ではありません。悪を見過ごせば、それが前例となり、そのあとも「以前そうやった実績があるから、またやろう」となるのです。

   神様は、どんな罪も赦す愛のお方ですが、どんな罪も赦さない義なる方です。だから、罪を犯し続けているユダの民をバビロンによって滅ぼさせようとなさるのです。

 しかし、やはり赦したいという愛のご性質もあるので、預言者エレミヤに神のことばを与え、そのことばをバラクに書き取らせてユダの民に読み聞かせなさいと告げるのです。それは、彼らが神のことばを聞いて「悪から立ち返るかもしれない」と思われたからです。そして、その悔い改めによって「赦すことができる」からです。

 ここに神の葛藤があり、私たちに対する救いの原点を見ます。神様は私たち人間に対して、決してあきらめないのです。こいつはもうダメだと見捨てないのです。最後の最後まで待ち続けるのです。そして、赦すために手を差し伸べるのです。

 その究極の方法が、神ご自身が人間となって、人間の罪を背負い十字架にかかることでした。罪のない人間を罪ある私たちの代わりに処刑することで、私たちの罪を帳消しにしてくださったのです。ここに愛があると使徒ヨハネは言います。神は義なるお方ですから、罪を見過ごしにされません。しかし、同時に愛なる方ですから、何とか赦そうと手を尽くしてくださるのです。

 だから、キリストにくだされたのは義なる神のさばきであり、そのキリストを通して与えられたのは無限の愛だったのです。このキリストの十字架こそ、神の葛藤の表れ、神のご性質が示された最たる出来事だったのです。

 主はエレミヤを通してみことばを記させ、その記したことばの朗読でユダの民に悔い改めを願いました。

 今は多くの預言者、また使徒、弟子たちによって書き記された聖書があります。神は、今はこの聖書の朗読を通して私たちに御心を語っておられます。だから、今日も私たちは聖書を読み、そこから神のことばを聞き、神の愛の中にあることを味わい、同時に神の義が行われるように願いつつ、私たちも神の義をまとい、神の愛を表す器として整えられるのです。

 今日も、もう一度神の前にみことばをいただき、神のものとして歩ませていただきましょう。

 

"私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。"
テモテへの手紙 第一 4章13節

"この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである。時が近づいているからである。"
ヨハネの黙示録 1章3節