のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「奉仕者の聖別」レビ記 8章1~13節

"主はモーセにこう告げられた。
「アロンと、彼とともにいるその子らを連れ、装束、注ぎの油、罪のきよめのささげ物の雄牛、二匹の雄羊、種なしパンのかごを取り、
全会衆を会見の天幕の入り口に集めよ。」
モーセは主が命じられたとおりにした。会衆は会見の天幕の入り口に集まった。
モーセは会衆に言った。「これは、主が行うように命じられたことである。」
モーセはアロンとその子らを近づかせ、彼らを水で洗った。
そしてアロンに長服を着せ、飾り帯を締め、その上に青服をまとわせ、さらにその上にエポデを着せた。すなわち、エポデのあや織りの帯で締めて、彼にエポデを着せた。
次に、彼に胸当てを着け、その胸当てにウリムとトンミムを入れた。
また、彼の頭にかぶり物をかぶらせ、さらに、そのかぶり物の前面に金の札すなわち聖なる記章を付けた。主がモーセに命じられたとおりである。
それから、モーセは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに油注ぎを行った。こうしてそれらを聖別した。
さらに、それを祭壇の上に七度振りまき、祭壇とそのすべての用具、また洗盤とその台の油注ぎを行い、それらを聖別した。
また、注ぎの油をアロンの頭に注いだ。こうして彼に油注ぎを行い、彼を聖別した。
次に、モーセはアロンの子らを連れて来て、彼らに長服を着せ、飾り帯を締め、ターバンを巻いた。主がモーセに命じられたとおりである。"

 モーセの時代、主の前に出る祭司たちは聖別する必要がありました。当時は油を注ぐという方法で、他のイスラエル人とは区別したのです。

 今は教会の時代なので、特に万人祭司なのだから、信者であれば、礼拝奉仕も説教も誰でも良いのだと言う人がいるかも知れません。

 しかし、よくよく注意しないと、聖別ということを忘れて、礼拝を軽んじることになることを弁える必要があります。

 それは、聖別とは神専用のものとして取り分けるということだからです。誰でも歯ブラシや茶碗や箸は、大抵自分専用ではないでしょうか。それは、他の人のものでは生理的に受け付けないからです。私たちでさえ、自分専用として区別するのに、どうして神のものを専用にすることを後回しにするでしょう。

 確かに、神専用にすると、殊更にそのものを聖なるものとして扱い、偶像化することを恐れます。しかし、聖書を見る限り、礼拝に関わるものを特別に扱うことは、決して間違ってはいません。かえって、神に対する恐れの心を保ち、礼拝する姿勢を整えます。

 ですから、祭司たちに油を注ぎ、神専用の働き人として選んだのは、今の時代においても適用できることなのです。礼拝奉仕者は特に、礼拝のための備えを前日に行い、罪を悔い改め、神との関係を良好なものとします。

 服装も健康状態も、清潔感も大切でしょう。そこに向かう全てが献身であり、主へのささげものだからです。

 アロンは大祭司として、命がけで至聖所に入り、そこで神と会見します。そのために、水で身を清め、装束を身にまとい、油を注いで最善を尽くして、聖なる神の器となりました。

 あなたも、神を信じ、キリストの十字架の救いを受けているならば、礼拝に仕えるしもべです。そうであるならば、心が大事で服装はどうでも良い。または、服装は整えていれば、礼拝にふさわしいと考えているならば、今日、もう一度立ち止まって、主を礼拝する者として、自分がどうやったら神専用の器として整えられるか吟味しましょう。

 大切なことは、心もからだも、服装も全てが主のものですと、その存在をかけておささげすることです。

 それは、キリストがまず、ご自分を捨てて、神に全てをささげてくださったからです。その主のいのちを受けた私たちは、益々、主のものとされたのですから、全身全霊をもって、神のものとなっていこうではありませんか。

 

"ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。"
ローマ人への手紙 12章1節